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2009.07.21

かけ算の順番についてツラツラと考えました(追記あり)

いつものように、いろんなサイトをROMしていたら東海林さだおがいいなぁのブログ主のちょちょんまげさんが興味深いエントリーを挙げていらっしゃいました。
その名は「掛け算の順序の話」というもの。
リンク先の積分定数さんも、「かけ算の順序」について丁寧に分析なさっています。

ちょちょんまげさんや、積分定数さんのエントリー、またコメント欄を読んで、私も刺激され、ちょっとエントリーを挙げてみようか、、、と今、試みています。
ちょちょんまげさんや、積分定数さんを始めとして多くの方々のご意見は、
かけ算を行う場合「学校教育の現場で、掛ける数も掛けられる数も順番が入れ替わっても間違いとするのはおかしいのでは」というものです。
ちょちょんまげさんは、エントリーでご自分のお子さんの体験からアメリカのかけ算の考え方も紹介くださっています。
(この箇所だけでは、アメリカのかけ算の考え方は分からないのですが、あたかも、かけ算をたし算の延長のように教えているとしたら、それは問題では、、、と思いました。この教え方だと4×1、4×0、また分数や小数で子どもたちは戸惑ってしまいます)

さて、
私も基本的には、順番が変わっても「本質」は変わらない、と思います。
思うのですが、
では、現場の教師は「なぜ、順番が入れ替わると間違い」とするのか、、、
を、最終結論に見据えて、考察の手順として以下のように行います。
まず四則演算の意味について、
次に子どもたちの発達段階について考察を加えながら、先の結論へと書いていきます。

=====「四則演算の意味」====
たし算の意味は小学校では「合併、添加、増加」の3つです。
1番目の典型として「電車5台と電車3台をつなぐとみんなで何台」というような問題が合併です。
これは5+3でも3+5でもOKで交換法則が成り立ち、子どもたちの理解も速やかです。

次に添加。
「えきに電車が5台あります。あとで3台きました。えきには何台電車がありますか。」
などの問題です。
これは、5+3ですが、3+5、とはなりません。
この考えは理科の実験で試薬を作るときも同様です。
試薬を添加する順番があるからです。
添加を教えるときは「順番」は大切なのです。
どちらでもいい、という教え方をすると子どもは混乱するのです。

最後の増加は、「体重が去年から3キログラム増えた」などなどを扱うときの演算です。


引き算はたし算の逆思考で、
合併には求補。
添加には求残。
増加には求差と対応しますが、今回は長くなるので、引き算については、省略します。


かけ算の意味は3つあります。
1つは今では一般的になった「1あたりの数×いくつ分=全体の数」です。
2つ目は「基になる数×倍=比べる量」、つまり割合です。
3つ目は「長さ×長さ=面積。面積×長さ=体積」など新しい乗法単位を作るための演算です。
例は省略します。


割り算の意味は、「等分除、包含除、倍」の3つでかけ算の逆思考です。
まず典型的な割り算は等分除。
「みかんが12個あります。4人に同じ数ずつわけると、1人分は何個になるでしょう」というもので、かけ算でいうならば「1あたりの数を求めるものです」

包含除は「みかんが12個あります。1人に4個ずつ配ると、何人に分けられるか」というもので、かけ算のいくつ分を求める演算です。

倍は「比較量÷基本量=倍」というもので2量の関係を求める演算です。

以上が四則演算の意味です。

さて、
本来のテーマに戻るならば「a×bとしてもb×aにしても間違いではないのでは」と言うテーマについて考えるとき、
私は、これは「子どもの発達段階と不可分」では、と考えます。
つまり、
当該の問題で、教師が間違いとするのは「掛ける数と掛けられる数」の順番違いではなくて
「1あたりの数といくつ分」の違いを理解しているかどうかを指導しているのでは、と思うのです。
最初に公式として「1あたりの数×いくつ分=全体の数」と教えた以上は、
子どもたちに「1あたりの数」「いくつ分」と言う概念を混同することなく定着させるために、入れ替えた場合は間違いであると指導することで正しい理解をさせようとします。

「1あたりの数」という概念をしっかりと子どもたちに定着させないで、
次に進むと子どもたちは、割り算や内包量(速度とか濃度などなど)になるとグチャグチャになります。

教師はただ順番に拘っているのではなく、小学校で理解する算数全体を見通して、
かけ算の始めには、「1あたりのかず」、「いくつ分」を理解させようとします。
また、
面積の公式は「縦×横」、と教えますが、これは板書で書くとき縦の線を先に書くことが多いので、まず縦、次に横の線を書くので「×横」としますが、
横の線から先に書けば横×縦でも交換は可能です。
ただ、この順番にも拘る教師がいるとしたら、
その教師は子どもに「立体の名称」を定着させるために、拘っているのかもしれません。

いずれにしても、
中学では可能なことが小学校では制限される大きな理由の1つは、
「子どもの発達段階が具象から抽象へ、異質なものから上位の等質を導く力が未熟」であるとの分析からだと思います(もちろん、小学校でもこの段階を難なくクリアする子もいるし、中学、高校でも呻吟する子はいるので個人差があるのですが、一般的に、という意味です)

と言うことで、
当該の問題は現場の教師は、
「順番」に拘っていたのではなく、「1あたりの数、いくつ分という概念の定着」に拘っているものと考えます。
(教え方は教師によりさまざまですが、、、)

それにしても算数は難しい、、、
どこまで具体的に教えればいいのか???
教えるほうも、子どもたちの思いも寄らない新鮮(?)な反応に戸惑うことしばしです、、、
が、
いずれにしても、
教師自らが改めて「意味」を理解し、教えることの意義を考え直すことは大切だとしみじみと思いました。

ちょちょんまげさん、積分定数さん、ありがとうございました。
コメントで、お送りしようと思ったのですが、長くなりましたので、エントリーを挙げました。

追記

2010年12月現在。
かけ算順番問題がまた話題になっています(実に40年間も続いているそうです)。
さて、
そんな中、私も上のエントリーを挙げた頃は「かけ算、また四則演算には意味がある。
その意味を十分子どもたちに理解させる為には、その手段の一つとして順番も必要な時期がある」と考えていました。
しかし、
先日、kikulogのきくちさんのブログやかけ算の式の順序にこだわってバツを付ける教え方は止めるべきであると言う黒木玄さんの記事を読んで考え込みました、、、
そして、
そして、
かけ算と言う演算を導入する際の公式(1あたりの数×いくつ分=全体の量)を理解させる事と指導することと、順番はまったく別の次元であることに気がつきました、、、、


上の四則演算の意味や、どのように教えることがいいのか、
などなどについては、また時間をおって、色々調べたり、考えたりして書き直すつもりです。
取りあえず、今回は追記として、今の私の到達点を記しておきます。

さらに追記。
技術開発者さん。
さつきさん。
積分定数さん。
ありがとうございました。
追記を書きながらも考えているので、ちょっとアタフタとした記事になっているのですが、、、
いずれにしても、また新しく四則計算について「いかに教えるか、伝えるか」を考えます。

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コメント

せとともこさん、はじめまして、ちょちょんまげさんのところに出入りしている、さつきと申します。ブログ記事、興味深く拝読させていただきました。

要は、
>1あたりの数」という概念をしっかりと子どもたちに定着させないで、
次に進むと子どもたちは、割り算や内包量(速度とか濃度などなど)になるとグチャグチャになります。

ということですね。一方で

>現場の教師は、
「順番」に拘っていたのではなく、「1あたりの数、いくつ分という概念の定着」に拘っている

とも書かれています。

では、なぜ 「いくつ分×1あたりの数=全体の数」と計算してはいけないのでしょうか?

それを、「子どもの発達段階と不可分」とするなら、なぜ、「いくつ分×1あたりの数=全体の数」と解答する子供がいるのでしょうか?

その順番で解答したことで、その子供が、「1あたりの数」という概念を理解していないという保証がどこにあるでしょうか?
そこのところがわかりません。

ちなみに、日米で計算式に現れる数字の順番が異なるのは、日本語では基数詞が基本的に名詞であるのに対して、英語では期数詞が基本的に形容詞であること、および、文法の違いが起因していて、考え方そのものは同じだと思います。

PS.サンフレッチェだけでなく、カープの応援もよろしく。

投稿: さつき | 2009.07.21 13:04

おじゃまします。

>かけ算をたし算の延長のように教えているとしたら、それは問題では、、、と思いました。この教え方だと4×1、4×0、また分数や小数で子どもたちは戸惑ってしまいます

遠山啓も同様のことを言っているようですが、私は戸惑ってもいいと思います。

乗も、3の4乗は3を4個掛けるという事でまずは理解して、0乗や負数乗、分数乗になるときに、「困ったな、どうしよう」

最初の定義ではうまくいかないから、色々考える。

その部分が数学の面白さだと思うのです。

>教師が間違いとするのは「掛ける数と掛けられる数」の順番違いではなくて

そのような教員もいるのでしょうが、残念ながら「なんだか知らないけど順序を正しく教えることがいいことらしい」という認識の人も少なからずいます。

「答えの単位と、掛け算の前の数字の単位が一致するように」という指導は、「正しい順序」自体が目的となった指導法です。

>「子どもの発達段階が具象から抽象へ、異質なものから上位の等質を導く力が未熟」

問題は、抽象的に考えることが出来る生徒もいて、そういう子は1つ分といくつ分の区別や、包分除・等分除の区別など見かけ上のことでしかないと見抜いているにもかかわらず、「わかっていない」と見なされてしまうことです。

投稿: 積分定数 | 2009.07.21 13:45

さつきさん。
積分定数さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

私もこの問題、ずっと考えています。
私は転勤族なので、随分前から自宅で大学受験生から小学生にまで勉強を見たり、自分がもう一度大学で勉強をしたりとしています。
さて、そんな経験から、
子どもたち、とくに小学生の低学年は遅生まれと早生まれで一年近くの差があったりして、
教えるほうも、一人ひとりを丁寧に、と思いながらもアタフタとしてしまうのです。
また、個性というか、理解って子どもによって全然違うのです。
以前、見ていた子は、「おはじきなら分かる」が「具体的な例」では分からないとか、
割合の問題では小学校5年生の子どもで、とてもよくできる子だったのですが、公式の「比べる量」と言う意味が分からない、、、
とかとか、子どもにとって「つまづく」所って違うんですね。
ただ、その壁に教師が気がついて粘り強く教えるとグ〜〜〜ンと伸びます。
これは算数だけでなく国語にも当てはまります。
と、言うことでさらに学校現場は「一筋縄」では行かないのでしょうね、、、
ふっ〜〜〜〜


さて、
さつきさん。
頂いたコメント↓を抜粋しました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「なぜ 「いくつ分×1あたりの数=全体の数」と計算してはいけないのでしょうか?
それを、「子どもの発達段階と不可分」とするなら、なぜ、「いくつ分×1あたりの数=全体の数」と解答する子供がいるのでしょうか?
その順番で解答したことで、その子供が、「1あたりの数」という概念を理解していないという保証がどこにあるでしょうか?
そこのところがわかりません。」
=============
以上さつきさんのコメントより。


はい。
これは、その間違えた子どもが「ときどき間違えるのか」あるいは「いつも間違えるのか」などなど現場は精査する必要があります。
たまたま勘違いしたのか、本当に理解していないのか???
これを見極める必要はあります。
が、いずれにしても、公式として「1あたりの数×いくつ分」と教えているゆえ、その順番で教えるほうが混乱は少ないです。
仮に最初に「いくつ分×1あたりの数」と公式で教えたら、それはそれで、その順番で教えます。
要は、「1あたり」と「いくつ分」を理解しているか否かが大切なのです。


なお、アメリカの算数の考え方について、私が述べたのは「たし算の延長にかけ算があるような捉え方には問題があるかな????」と言うことです。
3×4=4+4+4
とすることで、子どもたちはかけ算を倍分と理解しがちなのです。
かけ算には倍分の意味もありますが、
これはたし算の延長ではなくマッタク別の演算なのですよね。
小学生の子どもにたし算の延長として教えると、
先に書いたように「×1」「×0」「×分数」が混乱する子が多く出るのです。
アメリカの算数の考え方は、その一部では判断出来ないので、
此れに関しては分かりませんが、ただ、ちょちょんまげさんのお子さんが提出された問題に関しては、ちょっと疑問をもったのです。お子さんも当惑しただろうな、、、と思います。
今度知り合いのアメリカ在住の研究者に聞いてみますね、このあたりのことも。


それは、それとして、さつきさんはカープファンですか???
それはそれは。
嬉しく思います!!!

これからもよろしくお願いいたします。
また貴重なご意見お聞かせくださいね。
では。

積分定数さん。
とても蘊蓄深いブログを拝見して、刺激をうけています。
ありがとうございます。

そうですね。
教師もイロイロということで、
マニュアルどおりの先生もいらっしゃるかもしれませんが、算数教室などを開いて勉強なさっている方も多いし、
ひと括りにはできません。
が、
積分定数さんが最後に書かれたように、分かっている子を分かっていないと見なすことは、現場ではチョクチョクあります、、、
残念ながら。
で、
それはあるのですが、
が、
本当に分かっている子は、そんな評価からも開放され伸びていきます。
私は現場は、「分からない子」「もう少しで分かる子」の底上げをすることで、最終的に本当に分かっている子もさらに伸びるということを何度もみてきました。
実際、私が見ていた子どもたちは、じっくりと付き合ってくれ、成績もグングンと上がりました。
教育の目的は「分からない子」を「分かるようにすること」ではないか、と思うことしきりです。


とは言え、
本当に骨の折れる作業です。

いずれにしても、
積分定数さんの言われることはよく分かります。
また、いろいろお教えくださいね。

ではまた。

投稿: せとともこ | 2009.07.21 14:31

せとともこさん、
さっそくのお返事ありがとうございます。
これでやっとわかりました。
どうもありがとうございました。

投稿: さつき | 2009.07.21 19:06

こんにちは、せとさん。無駄話なんですけどね。

我々分析屋というのは単位を付けた計算をたたき込まれる面があるんですね。というのは、実際に測定した分析値というのが、溶液中濃度としてmg/Lの単位をもっているのに、その溶液が10立方メートルの空気の中の物質を吸収管の液に捕集したもので、最後の報告値はmg/立方メートルで表さなくてはならなかったりするわけです。でもって、一つ計算を間違えると3桁の違いを生んだりするので、換算係数についてる単位をきちんと式に書いて、その係数と掛け合わせる分析値なんかもきちんと単位を書いて、単位同士がきちんと打ち消し有って、最後に残る数字の単位が、きちんと求める単位になるかどうかを確認しろという訳です。実は、最近この単位をきちんと確認しない分析屋が増えているという話もあって、悩ましいのですけどね。

でもって、上の話とか考えると
3(個/皿)×4(皿)=3×4(個/皿×皿)=12個
なんだけど、これって分数を教える前に教えるのは難しいですね(笑)。数字の部分はかけ算だけど、単位の部分は分数がはいっちゃいますからね。

投稿: 技術開発者 | 2009.07.22 08:26

さつきさん。
技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございました。
お二人のお住まいの所では、日食は如何でしたか?
こちらは残念ながら、
サパッリでした(ρ_;)

さつきさん。
これからも、またいろいろご意見おきかせくださいね。
楽しみにしています。
では、また。


技術開発者さん。
お久しぶりです。
お元気でしたか???
お仕事お忙しかったのでしょうか?
お体のことなんかも、心配しておりましたが、コメントを拝見して、お元気の由、嬉しく思います。

さて、
「単位」。
さすが、開発者さん。
そうなんですよね。
じつは、3、という数字にも「3個/皿」と言う意味が隠されているんですよね。
先に積分定数さんから頂いたコメントに、
「答えの単位と、掛け算の前の数字の単位が一致するように」という指導は、「正しい順序」自体が目的となった指導法です」
というものがありました。
多分、積分定数さんは、そのように教えている教師をご存知で(ネットで知ったのかもしれませんが)、
その教え方が教条主義的だとお感じになったようです。
そのように教えている教師が、どんな意図なのかは、私は分からないので、なんとも言えませんが、
積分定数さんが危惧なさったように、
始めの単位と答えを揃える、、、云々の教え方を本当にしているとしたら、それは単位について、しっかりと理解していないように感じますね。

「単位」について、キッチリと理解させると言う意味では、
立式の段階で、いつも単位を頭に入れておくことって絶対大切だと思っていましたが、
そうですか、開発者さんのような理系バリバリの方たちでも、次第に薄れてきているのですか、、、
フムフム。

いやぁ、
これは参考になります。
うううう、、、ん。

さて、子どもたちに戻るならば、
とくに内包量や分数の割り算になると、絶対、必要な「感覚」だと私は思います。
そういう意味では、
かけ算を教えるとき、
開発者さんのように教えるといいのでしょうが、
小学生低学年では混乱します。
小学校高学年で割合が入るので、そのあたりで、キッチリと教えるといいのでしょうね、、、
これは「しつこく」教えるべきと私は思います。
掛ける順番に拘るのではなく、
単位あたりの量という意味をしっかり把握させるために、外延量の中に隠れている内包量の意味を教えていこうと、、、思いました。
いつもながら、本当に深い示唆をいただき、嬉しく思います。
余談ながら、先日夫も、開発者さんのコメントですごく経済が分かった、、、と申していました。
「あっ、経済ってこんなことか!!!」と。

と、言うことで、またいろいろお教えください。
今、ちょいと、平和学なんぞを読んでいますので!!!

では、またね。

投稿: せとともこ | 2009.07.22 14:08

http://anothertrack.hp.infoseek.co.jp/others/0028.htm
http://anothertrack.hp.infoseek.co.jp/others/0029.htm
http://www.eonet.ne.jp/~mnzbo645/kakekakerare.htm
↑「答えの単位と、掛け算の前の数字の単位が一致するように」という教え方。

http://star.ap.teacup.com/applet/hoshimaru/20061121/archive
ここで紹介されている新聞投書で、私は初めて「かけ算の順序」の存在を知りました。

> 4 × 5 には, 4 の五倍という意味があります。 4 人の五倍では答が 20 人になってしまいます。 これでは問題文の内容を理解しているとは言えないのではないでしょうか。
>実はこういった論理的な思考の指導が,

このように、教えるための方便を絶対的ルールだと思いこんでいて、しかもそのような教条的指導が「考え方重視」だと思いこんでいる教員がいるのです。

「かけ算の順序」は数学的には何の意味もなく、「順序はどっちでもいい」という対称性は、数学における美しさの1つです。「かけ算の順序」は、将来的には役に立たないどころか、むしろ桎梏になりかねません。

嘘も方便ということまでは否定しません。しかし、仮に必要悪で嘘を教えることがあるとしても、教える側はこのことを理解しておいてほしいと思います。

投稿: 積分定数 | 2009.07.23 00:00

何度も済みません。

>これは、5+3ですが、3+5、とはなりません。
この考えは理科の実験で試薬を作るときも同様です。
試薬を添加する順番があるからです。
添加を教えるときは「順番」は大切なのです。
どちらでもいい、という教え方をすると子どもは混乱するのです。

 あえて「どちらでもいい」とする事はないと思いますが、「3+5」とする生徒を無理に「5+3」に矯正する必要はないと思います。その子は、「加法」というものを既に抽象的に捉えているのかもしれません。あるいは、「後から来た3両」に自分の視点を置いて考えた可能性もあります。

 市教委にかけ算の順序について質問したときも「発展段階からそういう指導がふさわしい。どっちでもいいなんて子どもは混乱する」と言われたのですが、

具象から離れて抽象化して考える事が出来る子には、

「1つあたり」と「いくつ分」は本質的に区別できないとわかっているかもしれません。

 「電車5台と電車3台をつなぐ」と「えきに電車が5台あります。あとで3台きました」は、「同じ」と認識して区別は出来ないかもしれません。

 「正方形は長方形」というのは、以前は小学校でやったのですが、現在は「生徒が混乱する」ということで教えないそうです。しかし「4つの角が直角であれば長方形というなら、正方形も長方形だ」と気づく生徒もいるかもしれません。このとき、「長方形と正方形は違うに決まっているだろ!」と一蹴する教員がいないかと心配です。

 優等生的な「教えられたことをきっちりこなす」、というのと違うタイプの、物事を深く考え込んで自問自答するタイプの生徒は、本質的なことに気づいて、それを親や教師に言うと「屁理屈」と言われてしまう、

ということがありはしないかと心配です。

投稿: 積分定数 | 2009.07.23 11:50

積分定数さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
何回も読ませていただきました。


ご紹介いただいたリンク先も訪問してきました。
ううううう〜〜〜ん。
と、唸るところもままあったのですが、
「現場の教師の苦労」というか「工夫」なのかと思ったりもしています。
どうなのでしょうか???
「答えの単位とかけ算の前の数字が一致するように教える」ことで、「ちょっと足踏みしている子」にとって、理解が進む、理解が得られやすい、というのは、
この教師の経験からくるものなのでしょうね。

積分定数さんは、
「このように、教えるための方便を絶対的ルールだと思いこんでいて、しかもそのような教条的指導が「考え方重視」だと思いこんでいる教員がいるのです。」
と、言われますが、
件の教師も、
「これが数学的に正しいかはともかく、
子どもたちには分かりやすいのだ」と言う旨のことを書かれていますから、
教えるための方便を絶対的ルールとまでは考えていないのではないでしょうか??

この教師が本当に教えたいことは、たとえばミカンの問題で言うならば、
「個数/皿×皿=個数」
と言うことですよね。
これは、考え方として正しいのでは、と思うのですが、、、いかがでしょうか???


また、積分定数さんは、
「かけ算の順序」は数学的には何の意味もなく、「順序はどっちでもいい」という対称性は、数学における美しさの1つです。「かけ算の順序」は、将来的には役に立たないどころか、むしろ桎梏になりかねません。と言われますが、
そうでしょうか????
対称性が数学における美しさの一つであることは、大いに賛成です。
が、
かけ算の順序に拘ることが、将来的に桎梏にまでなるでしょうか???
交換法則が成り立たない行列のようなものもあるから、順序に拘ることが必ずしも弊害を生むとは思えません。
むしろ、大切なことは「単位あたり」という概念をしっかり身に付けさせることではないかと私は思うのですが、、、


さて。
二番目に頂いたコメントですが、
積分定数さんが視野にいれている子どもたちは「よく分かる子」だと思うのです。
そうではなくて、
「あと、ちょっとで分かる子」「もう少し頑張れば出来る子」を想定して、指導要項は作られるので、
教育委員会の言い分は「さもありなん」なのでしょうね。

ところで、
「具象から離れて抽象化して考える事が出来る子には、
「1つあたり」と「いくつ分」は本質的に区別できないとわかっているかもしれません。」
と、書かれていますが、
申し訳ありませんが、この意味がわかりません。
「1つあたり」と「いくつ分」が本質的に区別できないものだと、積分定数さんはお考えなのでしょうか????

私は「1つあたり」と「いくつぶん」を理解することは重要であり、この2つはまったく別のものであると考えているのですが、、、、
この2つをしっかりと区別しなければ、
分数の割り算がなぜ逆数を掛けるかのか、という問題につきあたったまま、先に進めない子がたくさん出てくるのです。
分数には「割合分数」と「量分数」があることを教えるためにも「単位量あたり」という意味はキッチリと理解すべきでは、と思います。
如何でしょうか???

もしお時間がございましたら、ご教示ください。
では、また。

投稿: せとともこ | 2009.07.23 14:06

まず前半部分に関してです。
「順序に拘る理由」として「考え方が大切だから」ということが言われます。で、かけ算の順序を(1つ分)×(いくつ分)に固定することで、「この問題は掛け算で解くのだろう」という考えて、問題文で出てきた数の順に掛け算をする子に、「何がいくつ分か、きちんと理解して立式しなさい。」ということで、考えさせる、あるいは順序を逆にしたときに「ちゃんとわかっていない可能性がある」と教える側が判断できるということだと思います。

このこと自体に私は懐疑的なのですが、「前半の単位=答えの単位」という指導は、考えなくても機械的に出来てしまうので、そもそもの「かけ算の順序」の指導の理由を根底から否定しているわけです。

これは、教える側がかけ算の順序を「考えさせるための道具」「理解しているかどうかを判断するための道具」ということを理解しないで、「順序を正しく書かせること」自体を目的にしている体と判断できます。

「みはじ」や「はじき」と同じですよね。理解していなくても、「正しい答えが出せる」。

サンドイッチや警察と泥棒を教えることで、生徒に何をさせたいのか、大いに疑問です。

投稿: 積分定数 | 2009.07.23 16:14

後半部分に関して。

>「1つあたり」と「いくつ分」が本質的に区別できないものだと、積分定数さんはお考えなのでしょうか????

原理的に両者は区別できないと考えます。


例えば、「4人に蜜柑を3個ずつ」、ならば、3が4つとも、4が3つとも言えるわけで区別は付きません。

「時速3㎞で4時間歩く」。この場合は、「1時間あたり3㎞、だから4時間で12㎞」と考えるのが自然だとは思います。

しかし、「ある速度で、4時間歩くときの道のりは?」という具合に4時間を基準に考えたら、時速1㎞につき4㎞、とも言えます。

つまり、1㎞/hあたり、4㎞  で 速度は3㎞/h

つまり、 4㎞/(㎞/h)×3㎞/h=12㎞

これはかなりひねくれた考えではありますが、間違いではありません。

かけ算の順序に拘る人も、多くは長方形の面積の縦横の順序にまで拘ることには否定的です。

しかし、それは長方形の面積の場合、「どちらを1つ分としてどちらをいくつ分としても構わない」というのが明白だから、というだけだと思います。

蜜柑を分ける問題も、視点を変えれば(1つ分)と(いくつ分)は逆転するし、速度と時間も同様です。

また、「2時間で6㎞進む」という場合、「1時間あたり2㎞」ですが、「1㎞あたり20分」とも言えます。

「2時間で6㎞進む」の(1つあたりの量)だけでは、時間と距離、どちらを1つあたりにするかは決定できません。

もちろん、「単位あたりの量」の概念は大切なのは言うまでもありません。

投稿: 積分定数 | 2009.07.23 16:33

行列に関しては

A+A=2A であること。
ABは、AがBつ分、の意味ではないこと

などを考えると、「3×4は3が4つ分」という捉え方に拘ることはやはり桎梏だと思います。

行列の非可換性と、かけ算の順序は直接は関係ないと思います。

集合論の順序数では和の交換則が成り立たないのですが、「だから足し算の順序も正しく」

とはならないと思います。

最初に、掛け算を(1つあたり)×(いくつ分)で定義する。これはいいとしても、やがて交換しても成り立つことを習い、

3×4は、3が4つ とも 4が3つ とも解釈できるようになる。

そのうち、そのような解釈をすることなく、「3×4は3×4である」と抽象的に考えられるようになることが重要。

そうすることで、行列の掛け算も、なぜあれが「掛け算」なのかも受け入れられるようになる。

意味を度外視して、無味乾燥な形式として受け入れることで、むしろ様々な拡張や応用が可能になる。

だから、理解が不足している生徒が、最初の(1つあたり)×(いくつ分)に立ち返って考えることは大切なのですが、一律に全員に小6までこれを強要することには疑問を感じます。

投稿: 積分定数 | 2009.07.23 16:45

こんにちは、せとさん。変な横やりを入れてすみません。

北海道の夏山遭難事故で、パーティの列が長くなってバラバラになったなんて話を聞いて、「パーティになっていないな」と思ったんですね。足の弱い者を前に健脚の者が後ろを行くのがパーティだからね。実際、同じ山で無事に降りたパーティは、弱った者の荷物を余力のある者が背負って降りている。

なんて言うのかな、私は身体が弱くて頭だけが先に発達した様な成長をしたでしょ。勉強とか知識の面では「人が追いつくのを待ち」、そして身体の面では「追いつくのを待って貰って」育ったんですよ(笑)。だからね、私には「待てばよい」という意識が結構強いのね。よく分かる子は分からない子が分かるまで「待てばよい」という意識ね。身体の強い子は身体の弱い子と一緒に歩けるように「ゆっくり歩けばよい」なんてね。まあ実際は、待っているのが退屈だから、勝手に教科書読んで先に進んでいた(だいたい、小学校くらいだと4歳上の兄貴の教科書で勉強していたからね)けど、周りをせかす気にはならなかったのね。だって、身体の方でせかされるのは嫌だったからね(せかされたって、早くは動けないし長くも走れない:笑)。

まあ、先に進んでいる事で教条的に「お前は間違えた」とやられるのは嫌ではあるけど、私の場合そんなことも有ったかもしれないとは思うのね(具体的に何があったか思い出せないけど、何か有ったような気がする)。でもね、仕方ないんじゃないかな、待つ身なんだからね。

たぶんね、今の私を形作っているものの中に、人を待たしてしまう身であった自分と、人を待つ身であった自分の両方が有るような気がするのね。

投稿: 技術開発者 | 2009.07.23 17:09

 念のために。

 私の意見は、出来る子優先で、出来ない子につきあうことはないというような事ではないのです。

 ある子には、授業でやることが既にわかりきったことであっても、我慢して貰えば済むことです。

 でも例えば、速度の問題を解けない子がいるから、ということで「みはじ」や「はじき」を教えるとします。私はそういう教え方は好きではないのですが、まあそれを使う使わないは、各自の判断に任されるならまだいいとします。
 しかし、「5時間で20㎞進んだときの時速」を「20個の飴を5人で分けると一人あたりは?」と同じ構造であると理解していて「みはじ」を使わないで解ける子にまで、「みはじ」を使うことを強要したら、それはおかしいと思うわけです。

 「かけ算の順序」にも同様の物を感じるのです。

 私自身はかけ算の順序をとやかく言われた記憶はないし、掛け算を習ってから早い時期に、本質的に交換可能であることは理解していました。もし「順序がある」などと言われていたら、混乱したかもしれません。

 数年前、新聞投書ではじめて「順序」を知り、今年はじめにミクシィで議論になり、あらためて考えてみました。

 そこで気づいたのは、「順序を逆にしても同じ」というのは、「値が同じだから」というにはとどまらず、本質的なことだということです。

 不幸にも、式を書くときにはどうしても前後が出来てしまうけど、これは本来は2つの数字を重ねて書いたようなもので、前後関係はなくて全く対等である。

と確信しました。最初の掛け算の導入が(1つ分)×(いくつ分)となってしまうが、それも便宜的なことと理解すれば、

「前後が対称であることは数学の深い真理である。かけ算の順序は本質的にどっちでもいい」

と確信しました。前後の違いで意味の違いを付けるというのは、数学に対する冒涜とさえ思えました。

それでも、一部の子に方便としてそれを教えることまでは、否定できません。

しかし実際は方便どころか、「順序を正しく書かせること」が目的にすらなっています。

http://q.hatena.ne.jp/1197768804
2007-12-16 14:22:16
>また、「縦4cm横5cmの長方形の面積」
を求めるにあたって、「4×5」が正解で「5×4」は不正解(または減点)、としている先生も多いと思うのですが、その根拠はあるのでしょうか。(「公式と違うから」以外で)
>その先生は先生をやっている資格が無いですね。
>そういう先生がいるのは事実と思います。
「公式通りに解く」ということ、もっと言えば、「授業で教えられたとおりに解く」ということを重視する立場の人は多いのです。

あるいは
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0701/248855.htm?o=0&p=4
の「かけ算の順序大切」という人たちの主張

これらを見ると、「かけ算の順序」は「考え方が大切」と言うよりも、「教えた式に当てはめさせる」ということと親和性が高いように思えます。

「答えさえ合えばいいのではない。過程が大切」というのが、教えたとおりの手順でないと駄目だというように曲解されているようにも思えます。


「かけ算の順序」を批判する意見には、「順序は、考え方を大切にするために必要。これを否定するのは考え方軽視だ」という見当違いの批判がある。しかし考えれば考えるほど、「かけ算の順序はどうでもいい」と確信できる。むしろ、順序を強要する人の中には、考え方よりも手順通りに手を動かすように指示する人が多いように思える。

米軍の軍事行動を批判すると「対テロ戦争を批判するのはテロ容認だ」と言われる。しかし、米軍のやっていることもテロと思える。しかも、イラクやアフガンの民衆を殺傷してむしろテロを助長しているとも言える。

というのと似た構造。

もちろん、ちゃんとわかった上であくまで方便として「順序」を使いこなしている人もいるかとは思うのですが、

教える人みんながそうであるとは到底思えないのが正直なところです。

投稿: 積分定数 | 2009.07.24 01:11

たびたびすみません。この件は半年間、ずっと考えているのですごくきになるのです。ご迷惑ならその旨おっしゃって下さい。

>たし算の意味は小学校では「合併、添加、増加」の3つです。
>引き算はたし算の逆思考で、合併には求補。
>かけ算の意味は3つあります。
>割り算の意味は、「等分除、包含除、倍」の3つでかけ算の逆思考です。

これらは逆から見ることもできると思うのです。

つまり、足し算に3種類あるのではなく、「合併、添加、増加」など見かけが違って見えるかもしれないが、実は「同じ」でそれは足し算として表現される、ということ。

割り算も、等分除と包分除があるのではなく、「20を4等分するばあいの1つ分」と「20の中に4がいくつあるか」は、一見違っているように見えるが実は同じ事である、という発想。

20個の飴をを4人に分けるために、まず1個ずつ配る。2個目を配る・・・、とすれば、これは20の中に4がいくつあるかということになる。

等分除と包分除は、掛け算の1つ分といくつ分を求める事に対応しているので、

順序はどっちでもいい、1つ分といくつ分の区別は本質的に不可能、という立場の私は、当然、等分除と包分除の違いも見かけ上の物でしかないという立場です。

具象から徐々に抽象へと向かうことで、1つの足し算、1つの引き算、1つの掛け算、1つの割り算へと統合されていくのだと理解しています。

「一見違うように見えることが、実は同じ」というのは数学では面白い部分だと思う。

細かく刻んで足すのと、微分の逆が実は同じ
指数関数と三角関数は実は同じ

そしてこれらが同じであると一度納得して認識してしまうと、それが当たり前に思えてしまう。

私が「かけ算の順序」に反発する理由はいくつかあるのですが、「個別具体から出発してやがて抽象概念の獲得」という流れを算数・数学の基本と考えているので、その流れを断ち切るように思えるから、というのも大きな理由かもしれません。

投稿: 積分定数 | 2009.07.24 04:04

こんにちは、積分定数さん。

>そしてこれらが同じであると一度納得して認識してしまうと、それが当たり前に思えてしまう。

ここのところ、コメントが減っていて、せとさんから健康の心配をされているけど、実は、研究所の所内公開の実行責任者で、その仕事が忙しくて、コメントがなかなか書けないのね。でもって、実はうちの一般公開でも、積分定数さんの言われる様なことを巡る議論がしょっちゅう起こるのね(笑)。

うちの所内公開は、理科体験をしたいお子様(それも低学年が多い)が来客者の中心になっているので、デモンストレーションやら体験もお子様向きに組むんだけどね。なにせ、ブースで実際に見せたり説明したりする研究者とお子様の科学知識のギャップが有りすぎる訳ですよ。「こんな説明でいいのじゃない、だってこれ以上踏み込むと難しすぎるよ」「でもねぇ、それじゃあその先にある知識への道を断つことになるんじゃない」なんてね。笑い話だと、説明の中の一言を巡って研究者同士が半日議論していた姿まであるんですね。でもって、それを聞いていたパートタイムで来ていた主婦の方が「どちらにしても私にはわかりません」の一言で、もっと分かり易い表現を探し始めたとかね(笑)。

悩みの深いことではあるんだけど、私なんかが言うのは「ここにいる人たちは、理科と科学のギャップを乗り越えてきたんだよ」という事ね。なんていうかな、実現象を説明する理科の段階から、その説明が自然法則として全ての自然現象に当てはまるんだと納得する科学の間にはギャップがあるのね。実学と形而上学のギャップと言っても良いのかもしれません。子供にどうしても難しい説明をしたがる研究者は実のところそのギャップを超えさせたい、超えて「科学」という世界を覗かせたい、って意識がある訳です。でもね、理科をしっかり身につけてこそ、そのギャップの先の先の科学の世界が楽しいのも現実ね。だから、私は言うわけですよ、「皆さんもまず理科に興味を持って、まず理科で納得し、そしてどこかで理科から科学へのギャップを超えて、いまここにいるんですよ」なんて事を言う訳ね。「だから。説明を難しくして理科体験の楽しさを損なうのは止めようよ、子供たちが理科は楽しいと思い入り込んでくれたら、やがて科学へのギャップを超えてくれると信じようよ」なんてねことを言うわけです。

なんていうかな、私は教育者では無いんだけど、教育って「いったん教え込んで、そして、それを壊して先を教える」という事もあると思うのね。発達段階に応じてだけどね。或る意味で私みたいな研究者は、その壊す部分にうまく順応したので、今も「できない」なんていう常識を壊してやろうとしている面があるのかもしれないと思うのね。

お気持ちはとてもよく分かるんですよ、それは、うちの所内公開で「もう少し先の世界まで見せてやりたい、そのための道を閉じない説明をしたい」と言ううちの研究者たちと同じで、私にも同じ部分は常にあるからね。でもね、「先で壊す事を前提に今、分かり易く教える」というのもありだろうと思っています。

投稿: 技術開発者 | 2009.07.24 09:43

>技術開発者さん

 おっしゃりたいことは何となくわかります。「いったん教え込んで、そして、それを壊して先を教える」というのも、実感としてわかります。

 私は教えるときに、「エレガントでなくていいから、まずはその子に納得できる方法で、自力で解く」というのを重視します。

 (x+2)(x+3)を展開する場合に、公式を使わなくても、
x^2+2x+3x+6=x^2+5x+6で出せるならそれでいいと思うのです。学校の教員は公式を使わせようとするのでが。

 また、(x+a)(x+b)=x^2+(a+b)x+ab という公式を使うにしても、x^2+ax+bx+ab という形をいったん自分で作るという経験をした場合と

とにかく公式だから、と暗記した場合では、理解度ということで大きな開きがあると考えます。

 高校生に教えていても、漸化式を解く場合に、出来る子が「便利な道具」として意味も分からず特性多項式を使うのを見ると、「もったいないな」と思うのです。

 泥臭い、まわりくどい方法でやっていく中で、身につけていく物もあると思うのです。

 だから誰もが経るべき過程というのはあるのだと思います。

 しかし、「かけ算の順序」はそれとは本質的に違うと思うのです。

 一番最初の掛け算の導入時ならともかく、入れ替えても同じ値になる、ということが示された後もずっと「かけ算の順序」に意味を持たせることが、生徒の理解を深めることになるのか、かなり疑問に思うのです。

 「4人に3個ずつ蜜柑」これを初期の段階では、足し算で表記させてその後掛け算にさせるとか、○が△つだから、と書かせるなら、それはありかと思うのです。掛け算ではないですが、実際私自身教えていて、新しい記号を導入した直後にはこれに近いことをやります。

それで、3+3+3+3とか、3が4つ、とか書いてあればその後の式が3×4でも4×3でも、とりあえず理解していると考えて差し支えないと思うのです。

4+4+4 や 4が3つ とする生徒がいたら、本人に聞いてみたらいいと思うのです。もしかしたら、まず4人に1個ずつ、という具合に考えたかもしれません。

現状は、理解するとか考えるということを、それとは必ずしも連動しない「かけ算の順序」という形式的なことに結びつけて、その結果、「順序」それ自体に重大な意味があるかの如くの教え方がなされているように思えます。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q121569682
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q129982362
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1316925223
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1227858512

これらを見ると、「かけ算の順序」が本当に理解や考えることを促すことになるのか、はなはだ疑問に思えます。

ところで、技術開発者さんは、小学校時代に「かけ算の順序」を指導されましたか?

投稿: 積分定数 | 2009.07.24 10:46

積分定数さん。
技術開発者さん。
こんにちは。
コメント、何回も拝見させていただきました、、、

さて、積分定数さん。
まず、このテーマについての私の立ち位置は、
エントリーにも述べたように、
「かけ算の順番には基本的は拘らないが、
”単位量あたりの数”と”いくつ分”の理解については、拘る、と言うか子どもたちにしっかりと身につけさせたい」というものです。
したがって、
同じかけ算の問題でも「縦×横」については、立式の段階で横×縦にしても、
「どちらでもよい」と思います。
また、
倍分についても、A×Bでも、B×Aでも、OKです。
ただ、
「1あたりの数×いくつ分=全体の数」については、
順序が逆だった場合は、
その子に尋ねます。
「1あたりの数」「いくつ分」の意味を理解しているかどうか、、、と。
前にさつきさんから頂いたコメントにも書いたのですが、
その子が本当に意味を理解していているのなら、
たまたま間違えたとしても、
次の問題に対しては「1あたりの数×いくつ分=全体の数」として立式をたてます。
その子が計算の段階で九九を使うとき、逆にしようが、しまいが、それは、その子の「やりやすい九九」を選んでいるのだから、問題ありません。
意味が分かっている子は、
ここで問題にしているような順番云々に拘らず、もう先に行ってしまいます。

さて、次に意味をまだ理解していない子、
迷う子に対しては、
定着させるまで、しっかりと教えます。
それが傍から見ていたら「順番のみ」に見えるかもしれませんが、
現場の教師は決してそうではありません。
意味を教えるために、段階として、「順番」を教えているだけです。
子どもが理解したら、すぐに取っ払うことができます。

私が視野に入れているのは、そうした子どもたちなのです。
「あと一歩」「もうちょっと」の子どもたちには、
キッチリと意味を教える必要があるのではないでしょうか?
かけ算の順序が目的ではないのです。手段なのです。
つまり「単位量あたり」という概念を定着させるための。
この「単位量あたり」は先にも書いたように、
分数、割合で出てくる難解な概念なので、かけ算導入時には、しっかりと丁寧に教えていきたいです。

「一番最初の掛け算の導入時ならともかく、入れ替えても同じ値になる、ということが示された後もずっと「かけ算の順序」に意味を持たせることが、生徒の理解を深めることになるのか、かなり疑問に思うのです。」
と、積分定数さんは書かれていますが、
これは九九の導入のことと思いますが、
九九は、
限りなく具象を抽象にしたものです。
前のコメントでも、
積分定数さんは「「一見違うように見えることが、実は同じ」というのは数学では面白い部分だと思う。」と書かれています。
私もそうだと思うのです。
それが数学の本質だと思います。
が、
今、目の前にしているのは小学校2年生の子。
異質なものから、その上位の部分の等質を見抜く力はまだ備わっていません。
それを見極める力をつけるための手続きとして、現場の教師は具体的な例をいっぱい、挙げて教えているのではないでしょうか???
一つ、ひとつを丁寧にクリアすることで、
いずれ、文字式を学んだときに、
具象が抽象に、そして、その抽象から具象へ返していく、という意味が分かってくると思うのです。

算数が数学的思考を分断するのではなく、
数学的思考への準備と思うのですが、如何でしょうか???

技術開発者さん。
頂いたコメント、とてもよく分かります。
発達段階、しかも子どもにとって違うので、現場の教師は大変だと思います。
またぶつかる壁も個々違うから、
「これが分かっても、あれは理解が進んでいない」などなど、です。
ひと括りに言うことは出来ませんが、
ただ、私の経験から「子どもたちは勉強がよくわかるようになりたい」と思っています。
なかなか可愛いものです!!!
わかる、意味を知りたい、がまずは「科学への入り口」なのでしょうね。
その意味を教える手段が、今回のかけ算では「順番」だっただけなのでは、、、と私は思っているのですが。

開発者さんや積分定数さんが標榜しているものと、私の求めているものはそう変わらないと思います。

投稿: せとともこ | 2009.07.24 11:37

せとともこさんの考えは多分理解したつもりです。

私が問題にするのは、「順序のみ」に拘っているとしか思えない教え方が、学校現場で教えられていると言うことなのです。それも、小6に至るまで。

「順序を教えるのは無意味ではなく、こういう状況でこういう面があるから重要」となっても、

順序それ自体が目的となったり、「逆は間違い」というような間違った考えを小6まで教え続けることは行きすぎだと思うのです。

現場の教師が何のために順序の指導をするのかを理解していない、という気がします。

文科省は、「順序を教えろ」とも「順序はどっちでもいいと教えろ」ともいっていないし、それらの教え方がいいとも悪いとも言っていません。

教科書の解答には一方の順序の答えしか載っていませんが、「逆は駄目」とも書いていません。

どうも教科書指導書(検定対象外)に順序に留意するようなことが書いてあるらしいのですが、出版社に問い合わせたところ、執筆者の意図としては「その子が理解できていれば、別に順序は構わない。長方形の面積を横×縦で誤答にするのは全くのナンセンス」ということでした。

どうもそのあたりのことが教員に理解されていなくて「順序を正しく書かせなくてはならない」となっているように思えるのです。

こういうことが一度流布してしまうと、仮に順序の指導が後で弊害をもたらすことになっても、「そう教えることになっていたから教えたまで」と責任回避が可能だが、「どっちでもいい」と教えるのは相当の覚悟と勇気が必要となって、ますます、教員がその理由を知らないまま、「どうも、順序を教えた方が無難らしい」となってしまう。

現状がそうなっている気がするのです。私が示したURLの事例のには、かなり首を傾げたくなります。

せとともこさんが、そういう事例の教え方まで擁護しているように思えたので、気になったのです。

一般論としていついかなる時にも順序を教えるな、ということではありません。局面によっては必要なときもあるかもしれません。

私が問題にするのは、

「順序」が目的となったり、あるいは、「4人に蜜柑3個」を、「4×3は誤り。これでは考えがわかっていない。これでは、4人×3で12人になってしまう。」という生徒の考えも聞かないで断定する指導。

http://www.inter-edu.com/forum/read.php?903,1013957,page=4
>「数」に交換法則は適用できますが,「量」には適用できません。
http://www.inter-edu.com/forum/read.php?903,1013957,page=5
>数値の交換はOKですが,内包量と外延量の交換はできません。

というような、ありもしないルールを捏造して、「そのルールに反しているから駄目なのです」という牽強付会な考え。

などです。

ところで、せとともこさんご自身は、小学校時代にかけ算の順序を教わったのでしょうか?

私は順序云々は言われたことがなくて、
http://star.ap.teacup.com/applet/hoshimaru/20061121/archive
に紹介されている新聞投書を見て初めてその存在を知って、最初は訳が分からなくて、ぞっとしました。「問題文を理解して、その理解に従って式を立てる」のではなく「問題文ごとに解答パターンがあって、一字一句間違わないように書く」という指導に思えたからです。

実際、私からすると、「えっ?」と思うような授業が教室でなされているようなのです。全てがそうとは言わないし、ごく少数の例外であることを願いますが。

「3時間で12㎞進んだ。6時間でどれだけ進むか?」を「時間が2倍だから24㎞」としたらバツ。「距離÷時間で速さを求めて、・・」という手順を踏んでいなかったかららしい。

「20本の花がある。5本で1つの花束を作る。花束はいくつ?」
「4束」としたらバツ。正解は「4つ」。「単位の大切さ」を教えたかったのだろうか?

「適当な言葉を入れる」という問題。
直方体の体積の求め方 □×□×□
立方体の体積の求め方 □×□×□
どちらも(縦)×(横)×(高さ)としたら、直方体の方は○だけど、立方体の方はバツにされた。
(一辺)×(一辺)×(一辺)が「正解」。

いずれも、伝聞情報だから詳細はわからない。しかし、もしこういう教え方がなされているとしたら、「算数は教師の言ったことを正確に覚えてテストではそれを書かなくてはならない」と思いこんで算数を退屈でつまらない物だと思わないか、心配です。

投稿: 積分定数 | 2009.07.24 16:23

こんにちは、積分定数さん。

>ところで、技術開発者さんは、小学校時代に「かけ算の順序」を指導されましたか?

う~ん、あまりに昔の事なので記憶がありません。ただ、言えることがあるとすると、私が小学校の頃というのは、先生が結構個性的に教えていた時代なんです。なんていうか、戦争の傷跡を心に残した先生が沢山居て、戦前の教育に対する批判精神も高くてね(「特攻隊で生き残ってしまった」という先生にも習っている)。学校の先生そのものに教える内容や教え方に対して画一性を求められることに対する反発が強く有った時代なんです。だから、もしかけ算の順番にうるさい先生がいたとしても、それはその先生の「教え方」だったのだろうと思います、別な先生は順番に五月蠅く言わなかったかもしれないわけですね。私が小学校の頃と言うと、「子供の半分くらいは中学校を出たら集団就職する。半分くらいが高校を出て就職する。できの無茶苦茶良いのが奨学金で大学に行く」と田舎の村の人が思っていた時代ですからね。「読み書きソロバン」じゃないけど、日常生活に必要な算数を教える場として小学校があったので、それさえできれば、どんな教え方をしても親は文句なんて言わなかったと思います。

なんていうか、積分定数さんのお考えの中に画一性への反発というか、教師が「自分の教え方」にきちんと考えを持たずになんとなく「こう教えるものだ」と教えることに反発しているのを感じる面があって、私はその部分で共感したりはするんですけどね。

投稿: 技術開発者 | 2009.07.24 17:12

積分定数さん。
技術開発者さん。
こんにちは。
まだまだ蒸し暑い日が続き、本当に梅雨明けしたのか???と思っています。


さて、積分定数さん。
私は、あなたが危惧を表明なさった教師について、
何も擁護してるのではないのです。
擁護はしていないのですが、
ここで縷々述べた背景は「学習指導要項」と教育現場への「政治の介入」を思うと、
教師個人の力量云々に関しては、アレコレと言えないのですよね。
個別具体的な問題で、「おいおい、、、」ってことは、いっぱいあります。
子どもたちを前にして「ええええ????」
「そんな風に教わったの????」
とかとか大声出していることはしょっちゅです。
我が子が小学生の時も、あらあら???と思うことばかりでした。
ただ、
そんな一つひとつの事柄の裏に厳しい教師事情が見え隠れするんですよね。
と、言うことで私自身は、あなたが教育委員会に質問したように、教師の上部機関へは、質問なり意見を述べています。
また、文部科学省主催の学習会などがあったら、なるべく出席して意見交換を行っています。

と、言うことで教師の教条主義、マニュアル通りを擁護しているのではありません。


なお、
私が小学生のとき(彼方のかなたですが、、、、)は、
かけ算は順番というより、「名数」か「無名数」に拘って教わりました。
多分、担任がそうした考えの方だったのでしょうね。


いずれにしても、
積分定数さんのおかげで、改めて算数と数学の意味、意義を考えることができ、とても嬉しく思っています。
今後とも、いろいろご教示くださいね。
では、、、また。


技術開発者さん。
「なんていうか、積分定数さんのお考えの中に画一性への反発というか、教師が「自分の教え方」にきちんと考えを持たずになんとなく「こう教えるものだ」と教えることに反発しているのを感じる面があって、私はその部分で共感したりはするんですけどね。」と書かれた開発者さん。

私もマッタク同意です!!!
積分定数さんから、いろいろ教わりました。
私の今後の仕事に繋がりそうです、、、
そうそう、
夏休みの企画、どんな事なさるのでしょうか???
子どもたちにとって、刺激になる良い思い出が出来ることと思います。
お体はご自愛くださいね。
では、、、また。


投稿: せとともこ | 2009.07.24 18:41

>技術開発者さん
>せとともこさん

 丁寧なコメント、ありがとうございます。「かけ算の順序」に関しては、この間色々調べたのですが、

こういう教え方が最近増えている印象があるけど、指導要領など公式の何かで方針が変わったというわけではない。
「みんな、小学校の時にそう習うのだが、そのことを忘れてしまっているから奇異に見えるのだ」という人もいる。
しかし、私自身はそうは習った記憶は一切ない。順序に拘る教え方自体は昔から存在していたことは確認できたが、それは教え方の流儀の1つのように思える。現状は学校ぐるみで、「こう教えましょう」という事になっている例があるが、昔からそうだったとは思えない。知り合いが非常勤講師で小学校に教えに行ったところ、「黒板に書いた掛け算の順序が違う」と生徒に指摘され「かけ算の順序はどっちでもいいんだよ」と言ったら、生徒から一斉に「それは間違い」と言われた。
やはり最近増えているのでは?

とこれはまだ調査中なのでお二人にお聞きした次第です。

ここで引用されている記事は、私が小学校時代のものです。
http://ameblo.jp/metameta7/entry-10196970407.html

掛け算を初めて導入した直後である点、逆にした生徒に何故そうしたのかを聞いている点

などから、これが最適な教え方かどうかはわからないものの、そういう教え方もあるのかな?程度には思う。

http://star.ap.teacup.com/applet/hoshimaru/20061121/archive
での教員の投書では、「順序が逆」≡「考えがわかっていない」≡「不正解は当然」となってしまっていて、

同じ「順序に拘る」でも、隔たりを感じるのです。

地域で算数教育の研究を熱心にしているという元教員を紹介して貰って、話を聞きました。「順序が逆だから理解していないとは言えないのではないか?」の問いには「確かにその通りで、その生徒に聞かないとわからないね。逆にしたら生徒がいたら、これは間違いかそうでないのかと授業で取り上げたら面白いね」というような答えでした。

http://yuugaku.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_1c01.html?cid=57314984#comment-57314984
↑この方も、「順序が違う」=「不正解」ではなくて、あくまで理解度を見るための手段というスタンスです。

せとともこさんも、同様のスタンスかと思います。

自分自身が「掛け算の順序はどっちでもいい」と小学校以来からずっと思っていたのと、この間改めてかけ算の順序について考えて、「掛け算の順序はどちらでもいい」 ということは本質的なことで、数学の美しさの1つと再認識したので、非対称性を持ち込む事への抵抗感は依然としてあるのですが、

教える側が「こうすれば生徒が理解してくれる」と色々試行錯誤した結果であり、実際にそれが有効であるなら、そういう教え方もあるのかな、とは思うのです。

しかし、「順序と正しく教えましょう」ということが学校全体の方針となってくると、「なんだか知らないけど、とにかく順序を正しく教えることになっているから、教えなくては」ということになって、私から見たらかなり奇妙な教え方がなされるようになっているのではないかと思います。

ある教員に聞いたところ、「教員になったばかりの頃は、指導書に書いてあるとおり、順序を教えていたが、高学年にまでうるさく教える意味があるのだろうかと疑問に思い始めた。中学から異動になってきた数学専攻の教員に質問したら『全く意味がない』と言われて、やっぱりそうかと思い、それからあまりうるさくいうのはやめた」とのこと。

その教員によれば、以前より学校現場が忙しくなっていて、教員同士が飲みに行ったり、雑談することはほとんどなくなってきていると言うことです。

「指導書にはそう書いてあるけど、あくまで掛け算の意味を理解させるのが主旨だから、それを理解している生徒にはそんなにうるさく言う必要はないんだよ」とか、そういう同僚からの助言がかつてはあったのが、なくなってきて、

それで、指導書通り杓子定規に教えるような事が増えているのでは、と推測しています。

私自身は高校生に教えることが多いのですが、理系の生徒ですら、解法や公式を覚えて当てはめるのが数学と思いこんでいるのが現状です。

私としては、試行錯誤して色々考えるのが数学の面白さだと思うし、正解・不正解は、教員の示した手順に従っているかどうかではなく、数学的整合性があるかないかで判断されるべき、と考えるので、

教条的な教え方に対しては、批判していきたいとは思っています。

なんども失礼しました。

投稿: 積分定数 | 2009.07.25 09:32

積分定数さん。
おはようございます。
コメント拝見しながら、
随分以前のことですが、センター試験のための模擬試験を塾で作成したことを思い出しました。
私は生物が専門です。
それで生物。選択肢を考えるのが大変でした。
ツラツラと見ると、センターより共通一次の方が良問は多かったように思ったものです。
そして、
友人は数学だったのですが、、、
いつもぼやいていました。
「日本の教育をダメにしているのはマークシートで数学の入試問題を行うことかな???」と。
もちろん、二次で筆記のある大学も多いのですが、
マークだけの学校もあるし、さらにこの頃は少子化でますます大学は学生集めのために敷居を低くする必要があるため、易しい問題が多いようですね。
と、言うかあなたが言われる「数学の美しさ」「醍醐味」を感じることがないまま通過するという「もったいない」状況を思い浮かべました。

先に書いたように私は「理科」担当ですが、
これまた「苛められて」いますよ。学校教育の中で。
うううううう〜〜〜んと、いつも唸っています。
以前「相対主義的な理科教育」と言うエントリーを挙げたことがあります。
http://ts.way-nifty.com/makura/2007/02/post_4610.html

もしお時間がおありでしたら、またご覧ください。
このときの提言は、改正されたと山形大学のapjさんと言う先生からその後おしえていただいたのですが、
やはり現場はドラスッティクには変わらないようです、、、
と、言うことで、
いろんなところで「教育」の問題が噴出しています。
これからも、しっかりと見ていきたいと思っています。
数学に関して、またいろいろご教示いただけたらと思います。
ではまた。

投稿: せとともこ | 2009.07.25 11:47

生き物は好きですが、高校時代「生物」は受けていない(理科は2科目しか選択できなかった。)状態で、今勉強中ですが、覚えることが多くて、大変です。遺伝の計算は得意ですが。

そんな状態なので、センター「生物」に関しては良問か否かを判断する能力はないのですが、

「物理」に関しては、私自身が高校時代、共通一次の過去問をやっていて、「これは公式暗記では解けないいい問題だな。こういう問題が出てくれれば有り難いが、最近のは易しい問題ばかりだな。」と思った記憶があります。実際、私自身が受けた問題は易しい問題でわからないところはなかったのですが、うっかり定常波の波長を、節から節までの長さとしてしまい、それに関連した問題がほとんど間違ってしまい、100点満点のつもりでいたのが80点台でした。

センターではさらに優しくなっている印象です。

実は毎年、正規に手続きしてセンター試験を受けています。

「数学」も易しいのだけど、時間に対して問題量が多いので、じっくり考えると言うよりは、「どんどんこなしていく」となりがちです。理系である程度勉強していればわからない問題はないので、結局、ミスの有無で点差が生じることになる。

穴埋めで、一つ目の解答が違うと、それ以下の考え方がわかっても、芋蔓式に誤答になり、途中で解答の桁が合わなくなって、「あれ?どこでまちがえたかな?」と見直しているうちに時間がなくなってしまいます。

記述式なら採点者は、「計算ミスしているけど、考え方はちゃんとわかっている」と判断してくれるのでしょうが。

東北大学の教授が、センターと2次の数学の点数の相関関係を調べたところ、他の科目より相関関係が薄かったそうです。

つまり、センターが低くても2次が高いとか、あるいは逆のケースが頻繁にあった。他の科目ではこういうことはないらしい。

私は、センター数学は、数学の力を測るものではないと思っています。

試行錯誤してじっくり考えることが数学の面白さだとは思うが、それを試験で測るのは無理だということはわかる。

しかし、現状のセンター数学は改善されるべき。

「基礎的力を見る」という主旨なら、例えば、

本当に基礎的な問題だけを、しかも芋蔓式の誤答をしなくて済むように単発で出して、
「得点率6割以上で2次受験資格を得られる」というような、資格試験にしてほしいです。

センターのみで受験できる大学の姿勢にも疑問を感じます。入試問題は、「こういう力を持っている人に来てほしい」という大学から受験生に向けてのメッセージでもあると思う。

下らない問題出すところなら「しょせん、その程度か」と思うし、良問を出すところなら、「おっ!」と思うわけです。

それを入試センターや予備校に丸投げするというのは、どうなんだろうとは思うが、大学も大変だから手間暇かけたくない、というのはそれはそれで理解できる。

投稿: 積分定数 | 2009.07.26 07:45

積分定数さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

こちらは毎日暑くてダレッとしているのですが、
西日本の大雨が心配です。

さて、
積分定数さん。
本当におっしゃること、同意です。
「私は、センター数学は、数学の力を測るものではないと思っています。
試行錯誤してじっくり考えることが数学の面白さだとは思うが、それを試験で測るのは無理だということはわかる。」

御意。
マッタク同感。


「下らない問題出すところなら「しょせん、その程度か」と思うし、良問を出すところなら、「おっ!」と思うわけです。」と書かれていますが、
私も以前「本当は面白い入試問題」と言うエントリーで、京都教育大付属高校、東大寺学園、そして京都大学の入試問題を取り上げたことがあります。
このような問題をみると、
うれしくてブルブル震えます(男性なら武者ぶるい???)。
受験生と出題者がお互いにプライドを掛けて、
挑戦しあっているようで、本当にブルブルします。
私も、赤本で過去問をいっぱい勉強したはずなのに、、、(なにしろ神経痛になるくらい二次試験の勉強でボールペンを握っていました)
が、本番。
ウワッ====
こんな問題出すかよ、ブーブー。
と、いいながら諦めて帰宅したことがあります。
このとき、他の受験生も出来なかったのか?
なんとか滑り込んだのですが、、、
ふっ====

今思いだせば、
やはり鍛えられた分、いろんな問題に対応できるようになったと自分では思っています。
なによりも粘り強くなりました。
簡単な問題やマークになれると、反射神経はよくなるのかもしれませんが、
さてさて、どうなのでしょうか???

いずれにしても、
入試のシステム、問題だらけですね。

なお、余談ながら、今大学でもう一度勉強していることは「分子進化」です。
もう、頭が化石状態の私には、かなりキツイ講義で、
いつも落ち込みながら帰宅。
やれやれ、、、とため息ついています。
「生物」の、その生存をかけて、健気に生きてきた様を思うと、小さなことでは悩まなくなります。
尤も財布の中身にはいつも悩まされていますが、、、

と、言うことで、
まだまだ知りたいこと、やりたいことだらけで、
中途半端な私ですが、
子どもたちには「学ぶこと」を伝えていけたら、、、と願っています。

また、いろいろ現状についてお話できればと思います。
これからもよろしくお願いいたします。
では、またね!!!

投稿: せとともこ | 2009.07.27 11:57

ちょちょんまげさんの件のエントリに、この欄での議論に関係してコメントを書きました。
よろしかったら、ご意見を頂戴したいと思い、お知らせしました。

投稿: さつき | 2009.07.30 01:13

さつきさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
先日もお返事で書いたように、
あなたのブログ、この頃拝見しています(*^-^)

誤字障害、興味深く拝見しました。
ブロードマンの脳地図を思い出しながら、読みました。
以前、聞いた話しで「耳からの情報と目からの情報」についてというものがあったのです。
耳は情報が入って処理する部位がすぐそこにあるが、
目は後頭葉だから処理に時間がかかる、、、云々と言うものだったと思うのですが、
なんとなく思い出していました。


さて、ちょちょんまげさんのところでのあなたの直近のコメント、拝見いたしました。

「「1あたりの数×いくつ分=全体の数」でも「いくつ分×1あたりの数=全体の数」でもどちらでも良い訳ですが、1あたりの数を先に書きなさいと教えたら、ちゃんとそれを先に書いているかどうかでチェックできるだけである、という事ですね。 」と、とても明快に要約していただき、「そのとおり」と思いました。

なお、遠山啓は、私もすごく勉強しました。
本当にシステマティックに算数と数学を語ってくださり、
私の混乱した頭は配線が繋がったように思ったものです。
と、言うことで、これからも、いろいろエントリーを挙げてくださいね。学ばせていただきます!!!
では、またね。

投稿: せとともこ | 2009.07.30 14:48

お返事ありがとうございます。しかし、真意が伝わらなかったようです。遠山啓をご存じでなければこの話題をこれ以上続けるつもりはなかったのですが、ご存じとのことなので、少し長くなりますがお付き合い下さい。

実は、遠山啓は、かけ算の順序を固定することに、いかなる場合においても、理論的にも、そして「水道方式」にもとづく教育上の観点からも明確に反対していたのです。彼の著作集『量とは何かI』(太郎次郎社1978)の「II-外延量と内包量」の章に、「6×4、4×6論争にひそむ意味」(p114-120)という特別の節を設けて6ページ半に渡り詳述しています。その一部は、ちょちょんまげさんのところのコメント欄に書いた通り、『水道方式とはなにか』(太郎次郎社1980)においても、繰り返し述べられています。

それは、1972年1月29日の『朝日新聞』に小学校のテストをめぐって、今ネット上で議論されているのと全く同じ論争がのったことがきっかけになっています。この時の問題は「6人のこどもに、1人4こずつみかんをあたえたい。みかんはいくつあればよいでしょうか」というもので、6×4=24と書いた子どもが何人かいて、その答案は、答えの「24こ」にはマルがつけられ、式の「6×4」にはバツがつけられ、「4×6」に訂正されていて、これに疑問をいだいた親が、文部省にも質問状をだして論争がまきおこったとのことです。
まず、要点にかかわる部分を遠山の著作から引用しましょう。

「この問題の答えとして、4×6だけが正解であり、ほかを誤りとする理由はどこにもない。もともと算数の考え方は一通りしかないと思いこむのがおかしいので、多種多様な解き方があってよいのである。
ミカンを配るのに、トランプを配るときのやり方で配ると、1回分が6こ、それを4回くばるのだから、それを思い浮かべる子どもは、むしろ、
  6×4=24
という方式をたてるほうが合理的だといえる。」

つまり、そもそも、4と6のどちらを「1あたりの数」とするかは、考え方次第であって、固定できないという主張です。

ウサギが3羽いる時の耳の総数をかけ算で求める時に、耳が1羽あたり二本ずつと考えても良いし、左耳が3本、右耳が3本と考えても良いとしているのも、「1あたりの数」を2としても3としても、どちらでも良い理由として書いています。

実際には「左耳が3本、右耳が3本」と考える子供はごく少数でしょう。しかし、それが、個々の問題でどのような割合になるかは、私に言わせると、設問の言葉の表現にどれだけ引きずられたかの違いに過ぎません。

遠山啓は、この問題は、教室の中に並べられている机の数を計算するのに、縦の列×横の列でも、横の列×縦の列でもどちらでも良いのと同様であると書いています。ミカンの個数を求める問題が、実は人そのものは無関係で、人の前に縦4列・横3列に並べてあるミカンの個数を求める問題と同質であることを分からせることの重要性を説いている訳です。人は、その縦の列の前にラベルとして着いているに過ぎず、本質とは無関係です。

遠山は「交換法則はまだ教えていないから、それを使ったのはバツだなどというのは、教える側の得手勝手にすぎない。交換法則など子どもが自分で発見することはいくらでもあるのだ。」と書いています。また、助数詞についても、「子どもはネコ1匹と紙1枚というものは1対1対応がつくとじゅうぶん知っているはずなのです。」と書いて、算数では助数詞を排すべきと主張しています。算数や数学でも、言葉そのものが、要らぬ混乱を招く元になっていることに注意深くあらねばならないということです。

積分定数さんが度々持ち出された、かけ算における対称性は、設問の言葉の表現をはぎ取った後の抽象的な概念理解へ到達する道筋としても重要です。理解が進んだ後で捨て去るような、本質から離れた嘘も方便式の概念で教育するのは、その本質の理解へ至る道筋としては却って良くないというのが、遠山啓の「水道方式」の核心にある考え方です。この考えは正しいと思いますが、いかがでしょうか。

投稿: さつき | 2009.07.30 21:49

さつきさん。
コメントありがとうございます。
では、早速いただいたコメントについて私の考えを書きます。
まず「真意」についてですが、
ちょちょんまげさんでなさったコメントについて、私は、どのようにお返事したらいいのか、、、実は迷っていたのです。
私宛てなら、ここで書いてくださると思うし、
ちょとんまげさんのコメントの後半は、
積分定数さんへの呼びかけなのかと思い、前半のみにて失礼をしたわけです。

と、言うことで、「真意」を量ることができなかったのですが、ここで改めてコメントをいただけて真意に少しは迫ることが出来たらと思います。

では、遠山さんにいきましょう。

遠山啓や銀林浩の本、そして数学協議会の学習会に参加して随分と現場での算数教育について話しあいました。
そこで交換されるのは子どもたちの新鮮で思いもつかない発想に、びっくりしたり感心したりと言う経験と、
どのようにしたら子どもたちに算数を定着させることができるか、という事です。
もちろんタイルを使ったり、折り紙をつかったりとしながら、いろんな学年の子どもたちの時々の課題に取り組みました。
さつきさんは、コメントで「遠山啓はかくかくしかじか」と書かれています。
私たちも、それは参考にしています。
が、
が、
現実の子どもたちの壁はさまざまで、その対応もさまざまなのです。
確かに積分定数さんが言われるように、そしてあなたが言われるように、
「数の本質」を考えるならば、
a×b=b×a、に拘ることはないのです。
しかし、
先に書いたように、割り算がでてきたとき、
掛け割図(ご存知ですよね)で教えることで、子どもたちの理解が速やかであることを私たちは経験で知っています。
単位量あたりといくつ分をしっかりと理解していないと等分除、包含除に戸惑う子が続出です。
学習会でも「単位量あたりといくつ分」については、
しっかりと定着させる必要を確認しあっています。
また1対1対応について、
これを理解出来る子はすぐに出来ますが、
躓く子もいっぱいいるのです。
初めに書いたように「おはじきならわかるが、具体的なものだとわからない」とか、よく言われるのは「男の子5人、女の子3人、差は?」と言う問題で、「男の子からどうして女の子がひくことができるか」と真剣に悩む子がいるとかとか、、、
現場の経験は山ほどあります。
笑い出すようなことがいっぱいです。
でも子どもは本当に真剣です。
遠山さんが1対1対応云々から派生して「交換法則を子どもたちが理解していないとして、掛ける順番に拘るのはいけない」と言われたとしても、現実は子どもの反応をみながら、進めていきます。
数教協は、交換法則とか云々ではなく、しつこく言っていますが「単位量あたり」の定着に拘ることを最初に子どもたちに教えていきたいと思っています。


さて、「算数では助数詞を排すべきと主張しています。算数や数学でも、言葉そのものが、要らぬ混乱を招く元になっていることに注意深くあらねばならないということです。」と遠山さん書かれいるとのことですが、これはそうとは限りません。
分数が出てきたとき、ご存知とは思いますが、
量分数と割合分数があります。
プールの水1/2とプールの水1/2L
は、明らかに違います。
これは「単位」をもっていして、分かることですよね。
単位を排除してしまうとグチャグチャというか、教師もわかりません。
これは、先に技術開発者さんも書かれているように「単位」、この場合はml,mmなどの助数詞ですが、
これは絶対必要です。
数学の世界では、そうであっても、物理や化学、生物、地学では必要なのですよね。
積分定数さんが、ちょちょんまげさんのところで、どなかたに「運動量」について書かれていましたよね。

「でも、質量×速度という値が、意味を持つから運動量が定義されているのですよね。
質量1と速度3  質量3と速度1 これらは「何か」が等しい。具体的には、静止したある物体にぶつけてそのあとその物体と一体となった場合の速度は、前者も後者も等しい。
つまり、運動量という物差しで見たら「同じ」。
かけ算の順序を持ち出さなくても、
「形が違っても、面積が同じ」とか、「材質が違っても、質量は同じ」など、
「全く同じというわけではないが、ある物差しで測れば同じ」ということは、よくありがちだと思う。 」

ちょちょんまげさんのところでの積分定数さんのコメント。
これは数学では正しいのですが、
物理では、問題にするのは運動エネルギーだから、
両者は明らかに違います。
数学的に正しくても、自然界はそのファクターだけで動いているのではないから、
「単位」についての理解を教えていくことは重要だと私は思っています。
積分定数さんがいみじくも言われているように、
「全く同じというわけではないが、ある物差しで測れば同じ」ということは、よくありがちだと思う。 」と言う、その物差しこそがここで言う単位であり、助数詞です。
これについては、
私は理科専門なので、子どもたちにも理科実験を指導します。
板倉さんの「仮説実験」の応用をしていますが、
「仮説」と「結果」は容易に結びつかないことを通して、子どもたちに「自然の法則」を教えます。
その折は、いつでも具象が先行です。
私は算数においても、
助数詞がいたずらに混乱を招くとは思いません。
むしろ、具象と抽象の橋渡しではないかと考えています。


「積分定数さんが度々持ち出された、かけ算における対称性は、設問の言葉の表現をはぎ取った後の抽象的な概念理解へ到達する道筋としても重要です。理解が進んだ後で捨て去るような、本質から離れた嘘も方便式の概念で教育するのは、その本質の理解へ至る道筋としては却って良くないというのが、遠山啓の「水道方式」の核心にある考え方です。」
とさつきさんは書かれていますが、
かけ算の対称性というのは交換法則可能ということだと思うのですが、
いずれベクトルや行列を学んだとき、
a×b=−b×a である、
ことなどからその機能を考えた場合、
掛ける順番が違うと結果が違うことを知っているではないですか。

理解がすすんだら捨て去るというよりは、
かけ算導入時には「単位あたり」の概念の定着。
文字式導入で交換法則、、、
そして、複素数で数の広がりなどなどを教えていくことが大切だと思います。


さて、気になるのは「本質を離れた嘘も方便」と言われますが、
かけ算の順番、と言おうか「単位量あたり」に拘ることが嘘なのでしょうか???
私は嘘とは思いません。
アプリオリに「掛ける順番」を間違えるな、と言っているのではないのです。
その意味を教えているのです。
嘘を教えていませんが、、、


と、言うことで、さつきさんの真意に迫ることができたかどうかはわかりませんが、
一つ言えることは、
子どもたちに柔軟な対応をしていく中で、
子どもの到達をみて行くとき、
「あのエライ先生がこう言った」は無関係では、と私は思うのですが、、、もちろん指針ではありますが。
現場は多種多様です。

もしお時間があり、ご迷惑でなければ以前の記事をご覧ください。(学問のカテゴリーに以前の記事があります)
http://ts.way-nifty.com/makura/2007/10/post_bc7a.html
http://ts.way-nifty.com/makura/2008/02/post_e61d.html
http://ts.way-nifty.com/makura/cat383343/index.html
http://ts.way-nifty.com/makura/2008/01/post_13ee.html
http://ts.way-nifty.com/makura/2004/07/post_29.html
http://ts.way-nifty.com/makura/2005/04/__2a39.html


では、またご意見おきかせください。

投稿: せとともこ | 2009.07.31 10:59

>物理では、問題にするのは運動エネルギーだから、
両者は明らかに違います。

済みません。「両者」というのは、質量1速度3 と質量3速度1ということでしょうか?

運動量としてみたら「同じ」で、単位は両方㎏m/s^2 ということですよね。

運動エネルギーでみたら、前者は9 後者は3で違います。
質量1速度3 と質量9速度1 なら等しい。

ということだと思いますが。

投稿: 積分定数 | 2009.07.31 11:50

せとともこさんご自身は色々工夫されて、教えられているかと思います。

ちょちょんまげさんのところにも書きましたが、

理解力がない子が一生懸命考えて、4人に3こずつ蜜柑を配る具体的情景を思い浮かべ、「各自に1個ずつ、・・・で、4が3つだ。確かこれは、4×3とするんだな」と考えて、4×3にする。

ということもあり得ると思いますが、せとともこさんであれば、「順序が違うから」とバツにすることはないと思います。

ただ、順序に異様に拘る教師は実際いるわけです。ネット上で見つけた事例をいくつか挙げました。それに対して、せとともこさんは

>当該の問題は現場の教師は、
「順番」に拘っていたのではなく、「1あたりの数、いくつ分という概念の定着」に拘っているものと考えます。
(教え方は教師によりさまざまですが、、、)

と書かれていたので、「擁護している」と思えたのです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q121569682
↑このような問題だとか

長方形の面積を横×縦でバツ

とか、素朴に疑問に思うし、それが「単位あたりの量」の概念の把握につながるとは思えないのですが。


例えば、「かけ算に順序は関係ない」ということを熱心に指導する教員がいたとして

「文章題を掛け算を解くときには、片方の順序に偏らないように。(1つ分)×(いくつ分)と(いくつ分)×(1つ分)を半々の比率で書くように」

と指導していて、(1つ分)×(いくつ分)と(いくつ分)×(1つ分)が同数でないと減点したとします。

これに対して順序否定派の私でも

「この教員は、掛け算に順序が関係ないことを教えたかったのだと思います。文字式を習えば、かけ算の順序は関係ありません。かけ算の順序を、(1つ分)×(いくつ分)としか捉えられないと、文字式でわからなくなってしまいます。」

とは言いません。「そんな教え方、ナンセンスだ。」と言うでしょう。

そもそも私は、(1つ分の数)と(いくつ分の数)の区別自体が不可能という立場なので、「両者を半々に」という指示自体がナンセンスという立場ですが。

なお、(1つ分の数)と(いくつ分の数)の区別自体が不可能という立場だからといって、「時速とは1時間あたりの距離」という意味を軽視するということではありません。

投稿: 積分定数 | 2009.07.31 12:30

お返事ありがとうございます。
遠山啓をもってして、この問題に迫るのに6ページ半を要した訳ですから、私は、遠山の思想をご存じでない方に、この問題で何かを主張するつもりはありませんでした。少し気力が失せていますが、私の真意は次の通りです。

1)「6人の人にミカンを4個ずつ配りました。ミカンは全部で何個配られたでしょうか」
2)「6人の人にミカンを1個ずつ配りました。これを4回繰り返しました。ミカンは全部で何個配られたでしょうか」

1)の問題では、多数の子供は、「1あたりの数」は4であると決めつけるでしょう。しかし、2)の設問に文章を変えると、「1あたりの数」、つまり、「1回あたりの数」は6であるとするのが自然です。

当然ですが、1)では配り方を特定していないので、2)のような配られ方を排除していません。子供達の中には、1)の問題を読んで、2)の配り方を想定する者も居るでしょう。つまり、どちらが「1あたりの数」であるかは自明ではないということが、この問題の核心なのです。

その時、2)を想定して6×4 の式を立てた子にバツを付けると、その子は教師不信、算数不信におちいる、というのが、遠山が6ページ半を費やした動機です。その子に「出来ない子」というレッテルを貼ることのできる合理的な理由があるなら、なるほど、せとさんの仰る方法論は有効かもしれません。

それから、助数詞ですが、Wikipediaの「助数詞」をご覧下さい。そこには物理単位のことは一切出てきません。遠山が主張したのは、このWikipediaの解説と同じ意味での、物を数える時に何を数えているかを明らかにする読みとして付ける、欧米の言語には存在していない「修飾語」のことです。これは、物理学等で用いる「単位」とは似て非なる物で、それは、彼も想定していませんし、両者の混同は、やってはいけないことです。
遠山はウサギの数え方を「匹」と書いていますが、正しくは「羽」です。しかし、これを間違えたからといって、本質的な誤りとは言えません。もちろん物理単位を間違えたら本質的な誤りです。その違いを理解した上で、助数詞は廃すべきと言っている訳です。

算数を教える際の水道方式というのは、私は大変優れた教育方法だと思います。遠山の実践の中から、それまで「できない子」、「出来る子」とレッテルを貼られて教育方法の面で「区別」されていた両者を、共に共通の土俵で教えることのできる合理的な方法だと思うからです。確か遠山は、これまでの方法は、上野駅から新潟駅へ行くのに、一旦、東北方面行に乗って、大宮で乗り換える方法であって、大宮で迷う人が大勢いた。しかし、水道方式は、最初から新潟行きに乗る方法であると書いていたと思います。今では例として不適切かもしれませんが・・・

投稿: さつき | 2009.07.31 13:12

積分定数さん。
さつきさん。
コメントありがとうございます。

積分定数さん>
私の基本位置は先にも書いたように数の本質という意味では、あなたと同じです。
また、あなたがいろいろご提示くださる現場の教師を擁護するつもりではないことも先に書いたとおりです。
したがって、頂いたコメントについて、私が答えることのできるものは答えますが、推測や想像しかできないことは、明確には答えることができません。

さて、今日いただいたコメントでは、
まず物理のことですが、これは両者は「質量1と速度3  質量3と速度1」のことを指しました。
運動量という意味では両者は等しいが運動エネルギーでは両者は違う、と言うことです。
その違いは物理学のフィールドになりますから、
ここでは「単位」と言う意味を次に導くための導入部分ですので、これ以上は説明いたしません。

次に頂いたコメントは、とくに異論はありません。
現場の教師のアレコレでは、私も疑問だらけなので、共感しているものだとは、以前も書きましたが、
今日もマッタク同じです。


さつきさん>
「遠山啓をもってして、この問題に迫るのに6ページ半を要した訳ですから、私は、遠山の思想をご存じでない方に、この問題で何かを主張するつもりはありませんでした。少し気力が失せていますが、私の真意は次の通りです。」

と言うことで頂いたコメント。
ううううう〜〜〜ん。
真意をお教えいただきありがとうございます。
が、
私としたら、このコメントにどのように反応していいのか???
悩みます。
私も先に書いたように、遠山啓、銀林浩、また森毅以下多くの数学者の思想は勉強したつもりだったのですが、、、

まぁ、それはそれとして。
私は、「柔軟に教える」ということを何回も書いています。
私の場合は、
遠山啓の例のような場合に遭遇はしたことがないのですが、もし、そのように考える子がいたとしたら、
それはそれで、その子から聞き取りをして(と、言うか、いつも聞き取りをしています)、
その上で、かけ算の定義として最初に教えた「単位量×いくつ分」に立ち戻ります。
頭ごなしにその子の考えを否定するという愚はおかしません(どんな問題にたいしても、一緒に解法を考えています)。
ただ、
それが積分定数さんが言われるように現場で無批判になされているとしたら、それはそれで問題です。
私が現実の場でそうした場面や教師に遭遇したら、学校に申し入れて「一緒に勉強会」をという設定をします。
現場は忙しいと思いますが、
一人でも二人でも教師が来てくれます(実際、総合学習導入では何回も現場の教師と意見交換しました)
さて、
あなたが真意と言うことで例を挙げてくださった「ミカンの配り方の二通り」ですが、
私は、やはり将来を見通せば、
「単位あたり」の指導は行うという立場です。
遠山さんと違います。

何回も書いているように、
いずれぶつかる分数や割り算に関しての見通しという意味でです。
かけ算導入時にしっかりと教えておくことが、
理解が遅い子の劣等意識へと繋がるとは思いません。
それよりは、
曖昧にしたまま、割り算に突入したら、
算数ぎらいの子が出てくる可能性が多くなるのは、
アンケートが示しています。
子どもたちは割り算で算数が嫌いになる割合が高いのです。
分数になるともっと増えます。

ただ、先にも書いたように、
この概念を理解することが目的であって、順番は手段です。

次にあなたは、
「遠山はウサギの数え方を「匹」と書いていますが、正しくは「羽」です。しかし、これを間違えたからといって、本質的な誤りとは言えません。もちろん物理単位を間違えたら本質的な誤りです。その違いを理解した上で、助数詞は廃すべきと言っている訳です。」と書かれています。

ならば、私も遠山啓と同じ考え結論は反対です。
「物理単位を間違えたら本質的な誤りです。その違いを理解した上で、助数詞は必要と」
しています。

「羽」「匹」が決定的だとは私はなにも申していませんが、、、、
それこそ、遠山啓が言いたかったことは違いますので、
私は、さらに自然科学をみとおして、数学の立ち位置を述べたのです。
今、生物の分子進化を学んでいますが、
統計がバリバリにでてきます。
数理生態学です。
あらゆるところに数学が応用されている今、
「数学の美しさ」とともに、
「科学」としての数学をみていくことが肝要です。
そのためには「単位」(羽と匹ではありませんよ)の定着は必要です。


さて、水道方式。
ううううう〜〜〜〜ん。
実はこの方法も「あう子」と「あわない子」がいるんですよね、、、
絶対ではない。
と、言うのが私の経験です。

さて、それはそれとして。
さつきさんは、
「算数を教える際の水道方式というのは、私は大変優れた教育方法だと思います。遠山の実践の中から、それまで「できない子」、「出来る子」とレッテルを貼られて教育方法の面で「区別」されていた両者を、共に共通の土俵で教えることのできる合理的な方法だと思うからです。」
と最後に書かれていますが、
何も水道方式だけが理解している子と今はまだ理解していない子のレッテル貼りを覆したものとは思いません。
もちろん、
目からうろこの経験をした子もいると思いますが、、、
なんというか、
レッテル貼り云々ではなく、
数学的思考の準備、論理の構築としての考え方という意味で捉えていた私ですが、、、
これは、
遠山の思想とは違うのでしょうか???


いずれにしても、
さつきさんが遠山の水道方式の素晴らしさを語るように、
今、現場の子どもたちを前にして、水道方式ではないが、
いろいろ工夫している教師もいっぱいいるのです。
どうか、それだけはわかってください。


なお、
もともとの問題に立ち返るならば、
私はやはり「単位量あたり」「いくつぶん」にはこだわります。
連続量や分離量を理解するためにも。


と、言うことです。
お忙しいところ、気がのらないにも関わらず、
コメントいただけて、嬉しく思いました。
では。


投稿: せとともこ | 2009.07.31 14:02

せとともこさん、
長々とお付き合いいただき、大変ありがとうございます。
いずれ私のブログでも取り上げようと思いますので、最後に二点だけ確認させて下さい。

まず、前回例示した
「6人の人にミカンを1個ずつ配りました。これを4回繰り返しました。ミカンは全部で何個配られたでしょうか」

この設問に対して、せとさんは、6×4の式と、4×6の式のどちらがふさわしいとお考えでしょうか。
もし、どちらかが相応しいとお考えだとして、逆の解法を用いた子供にはどのように指導されるでしょうか。

次に、
「6人に4個ずつ」のときの「人」や「個」はmlやgと同じ「単位」であるとお考えなのでしょうか?

もしそうなら、4(個)×6(人)=24(個・人)のように、答えの単位は、(個・人)としなければならなくて変ではありませんか?
もしそうなら、欧米の言語に「個」や「人」に相当する助数詞がないのをどうお考えですか?

投稿: さつき | 2009.07.31 15:04

さつきさん。
コメントありがとうございます。
私は、仕事柄楽しんで、書かせて頂いていましたので、
積分定数さんから教えていただき、開発者さんから別の観点で切り込んでいただき、あなたから遠山啓についてお聞かせいただき、懐かしく思っています。
お忙しいあなたから、ご意見をいただけると、私自身は、とても嬉しく思っています。

と、言うことで、あなたが挙げられるエントリー楽しみです!!!

では、頂いた質問について私の見解を述べさせてくださいね。

「「6人の人にミカンを1個ずつ配りました。これを4回繰り返しました。ミカンは全部で何個配られたでしょうか」
この設問に対して、せとさんは、6×4の式と、4×6の式のどちらがふさわしいとお考えでしょうか。
もし、どちらかが相応しいとお考えだとして、逆の解法を用いた子供にはどのように指導されるでしょうか。」

これについては、
そもそも「かけ算導入時の公式」から逸脱しているので、当該問題を解く児童は何年生でしょうか???
題意通りの問題なら、
6×4の式と、4×6の式でもありませんから。
かけ算が二回入る演算になりますが、、、
と、言うことで、
申し訳ありませんが、6×4の式と、4×6の式でも教えないと思います。
あえて書くなら、
題意に忠実にそって、
(1個/人×6人)/回×4回=24個ですかね???
と、言うか、多分、その問題は導入時には問題として子どもたちに提出することはないと考えます。
ただ、あなたのこの問題にたいする「真意」は別のところにあるとしたら、
つまり、子どもがそのように考えたとしたら、と言われるなら、
それは先のコメントで述べた通りです。
今回は、
「「6人の人にミカンを1個ずつ配りました。これを4回繰り返しました。ミカンは全部で何個配られたでしょうか」
と、言う設問と明らかにあなたが書かれているので、
これを「真意」と考えて、上のように解答いたしました。


次の質問に移ります。
「「6人に4個ずつ」のときの「人」や「個」はmlやgと同じ「単位」であるとお考えなのでしょうか?

もしそうなら、4(個)×6(人)=24(個・人)のように、答えの単位は、(個・人)としなければならなくて変ではありませんか?」
と書かれていますが、
此れに関しては、
すでに技術開発者さん、積分定数さん、私の間で議論ずみです。
7月22日分のコメントで、あなたと開発者さん宛てのコメントに書いてあります。
もしよろしければご確認ください。

「6人に4個ずつ」と言うことは、一人あたり4個だから、
4個/人×6人=24個となります。
当該問題では立式の4には、内包量として「一人あたり」の意味を持ちます。
「単位量あたり」とは、ある単位1にたいして、という意味です。
それは、内包量の計算すべてに当てはまります。


最後の質問ですが、
寡聞にして存じません。
ただ、ここで海外の例を持ち出すことで、私たちのテーマの本質に迫ることができるかどうかは甚だ疑問です。
問題を拡散するだけではと、私は思いますが、それでも、どうしても、と言われるなら、
先にも書いたように海外の友人に聞いておきます。
実は、この秋、あう可能性があるのです。
友人は研究者ですから、事前に知らせておけば、
具体的な例を教えてもらえると思います。
が、
これは秋以降です。
海外の単位になお、拘るようなら、お申し付けください。
これは、その後のテーマとして、温めます。


さて、本題に戻るならば、、、
まずここで改めて確認ですが、
私たちのテーマは「単位量×いくつぶん」の意味ですよね???

此れに関しては、積分定数さんのご意見に私は賛同しています。
異論どころか、学ぶことばかりだったのです。
これが、
私のこのテーマに関しての結論です。
私たちは本質を考える上では同じですが、
方法が若干違いました。しかし、それとて決定的なものではありません。
それは教える対象年齢が違うからと思います。
また、積分定数さんの「現場への怒り」と言うか不信には共感しています。
此れ以上の何者でもありません。


さつきさんからも、考えさせられるいろいろのご意見頂き、私は刺激になりました。今後の教訓として得ること大でした。
ありがとうございました。
では。

投稿: せとともこ | 2009.07.31 17:53

せとともこさん、
丁寧なお返事、ありがとうございます。

>「6人に4個ずつ」と言うことは、一人あたり4個だから、
4個/人×6人=24個となります。

このことは、読んでいたことを思い出しましたが、その時の違和感が払拭されないままでしたので、一旦失念してしまいました。失礼しました。

今、別件で少し拘っていることがありまして、そちらの話題で記事をアップすることができたら、次はこの問題、というより遠山啓のことで記事を書きたいと考えています。
その際にはまたご意見を頂戴しに伺いたいと思います。

投稿: さつき | 2009.07.31 19:08

 申し訳ありません。今夏期講習中で十分な時間がとれないので、せとともこさんから頂いた回答へのコメントを、しばらくたった後、十分時間がとれるときに、書かせていただいていいでしょうか?

 この件に関して、私自身は非常に拘って、ずっと調べたり考えたりしています。考えはほぼまとまりつつあるのですが、それをきっちり文章化するには至っていません。

 白か黒かという単純な話ではないため、時間がない中で中途半端に書くと、うまく考えを伝えられない可能性が高いと思いましたので、どうかご了承下さい。

投稿: 積分定数 | 2009.08.02 07:01

さつきさん。
積分定数さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
いつまでもハッキリしない天気ですね。
お忙しい時期ゆえ、
どうぞ、お二人ともお体ご自愛ください。

私もこの間、お二人から示唆に富むコメントを頂き、
改めて学ぶことばかりで、
とても楽しく、かつ刺激になりました。
ありがとうございます。

「真理に対して求めてやまない」姿勢を標榜していきたいと思っている私にとって、
(現実は、なかなか出来ないのですが、、、
それだけに、なおさらそうした姿勢を目的としているんです)、
「柔らかな考え」「建設的な意見」に接することは、本当に幸せです。

また、いろいろご教示いただけるというお二人のコメントをいただけて、ワクワクしています。
私も、季節柄バタバタしていますので、いつでも結構です。
頂いたコメントから、竿灯の先を一歩を伸ばすことができ、
自分の論理がさらに構築できるものと、今から期待しています。

その時は、またよろしくお願いいたします。
では。

投稿: せとともこ | 2009.08.02 11:43

 ここでのやりとりで、どうもよくわからないままになっていることがあります。で、いったんは、「まっ、いいか」と思ったのですが、さつきさんのコメントに触発されて、色々考えて、お互いの考えを出し合って、「その部分は同意できる」「その部分は意見が違う」ということを確認した方がいいかと思い直しました。

 ただ、今夏期講習中なので、今回はよくわからないことの中から1つだけ。

技術開発者さんの | 2009.07.23 17:09のコメントに関してです。

 私としては、「あれれ、そういう方向に話が行ってしまうのかな?」と思って、「そういうことではない」とコメントしたつもりですが、結局、私の主旨は伝わったのかどうなのか、その後の技術開発者さんのコメントを見てもよくわからない。「横やり」という割には技術開発者さん自身が「かけ算の順序」をどう考えているのか全く述べていないわけで、その辺もコメントの意図が正直分からないです。

■ 「理解できている子には不要」というのは、「かけ算の順序」の是非の1つのとっかかりに過ぎない。

■「出来る子とそうでない子がいて、どちらを優先するのか」ということではない(そのような議論自体はあってもいいが、かけ算の順序とは別問題)

■「理解できている子には不要」が、「理解できない子には有用」を必ずしも意味しない。

ということは、技術開発者さんやせとともこさんにご理解いただいているのでしょうか?

投稿: 積分定数 | 2009.08.05 09:57

積分定数さん。
こんにちは。
お忙しいなか、コメントをいただき、ありがとうございます。

さて、今日頂いたコメントを拝見して、実はどのようにお返事を差し上げたらよろしいのか困惑しています。
これは私宛でしょうか?
開発者さん宛でしょうか???
開発者さんは、今、大忙しだと思うので、お返事いただけるのは、まだまだ先ではと思います。


私は、私の考えしか述べることはできないので、
この間のやりとりに対して
私の「今の到達点」だけしか語ることができません。
此れに関しては、先に何度も書いた通りです。
と、言うことで、今まで答えたことではありますが、ここでもう一度私の考えを書きます。

私は掛ける順番には拘りませんが、導入時、
かけ算を「1あたりの数」×「いくつ分」=「全体の数」と定義して教えたら、この意味を理解させるために子どもたちには教え込みます。
が、
いったん理解したら、それは自転車の練習と同じで、意識しなくても理解しているゆえ、もう「しつこく」は言いません。
と、言うか、現実には、かけ算の順番だけが教育ではないので、次々の課題に取り掛かっていくゆえ、どんどん進みます、、、
まだ、理解していない子にはつき合いますね、、、定着するまで。
なお、これはある程度の学年になると忘れてしまうのですが、、、
私の教え子も小学生のときは理解していたのですが、先日聞いたところ、すっかり忘れていました。
忘れていますが、彼らは「美しいノート」系の受験はクリアしていきました。
いずれ忘れるのだから、小学生のとき、シッチャカメッチャカ教え込む必要はない、ということではないと私は思うのです。
これは基礎力として、定着するものと私は思っています。
基礎力は大切です。
この部分をしっかり教えることで、次へのステップになります。

なお、私は
「■「出来る子とそうでない子がいて、どちらを優先するのか」ということではない(そのような議論自体はあってもいいが、かけ算の順序とは別問題)」
に関してはそのような言及していないので、此れに関しては、お返事のしようがありません。


「■「理解できている子には不要」が、「理解できない子には有用」を必ずしも意味しない。」
と最後に書かれていますが、
あのぅうううう。
これも、かけ算の順番だけに限ったことではないですよね。
少なくとも、私は、かけ算の順番だけがその子の能力を測るなんていっさい思っていません。

たまたま、今回、掛ける順番云々というエントリーを見たので、
私は四則演算の意味を再確認するためのエントリーだったのですが、、、、、


と、言うことで積分定数さんの拘りと、私のエントリーの意図は、そんなに違わないと私は思っていたのですが、、、

あなたから頂いた今回のコメントの冒頭のように、
「「その部分は同意できる」「その部分は意見が違う」ということを確認した方がいいかと思い直しました。」
などと、お互いの意見を擦り合わせしなければならないほど、あなたと意見が違うとは思わないし、
ここで意見の確認をすることで得るものが何か、私には見えてきません。

より生産的、建設的な議論のために私の立ち位置を書きますので、もう一度ご確認ください。

1,現場の先生が云々と言うことは、私は当事者ではないので、はっきりしたことをお答えできません。
が、あなたのお考えには共感しています。

2,かけ算の順番には拘らないが、導入時には、定着まで指導します。この方法は掛ける順番です。
ただ、それに至まで、何回も口頭で説明します。
掛ける順番をクリアした子でも、忘れたらいつでも教えます。誰でも忘れるものです。
大切なことは理解しているかどうかです。
ゆえに、
私にとって掛ける順番をみて、子どもを判断しているのではなく、かけ算の意味について理解しているか、です。
また、それで成績の良し悪しなんて一切思いません。
理解した子は、かけ算はクリアした、という以上のなにものでもありません。

3,子どもには一人ひとり固有の壁があるので、ここをクリアしても、次の問題が出てくると、言うことで子どもとは当面の課題については丁寧にみていきたいと考えています。
その過程で、子どもたちが論理的に考えていく力が養われたら、嬉しいな、、、とは思うのですが、
現実には、なかなか難しいですね。

4,教育は柔軟なものであるゆえ、「絶対これ」、なんて思って教えていません。いつも学ぶことばかりです、、、
あなたからもいろいろ学ばせていただきました。

5、義務教育、高等教育のあり方について、多様な観点から見ていきたいと願っています。
とくに文部科学省の方針には、注目しています。

今回、あなたとの一連のやり取りでは以上です。

ではまた建設的、生産的なご意見をお待ちしていますが、お忙しいゆえ、どうぞご無理なさらないでください。


投稿: せとともこ | 2009.08.05 14:02

こんにちは、積分定数さん。遅くなってすみません。8/1までひたすら準備して、8/1に1300人の来客者をこなして8/2にひっくり返って一日すごし、8/3は一日片付けをやり、8/4に溜まりに溜まった簡単な手続きの処理をやって、やっと日常に戻るのが今日くらいと思っていたら、前に同僚に分析を頼まれたのを「8/5ならやってあげる」と先延ばしにしていた(笑)。

>■ 「理解できている子には不要」というのは、「かけ算の順序」の是非の1つのとっかかりに過ぎない。

>■「出来る子とそうでない子がいて、どちらを優先するのか」ということではない(そのような議論自体はあってもいいが、かけ算の順序とは別問題)

>■「理解できている子には不要」が、「理解できない子には有用」を必ずしも意味しない。

>ということは、技術開発者さんやせとともこさんにご理解いただいているのでしょうか?

或る程度は理解していますよ。ただ、私には積分定数さんの主張が整理し切れていない様に見えたので、横やりを入れて見た訳です。

1番目からいうと、とっかかりではあるけど、そういうとっかかりから始めたら、なかなかそこから離れられないものです。積分定数さんは或る程度から離れた議論を展開しているおつもりだろうけど、論調はそうなっていないのでね。なんていうか、せとさんもおっしゃっているけど、初学者に教える場合に或る程度、形を付けることは必要だと思っています。私は分析の初心者(もちろん大人)に分析手順を教えることがあります。「試料Aに試薬Bと試薬Cを加える」という手順において「どういう順番」と聞く人もいます。
本来、こう書いてある手順の時はどっちが先でもかまいません。順番に大きい意味があるときは「試料Aに試薬Bを加え、その後試薬Cを加える」と書くべきだからです。でも私は「書いてある順番に入れてください」と答えます。そういう癖をつけると、順番に意味がある手順を斜め読みした時でも間違えなくて済むからです。もちろん、そう教えて「どっちでも良いはずだ」という人がいたら、「癖をつけた方が順番がある時に間違えにくいから」という説明をします。なんていうか、薬品を加える事で起こる反応を良く知れば、当然順番に対して意味の無い場合と意味がある場合は自ずと分かるのですが、少なくとも私の教え方は「書いて有るとおりに入れれば良い」です。

なんていうかな、実利みたいな部分が私には強いのですよ。数学は素敵だけど、算数は便利です。化学反応は面白いしそれをきちんと理解して欲しいけど、仕事で分析する人を相手にするなら、そこまで理解が行かない場合でも間違えずに分析してくれれば良いわけです。そういう意味で「形を作る」という事を必ずしも否定しない立場にいます。教条的という部分をきちんと切り離しての上ですけどね。

2番目について言うなら、そう言いたいなら「理解出来ている子には不要」というとっかかりから議論を始めるべきでは無いと思います。私に言わせると本来、教育というのはスパイラル的で1ステップ進むたびに前に教わった部分に立ち戻って咀嚼し直すべきだと思っています。そういう教育であれば、個々のステップの「形をつくる」という事の長所短所もずいぶん軽くなるのだろうと思います。ただ、積分定数さんの議論にそういう咀嚼し直し型の教育という視点は見あたりませんので、それなら「遅い者にあわせてゆっくりやるしかないね」という意味で書いています。

3番目に関しては「形をつくる」論の不要論であり、もちろんそういう考え方があっても良いと思っていますが、私は教条的ではない形をつくるはあっても良いと思っています。積分定数さんの論で私の「形を作る必要論」はひっくり返らなかったというた゜けの事なのです。ひっくり返さなくては気が済まないということであれば、まあ、おつきあいしても構いませんが、あまり乗り気にはなりませんね。


投稿: 技術開発者 | 2009.08.05 18:20

>せとともこさん
>技術開発者 さん

 コメントありがとうございます。やはり技術開発者 さんとのやりとりはすれ違ったままだったのですね。

 うまくこちらの考えを表現することが出来ないので、もどかしいのですが、現実に小6までかけ算の順序を強要する教え方がなされていて、あたかも順序があることが当然のこととなってしまっていることへの疑問というのがあるのです。

 あと、わかる子とか、わからない子というのもの一律ではないと思います。「順序がある」という指導でわからなくなったり混乱する生徒もいるかもしれません。

 「わかる子」というのが、
「自分わかっているからこういうのは不要だけど、必要な子もいるから、先生の指示に従おう」
ということまでわかっているならともかく、

一生懸命考えて、やっとわかり掛けたのに、「順序はどっちだ?掛け算って順序なんか関係ないように思うけど、・・・」と無理に順序を付けようとして混乱する可能性もないとは言えません。

 私のいう「理解できている子」というのは、普段勉強が出来るかどうかはともかく、その場で一生懸命考えて、本質の理解が出来た子、という意味です。だから、どの子も「理解できている子」になる可能性があります。

 だから、教える側の心構えとして、「わかっている子にはこういう教え方は混乱を招くかもしれない。」というのはあっていいと思います。

 せとともこさんが教条的立場で教えているわけではないのは承知しています。あくまで、現在蔓延しているように思われる、小学校での教え方に関してです。

 私としては、「掛け算の順序って教える必要があるの?」と疑問に思った小学校の教員が、ネットで調べて、ここのやりとりでも見て考えてもらえればいいと思うのですが。

>せとともこ さん

>>「1つあたり」と「いくつ分」が本質的に区別できないものだと、積分定数さんはお考えなのでしょうか????
>原理的に両者は区別できないと考えます。
>投稿: 積分定数 | 2009.07.23 16:33

この件について、せとともこ さんはどのようにお考えなのでしょうか?

せとともこさんと私が大切にしたいことはそれほど違っているように思いません。私が批判する教条的な教え方をする教員とせとともこさんが異なることも承知しています。

その上で、ここの部分について、もしかしたら意見の相違があるかもしれません。

私は、1つ当たりと、いくつ分を峻別することは原理的に出来ないと確信しました。

もちろん、速さの問題をやるときは、「1時間当たりに4㎞だから、・・・」と考えさせます。

単位当たりの量は、大切な概念だと思うので、その都度きちんと教えます。

「1つ当たりと、いくつ分は原理的に区別できない」という立場であっても、単位当たりの量という考えを軽視するわけではありません。

投稿: 積分定数 | 2009.08.06 00:09

積分定数さん。
こんにちは。
今日は原爆記念日で、いろいろ平和について考えたりしていました。
私も一時期、広島に住んでいたので、思いは一入です。

さて、頂いたコメントの返事をさせていただきます。

「私は、1つ当たりと、いくつ分を峻別することは原理的に出来ないと確信しました。」と、積分定数さんは言われます。
が、
私はマッタク違う「もの」だと思っています。
つまり内包量と外延量ということでです。

「数」として抽出すれば、同じ数字です。
つまり「3」と言う数字、「4」と言う数字と言う意味ですが。
かけ算は「異種のもの」を掛けることで全体の量や数を導くことができる優れた演算です。
私は「1つあたりといくつ分」をかけ算導入時に教えるときは、丁寧に教える必要を感じていることは再三書いています。
そもそも「1あたりの数」×「いくつ分」=「全体の数」というかけ算の意味を小学2年生に教えるとき、
いきなり、公式ということはありません(学校の現場で、ということですが)
教師はいろんな工夫をします。
それこそウサギの耳だったり、
お皿の上のリンゴだったり、
車のタイヤだったり、、、
いろいろ具体的なものを並べたり、板書したり、子どもたちに探させたり、、、という過程を踏みます。
、、、、、、、、と体験をさせます。
そして、いってい、子どもたちが「1あたり」という考え方に慣れたあと、いよいよ「いくつ分」にもっていきます。
たとえば
「一皿にリンゴ3個がのっていて、そんな皿が4枚」と言うタイプの問題になるのですが、
この段階では子どもにとって
「リンゴ」と「皿」がなぜ掛けることができるか、
不思議です。
これは大人だって、すぐには答えることはできませんよね。
小学校かけ算導入時の子にとっては、それは本当に不思議です。
そこからが教師の工夫です。
実際、目で見ることで答えは12個であることを承知させること。
一皿のリンゴと言う意味をキッチリと教えること。
皿の枚数という異種の「数」を掛けることができること。などなどを指導していく中で公式が出てきます。
こうして「1あたりの数」と「いくつ分」が出てくるのです。
仮に「いくつ分×1あたりの数」と順番を変えてもいいのですが、教える手続きとして「1あたりの数」をまず子どもたちに納得させる必要があるので、公式の順番はこのようになったのかなぁ、、、なんて一人で思っています。
いずれにしても、
子どもは、この段階では「内包量」「外延量」の意味なんて知る必要はありません。
が、
指導する側は、「1あたりの数」×「いくつ分」=「全体の数」は内包量×外延量であることを理解している必要があります。
一般に内包量というと、速さや密度、濃度のような「割合」と結びつけますが、
かけ算の「1あたり」も内包量です。
こうした教育をしっかりと受けていないと、大人になって、さつきさんが先に提出されたような疑問が出てくるのです。

「6人に4個ずつ」のときの「人」や「個」はmlやgと同じ「単位」であるとお考えなのでしょうか?
もしそうなら、4(個)×6(人)=24(個・人)のように、答えの単位は、(個・人)としなければならなくて変ではありませんか?」
と言うような意見です。

同じような質問は、
子どもたちが授業中にバンバンと手を挙げて聞く、実に素直な質問です。
が、、、
「1あたり」の意味を理解していない最たる質問です。

この疑問は何もさつきさんに限ったことではありません。
多くの方は意識せずかけ算をして、中学生以上で交換法則を学ぶ頃には、すっかり忘れ去る「意味」なので、普段は問題がありません。
が、じつは、これこそが「基礎学力」なのですよね。
算数、数学は積み重ねの学問なので、
基礎をしっかりと意味をもって理解しないと、次の段階へ進むのは大変でなのです。
段階を丁寧にふまえていかないと、壁にぶつかったとき、
躓きがどこにあるか、検証できないんですよね。

ただ、さつきさんの名誉のために言うなら、
この質問の背景は「助数詞」と「単位」を話題にしていたから、誤解なさったのでしょう。
私が、もっと丁寧に助数詞は分離量に、いわゆるmgなどの「単位」は連続量にと説明を書けば良かったのですが、
遠山啓信奉者とご自分で言われていたので、算数の造詣が深く、遠山の真骨頂ともいうべき「量」の捉えかたを理解していると思ったので、
言わずもがなか、と思い「自然科学」の方に話しを振ったので、多分 混乱なさったのです。
話を拡大させた私の責任です。


さて、それはそれとして、
この意味するところは何か?

遠山信奉者と自ら名乗り、よく算数の意味を理解している方でさえ
「1あたり」の意味をヒョッコリと誤解なさるのです。
つまり、
子どもをおいてをや。
です。
この質問が出たとき、私はますます、
子どもには、しっかりと丁寧に教えていく必要を感じました。
ただ、
これはかけ算導入時であること。
「意味」の定着を図る、と言うことであって、
意味が分かっている子には、いつまでも「しつこく」言わないことは先に書いたとおりです。

と、言うことで私は
「1あたりの数」と「いくつ分」は算数の中ではまったく別のものだと考えています。
それは、
小数と分数がまったく別の概念から生み出されたことや、
数と量が無限に対してマッタク正反対であることや、
などなど人類が「数」を獲得して開発してきた歴史をひも解くほどに感じています。

投稿: せとともこ | 2009.08.06 14:29

こんにちは、積分定数さん。

>うまくこちらの考えを表現することが出来ないので、もどかしいのですが、現実に小6までかけ算の順序を強要する教え方がなされていて、あたかも順序があることが当然のこととなってしまっていることへの疑問というのがあるのです。

厳しい言い方になりますが、表現出来ないのは表現の問題では無く自己解析の不足だと思います。上の文にしても、「順序の強要」を問題にされていますが、それは順序があるのが問題なのか、それとも強要されることが問題なのか、両方が問題だとすると、どの程度比率で問題の力点はどちらにあるのか、まずご自身が自分の持つ問題意識を明確化されるべきだろうと思うわけです。

なんていうか、私は最初から「現代の教育の抱える普遍的問題」という意識があります。歴史的に言うと教育の基本は「個別教授」なんですね。江戸時代の寺子屋など、非常に雑多な児童を教えている訳で、今のような教壇で先生が一斉に教えるという形では無いわけです。タイムシェアリングシステムではありませんが、寺子屋の師匠が児童の前に腰を下ろして、その子にあった教え方をし、そして次の子の前に行く訳です。或る子にはひらがなを教えて書き取りをさせ、別な子には漢字を教える訳ですよ(笑)。

もちろん、その当時は日常生活に必要な読み書きとか計算を教えれば良かった訳で、今と違って教える内容がはるかに少なかったからできた訳です。今はそういう教え方をするのは難しい訳です。ただ、教壇に先生がたって一斉に教えるという教え方そのものが、歴史的には非常に新しい方法だという事は理解しておいてください。

投稿: 技術開発者 | 2009.08.06 15:14

>技術開発者さん

>上の文にしても、「順序の強要」を問題にされていますが、それは順序があるのが問題なのか、それとも強要されることが問題なのか、両方が問題だとすると、どの程度比率で問題の力点はどちらにあるのか、まずご自身が自分の持つ問題意識を明確化されるべきだろうと思うわけです。

「交換しても同じだということが理解された後は、順序は拘ることはない」という立場です。

これには異論がある人もいるのはわかるし、掛け算を教えてしばらくは順序が重要であるという意見も、私とは意見は違いますが、理解は出来ます。

 しかし、「順序が違うから」ということで減点したり、長方形の面積を横×縦にすると減点とかは、理解が出来ません。

 長方形の面積の例は、順序は大切だという人でも「それはおかしい」という人が多いのですが、前者の例は多いです。

 市販の問題集にも「順序を間違えないように」と注意が書かれています。

私は、少なくともそういう現状は改善されるべきだと考えます。

これに関しては、せとともこ さんとそれほど考えは違わないかと思います。

投稿: 積分定数 | 2009.08.06 22:10

>せとともこさん

内包量、外延量については、私自身勉強不足でよくわかりません。色々考えることはありますが、それは保留します。

「私は、1つ当たりと、いくつ分を峻別することは原理的に出来ないと確信しました。」

この「峻別」というのは、「4人に3個ずつ蜜柑を配る」というときに、4と3、どちらが(1つ当たり)でどちらが(いくつ分)かということです。視点の違いで両者は逆転可能だから、

「(1つ当たり)×(いくつ分)の順序に書くように」

と指示があった場合にでも、3×4 4×3 どちらもあり得るということです。

(1人当たりの個数)×(何人分)なら、3×4のみですが。

これが密度や速度になっても、原理的には同様だというのが私の主張です。

「1平米当たり8㎏の板、5平米の質量」

5平米の状態を考えて、1平米当たり1㎏なら5㎏、1平米当たり2㎏なら10㎏・・・

と言う発想よりは、1平米当たり8㎏でそれが5つ分と考えるのが自然だとは思いますが、

5が8個分という発想が突拍子もないとは言えないと思います。柱の体積と同様のイメージを持てば、高さが密度に相当します。

以前割合のわからない生徒がいて、「700円の3割」がわからなかったので、10等分した1個分が1割と説明した後、「100円の3割は?」と質問したら「30円」と正しく答えました。それで、「じゃあ、それを手がかりに考えて」といったところ程なくして正解に行き着きました。考え方を聞いたところ「100円の3割が30円だから、700円の3割は、その7倍」と答えました。私はこの理解は全く正しいと思います。

700円が基準で、それが0.3個分、ということだとこれでは違うのかもしれないのですが、私はまずは、簡単な数で出して、それを工夫してまずは答えを出すというのはありだと思います。

今思うと、「10円の1割は?」をヒントにすればよかったかもしれないと思ってはいるのですが。


>私も一時期、広島に住んでいたので、思いは一入です。

私は広島には行ったことはないのですが、子どもの時にカープファンでした。あと今の広島市長は一度お会いしたことがあります。当時は市長ではなく国会議員で、講演会に行っただけですが、「私も数学を目指しています」と一言言葉を交わしました。

 平和については、湾岸戦争以後色々考えて、デモや集会に参加したり主催したりしました。2000年1月にイラクに行ったのですが、湾岸戦争中にミサイルの直撃を受けた防空壕で殺された子どもたちの遺影を見ました。当時も散発的な米軍の爆撃が北部と南部でありました。イラク戦争のときは悔しかったです。
 爆撃で一般民衆を殺戮するのは犯罪行為としか思えないのですが、それが「外交政策」の1つとして議論されること自体が、不思議に思います。

投稿: 積分定数 | 2009.08.06 22:49

積分定数さん。
こんにちは。
コメント拝見しました。

では早速。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「4人に3個ずつ蜜柑を配る」というときに、4と3、どちらが(1つ当たり)でどちらが(いくつ分)かということです。視点の違いで両者は逆転可能だから、
「(1つ当たり)×(いくつ分)の順序に書くように」
と指示があった場合にでも、3×4 4×3 どちらもあり得るということです。
(1人当たりの個数)×(何人分)なら、3×4のみですが。」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と、言う内容について検討しましょう。


あああ、、、わかりましたヽ(´▽`)/
まず、あなたのご意見、わかりました。

なるほど、あなたは確かに「数学的思考」の持ち主です。
なるほど。
フムフム。
が、
積分定数さん。
いいですか、目の前の対象は小学校2年生。(ご安心ください、その後成長させますから)

実は、かけ算導入時の小学2年生相手にしたとき、文章題は
「国語の問題」になります。
先に書いたように、子どもたちはまだ抽象的に考えることができないので、具体的、例を挙げて教えることが大切です。
つまり、
きわめて合理的に教えること。
あまり例外を持ち込まないことが大切なのです。
まだ配線が繋がっていません。
したがって、
算数の問題も、アレコレと他の考えが入ることはなるべくしないようにします。
話しは違うのですが入試問題もそうですよね。
答えがピシッと決まるように作って有ります(尤も、出題ミスはいつも有りますが、、、)
子どもたちにかけ算導入するときもそうです。
ピシッと考えられるように問題をつくります。
こうなると国語の問題なのです。
つまり題意にそって理解しているかどうかという。
そこは、丁寧に指導していくことが必要です。

と言う視点でみるならば、
たとえば、あなたが上で示された例題ではそもそも意味の上で逆は成立しないのです。
「1あたりは3」で、
「いくつ分は4」しかありえません。
仮にいくつ分が3で、
1あたりが4とすると、
4人/人ということで、
意味は「一人当たり4人」になります。
これはいったいなんでしょうか???
子どもたちには想像をはるかに超えた「もの」になります。

では、あなたの提出した数字について意味をみていきましょう。
3×4は、今まで通りですから省略。

4×3の意味するところは何か。
4人/人×3個=12個
あるいは
4人×3個/人=12個
の二通りです。
まず、
4人/人×3個=12個については、
一人あたり4人と言うことで先に書いたように、題意からはずれます。
次に、
4人×3個/人=12個
ならば「いくつ分」×「1あたりの数」と言うことで公式の入れ替えなので交換法則導入時には正しくなります。
つまり交換法則です。

さて、
ここで、もう一度かけ算導入時の公式を思い出してください。
「1あたり×いくつ分」と教えています。
この公式の順番は、先に書いたように、指導の手順、小学2年生ということなども考慮して、
もう「あるもの」として進めてください。
交換法則を持ち出すことはまだできません。
混乱を招くのです。
子どもの柔軟な発想を保障するという意味でも、基礎力は大切なのです。土台をしっかりと支えた上で、創造がなされるものと思います。
と、言うことで、
逆の視点でも成立しないのです。
もちろん高学年では、その基礎があるから、OKです。
このときは私は掛ける順番には拘りません。
と、言うことで、
当該問題は、
「3個づつの蜜柑を4人に配ると何個必要ですか?」
と言う一般的な問題に置き換えて、素直に解かすことがまず先決です。
子どもたちは国語の力を使って、題意を理解して、数字に置き換え、立式、解答に至ります。
ここで、
積分定数さんの思いがムジャムジャすることは、わかるのですが、
が、ガマンガマン。
導入時の子どもたちに意味を教えるときは、単純な問題から教え込む必要があるのです。
その後、理解が進めば、逆の視点から解答してもいいのは言うまでもありません。交換法則も是です。

あなたの言われる教条的教師に結びついていく気持ちはわかるのですが、、、
「1あたり」のかけ算については了解してください。
ただ、現場の教師が縦×横についても順番云々に拘っている例は、やり過ぎかもしれませんね。


なお、後に頂いた例については、私もあなたのご意見に大いに賛成です。
子どもたちの視線で教えていらっしゃる様子が彷彿としてきます。


それから。
最後のコメント。
嬉しくなりました。
そうですかぁ、積分定数さんとはそういう方だったのかぁ。
これは嬉しい。
いえね。
前に頂いたコメントでもイラク戦争云々がチラリと書かれていたので、興味がお有りとは思っていましたが、、、
イラクに行かれたのですか。
そうですか。
また機会がありましたら、お話お聞きしたいです。
私もイラク戦争についてはウウウウ〜〜〜ンと拘ってきました。
お時間がございましたら、イラク問題と言うカテゴリーを横に設けていますので、またご覧いただけたら嬉しく思います。


では、くれぐれもお体お大切に。
また意見交換しましようね♪

投稿: せとともこ | 2009.08.07 14:16

>また機会がありましたら、お話お聞きしたいです。

本来なら、私自身の経験をもっと多くの人に知っていただくように、HPアップなどすべきなのですが、そこまで至っていません。帰国後にパンフレットを作ったり、報告会をやったりはしたのですが。だから機会があれば書かせていただきたいと思います。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/news-2.html
↑この方の講演会を主催した縁で、一緒にイラクに行ってきました。初めての海外旅行がヨルダン・イラクだったわけです。

多くの人に知ってほしいのは、イラクに住んでいるのは私たちと同じ人間だという事実です。米軍のミサイルの攻撃を受けた住宅地も見学しました。よく、ピンポイント爆撃というけど、仮にピンポイントで攻撃対象に的中しても、その衝撃で破片が四方に飛び散り皮膚に食い込むこともあります。
そういう場面も見たのだけど、通りで子どもたちが遊んでいる姿がすごく印象に残っているのです。
一体どんな理屈を付ければあの子立ちを殺すことが正当化されるのか、「安全保障」だの「対米関係」だの偉そうに言っている連中に怒りを感じます。


 本題の掛け算の件ですが、私のいわんとすることはわかっていただけたのではないかと思います。

一応書いておくと、

「文章題で3と4を掛ける問題があったときに、どちらが1つ分で、どちらがいくつ分かは、絶対的ではなくて解釈の違いである。4人に蜜柑を3個ずつ、でもそうだし、1mあたり3㎏の棒4mの質量でも、4を1つ当たり、3をいくつ分という解釈は不可能ではない」


教える人は、このことを理解しておいてほしいということです。ネットで見る限り、かけ算の順序に拘るのを正しいとしている人の多くは、どうもそこの部分がわかっていないのではないかと疑問に思うのです。

このことをわかった上で、実際に教える場合には、色々あると思います。

私自身がもし掛け算を最初から教えるとしたら、交換法則も九九もしばらくは教えないと思います。

掛け算の最初の導入の時は、当然順序に意味を持たせます。そのあと、色々掛け算の問題をやっていく。で、順序を逆にする子がいたときに、「それは逆だよ」と注意するかもしれません。

このときに、「でも、こういう風にしたら、こっちが1つ分になって、こっちがいくつ分になったから、」とその子が説明したら、「すごい」と褒めると思います。

あるいは単純なミスだけど、でも結果(九九は教えていないから、足し算の繰り返しなどで計算すると思う)が同じになることにその子が気づいて、他の数の組み合わせでも同様であることに気づき始め「なにかある」と思うかもしれない。


3の固まりが4つあるのと、4の固まりが3つあるのが、同じ数になるのは、どうしてか?

■■■ ■■■ ■■■ ■■■

■■■■ ■■■■ ■■■■

これをながめたり、いじったり、あそんだりしているうちに、

■■■■ 
■■■■ 
■■■■

こんなのに気づいて、「3が4つと、4が3つが同じになるのは当たり前だ!」と発見する子も出てくるかもしれない。

理想を言えば、時間が許す限り子どもが自分でこのことに気づくまで、たっぷりと時間を掛けてみたい。

いずれにしても、あれやこれや時間を掛けて考える中で、掛け算の意味を習得して、その結果として交換法則も「当たり前」と思えるようになる。

交換法則が理解できた段階では、既に掛け算の意味は理解しているので、それ以後は順序そのものにはあまり意味を持たせない。

1つ分やいくつ分の概念は重視する(ただし、教える側は、解釈次第で2つは逆転可能であることに留意する)
が、(いくつ分)×(1つ分)の順序で書いても構わないとする。

この後も九九暗唱はさせない。

7×8などを、九九なしで求めてもらう。

色々やるうちに、

7を8回足すのは大変だから

7の固まりが8
7の固まりが10 から 7の固まり2つを取り除いたのと同じ。
70から、7+7を引けばいい

とか工夫するうちに、分配法則などが自然に感覚として身に付いてくる。

そういうことをさんざんやった最後の仕上げに九九の表を自分で作ってもらって、やっと暗唱。

「しちろく」で躓いても、「ろくしち」の方を覚えていれば何とかなる。あるいは、「しちご」はわかるから、これに7を足して、ちょっと時間がかかったけど42と出す。

こんな事を繰り返しながら何とか覚える。

以上は、全くの想像で、実際に教えている人から見たら、批判点は色々あると思います。

基本的考えとしては、

■教えるのではなくて、なるべく考えてもらって法則性に気づいてもらう。その方が、驚きや面白みがあるし、身に付く。
■具象を徹底的にやることで抽象化が可能になる。

です。これは私が中高生に教える中で心がけていることです。実際には、必ずしもうまくいっていません。受験までの時間的制約が大きいです。とくにうちの場合は、高3の夏まで部活をがんばっていた子が、「英語と数学と物理をお願いします。古文漢文はセンター対策だけでいいです。」とやってくる例が多いのです。

それでも、公式や解法をどんどん教え込んでも、どんどん忘れていき結局二度手間三度手間になるので、なるべく色々試行錯誤して、公式や解法を自分で見つけるように誘導するようにしています。「公式は覚えるな。覚えるとわからなくなる。」常々言っています。

ところがそうすると、余弦定理みたいなセンター定番定理まで、その都度、垂線を引いて直角三角形を作り三平方の定理で求める子も出てきて、「公式は思えるな、とは言っているけど、これは頻繁に出てくるし、導くのに時間かかるから、センター対策としては覚えちゃった方がいいよ」と心ならずも言わざるを得ません。

 こんな具合に、中高生に教えていてもなかなかうまくいかないので、小学生低学年に実際に教えることになったら、上に書いたようにはならないとは思います。また、子どもが掛け算や九九を前倒しで誰かに教わってしまっていると、かなり難しいように思います。

まあ私の願いとしては、

算数って面白いな、考えて発見するのって面白いな、と思う子が増えてくれればいいなとは思うのです。

 具体的な教え方は私と違うと思いますが、これに関しては、せとともこ さんもおそらく同じ気持ちかと思いますし、そのために色々工夫されているかと思います。

 ただ、ネットや間接的に聞いた学校での算数の授業の情報(それしか情報入手手段がないのですが)から判断する限り、「それじゃあ、算数がつまらなくなるのではないか?」と、首を傾げたくなる事例があるのです。

それに関しては、実際の授業の様子は分からないまでも、推測の範囲や間接情報であることを前提にして、「それいう教え方は疑問である」とか、

あるいは、「実際にあるかどうかわからないが、例えばこういう教え方は良くないと思う」

といったことは、言っていきたいと思います。というか、黙っていられない性分なので。

簡単に書くつもりでしたが、長くなって済みません。

私自身が教えた実際の事例なども述べたかったのですが、長くなるので、私のHPにアップしたらこちらにお知らせしたいと思います。

おつきあいありがとうございました。

投稿: 積分定数 | 2009.08.08 00:53

補足ですが、前の書き込みで、交換法則理解以前の、順序に意味のある状況での掛け算の定義ですが、

>かけ算をたし算の延長のように教えているとしたら、それは問題では、、、と思いました。

とのことなので、累加としてではなく、○個が△つというようにしましたが、私はむしろ累加の方がいいと考えます。

既になじみ深い足し算であることで、安心感や「わかる」感があると思うのです。新しい記号を導入するとそれだけで難しく考えてしまう子がいると思うのです。

私が考えたのは、むしろ掛け算の記号を導入しないで、あくまで累加として解かせると言うことです。

「蜜柑を3個ずつ4人に配る」の問題をやってもらう。

3+3+3+3=12 が想定される解答だと思う。 

4+4+4=12 とする子がいたらラッキー。掛け算だと「よくわからないので出てきた数をそのまま掛け算の式に当てはめた」可能性が高いが、足し算について十分理解している前提であれば、何らかの合理的意味を理解しての可能性が高い。
だから。理由を聞いてみる。
「4人に1個ずつ、つぎに2個目・・・」と答えたら正解。理由付けできないならバツ。

こういう解答が出てきたら、

○を△個足す と △を○個足す 

が同じではないのか、思う子が出てくるかもしれない。


こういう解答がでないなら、

2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2

とか

3+3+3+3+3+3+3+3+3+3+3

を計算させる。

横着者が何とか計算をサボろうとして考えて、

3+3+3+3 は ■■■ ■■■ ■■■ ■■■
の個数だが、

■■■
■■■
■■■
■■■

としてみると、4+4+4とも見えることに気づき、


2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2
は、12+12と同じで24

と答えるかもしれない。

ともかくそんなこんなで色々やるうちに、


○を△個足す と △を○個足す がいつも同じになることを、「そう習ったから」ではなくて、実感として捉えるようにする。

要するに、積の記号を導入しないで、実質的に交換法則を習得させる。

そのあと、同じ数の繰り返しの和をいちいち書くのは面倒くさいから、とかいって

3+3+3+3 を 3×4 と表記させることを教える。

累加 → 掛け算
掛け算 → 累加

という書き換え練習をいくつかやってもらう。

このとき、

3×4 → 4+4+4
5+5 → 2×5

などとしてしまう子がいたらラッキー。これは正解か間違いかみんなに意見を出してもらう。

3×4 → 3+3+3+3

とすべきだから、間違い?
でも、結果は同じだし、3を4個足すのと4を3個足すのは結局同じ事だから、間違いとも言い切れないような・・・

ということで最初の定義に忠実なら

3×4 → 3+3+3+3

だけど、4+4+4 と 3+3+3+3 は

■■■
■■■
■■■
■■■

から同じであることは一目瞭然。
だから、実は3×4は、4+4+4 でも 3+3+3+3 でもいい。

だから、3×4 と 4×3 も結局は同じ事をしていることを納得してもらい、以後は順序に意味は持たせない。


という具合のシナリオを考えましたが、無理がありますかね?

対数を教えるときに、対数ではなくあくまで指数でいろいろやって、ということをよくやります。

新しい概念を教えるときには、いきなり新しい記号などは導入しないで、

それまでの記号や概念を使い回しているうちに、「あれ!、いつの間にかこんな所まで来ている?」という方がいいかと思ったのです。

わからなくなった場合、混乱した場合、すぐになじみ深い概念まで戻れることで、新しい概念への抵抗感も少なくなるのではと考えました。

「足し算も理解できたし、今度は掛け算という未知の世界に進もう!」ではなく、
「足し算をもう少しやってみよう。同じ数を何個も足すとどうなるかな?」とか言いながらだましだまし、

というイメージなんですが、あくまで私は算数教育に関しては素人なので、見当違いであるのかもしれないですが。

投稿: 積分定数 | 2009.08.08 04:51

積分定数さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

早速、ご紹介のサイト、拝見いたしました。
如何に戦争が人間の尊厳を奪い、憎しみの連鎖を広げ、未来にたいして責任をおわないものか、と改めて思うものです、、、
私も自分一人の力は無力ですが、
少しでも平和への思いを呼びかけていくことができたらと、願っています。


さて、算数。
拝見いたしました。
感想は「ラッキー」が気にいりました。
そうですよね。
本当に子どもたちが自らの頭で考え、自分の言葉で表現したときの瑞々しさは本物です。
大切に育てていきたいです。
あなたの教育方針には大賛成というか、私も見習いたちと励みになります。
なお、
たし算とかけ算ですが、、、
導入として、積分定数さんのように教えるやり方は多いのですが、
が、
前にも書いたように、×0や×1に対しての準備として、
マッタク別の演算であることを知らせておかないと、子どもは混乱していきます。
また分数が出たとき。
これが至難の業です。
分数は一筋縄ではいきません。
a/b はa対bと言う比の値であること。
a/bは1を1/bにわけてa番目であること。
a/bはa÷b、つまりb×a/b=aであること。
などなど、同じ表現でも意味が違うのですが、
算数を教える教師は、この単元が出てくることまで見通して教える必要があります。
その時、かけ算を累加で教えると齟齬が生じるのです。
かけ算が自然数だけを相手にするのなら、累加でもいいのですが、、、
と、言うことで導入時だからこそ、
しっかりと教え込むことにしています。

積分定数さんの言われる「ラッキー」な発言は当然、子どもたちから続出です。
そんなときは「おおおお、、」と感動しながら、
さらに進めていくと子どもは伸びていくんでしょうね。

子どもにとって躓くところは違うのですが、
躓きやすい分野はあります。
それが算数なら割合ですね、、、
ここは3/4くらいの児童は躓きます。
まぁ、だからこそ、こちらも「てぐすね」引いて待っていますが、、、(^-^;

と、言うことで、今回はかけ算の順番でしたが、
またいろいろ」お教えいただけることを楽しみにしています。
では。

投稿: せとともこ | 2009.08.08 11:36

>マッタク別の演算であることを知らせておかないと、子どもは混乱していきます。

なるほどそういうものなのですね。最初のすり込みからなかなか脱却できないものなのかもしれないですね。

私の場合、

和の連続が掛け算=掛け算

掛け算の逆=割り算=引き算の連続

と割とすっきり納得していたのですが。


分数の難しさというのは、言葉の問題もある気がします。
3の2倍 とはいうけど 3の2とは言わない。
分数は、3の5分の2 という言い方で 3の2/5倍をあらわす。

つまり、ある大きさの数、と、○倍するというのが、同じ言い方になっていて、混乱の原因になりかねないと思います。


何が釈然としないままだったかというと、以下のようなことです。それで、一端はまあいいか、と思ったのですが、さつきさんのコメントに触発されて、疑問点を明らかにしたかったのです。

かけ算の順序にしろ、割り算の等分除と包含除にしろ、私自身は「同じもの」と見なしている。

せとともこさんもそうであって、「抽象的立場から見たら同じもの」と見なした上で、
教える場合には、そうはいかないから、・・・

ということなのか、

せとともこさん自身が、「割り算はそもそも異なる意味がある」と理解しているのか

投稿: 積分定数 | 2009.07.24 04:04

のコメントについて、特に肯定も否定もなかったので、よくわからなかったのです。

せとともこさん自身が、「割り算は等分除と包分除というまったく異なる意味がある」と理解しているなら

「20平方センチの長方形の縦の長さが4㎝の場合、横は?」は包分除?等分除?

と議論になるでしょうし、

「割り算は割り算、等分除、包分除の区別は見かけのものでしかない」という私と同じ見解なら

じゃあ教える場合はどうなのか、万々が一、両者が同じだと気づいた生徒がいたらどうするのか、とかそういう話になったと思います。

一応書いておくと、私が思い描く割り算の教え方は、

「割り算」ということは教えないで、

「20個の蜜柑を4個ずつ分けると何人にわけられる?」とか、それとは全く関係ないふりして「20個の蜜柑を4人で分けるには?」とか

いろいろやらせる中で、

どうも、○の中に△がいくつあるかを求めるのと、○を△に等分する場合の1つ当たりを求めるのと、

やっていることは同じじゃないのか、生徒自身が気づく

そんなことを考えました。これもそううまくは行かないとは思いますが。

中高生に教えていて、公式や解法を覚え込むのが数学だという生徒が多くて、悲しくなるのです。

数学の面白さはそこじゃないんだよと、みんなに知ってほしいのです。

「考え方が大切だからかけ算の順序」と言われるのだけど、「それは違うだろう!」と思わざるを得ない事例が沢山あって、それに黙っていられないというのが、元々のきっかけでした。

ということで、どうも長い間ありがとうございました。

失礼します。

投稿: 積分定数 | 2009.08.08 13:11

大事なこと書き忘れていました。何度も済みません。

私は、「違うと思っていたものが実は同じ」というのは、数学の面白さの中でもかなり上位に来ると思っています。

極めつけは、三角関数と指数関数が実は同じで、オイラーの公式

他にも、微分の逆演算と、細かく刻んで足すこと、この両者が同じ積分

とか。

算数では

○×△ と △×○ が実は同じ
○を△等分したときの一つ分 と ○は△いくつ分か 

などが該当すると思う。

私自身、小学校の時に「あれ?、等分するのといくつ分、違うはずなのにどちらも割り算だ。不思議だな。面白いな。でも、掛け算のこと考えたら当たり前か。でも面白いな。」

と思った記憶があります。

具象の徹底による抽象、
全く別のはずが同じものへと統合される

そこに、面白みがあると思うので、拘ってしまうのではないかと最近気づきました。


ということで、本当に何度も失礼しました。ではまた。

投稿: 積分定数 | 2009.08.08 13:31

>技術開発者さん

技術開発者さんの意図を読み間違えているかもしれないのですが、

私自身は

ある特定の状況で、かけ算の順序を決めておく、ということを否定してるわけではないのです。

例えば、質量を求めるときに、密度×体積 に統一しておこうとか、

そういうのはいくらでもあり得ると思うのです。

問題文で、何が密度で何が体積かが不明確で、これが逆に解釈できると言うことは、通常は考えられないわけです。

伝票の書式でも、単価 数量 価格 みたいに慣例があるのを否定するつもりはありません。

1本20円の鉛筆4本 なら 単価は20 数量は4 で逆ではありません。

「逆でも結果は同じじゃないか」と敢えて言う必要もないと思います。

4人に蜜柑を3個ずつ、配る問題でも

(1人当たりの個数)×(人数)の順序という指定であれば、

3×4のみしかあり得ません。


しかし、文章題一般の掛け算に関して

(単位当たり)×(いくつ分)にすべき

ということだと、教える側が想定するのとは逆の順序でも、それを正当化しうる根拠はあり得るから、

教える側はそのことを心に留めておくべきだと思うのです。

投稿: 積分定数 | 2009.08.08 22:12

>技術開発者さん

>そう言いたいなら「理解出来ている子には不要」というとっかかりから議論を始めるべきでは無いと思います。

前提として私がブログで書いて、せとともこさんが読んで、

ということが前提なので、

「理解出来ている子には不要」というとっかかりから議論を始めた訳ではありません。


>3番目に関しては「形をつくる」論の不要論であり、もちろんそういう考え方があっても良いと思っていますが、私は教条的ではない形をつくるはあっても良いと思っています。積分定数さんの論で私の「形を作る必要論」はひっくり返らなかったというた゜けの事なのです。ひっくり返さなくては気が済まないということであれば、まあ、おつきあいしても構いませんが、あまり乗り気にはなりませんね。

私は「形を作る」論の不要論」など主張していません。

>■「理解できている子には不要」が、「理解できない子には有用」を必ずしも意味しない。

これは、「出来ている子には不要じゃないか?」という場合に、「その通り」とか「出来ている子にも有用」とか議論があり得て、

仮に「出来ている子には不要」という結論になっても、そのことで「理解できていない子には有用」とか「理解できていない子にも不要」とかは未定で、それはそれでまた別

という意味でした。

A 理解出来ている子に不要 理解できていない子に不要
B 理解できている子に不要  理解できていない子に必要
C 理解できている子に必要  理解できていない子に不要
D 理解できている子に必要  理解できていない子に必要

例えば単純に考えてもこのようなケースがあり得るわけです。そもそも、「理解できている」と「理解できていない」が綺麗に分かれるわけでもありません。

前に書きましたが、

700円の3割がわからない中学生がいました。

100円の3割なら30円とわかる。それを手がかりに、700円の場合は、7倍にすればいいとわかって、210円と正しく出せました。

「それは間違いです。700の0.3倍、というのが正しいのだから、700×0.3としなくてはならない」という指導は必要と思えない。

だからといって、 基準の数×割合 という式を提示することがいつも不要というつもりはありません。

「どんな場合も、順序に拘った指導はするな」と言っているわけではないのです。

掛け算の式を立てるたびに、「1つ分」や「いくつ分」が何なのか、注意を喚起させるために、順序に意味を持たせることを、全面否定するつもりもありません。

ただ、前述の700円の3割の例のように、その子なりに理解できていればそれでいいと思うし、その子に対して「理解しているんだろうけど、かけ算の順序が違ったので、理解していないと見なさせるのは仕方ない。我慢しなさい。」というのはかなり酷だと思います。

一応、私の考えが伝わっていないと心配だったので、書いておきました。

投稿: 積分定数 | 2009.08.09 13:39

>技術開発者さん

>厳しい言い方になりますが、表現出来ないのは表現の問題では無く自己解析の不足だと思います。

ここもよくわからないのですが、私の考えに不明なところがあれば、「これについてどう考えているですか?」とか質問すればいいと思います。

私も、せとともこ さんや技術開発者さんについて、わからないことがあったら「これに関してはどうなんですか?」とか質問するわけですよね。

「この人はこう主張しているに違いない」と思いこんで対応するのは、避けた方がいいと思うからです。

>私には積分定数さんの主張が整理し切れていない様に見えたので、

どの辺が整理されていないと思われたのでしょうか?おっしゃっていただければ、その部分に関して答えられる範囲で答えます。

もちろん、最初から最後まで完全に理路整然とした一貫した考えということではありません。ここでやりとりする中で、「最初はこう考えたけど、これは考えなした方がよさそう」とかそういうのはありますよ。この手のやりとりではあって当然だと思います。

投稿: 積分定数 | 2009.08.09 17:38

積分定数さん。
こんにちは。
コメントありがとうございました。
バタバタしていたので、お返事遅くなりました。

さて、頂いたコメントですが早速お返事いたします。
7月24日にあなたからの疑問にお答えしなかったのは、
あの時は私の中ではあなたは全体を(つまり学校教育のあり方)問題にしていると思っていたので、
とくにお答えしなかったのですが、、、
が、
今、こうして改めて質問されたのでお返事いたします。

等分除と包含除は明らかに違います。
それは何回も書いているように、かけ算の意味とリンクしているからです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
等分除は「みかんが12個あります。4人に同じ数ずつわけると、1人分は何個になるでしょう」というもので、かけ算でいうならば「1あたりの数を求めるものです」

包含除は「みかんが12個あります。1人に4個ずつ配ると、何人に分けられるか」というもので、かけ算のいくつ分を求める演算です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


ただ、割り算は等分除と包含除だけでないことは、
エントリーにも書いています。
つまり「倍」を求める場合や、かけ算の逆の演算で有る場合などです。
「20は5の何倍か」と言う問題では等分除も包含除も無関係です。
「面積20、縦5なら横は(単位省く)」の問題も同様です。
等分除と包含除とは、
かけ算の「1つあたり」×「いくつ分」=全体のかずという公式が成り立つ問題で、「1つあたり」を求めるのか「いくつ分」を求めるのか、
と言うときの方法を言うものであって、割り算がみんな「等分除、包含除」と言うことではありません。


そして、意味については、その大切さや意義はこれまで何度も書きましたので、もう同じことは申しません。

と、言うことで、失礼いたします。
では。

投稿: せとともこ | 2009.08.10 10:24

>せとともこさん

かけ算の順序の指導を重視する人でも、

 「そもそも掛け算に正しい順序がある」と思いこんでいる人もいれば、「本当は順序なんか関係ないのだけど、あくまで掛け算を理解させるための初歩段階では有用」という人もいます。

 だから、教える人自身はどう考えているのか、というのも重要な要素だと考えています。

 割り算についても同様です。今改めて確認して、初めて、認識が違うとわかったわけです。

 もちろん、教え方を問題にしているのですが、教える人自身ががどう考えているかで、その後の話も違ってくると思うのです。

 私はかけ算の順序は関係ないのと同様、割り算の包分除・等分除は見かけの違いだけで、本質は同じだと考えています。

20÷4 
これを等分除で考える場合、例えば20個のおはじきを4等分するとして
4カ所に、1個ずつ置く。残りは16個。また1個ずつ置く。・・・
となるとこれは、20の中に4がいくつあるか、という事になる。

もちろん教える場合はまた別だと思います。

>たし算の意味は小学校では「合併、添加、増加」の3つです。
>引き算はたし算の逆思考で、
合併には求補。
添加には求残。


これらについても、

私は足し算や引き算はそれぞれ同じ意味しかない。それがいろんな場面に現れる。

という認識なのですが、

せとともこさんは、これらについても割り算同様、足し算・引き算に、教える場合の便宜的意味の違いでなく、そもそもそれぞれ複数の意味があるという

という認識であるということでよろしいでしょうか?

どちらが正しいのか?とか議論する意図ではなく、これに関してせとともこさんの認識を確認したいというだけですが。

投稿: 積分定数 | 2009.08.10 13:09

こんにちは。
頂いたコメントを拝見して、どのようにお答えしていいのか、、、悩んでいます。

が、
最後の締めの言葉についてだけお返事します。
つまり、「割り算同様、足し算・引き算に、教える場合の便宜的意味の違いでなく、そもそもそれぞれ複数の意味があるということについての、せとともこさんの認識を確認したいというだけですが。」と言う質問です。


はい。
小学生にとっては、キチンと区別して教えていく必要の有る概念です。

大人にとって何気ないことでも小学1年生にとっては、
たし算の魔法なんですよね。
どういう言葉で書かれてくる問題がたし算に、
またあるときは引き算になるか、、、
を、しっかりと見ていくためには国語の力によるのですが、、、
「合併、添加、増加」は子どもにとって明らかに違う文法なのです。
「合併、添加、増加」がたし算で求めることが出来るということを教師は教えますが、
教科書作成のときは、どの順番で教えると子どもが速やかにたし算の演算になじむかと、研究されています。
順番としては「合併、添加、増加」がいいとされているのですが、この頃の算数は合併と添加が一緒に出てくるので、
子どもたちは戸惑う場合があります。
「えええ、、、どうしてこれがたし算で出るの???」と言う具合に。
数学では交換法則が成立しても、算数では成立するものとしないものがあることは先に書いた通りです。

いずれにしても、
私は1つひとつの課題にある意味(子どもに伝えなくても教師は知っていることですが)をしっかりと認識する必要はあると思います。
分析と統合。
これはどんなに単純な操作でも大切です。
たし算の3つの意味。
引き算の意味。
かけ算の3つの意味。
割り算の意味。
そして分数と小数。
比。
あるいは図形。
みんな、その意味をしっかりと分析して、子どもたちに教えていくことが肝要です。
算数は、多様な考えを求める学問であると同時に、
この書き方では、この式が立つ、と言う考えで、論理を構築していき矛盾を廃していく学問でもあります。
子どもたちには、国語力を通して、
無駄なく正解に導いていくように指導するためには、
公式の意味、演算の意味は、しっかりと分析していく必要はあります。

と、言うことで、最後の質問にたいしてのお返事は、
「あると考えています」
です。


なお、
私がどう考える、
あなたがどう考える、
とかとかではなく、
大切なことは、
子どもたちにしっかりと伝えていくことだと思います。
あまりアレコレに「どうなんだ???
これはどう思う????」と尋ねられても、
ケースバイケースとしかお答えの仕様がありません。


と、言うことで、
かけ算の順番云々を皮切りとして、四則演算について縷々書きましたが、
全て言い尽くしたので、私はこれ以上何もありませんので、この話題はいったんは終わりとさせてください。
何か新しい課題がありましたら、またお知らせください。
この間、いろいろご教示頂きありがとうございました。
とても刺激になり、学ぶ事大でした。
ではお元気で。

投稿: せとともこ | 2009.08.10 13:46

>せとともこさん

 ずっと気にはなっていたのですが、やはりそこの部分(四則演算の意味)では認識が違っていたようですね。

 尤も、教える際に、たし算の3つの意味などに配慮することを否定するつもりもありません。

 足し算・引き算についてはあまり覚えていませんが、掛け算と割り算については、複数の違ったイメージがあったのがいつの間にか統合されていた感じです。

 それでは、色々ありがとうございました。ご迷惑おかけして済みません。

 と書いている最中に地震が来ました。

 では、失礼します。

投稿: 積分定数 | 2009.08.11 05:15

積分定数さん。
私は出先に、今いるのです、お返事遅くなりましたが、
地震いかがでしょうか???
心配です。
お見舞い申し上げます。
どうぞ、今後の地震情報にも留意なさってくださいね。
では、落ち着きましたらお元気なお声、おきかせください。

投稿: せとともこ | 2009.08.12 17:06

「かけ算の順番」について、遠山啓がどう考えていたか、私のブログに3回シリーズの記事を書きました。
もともと、遠山自身が、「かけ算の順番」は奥の深い問題だと書いていて、一筋縄ではいかないことがわかっていましたので、書くかどうか迷ったのですが、とりあえず彼の考えについての誤解だけは正したいというのが動機です。
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33805606.html
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33821691.html
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33829641.html

投稿: さつき | 2009.08.13 21:37

ご心配おかけしました。私自身が体験した中では最大の揺れでしたが、わずかに物が落ちた程度で済みました。同じ静岡でも、中部の方はすごかったようで、テレビの映像を見て驚いた次第です。亡くなった方もいたようです。

子どもの頃から、東海地震が来ると言われ続けていました。特に阪神大震災後は、ちょっとした地震でも「いよいよか!?」と身構えるようになってしまい、恐怖心を感じるようになりました。阪神や昨年の中国での地震はこんな物ではないだろうし、想像を絶する物があると思います。

地震の度に「この程度の揺れでこんなに怖いのだから、爆撃される所にいる人の恐怖心はこんなものではないはず。」とも発想してしまいます。

この間色々ご迷惑おかけしました。また色々教えていただきありがとうございました。

新聞投書がきっかけで「かけ算の順序」の存在を知り、今年1月にミクシィの数学コミュでこの話題が出てから、色々調べてきました。この件を議論するコミュも立ち上げました。

文部科学省、国立教育政策研究所、教育委員会、日教組、県教組、国立大学の教育学部数学専攻の先生、教科書会社、問題集の出版社、

など、思いつく限りの関係ありそうな機関に問い合わせました。

水道方式や遠山啓も関係していそうな、そうでもないような、諸説あってよくわからなかったので、チラシに「数学教育協議会会員」と書いてあった塾にもメールしてみましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。

TOSSとか法則化運動とか言われる教育研究グループがあることも知りました。

こんな具合に、色々わかってきましたが、よくわからない面もありました。そういう経過もあり、せとともこさんにも色々お聞きしました。

その中で自分なりの考えも整理してきたつもりです。

後から見れば、もう少し違う文面にすべきだったかとか、色々あるのは事実です。

しかし、「自己解析の不足」とまで言われなくてはならないものなのか、と考え込んでしまいました。(この件は、せとともこ さんはは直接の関係ないのですが)

私自身、ろくな人間ではないし、矛盾だらけで、いくらでも突っ込みどころがあるのは事実ですが、「かけ算の順序」に関しては、相当調べて考えたつもりです。

客観的にはどう見えるかはともかく、主観的にはこの件はずっと考え続けてきたし、今回も、せとともこさんを困らせる意図などはなく、真摯な思いで書き込んだことだけはご理解下さい。

それでは失礼します。

投稿: 積分定数 | 2009.08.13 21:44

さつきさん。
積分定数さん。
こんにちは。
出掛けていたのでお返事遅くなりました。


さつきさん。
ご教示ありがとうございます。
私は、以前「おかあさんのための算数教室」というものを開いていました。そのきっかけは遠山啓との出会いでした。
水道方式については、何回も勉強会に出席したり、自分でも遠山啓は何冊も読み、
さらに数教協の方々とも勉強を行いました。
その中で得たことは「論語読みの論語しらず」にならないために柔軟な発想をもつことでした。
なにしろ相手は豊かな発想で思いもせぬ疑問を発する子どもたち。
この想像溢れる発想を保障するために指導者は如何にあるか、、、何回も討論と実践を重ねました。
前に書いたようにタイルや折り紙を使ったり、あるいは実験算数をさせたりと。
銀林さんの著書も大いに参考にしました。
また、自分自身が壁にぶち当たったとき、何回も遠山啓の入門書を読みました。遠山さんから学ぶこと大だったのですよ。
おかあさんのための教室も、量に対しての捉え方を中心に「数え主義」からの脱却を図ろうとしました。
実は、あの時お教えした方々は母親であると同時に現役の学校の教師だったのです。

さて、今回頂いたあなたのエントリーについては、どのようにお答えしたらいいのか、実は困惑しています。
と言うのはあなたの立ち位置が分からないのです。
積分定数さんのように、現実の教育の場で子どもたちに対応しながらの「生の声、生の疑問」なのか、
あるいは数学の研究者なのか、いずれの立場でもない「ただの読者」なのか、、、
あなたがどの程度、数学そのものを理解なさっているのか判ぜんとしないのです。
と、言うことで、もし宜しければ、あなたから最後に頂いた7月31日以降の積分定数さんと私のやりとりを御覧頂けたらと思います。
ご意見や疑問がございましたら、その後でもまた伺いますので。
取りあえず、今日のお返事はここまでとさせてください。

積分定数さん。
以前から何回も書いているように、あなたの熱意と誠実な姿勢には私は何回も教えられているのです。
私も刺激を受け、学ぶこと大でした。
これからも折に触れ意見交換させて頂けたら嬉しく思います。
現場で何かあったときは、またご意見伺いに参りますね。
では、お元気で。

投稿: せとともこ | 2009.08.15 16:32

せとさん、
私のブログ記事をお読みいただいたようで、ありがとうございます。

>あなたの立ち位置が分からないのです。

私の立ち位置がここでの議論とどう関係するのかわかりませんが、念のためお答えしておきます。

私は、大学で自然科学の教育・研究に携わっている者で(技術開発者さんと近い分野?)、遠山啓の古くから(若い頃から)のファンです。私が「科学と認識」というタイトルのブログを開設しましたのは、「科学」の実践にとって「認識論」は本質的に重要と思い、考えたこと・勉強したことを備忘録としてまとめ、それを人様の目にさらすことで、いろいろと反応をいただき、深めていくことができるだろうと考えたからです。「認識論」の重要性に思いいたるきっかけになったのが、遠山啓(の著書)との出会いでした。

 それから、私の子どもの一人が不登校になった際に、知人から、「お下がり」として、水道方式によるテキスト『さんすうだいすき』を譲り受け、子どもの算数の勉強に役立てたという経験があります。その「復刊リクエスト投票」ページには、水道方式のもうひとつのテキスト『数の探検』を読んで、算数が大好きになり、とうとう数学者になってしまったという人がコメントを寄せられていますね。
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=8586

件の私のブログエントリーの冒頭に書きましたように、この間の「かけ算の順番」での議論の中で、遠山の考えを誤って伝えている文章に接し(せとさんのことではありませんよ)、これを正したいというのが、この議論にコミットしたそもそもの動機でした。
 この問題は、遠山も書いている通り、大変奥の深い問題です。しかし、せとさんが遠山の考えを良くご存知でいらっしゃるとお聞きし、せとさんなら、そんなに長々と書き散らさずとも、理解していただけると思ったのです。

私の記事は、分かり難いかもしれませんが、大きく4つの論点からなっています。ただし、下記は、記事中の順番とは無関係です。

1) そもそもこれが算数教育上の問題としてたびたび(1972年から)取上げられてきたのは、設問から読み取れる題意と、採点の基準が乖離しているからである。

2) かけ算を (1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数)と教えるやりかたは、その後の割り算の勉強へ進むためにも大変重要な考え方であり、これは、遠山が考え出したことでもある。

3) その上で遠山は、どちらが「1あたりの数」で、どちらが「いくつ分」であるかは、考え方次第であって、自由な発想を大切にした方が教育上も良いと主張した。その自由度は、助数詞は単位ではないという発想から生まれる。
(積分定数さんは、「1つ当たりと、いくつ分を峻別することは原理的に出来ない」と
書かれましたが、そういうことではありません。「1あたりの数」と「いくつ分」は、はっきりと区別できますし、必ず、どちらかに割り当てることができます。しかし、その割当方は、必ずしも一通りではないという意味です。)

4) 人の抽象思考を生得的なものと考える遠山の「認識論」に基づく水道方式の教え方は、現在の算数教育の大勢とは根本的なところで違っている。水道方式で教える時、はじめて、3)の考え方が、教育上の有効性を発揮する。

私は、この間の、ここのコメント欄でのやり取りは全て目を通しています。お時間のあるときにでも、コメントいただけましたら幸いです。

投稿: さつき | 2009.08.15 19:09

さつきさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
出掛けていたのでお返事、遅くなりました。

では、早速あなたのエントリーとコメントについて検証させていただきます。
なお、あなたのコメント、エントリーは==={}===と括らせていただきます。

==={私の立ち位置がここでの議論とどう関係するのかわかりませんが、念のためお答えしておきます。}===


と、言うことでお返事を頂いたのですが、ありがとうございます。
私があなたの立ち位置をお聞きしたのはお仕事ではなく、今回のテーマについてのあなたの見解を知る上で、数学的な素養がどの程度おありかをお聞きしたかったのです。


==={私が「科学と認識」というタイトルのブログを開設しましたのは、「科学」の実践にとって「認識論」は本質的に重要と思い、考えたこと・勉強したことを備忘録としてまとめ、それを人様の目にさらすことで、いろいろと反応をいただき、深めていくことができるだろうと考えたからです。}===


はい。
あなたのブログのタイトルを拝見したとき戸坂潤を思い出しました。
また先日のエントリーでは武谷三男が出てきて、思わず嬉しくて叫んでいたのです。
武谷三男は高校生の時、「科学入門―科学的なものの考え方」を読んで打ち振るえていたのです。
以来、真下信一、古在由重などを読み、以降戸坂潤やエンゲルス、、、、、へと私の読書歴は続きます。
と、言うことで、とても新鮮な思いで読ませていただきました。
武谷の三段階論とは別に、私は公害や食の管理、環境については不可知論に陥いる危険と政治介入への危険への警鐘をならすことが重要と思います。
これにつていは、リスク管理とともにまた考えていきます。

==={それから、私の子どもの一人が不登校になった際に、知人から、「お下がり」として、水道方式によるテキスト『さんすうだいすき』を譲り受け、子どもの算数の勉強に役立てたという経験があります。}===

そうですか、、、、
私も不登校の子どもたちは何度も引き受けた経験があります。
もし宜しければ、ホームページも御覧頂けたらと思います。

==={この間の「かけ算の順番」での議論の中で、遠山の考えを誤って伝えている文章に接し(せとさんのことではありませんよ)、これを正したいというのが、この議論にコミットしたそもそもの動機でした。}===

了解です。
積分定数さんも同様の動機ではと、思います。
つまり学校現場でのマニュアル的な対応に対しての批判と疑問と言う意味で。


==={1) そもそもこれが算数教育上の問題としてたびたび(1972年から)取上げられてきたのは、設問から読み取れる題意と、採点の基準が乖離しているからである。
2) かけ算を (1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数)と教えるやりかたは、その後の割り算の勉強へ進むためにも大変重要な考え方であり、これは、遠山が考え出したことでもある。}===

ここまでは異論はありません。


==={3) その上で遠山は、どちらが「1あたりの数」で、どちらが「いくつ分」であるかは、考え方次第であって、自由な発想を大切にした方が教育上も良いと主張した。その自由度は、助数詞は単位ではないという発想から生まれる。
(積分定数さんは、「1つ当たりと、いくつ分を峻別することは原理的に出来ない」と
書かれましたが、そういうことではありません。「1あたりの数」と「いくつ分」は、はっきりと区別できますし、必ず、どちらかに割り当てることができます。しかし、その割当方は、必ずしも一通りではないという意味です。)}===

ここで、あなたはご自身のエントリーで以下のように説明されています。
==={遠山は、(1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数)という考え方を大切にしつつ、どちらが「1あたりの数」であるかは原理的に自明ではなく、計算の順序としてはどちらでも良いと主張したのだ。私は、遠山のこの指摘は正しいと思う。}===と。

私もそうです。
結局、大切なことは(1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数)であって、どちらを「1あたりの数」にするかは、教師が強制することではなく、子どもの考える筋道通りでいいのです。
ゆえに、
あなたがエントリーで書かれているように、問題の出し方こそ、見直す必要はあると私も思います。
設問で「いくつぶんはどれですか?」とか「一つあたりはどれにしましたか?」という内容の設問なら、私は大賛成です。
が、現実は残念ながらそうではありません。

以前、あなたから頂いた質問があまりにビックリするものだったので、あなたの数学的素養を疑ったのですが、あなたのエントリー内容については、異論はありません。


==={4) 人の抽象思考を生得的なものと考える遠山の「認識論」に基づく水道方式の教え方は、現在の算数教育の大勢とは根本的なところで違っている。水道方式で教える時、はじめて、3)の考え方が、教育上の有効性を発揮する。}===


はい。
だからこそ、私は立式を導くまでに丁寧に教師が指導することを願ってやみません。

子どもたちが思ってもいないような発想をすることに、未来を感じるような教師が増えることを望むと同時に、
私は文部科学省の在り方に思いを馳せざるをえないのですが、これはまた別の機会に。


と、言うことで、
あなたと私は同様の視点で問題を斬っていたと思うのですが、、、、
如何でしょうか?????

なお、最後にあなたへの認識を改めました。
実は、アレコレのやりとりで、
あなたは、一度「わかった」と納得されと書かれたのに、
その後ゴチャゴチャ(と思った)と再燃されました。
しかも遠山が6ページを割いたとか、などなどと書かれたときには、正直「困った」と思いました。
その「真意」が遠山教条主義なだけかと思ったのです。
だがしかし、今回エントリーを挙げてくださり、
漸く、あなたの真意を理解いたしました。
OKです。

いずれにしても、
現場は生きていて動きます。
いつでも柔軟な発想と深い理解を求めて、私自身はいかなければ、、、と強く思いました。
と、言うことで、この間、いろいろお付き合いいただき、ありがとうございました。

これからも科学について書きますので、またご意見を頂けると嬉しく思います。
では。

投稿: せとともこ | 2009.08.16 16:34

せとさん、
>と、言うことで、
あなたと私は同様の視点で問題を斬っていたと思うのですが、、、、
如何でしょうか?????

これで、ようやく了解することができました。
私の誤解もあったようで、申し訳なく思いますが、遠山啓のことを振り返る良い機会になりました。議論におつきあいいただきありがとうございました。

>武谷三男は高校生の時、「科学入門―科学的なものの考え方」を読んで打ち振るえていたのです。


今では、武谷さんのことを知る人も少なくなりましたね。私は、水俣にかかわっていた医師から、武谷の三段階論を教えてもらい、「打ち振るえ」た経験があります。そういえば、ここで板倉聖宣さんのことに触れたエントリーをお見かけしたようにも思います。
今後ともよろしくお願いします。

投稿: さつき | 2009.08.16 18:31

こんにちは、積分定数さん。

>>厳しい言い方になりますが、表現出来ないのは表現の問題では無く自己解析の不足だと思います。

>ここもよくわからないのですが、私の考えに不明なところがあれば、「これについてどう考えているですか?」とか質問すればいいと思います。

積分定数さんの考えに関して「不明な点」はないので質問する意味はありません。私が考えを理解出来ないなら、質問しますが、考えはよく分かっているつもりです。問題は、積分定数さんが、自分のお考えを的確に表現されていると私に思えないと言うだけです。それは、積分定数さんの自己解析の問題であるため、私が質問しても無意味です。

>>私には積分定数さんの主張が整理し切れていない様に見えたので、
>どの辺が整理されていないと思われたのでしょうか?おっしゃっていただければ、その部分に関して答えられる範囲で答えます。

単純に言うと「教育(者および方法)の画一化」の問題に力点があるなら、それをもっと深く掘り下げて表現されるべきだというだけです。その場合、「かけ算の順番」というのは画一化の弊害を表す事例の一つという扱いになります。一つの事例の弊害を深く掘り下げても、教育の画一化の弊害を掘り下げたことにならない場合もあるわけです。そこに落ちこまれている気がします。

投稿: 技術開発者 | 2009.09.01 08:58

>技術開発者さん

 もちろん、私自身、「かけ算の順序」だけが問題、という認識ではなく、もう少し一般的なことも絡んだ話だと思うし、それにも言及することもあります。

 しかし、そもそも、話のテーマが、「かけ算の順序」だったわけで、それが中心の議論になるのは当然だと思いますが。

 また、コメントのやりとりだから、言いたいことが相手にうまく伝わらず、あるいは、相手のコメントの意図を誤解して、ということで話がすれ違ったり、修正しようとしたり、そういうことはありがちだと思います。また、話の流れで、別の話題になったりとか、そういうことはありがちだと思います。

>一つの事例の弊害を深く掘り下げても、教育の画一化の弊害を掘り下げたことにならない場合もあるわけです。そこに落ちこまれている気がします。

そもそも私に、「教育の画一化の弊害を深く掘り下げる」義務はないですよね?話の流れで、画一化の弊害に言及することはあり得るにしても。

入試の小論文試験対策で、技術開発者さんが書き方を指南する先生で、「教育の画一化の弊害について論ぜよ」という課題がでて、それで私が書いた文章に関して、「掛け算の順序という個別事例に拘りすぎている」と指摘するというならまだわかるのですが、

全然そういう状況ではないですよね。

「かけ算の順序」に関して、私がブログに書いた。せとともこさんが、それを読んで考えを書いた。それに関して、私が疑問点や自分の考えを書いた。それについて、せとともこさんがコメントし、私が・・・。

というやりとりですよね。それで、結果として個別事例=かけ算の順序、及びその周辺=足し算の順序・包分除・等分除などの話、が中心となったわけだけど、それはそれで構わないのではないでしょうか?

投稿: 積分定数 | 2009.09.02 07:35

こんにちは、積分定数さん。

>それはそれで構わないのではないでしょうか?

かまわないと思いますよ。だから、放っておいたわけです。私が上の話を書いたのは、積分定数さんが、「答えろ「」と押せまりになったから書いただけのことです。

 少し雑談をかきましょう。私は陽明学の徒でもあります。儒教の流れというのは、孔子が四書五経と言われる基本的な教科書を編纂した事にはじまります。それ以降のの儒学者はその四書五経の解釈を深め解説を行ってきた訳です。唐の時代から中国では科挙といわれる官吏登用試験がはじまりまして、その出題が儒教を元にしたものであったこともあり、儒教の解説は非常に沢山のものが出てくる訳です。時代が降って明の初期に朱子という人が、それまでの膨大な解説をまとめた訳です。これが朱子学ですね。
 朱子と言う人は「少年老いやすく学成りがたし」という言葉が伝わっていますが、非常に勤勉な努力家ですから、およそその時代に伝わっている解説のほとんどを網羅して調査し「コレが最も正しい」とする解釈をまとめた訳です。そして朱子の解釈というのは科挙の試験にも取り入れられる訳です。ただ、そのことにより、儒学を学ぶ者が朱子の解説のみを丸暗記すれば、模範解答が書ける様な、「形に流れる」事態が生じてしまいます。
 陽明学を立てた王陽明という人は、その形に流れた儒学を批判した形になるわけです。儒学の中を流れる精神を身につけなくては意味がない、だから「良知を磨く」ことを進め、そのために、「知行合一」「事上磨練」という行動主義哲学の面を出した訳です。
 王陽明は朱子の解釈の一部とは異なる解釈を導入しましたから、「対立した」様に言われるのですが、弟子たちが朱子の解釈のあら探しの様な事をするのに対して「朱子も私も求めるものは同じなのだから、そういうことはしてはいけない」とたしなめたりしています。
 また、「陽明学を学ぶ者はまず朱子学をきちんと学びその後に陽明学に入れ」とも言われます。実際、私もそう思うのです。例えば「格物」という最も対立があるかのように言われる言葉の解釈にしても、実のところ目指すところは同じで、ただアプローチがちがうだけだからです。法学を例に説明した事があるのですが、一つの法の持つ「法理」をきちんと理解するのに、その法の判例を数多くきちんと読みこなすと、いつの間にか自然に法理が理解されることも多い訳です。ただ、「法理を知ろう」という意識を強く持って判例を読みこなすなら、その自然に身に付く理解よりも早く身に付きますし、数多い判例は知っているけど法理は実のところ分かっていないという「形に流れた」結果になることも少ない訳です。ところが、法理に至ろうという意識が強くても、判例の読みこなしが少ないと、法理そのものを誤って理解してしまうこともある訳ですね。それゆえ、陽明学は朱子学を学んだ後にと言われる訳です。

投稿: 技術開発者 | 2009.09.02 08:51

>技術開発者さん


 「かけ算の順序」についての議論で、何度もやり取るする中でやっと、せとともこさんと私で、「ここの部分で認識が違う」ということが判明する、そういうやりとりでのコメントに対して、「自己解析」(正直、この言葉の意味も自分で自分の考えを検証するとか、そんな意味かなと勝手に想像しているが、正確なところはよくわからない)云々が出てきて、何を指摘されているのかわからなかったのですが、相変わらずわからないままです。

「問題は、積分定数さんが、自分のお考えを的確に表現されていると私に思えないと言うだけです。それは、積分定数さんの自己解析の問題であるため、私が質問しても無意味です。」

ということなのですね。どのあたりがそうなのか指摘してほしいのですが、それは「無意味」ということなのですね。

>3番目に関しては「形をつくる」論の不要論であり、もちろんそういう考え方があっても良いと思っていますが、私は教条的ではない形をつくるはあっても良いと思っています。積分定数さんの論で私の「形を作る必要論」はひっくり返らなかったというた゜けの事なのです。ひっくり返さなくては気が済まないということであれば、まあ、おつきあいしても構いませんが、あまり乗り気にはなりませんね。

これについてもわからないのですが、私が何をひっくり返そうとしているというのですか?

>「形をつくる」論の不要論

など、私は主張したつもりはないのですが。
「みはじ」への批判とか、そういうのはありますが、・・・

投稿: 積分定数 | 2009.09.02 13:01

>技術開発者さん

再度お聞きします。

私が何をひっくり返そうとしているというのですか?

投稿: 積分定数 | 2009.09.08 12:32

 はじめまして。

>「えきに電車が5台あります。あとで3台きました。えきには何台電車がありますか。」などの問題です。
>これは、5+3ですが、3+5、とはなりません。

 それを強制して、理科の試薬は作れたとして、もし後で物理を習うとしたら、落ちこぼれますよ。

 静止と等速直線運動は区別できない。ニュートン力学では非常に重要な原理です。両者を含めて慣性系(加速度を感知しない系)と呼びます。

 上の例で言えば、5台の立場からも、3台の立場からも、現象を見ることができなければいけない。

 さらには、駅から見ることも、全て自由に視点移動して、基準を変えながら、現象を見ることができなくてはいけない。そうでなくては、物理の入門すらできなくなります。

 さらに、3台と5台の質量が分かれば、その相対速度から分かる重心の移動に視点を写し、重心基準で考えることがいい場合もあり、そういう見方もできなければいけない。

 これは「しないといけない」という、ある意味、ネガティブな、自由な考えを規制するようですけど、それができると、実に自由自在に物事を見ることができるようになり、いろいろな角度から、物事を眺めて、いろいろに考えることができる、そういう思考に自由が許されていて、かつ現実に立脚した世界に入って行くことができます

 それを否定するならば、ガリレオ・ガリレイはがっかりし、ニュートンは顔をしかめるでしょう。せっかく大昔に分かって、今では当たり前になっていることすら分からなくなる。

 試薬を組み合わせるには順番がある。物の動きでは順番がない。料理には調味料の順番がある(し、引き算ができない)。朝、学校でクラスの全員が揃うのに順番は、誰からと決まってなくて、誰が先で誰が後などという順番はない。

 算数的にそれらを考えたとして、たとえば8にいろいろな意味を強制する理由はありませんよね。手順通りにやる必要があれば、きちんと覚えてそうするし、別に手順がない、あるいは手順にこだわることが害になるなら、手順は無視するようにできるようになる。それが大事でしょう。

 国語、算数、理科、社会、保健体育、図画工作、音楽、家庭科、給食、昼休み等々。それぞれが、己の都合だけを主張して、互いに害しあってはいけませんね。全く矛盾しないようにするのは無理かもしれませんが、できるだ互いに協調して、子どもに育ってもらうことは、大原則ではないでしょうか。
 もちろん、それは中学校の教育、さらにはその後も含めてにスムーズに進めるよう、方向性も見据える必要もあります。

 算数は、算数それだけなく、理科にも社会にも役立つはずです。国語からも算数を読み取れると、算数が好きになってくれていれば、本を読んだりするのも楽しくなれる。

 逆に算数の、嘘も方便のはずの順序やら、教育方法を考える人だけが気にすればいい加減乗除の分類を、そういった算数の「お約束」を気にするあまり、童話もあちこち数が気になって読めない。絵を描くにも、「立式」として間違いかもしれないと気になってできない。

 算数を先生の言う通りに一生懸命勉強したら、他の教科が分からなくなった。

 それではいけませんね。

投稿: K.K | 2012.01.18 12:22

K.Kさん。
初めまして。
コメントありがとうございます。

追記にもありますように、この記事を書いたときは、
かけ算の順番はいずれ子どもたちが克服するものとして、まずは「導入時」に意味を教える事が肝要ではと考え、また実際、そのようにして子どもに指導していた経験を書いたのです。
が、
積分定数さん、さつきさん、きくちさんや黒木さんから丁寧なコメントを頂き、掛け順に拘る必要はないのでは、、、と改めて思っているものです。
今まだ、さかんな掛け順論争をあちことで拝見して、いろいろと考えています、、、

さて、頂いたコメントの以下の文はまさにその通りだと私は考えています。
=============
これは「しないといけない」という、ある意味、ネガティブな、自由な考えを規制するようですけど、それができると、実に自由自在に物事を見ることができるようになり、いろいろな角度から、物事を眺めて、いろいろに考えることができる、そういう思考に自由が許されていて、かつ現実に立脚した世界に入って行くことができます
=============
実際、そのような柔軟な思考を子どもたちに是非身に付けてもらいたいと思っています。

私は今は教えることから遠ざかっているのですが、
若い教師の知り合いには、しっかりとその旨伝えていきます。
これからも、
いろいろとご意見頂ければ、参考にします。
ではまた。

投稿: せとともこ | 2012.01.18 17:31

せとともこさん:

 いきなり偉そうに差し出口を利いた無礼な新参者に、お叱りを頂戴する所を、逆に丁寧にレスをしていただき、大変恐縮です。

 引用して頂いた部分は、申し上げたいところではあるのですが、そこだけ取り出しますと、掛け算の順序について、掛け算に慣れてもらうための一時的で便宜的な措置、つまり嘘も方便ということでの、掛け算の式に書く数(掛けられる数は塊の数、掛ける数は幾つずつ等)の順序の固定をどうするかが、少し曖昧になるように危惧します。

 以下のように、せとももこさんが現在はお考えと受け取ってもよろしいでしょうか?

・算数では、原理的に掛け算に順序はないので、いったん順序を教えても、できるだけ早くに取り払い、そういう順序は自由だという方向に教えて行く。

・数学では、数学基礎論的な定義として、二つの自然数の掛け算を足し算的に定義しているもの、その二つの自然数は任意に選べるので、そこに意味を付した数の順序は求められない。足し算も同様。

・やはり数学基礎論としての定理として、掛け算と足し算は二つの数を入れ替えるだけという交換法則が成り立つので、こに意味を付した数の順序は求められない。

・理科的(あるいは物理学的)に、助数詞を単位のように適切に扱って(個は個だけで、「つ」と混ぜない、順序の都合で無単位的としない等)、掛け算の順序如何に関わらず、単位的な助数詞がきちんと計算され、答には適切な助数詞が付くので、掛け算の順序に拘る必要はない。

 これから活躍するべき若い教員の皆様へ、いろいろと助けて行かれるとのこと、教育に対する熱意あってのことと感嘆いたします。
 せとももこさんと若い教員の皆様が、今後もご活躍されることを祈念いたします。

投稿: K.K | 2012.01.20 08:01

K.Kさん。
こんにちは。
再度、丁寧かつ示唆に富むコメントありがとうございます。
頂いたコメント、とくに私の現段階の到達状況をまとめていただき恐縮です。

では、
頂いたコメント考えさせていただきました。
==========
・算数では、原理的に掛け算に順序はないので、いったん順序を教えても、できるだけ早くに取り払い、そういう順序は自由だという方向に教えて行く。
(コメント引用より)
==========
はい。
まさにその通りです。
順番はともかく、「いくつ分と単位量あたり」の概念は、やはり身につけさせたいと考えていました。
ゆえに、子どもたちには、「順番はどちらでもOKだが、文章題を読むときは頭の整理としてのいくつ分、単位量、全体量は理解してもらえれば嬉しいな、、、とは今も思っています。
勿論、それは頭の中での整理という意味でです。
KKさんが次にまとめて下さったように「意味付け」については、いずれとっぱらわなければならないものであることには賛成です。
ゆえに子どもたちにもその部分はしっかりと伝えていきたいし、いかねばあんりませんねぇ、、、
つまり、こうした便宜的意味も、いずれいずれ抽象として「数字」のみになること。ゆえにその場では交換法則はなんら矛盾しないことを、、、

私は以前は、子どもたちが数学を学ぶ時点で、それは克服できるものと思ってかなり楽観的だったのです。
が、
積分定数さんをはじめ、多くの方から、「実態」を知らされ、震撼しています。
改めて「教育」の責任を思うものです、、、
フゥウウム。

以前、
「おかあさんのための勉強教室」をしてくれと依頼された時、前だったら何も疑問をもたず「かけわりず」を伝えていたのでは、と思いました。
黒木さんに思わずお礼のメールを打っていたのですよ。
私に出来る事は、本当に些細な事なのですが、
身近な教師や保護者に伝えていけたらと願っています。
またアドバイスして下さいね。
楽しみにしています。
では。


投稿: せとともこ | 2012.01.20 11:55

 ごぶさたしています。前回やりとりしてから世の中は大変なことになりましたが、お元気でしょうか。

 私は相変わらずかけ算の順序を含めた算数教育のあり方についてあれこれ考えています。

>多くの方から、「実態」を知らされ、震撼しています。

ここの部分ですが、私からしたら、瀬戸智子さんがここで書かれているようなこと自体が、「震撼すべき事態」なのです。

 「追記」を書かれたようですが、結局私が何を指摘したのか全然理解されていないように感じました。

 瀬戸智子さんは、算数・数学を理解していないと思いますよ。そこは自覚なさった方が良いと思います。

投稿: 積分定数 | 2012.05.28 09:31

ご指摘、ありがとうございます。
参考にいたします。

積分定数さんのご活躍お祈りしています。

投稿: せとともこ | 2012.05.28 10:35

なにやら掲示板でまた管を巻いているようですわ。

>「追記」を書かれたようですが、結局私が何を指摘したのか全然理解されていないように感じました。

そういう積分定数は数学が理解しているのだろうか?私は理解していると信じてやりたい。しかれども

3×2=3+3

とするなら

2×3=2+2+2

であって

2×3=3+3

は「法則」であって「もともとの意味」ではない。

これは正しい理解か?正しくない理解か?

このい単純至極「yes/no」で答えられる問いかけに、積分定数(に限らず「掛け算否定派」の阿呆連中)は、まともに答えようとしないのだ。

理解出来ないのか?答えると都合が悪いのか?

投稿: nomisuke | 2014.08.14 01:47

積分定数は上記掲示板であなたのことを

>なんで単純なことを面倒くさく考えて、それを他人にまで要求するのか?

と批判しとるが、

 2×3=2+2+2

としたら

 3×4=3+3+3+3

(ア・プリオーリには)であって

 3×4=4+4+4

では有り得ない、と考えるのがもっとも単純な理解。

なんで単純なことを(どっちも同じなどと)(「同じ」というのは未定義用語で意味なし!)面倒くさく考えて、それを他人にまで要求するのか?

然ういう事を私は言いたい。

世の中の阿呆連中にな。

投稿: nomisuke | 2014.08.14 02:03

こんばんは。
コメントありがとうございました。

かけ算問題については私もまだ結論は出ていないので皆さんのご意見をお聞きしながら考えています。
貴重なご意見ありがとうございました。
今後の参考にさせて下さいね。

投稿: せとともこ | 2014.08.14 21:10

せとさん。

お騒がせして申し訳なかいことでした。

「自分中心得手勝手な説」を強調してばかり。質問ははぐらかす。言いたい事だけ言って「数学を理解していない」などと吐き捨てる。気が向くとかつて絡んだ連中への(内容のない悪口だけの)批判を掲示板に書き込んで悦に入る。困ったものだ。(批判するのはよろしい。吐き捨てるのも結構。質問をはぐらかすのはいただけないね。)

投稿: nomisuke | 2014.08.15 02:40

以下読者の御参考までに。

ということで最初の定義に忠実なら
3×4 → 3+3+3+3
だけど、4+4+4 と 3+3+3+3 は
■■■
■■■
■■■
■■■
から同じであることは一目瞭然。
だから、実は3×4は、4+4+4でも3+3+3+3でもいい。
だから、3×4と4×3も結局は同じ事をしていることを納得してもらい、以後は順序に意味は持たせない。(投稿: 積分定数 | 2009.08.08 04:51)

この何処がインチキか。以下に▶で示しておく。

ということで最初の定義に忠実なら
3×4 → 3+3+3+3 
だけど(▶その通り)、4+4+4 と 3+3+3+3 は
■■■
■■■
■■■
■■■
から同じであることは一目瞭然。
(▶稚拙な言葉でごまかした「インチキ」。上の図から「一目瞭然」なことは
 4+4+4=3+3+3+3
であることで「最初の定義に忠実」に書くと
 4×3=3×4 
であること。この等式は「(最初の定義に従って計算した)両辺の計算結果として得られる2つの数が等しい」ことを表しているに過ぎず「同じである」ことなど示していない。そもそも
 4+4+4 と 3+3+3+3 は同じ
と積分定数が言うときの「同じ」は無定義用語。従ってその言説は無意味。「同じ」とは何を意味するか定義しない以上「〜と〜は同じ」といくら主張しても無意味である。)
だから、実は3×4は、4+4+4でも3+3+3+3でもいい。
(▶すぐ上でインチキをしたから「だから」という論理関係は無意味。さらに「でもいい」と積分定数がいうときの「いい」とはどういうことかも不明瞭。最初の定義を
 3×4=3+3+3+3 (ア)
としても
 3×4=4+4+4   (イ)
としてもどちらにしてもよいというのであれば「正しい」。ただしそのとき(ア)の定義では
 4×3=4+4+4
となって(定義に従って計算式を書くと)
 4×3=3+3+3+3
ではない。一方(イ)の定義では
 4×3=3+3+3+3
となって(定義に従って計算式を書くと)
 4×3=4+4+4
ではない。(ア)としても(イ)としても
 4×3=4+4+4

 4×3=3+3+3+3
が同時に定義に従って書いた計算式となることは「あり得ない」。)
だから、3×4と4×3も結局は同じ事をしていることを納得してもらい、以後は順序に意味は持たせない。
(▶ここも、上でインチキをしたから「だから」という論理関係は無意味。またここでも「結局は同じ事をしている」という無定義語である「同じ」を用いたごまかし表現を使っている。
 4×3=3×4 
であることは交換法則として学ぶこと。この式に(おそらく積分定数の主張である)「(両辺の計算とも)結局は同じ事をしている」などの「其れ以上」の意味を持たせる必要はまったくない。持たせたいというのは「積分定数氏個人の趣味的考え」に過ぎない。)

以上。

投稿: nomisuke | 2014.08.15 02:41

相変わらず、算数教育の研究をしています。教えていただきたいことがあります。

【この頃の算数は合併と添加が一緒に出てくるので、】

とありますが、具体的にどの教科書会社のものでしょうか?

私の住む地域で使われている学校図書では合併と増加が区別されていて、むしろそのことで「異なる足し算」を強調しているようです。ほかも同様だと思ったのですが、一緒に出てくる教科書があるのならぜひ知りたいです。

投稿: 積分定数 | 2015.12.20 16:44

>教科書作成のときは、どの順番で教えると子どもが速やかにたし算の演算になじむかと、研究されています。
順番としては「合併、添加、増加」がいいとされているのですが、この頃の算数は合併と添加が一緒に出てくるので、
子どもたちは戸惑う場合があります。

これは教科書で合併と添加が一緒に出てくるということでしょうか?具体的にどの教科書会社の教科書でしょうか?

投稿: 積分定数 | 2015.12.20 19:49

積分定数さん。
こんにちは。
ご無沙汰しています。
年末でバタバタしていたので、お返事、遅くなりました。

さて、
お尋ねの件ですが、
私はもう10年くらい、仕事をしていないので、もう手元には当時の資料はなくて、教科書がどこのものかは、、、ちょっとお答えできなくて、すみません。
少しでもお役にたてればよかったのですが。。。

投稿: せとともこ | 2015.12.24 10:55

了解しました。ありがとうございます。

ところで、足し算には合併と添加があるとか、そういうことはどこで身に着けたのでしょうか?数教協関係の書物などからでしょうか?

投稿: 積分定数 | 2015.12.25 17:52

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 足し算には、「合併・添加・増加」の意味があるらしい。詳細は検索して欲しいが、 [続きを読む]

受信: 2011.02.21 11:42

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かけ算に関しては、このブログ全般の大きなテーマなので繰り返し述べることになる。だからここではあっさり済ませる。 [続きを読む]

受信: 2011.02.23 11:14

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