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2009.06.01

元村有希子さんの記事を読んでツラツラと

poohさんのエントリーで知ったのですが、
発信箱:むなしい科学=元村有希子(科学環境部)と言う毎日新聞の企画コラムを読みました、、、、
ううううう〜〜〜〜ん。
これは、元村さん>
批判すべき相手、告発すべき相手、疑問を呈する相手が違うのではないでしょうか、、、

湯川秀樹 生誕100年と言う記事を2007年に書きました。
京都大学はこの時「湯川秀樹・朝永振一郎博士 生誕百年記念事業}と言うことで記念講演会では、湯川の業績を讃え、湯川の求めたものを伝えていきました。

さて、先の元村さんの記事に話を戻しますが、主張を明らかにするため、まず記事を流れのまま追います。
元村さんは冒頭、湯川の短歌を紹介。
「雨降れば雨に放射能雪積めば雪にもありといふ世をいかに」。
そして、
「湯川秀樹はこの歌を、米国の水爆実験(1954年3月1日)の後に詠んだ。ノーベル賞受賞後は核兵器廃絶運動に取り組み、激しさを増す核開発競争を批判した。」と続きます。

次に、北朝鮮の先頃の核実験において以下のように述べます。
「そして今月、北朝鮮が地下核実験を実施した。「成功」を伝える発表文は「科学者、技術者らの要求に従い」と始まる。作っては試し、改良してまた試す。こうした試行錯誤なしに科学の発展はない。だが、科学者たちは結果の深刻さについて一度でも想像したことがあるだろうか。そう考えたらむなしくなった。」と。

次に、時は戦時中に逆戻りさせながら北朝鮮の核実験とシンクロ。
「巨額の金を使って刺激的な先端研究ができる喜びと、世界初の核実験を成功させた興奮がつづられている。」
と、述べた当時の研究者の言を引用。
そして、
「日本でも陸軍と海軍が原爆開発を計画し、湯川ら多くの科学者がかかわった。未完に終わったから「加害者」にならずに済んだ。」
と、書きます。

最後の結びは、
「人間はこの60年間、同じことを繰り返してきた。政治家が科学者を利用し、科学者は無邪気に目標を追いかけ、多くの命を奪い、地球を汚し、誰ひとり幸せにしなかった。どう考えても、これ以上むなしい営みはない。」となり、終わります。


これが元村さんの記事全部です。

さて、湯川さん個人に言及するならば、
元村さんが書かれたように、湯川は無邪気に目標を追いかけ、原爆開発の計画に加わったのだろうか???

「ユカワは原爆研究に関与せず」などのサイトによれば、湯川は無関係ということになるのだが、本当のところは私は分かりません。
が、
加害者であったかどうかに関わらず、湯川は自己撞着のすえ、
「今後、科学がこのような利用のされ方がないこと」を強く願ったのは確かです。
実際、元村さんもご自分の記事の冒頭に紹介しているように、
パグウォッシュ会議ラッセル=アインシュタイン宣言の精神は科学者の「今」に引き継がれています。


さて、
湯川が関わったかどうかと言うことが本記事のテーマではなく、
元村さんの主張は「むなしい科学」と言うタイトルにもあるように、
科学が政治に利用され、その先にあるものへの理解のないままひたすら研究していくことは空しく愚である、と言うことです。


果たして、そうだろうか???
元村さんの記事を読むと、
科学全般が
「先の見通しもなく目の前の成果に無邪気に飛びつく」ものとも読み取れるが、
科学とは元村さんが書かれたような「そうしたもの」ではありません。

むなしいのは科学者や科学ではなく、
それを「空しく」「愚か」に利用するものたち(ある時は権力とも言い、またある時は政治とも言う)であり、
そうした利用をこそ、告発すべきであり、糾弾すべきではないかと私は思います。


最後に、何回もここで紹介していますが、改めてラッセル=アインシュタイン宣言を紹介します。

================
私たちは、人類が直面する悲劇的な情勢の中で、科学者たちが会議に集まって、大量破壊兵器の発達の結果として生じてきた危険を評価し、ここに添えられた草案の精神において決議を討論すべきであると感じている。
 私たちが今この機会に発言しているのは、あれこれの国民や大陸や信条の一員としてではなく、その存続が疑問視されている人類、人という種の一員としてである。世界は紛争に満ち満ちている。そしてすべての小さな紛争の上にかぶさっているのは、共産主義と反共産主義との巨大な闘いである。
 政治的な意識を持つ者はほとんど皆、これらの問題のいくつかに強い感情を抱いている。しかし、もしできるならば、皆さんにそのような感情をしばらく脇に置いて、ただ、すばらしい歴史を持ち、私たちの誰一人としてその消滅を望むはずがない生物学上の種の成員として反省してもらいたい。
 私たちは、1つの集団に対し、他の集団に対するより強く訴えるような言葉は、一言も使わないように心がけよう。すべての人が等しく危機にさらされており、もしこの危機が理解されれば、皆さんがいっしょになってそれを避ける望みがある。
 私たちは新たな仕方で考えるようにならなくてはならない。私たちは、どちらの集団をより好むにせよ、その集団に軍事上の勝利を与えるためにどんな処置がとられうるかを考えてはならない。私たちが考えなくてはならないのは、そんな処置をとればすべての側に悲惨な結末をもたらすに違いない軍事的な争いを防止できるかという問題である。
 一般大衆は、そしてまた権威ある地位にある多くに人々でさえ、まだ核爆弾による戦争によって起こる事態を自覚していない。一般大衆は今でも都市が抹殺されるくらいに考えている。新爆弾が旧爆弾よりも強力だということ、原子爆弾1発で広島を抹殺できたのに対して水素爆弾なら1発でロンドンやニューヨークやモスクワのような最大都市を抹殺できるだろうということは理解されている。
 疑いもなく、水爆戦争では大都市が抹殺されてしまうだろう。しかしこれは、私たちの直面しなければならない小さな悲惨事の1つである。たとえロンドンやニューヨークやモスクワのすべての市民が絶滅したとしても2、3世紀の間には世界は打撃から回復するかもしれない。しかしながら今や私たちは、特にビキニの実験以来、核爆弾は想像されていたよりもはるかに広い地域にわたって徐々に破壊力を広げることができることを知っている。
 信頼できるある筋から、今では広島を破壊した爆弾の2500倍も強力な爆弾を作ることができるということが述べられている。
 もしそのような爆弾が地上近くまたは水中で爆発すれば、放射能を持った粒子が上空へ吹き上げられる。そしてこれらの粒子は死の灰または雨の形で徐々に落下してきて、地球の表面に降下する。日本の漁夫たちをその漁獲を汚染したのは、この灰であった。
 そのような致死的な放射能を持った粒子がどれほど広く拡散するのか、誰も知らない。しかし最も権威ある人々は一致して水素爆弾による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあることを指摘している。もし多数の水素爆弾が使用されるならば、全面的な死滅が起こる心配がある。
 ――瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数の者はじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊していく。
 多くの警告が著名な科学者や権威者によって軍事戦略上から発せられている。しかし、最悪の結果が必ず来るとは、彼らのうちの誰も言おうとしていない。実際彼らが言っているのは、このような結果が起こる可能性があるということ、誰もそういう結果が実際起こらぬとは断言できないということである。この問題についての専門家の見解が少しでも彼らの政治上の立場や偏見に左右されたということは今まで見たことがない。私たちの調査で明らかになった限りでは、それらの見解はただ専門家のそれぞれの知識の範囲に基づいているだけである。一番よく知っている人が一番暗い見通しを持っていることがわかった。
 さて、ここに私たちがあなたがたに提出する問題、厳しく、恐しく、そして避けることのできない問題がある――私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか? 人々はこの二者択一という問題を面と向かって取り上げようとしないであろう。というのは、戦争を廃絶することはあまりにも難しいからである。
 戦争の廃絶は国家主権に不快な制限を要求するであろう。しかしおそらく他の何にも増して事態の理解を妨げているのは、「人類」という言葉が漠然としており、抽象的だと感じられる点にあろう。人々は、危険は自分自身や子どもや孫たちに対して存在し、単にぼんやり感知される人類に対してではないということを、はっきりと心に描くことがほとんどできない。人々は個人としての自分たちめいめいと自分の愛する者たちが、苦しみながら死滅しようとする切迫した危険状態にあるということがほとんどつかめていない。そこで人々は、近代兵器さえ禁止されるなら、おそらく戦争は続けてもかまわないと思っている。
 この希望は幻想である。たとえ水素爆弾を使用しないというどんな協定が平時に結ばれていたとしても、戦時にはそんな協定はもはや拘束とは考えられず、戦争が起こるや否や双方とも水素爆弾の製造に取りかかるであろう。なぜなら、もし一方がそれを製造して他方が製造しないとすれば、それを製造した側は必ず勝利するに違いないからである。
 軍備の全面的削減に一部として核兵器を放棄する協定は、最終的な解決を与えはしないけれども、一定の重要な目的には役立つであろう。
 第一に、およそ東西間の協定は、これが緊張の緩和を目指す限り、どんなものでも有益である。第二に、熱核兵器の廃棄は、もし相手がこれを誠実に実行していることが双方に信じたれるとすれば、現在双方を神経的な不安状態におとしいれている真珠湾式の奇襲への恐怖を減らすことになるであろう。それゆえ私たちは、そのような協定を歓迎すべきである。
 私たちの大部分は感情的には中立ではない。しかし人類として、私たちは次のことを銘記しなければならない。すなわち、もし東西間の問題が誰にでも――共産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人であろうとヨーロッパ人であろうと、または、アメリカ人であろうとも、また白人であろうと黒人であろうと――可能な満足を与えうるような何らかの仕方で解決されなくてはならないとすれば、これらの問題は戦争によって解決されてはならない。私たちは東側においても西側においても、このことが理解されることを望む。
 私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識と知恵の絶えない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、その代わりに、私たちは死を選ぶのであろうか? 私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へ向かって開けている。もしできないならば、あなたがたの前には全面的な死の危険が横たわっている。

決議

 私たちは、この会議を招請し、それを通じて世界の科学者たちおよび一般大衆に、次の決議に署名するよう勧める。
「およそ将来の世界戦争においては必ず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続を脅かしているという事実から見て、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然と認めるよう勧告する。従ってまた、私たちは彼らに、彼らの間のあらゆる紛争問題の解決のための平和的な手段を見出すよう勧告する。」

マックス・ボルン教授(ノーベル物理学賞)
P・W・ブリッジマン教授(ノーベル物理学賞)
アルバート・アインシュタイン教授(ノーベル物理学賞)
L・インフェルト教授(ノーベル物理学賞)
F・J・ジョリオ・キュリー教授(ノーベル化学賞)
H・J・ムラー教授(ノーベル生理学・医学賞)
ライナス・ボーリング教授(ノーベル物理学賞)
C・F・パウェル教授(ノーベル物理学賞)
J・ロートブラット教授
バートランド・ラッセル卿(ノーベル文学賞)
湯川秀樹教授(ノーベル物理学賞)
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コメント

こんにちは、せとさん。

正直言って、元村さんの記事にはあきれかえりました。幾つかに分けて説明しますね。

1.まず、権力者の発言への盲従であること
 ジャーナリズムの基本は情報の裏をとることです。北朝鮮の政府が、「科学者、技術者らの要求に従い」と始まるのなら、誰がそのような要請をどういう風にしたのかの裏を取らなくてはジャーナリストではない訳です。独裁的権力は、人に要請させることもできるし、要請が無くて「要請した」と発表しても、それに対する苦情を押しつぶすことができますからね。元村さんはかって、「ゲーム脳」に関して、提唱者の話を鵜呑みにした記事を書いて、多くの人から批判を浴び「反省した」という事をブログに書かれた事がありますが、もともと、ジャーナリストとしての素養が無いと考えざるをえませんね。

2.科学常識の欠如
 なんていうか、今更、核分裂爆発に興奮する科学者が居ると思うこと自体が常識はずれではないかと思います。1942年12月2日にシカゴで世界で初めて原子の火が灯った時なら、科学者は興奮したと思います。やがて兵器に使われると知りながらも、やはり興奮せずには居られなかったと思うんですね。それは、理論的に起こるべき現象が目の前で起こることを始めて確認する事ですからね。でもその後、兵器としても実用原子炉としても使われている訳でして、もはや、起きるべきしておきる現象であり、いまさら興奮する話ではないわけです。まあ、技術者としては、他が理論の実用ができているのに、自分がノウハウが掴めなくて実用できなかったことのノウハウが掴めれば嬉しい部分はありますが、それは、最初に原子の火を灯した科学者の興奮とはかけ離れたものです。科学ジャーナリストを標榜しながら、そんなことも分からずに記事を書くのがなんとも情けないですね。

3.ジャーナリストとしての哲学の欠如
ここまできて、やっと、せとさんの言われる

>むなしいのは科学者や科学ではなく、
>それを「空しく」「愚か」に利用するものたち(ある時は権力とも言い、またある時は政治とも言う)であり、
>そうした利用をこそ、告発すべきであり、糾弾すべきではないかと私は思います。

になる訳です。我々は社会を見るとき「空しく」感じたり、「愚かな」と思うことはあります。でも、ジャーナリストがそこで終わっては成らないわけです。そこで終わるなら「楽しかったです」で終わる子供作文となんら変わらないではないですか。ジャーナリズムとは、その「空しさ」に切り込み「愚かさ」を解析しなくてはならないもののハズです。

私は彼女のブログで「今は3流だけど、精進すれば2流にはなれるかも」と、彼女が精進することに期待した書き込みをしたことがあります(人は悪口ととった様ですが、私に言わせると日本には2流のジャーナリストすらほとんどいないという前提を書いた上ですから、ある意味で褒めていた訳です、それは彼女がゲーム脳問題で素直に自分が間違えた事を認めた部分を評価したからてです)。でも、その期待は完全に裏切られましたね。彼女はジャーナリストの名に値しないと今は思います。

投稿: 技術開発者 | 2009.06.01 17:57

技術開発者 さん。
こんにちは。
頂いたコメント、何回も拝見いたしました。
読めばよむほど、元村さんの見識の無さとその影響力を考えると「害」とも言えると思います。

実は、元村さんのこと、余り知らなかったのですが、
いろいろ物議を醸していた方だったのですね。
このような浅い見識で「科学ジャーナリスト」なんて名乗って欲しくありません。
大体、何を取材して、何を見て、考えて、論理を構築したのでしょうか???
今回の記事はたんに「感想文」ですね。
本当に開発者さんの言われるように「楽しかった、チャンチャン」作文です。


「ジャーナリズムとは、その「空しさ」に切り込み「愚かさ」を解析しなくてはならないもののハズです。」と言われる開発者さんのご意見、全く同意見です。
この人、これから何を書くか、しっかり注目ですね。

では、、、またね。

投稿: せとともこ | 2009.06.02 15:11

他の学問も政治だけでなく社会とかでうれしくない方向にいくこともありますよね。

あるジェンダー学?の研究者が自分と対立する学者をそのことで批判したんですが、うちからみるとその人の研究もやばぃことに??

 まな板の上の鯉状態の人に思いやれる社会や政治なら学問がおかしなほうに使われることが少なくなりそうな。

投稿: あゆ | 2009.06.04 10:22

あゆさん。
こんにちは。

「まな板の上の鯉状態の人に思いやれる社会や政治なら学問がおかしなほうに使われることが少なくなりそうな。」
そうですね、、、
私もそう思います。
なんていうか、他人事なのでしょうね、結局、この人の記事自体は。

政治と学問。
もっと真剣に見いていく必要を感じています。
なお、昨日書いたエントリー「小さな娘が思ったこと」の詩、あなたとお玉さん、愚樵さんそれに開発者さん、hamhamさんなどなどを思い出しました。o(*^▽^*)o


ではまたね!!!

投稿: せとともこ | 2009.06.05 12:06

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» 菅生事件 [逝きし世の面影]
『菅生(すごう)事件』1952年6月2日 大分県直入郡菅生村(現在の竹田市菅生)で起こった警察自身による駐在所爆破事件を装った共産党に対する謀略事件である。 犯人として日本共産党員が現行犯逮捕され有罪とされたが、後に警察官の自作自演のでっち上げであることが発覚し、無罪となった。 この事件は、朝鮮戦争の真っ最中に、共産党などの反戦運動を弾圧する憲法違反の諜報組織としての公安調査庁の設置の根拠となる破壊活動防止法の国会成立の為に重大な貢献?をしたと思われる。 警察に嵌められた日本共産党は壊滅的な打撃を... [続きを読む]

受信: 2009.06.02 11:35

» これならむしろいない方がいいんだが [ならなしとり]
 先日の続きです。元村氏について調べていたら、こんなものを見つけました。 科学記者は敵か味方か? >もっと本質的な共通点は「真実を追いかける職業」であることだと私は思う。科学者は、真理を追いかけて寝食を忘れることができる人種だ(これも個人差はある)。 ふ〜ん。真理ね。それよりも問題なのは次の一文。 >記者も似たような使命感を持っている。取材対象について少しでも多くのことを知りたい、少しでも多くの事実を集め、真相に迫りたいと思っている。そのためには手間と時間を惜しまない。 どの口で言ってるの... [続きを読む]

受信: 2009.06.04 23:21

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