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2009.07.09

帰無仮説を学びながら思ったこと

先日、Rを使って帰無仮説の勉強をしていました。
ある遺伝子のrigion1は mRNAの分解を阻害していることが分かっています。
rigion2はその役割とは無関係であるとされているのですが、
rigion1が機能的に働くには変異が少ないことが期待されます。
そこでrigion1に起きている変異とrigion2の変異の量を比べることで結論に導こうという統計検定です。
そのために用いる仮説が帰無仮説。帰無仮説については、その考え方は、
統計的検定の基礎に詳しくあります。
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「帰無仮説」
 統計的検定で重要な論理に「帰無仮説」というものがあります。これは、“差がある”ことを確認するために、“差がない”という前提(仮説)から出発する、つまり“無に帰したい仮説”から出発するものです。
 統計的検定は、確率に基づいて関係を推定します。“差がある”という前提から出発すると、得られたサンプル間のズレは、無限にあり得るズレの1つのに過ぎなくなり、その確率は計算しようがありません。そこで、ズレがないという前提から出発することにします。
 そうすると、得られたサンプル間のズレは、実際にはズレのない同一の母集団から取り出された見かけ上のズレ(誤差)に過ぎないことになりますから、実際に得られたサンプル・データのズレを確率分布として計算できます。すなわち、正規分布する正規母集団からの取り出された平均値間のズレはt確率分布することがわかっています。したがって、現実に得られた平均値のズレが、その確率分布の中でどれぐらいの確率で起きるものかを計算することが出来ます。つまり、帰無仮説が正しい場合(2群間に本当は差がない場合)に実際起きているようなズレが生じる確率を計算することができます
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さて、
こうしてデータを統計処理すること得られた結果は、
「差がある」
「差がない」
と言うものです。
そして「差がある」については「差が無いとはいえない」という結論になるのですが、
これってなかなか面白いですね。
「差が無いとはいえない」と言うなんだか曖昧な表現にこそ、
対象への誠実な態度を感じたりします。
「白だ」
「黒だ」
って決めることって、すごくすごく怖いことです。

なんというか、まずは一呼吸おいて、それからまた、考えていきましょう、と言う待合を感じます。
科学は、なんでもかんでも「決めつける」と言う事を聞くことがありますが、
私は科学こそ、決めつけることには臆病であると思います。
ある仮説に対して、何回も実験、観察そして検証を試み、
そして出した結論。
しかし、その結論に対しても、反証が提出されれば、棄却することに吝かでない。
そうした柔軟なものでは、、、と私は思います。


と、言うことで汗だくになり頭を抱えて帰無仮説を勉強しながら、思ったことをツラツラと。


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コメント

 お久しぶりになってしまいました。彰の介と申します。
上記記事大変共感する部分があり、コメントさせていただきました。
 
私は医療関係に身を置いておりますが、よく「A」という薬と「B」という薬とどっちが効果があるかなんていうstudyがあります。結論として、「有意にAの方が効果があった」なんてことになるのですが、これがいつの間にか「B」は効果がない薬で、「A」を使わなければダメという解釈にすり替わってしまうのです。まあ、要するに薬屋の陰謀です(笑)。
 
 「A」の方が効く人が多かったことはもちろん重要でしょうが、「白か黒か」の話ではありません。「A」が効かない人もいれば、「B」の方がよく効く人もいるわけです。

そのあたりの解釈に関し、薬屋は決して臆病ではありません(笑)。
 
 あまり書くと、闇討ちされる可能性があるのでこのあたりにしますが、科学の結果も、扱う人間次第ということになりましょうか。(話の主旨が全く違っていたらごめんなさい)

投稿: 彰の介 | 2009.07.09 22:58

彰の介さん。
こんにちは。
ご無沙汰しています。
お元気でしょうか???
さて、コメントありがとうございます。
そうかぁ、、、
あなたのお仕事は、まさに、そんな統計の最先端というか実践の場ですね。
新薬開発で競っている薬品会社の営業の方、相手に患者さんに効く、効かないという二者択一で選択を迫られると、悩ましいものがありますね、、、
確かに言われるように、
結局、最終的には「ひとの判断」だと私も思います。
統計だった、どこまでを棄却するか、しないか、、、と言う判断は人間にゆだねられています。


ところで、彰の介さんは「臓器移植」に関してはどのようにお考えですか???
もし、おいやでなければ、またご意見お聞かせくださいね。

では、、、また。

投稿: せとともこ | 2009.07.10 10:33

 彰の介と申しますが、臓器移植のお話がありましたので、再びこの場を借りてコメントさせていただきます。
 一応、私の意見としては、臓器移植法の是非(http://ranosuke.cocolog-nifty.com/akira/2009/04/post-a49f.html)
 という記事を書いております。大きく言えば、私は臓器移植に賛成です。そして現行法よりも一歩踏み出し、家族の同意のみでも移植可とし、小児移植への道を閉ざすべきではないと考えています。
 臓器移植に反対の方がいるのは承知していますが、これらの方は「移植拒否」ということで死生観を守れるのではないかと思うのですが、それではだめなのでしょうか。脳死になったら強制的に移植が行われるわけではないのですから。
 記事にも書いたのですが、私の家族が脳死になったら、おそらく「移植拒否」をすると思います。私のように一方で臓器移植賛成といっている人間が、自分のことになったら反対・・・ではだめでしょうか。いや、脳死で移植を強制するような雰囲気こそあってはならないことだと感じています。したがって、強制ではない以上、脳死を人の死とする死生観と、死としない死生観は、改正法の中でも共存可能であると考えています。
 ちょっとわかりにくい話かもしれませんし、賛否両論あるかと思いますが、またご意見いただければと思います。

投稿: 彰の介 | 2009.07.10 19:17

彰の介さん。
こんにちは。
コメントありがとうございました。
なんだかバタバタしていてお返事遅くなりましたが、
あなたのエントリー、しっかり拝見いたしました。

私は、いまのところ、保留。考え中です。
いろんなところでの意見の交換を参考にしたり、
ここでいつもコメントをくださる技術開発者さんやLooperさん、面影さんなどのご意見を聞いたり、、、という段階です。
あなたの専門家としてのご意見も伺い、参考になります。

個人的には、
移植も医療の一つの選択であると思うので、この技術が進むことで、多くの方々が助かると考えれば、
法律的な枠の取っ払いは、前進と思います。
ただ、今のままでは、結局中途半端な道しか開くことができないのでは???
と、考えると、これは医療にとって不幸ですよね。
つまり、
国民の納得や理解を得る方法をもっと真剣に考えて欲しいですね
法律の問題は、ここまでとして。
では、いざ、現場ということになると、いろいろ大変だろうな、、、と想像いたします。

と、言うことで、まだまだ考え中です。
また記事に書いたときは、是非ご意見いただけたらと思います。
では、、、

投稿: せとともこ | 2009.07.11 13:53

なんやら学問ではデータ・統計とってそれが有効かどうか判断するそうですね。ばらつきは切捨て?になるそうです。

有効かどうかで差がある・ないと同じデータでも変わっちゃうんですね。

学者の方は有効か無効かでしょうけど、

うちはそれより差別偏見???いや人格保全・他者の肯定というほうがいいかしら?
これが気になります。
この「違う・同じ」はとても頭痛いです。なんとかしてみんなが人格とか個々の尊厳を社会?から否定されることなく、おびえることなく生きれるのか悩む日々です。

投稿: あゆ | 2009.07.13 09:35

あゆさん。
こんにちは。
なるほど、、、
「差別」問題ですかぁ。
ふぅむ。

難しいですね。
偏見や差別って、
頭では理解していても感情では、なかなか払拭出来ない現実があるようです、、、
ただ、そうしたものも「作られたもの」である、という認識が敷延することで、
いつか時代とともに葬られていけばいいな、、、と思います。
時間の解決、ということしか今はないのかな???あと、教育でしょうか????

投稿: せとともこ | 2009.07.14 11:24

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