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2009.09.28

終末医療

先日、学校教育の中での科学と宗教と言うエントリーを挙げました。
元の話題はFSMさんのブログ記事から「科学と宗教」を抜き出して書いたものです。
その後、さらにFSMさんのブログは充実して、質の高く濃いものへとなり、私も多くを学びました。
発展した議論は、ついに「人工宗教」でニセ(疑似)科学はなくせるかと言うタイトルへと進み、追いかけるのに私もてんてこ舞い。
エントリー内容や、いろんな方のコメントから得ること大。
で、
で、
相変わらず、気になったら、先に進めない私は、どうにも気なる箇所にひっかかり足踏み。
ズバリ。
「人工宗教」。
うううううううう=====ん???????
なんやソレ?
ですが、、、、、
ただ、FSMさんのところでの討論は、人工宗教へと進んだ経緯はニセ科学の代案としてのソレで、
十分意味のあるものでした。
と、言うことで、
ここからは、
FSMさんやメカさんとは「さようなら」して、勝手に一人歩き。
FSMさん、メカさん。
ありがとうございました。

さてさて、、、、、、、

人工宗教かぁ????

そもそも宗教ってなんだ?
いつも通りWikipediaのお世話になれば、
「宗教(しゅうきょう)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」そうです。
ムムム。
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念かぁ〜〜〜〜
なるほど。
尤も「宗教とは何か」と言う問いには「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」とwikipediaにはあります。
またその表現方法も多様です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一神教と多神教、汎神論
民族宗教と世界宗教
伝統宗教(既成宗教)と新宗教(新興宗教)
自然宗教と創唱宗教
アニミズム・アニマティズム・シャーマニズム・トーテミズム
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ウウウウム。
この中身を見ていけば、もう迷路に入ること間違いないし。
人工????
かぁ。
と、言うことで、そうした表面からのアプローチは専門家に任せて。
「なぜ、宗教を必要とするか」という切り口で今日は書きます。

ズバリ。
いずれ死ぬからでは、、、と思います。

死ぬから生きることの意味を問うために宗教があるのでは、と私は思います。
死ぬこと、死んだあとの世界への意味や解釈は、分かりようがないのですが、
今、生きている、ということは分かります。
そして、どの様に生きるか、、、、と言うことを教えてくれるのが宗教かなぁ?と思っています。
拝めば助けてくれるとか、
お賽銭をあげれば自動販売機のように幸せ切符が出てくる、というようなものではないと思います。
むしろ、
宗教は敢然と向き合うことなのですよね、人生と。

そこで思い出すのは先日見たドラマ。
「天国で君に逢えたら」
実に良いドラマでした。
実在の人物をモデルにしているのですが、今回のドラマは患者や家族がヒーローではなく、
カウンセラーの役を担う精神科医でした。
頼りなくて、真剣で誠実な役どころは二宮和也君にピッタリ。
さて、このドラマ、何がいいって、
人が死ぬところの臨場が映し出されていないので、
やたら視聴者の涙を誘わない。
誘わないから、その分、観ている者は、「生きることと死ぬこと、遺していくことと遺されていくこと」の重みをそれぞれに考えることが出来るのです、、、、、
終末を前にして現医療の無力であることを明らかにしていきます。
していきつつも、、、、、
医療スタッフは患者の人権と尊厳を支えるために最大の努力をしている姿から、死を目前にしてどう臨むのか、、、、、受け入れるのか?????を問います。
それは結局、宗教になるのだろうか?
信仰になるのだろうか?????

うううううう〜〜〜〜〜ん。

確かにそうした心の受け皿も大きいのだろうな、と思う一方で、
現実の終末医療は延命治療のあり方を求めて、多くの課題を積んでいます。
「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」についてを見ると、以下の通り。
==============

終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン
1 終末期医療及びケアの在り方
① 医師等の医療従事者から適切な情報の提供と説明がなされ、それに基づい
て患者が医療従事者と話し合いを行い、患者本人による決定を基本としたう
えで、終末期医療を進めることが最も重要な原則である。
② 終末期医療における医療行為の開始・不開始、医療内容の変更、医療行為
の中止等は、多専門職種の医療従事者から構成される医療・ケアチームによ
って、医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべきである。
③ 医療・ケアチームにより可能な限り疼痛やその他の不快な症状を十分に緩
和し、患者・家族の精神的・社会的な援助も含めた総合的な医療及びケアを
行うことが必要である。
④ 生命を短縮させる意図をもつ積極的安楽死は、本ガイドラインでは対象と
しない。

2 終末期医療及びケアの方針の決定手続
終末期医療及びケアの方針決定は次によるものとする。
(1)患者の意思の確認ができる場合
① 専門的な医学的検討を踏まえたうえでインフォームド・コンセントに基
づく患者の意思決定を基本とし、多専門職種の医療従事者から構成される
医療・ケアチームとして行う。
② 治療方針の決定に際し、患者と医療従事者とが十分な話し合いを行い、
患者が意思決定を行い、その合意内容を文書にまとめておくものとする。
上記の場合は、時間の経過、病状の変化、医学的評価の変更に応じて、
また患者の意思が変化するものであることに留意して、その都度説明し患
者の意思の再確認を行うことが必要である。
③ このプロセスにおいて、患者が拒まない限り、決定内容を家族にも知ら
せることが望ましい。

(2)患者の意思の確認ができない場合
患者の意思確認ができない場合には、次のような手順により、医療・ケア
チームの中で慎重な判断を行う必要がある。
① 家族が患者の意思を推定できる場合には、その推定意思を尊重し、患者
にとっての最善の治療方針をとることを基本とする。
② 家族が患者の意思を推定できない場合には、患者にとって何が最善であ
るかについて家族と十分に話し合い、患者にとっての最善の治療方針をと
ることを基本とする。
③ 家族がいない場合及び家族が判断を医療・ケアチームに委ねる場合には、
患者にとっての最善の治療方針をとることを基本とする。

(3)複数の専門家からなる委員会の設置
上記(1)及び(2)の場合において、治療方針の決定に際し、
・医療・ケアチームの中で病態等により医療内容の決定が困難な場合
・患者と医療従事者との話し合いの中で、妥当で適切な医療内容についての
合意が得られない場合
・家族の中で意見がまとまらない場合や、医療従事者との話し合いの中で、
妥当で適切な医療内容についての合意が得られない場合
等については、複数の専門家からなる委員会を別途設置し、治療方針等につ
いての検討及び助言を行うことが必要である。
======================


と、言うことで、ドラマとは違い、現場は倫理と法律にも縛られながら、
患者ひとりひとりと立ち向かっています。

私たちは誰だっていずれ迎える死。
その事実を受け止めるために、「生きる」ということの意味やあり方を問うていくことと同時に、
医療が抱える問題にも無関心でいてはならないのだと改めて思うものです。

以前江原さんが大学で講義?と言うエントリーを挙げました。
その折、私は以下のように書きました。
============
これから、
終末医療という最も人間が畏れ、戦き、
そして如何に威厳をもって貫くかという「人として試される」現場で働く方々。
その彼らが、患者さんや家族の方々に、
安易に「おおいなるもの」に頼らせようとする姿勢は、
物事の本質と向き合うエネルギーをそぐものです。
考えることや感じることや対峙することを、全て何者かに預けてしまうと言うことは、
一見はラクに思えますが、実際は問題の放棄です。
医療現場のスタッフがすべきことは、ただ一つ。
医療のプロであることです!!!
最後まで患者さんとともに戦うこと。
病と戦うことです。
==============

終末を迎え、心のケアは絶対に必要です。
が、
そうしたケアも含め、医療スタッフに求められるのは「技術」ではと思います。
患者や家族に事実を伝え、知ること。
です。

つい先日も臓器移植についてエントリーを挙げたのですが、その時も同じように考えました。
尊厳死や安楽死。
そして脳死。

この問題、今後も考えていきます、、、、、、、、、

ただ、ひとつだけ言えることは、
医療の現場においても、
あるいは教育の現場においても、
はたまた全ての現実の中で「擬似」と言われるものは決して最終的な安寧ではないと思うものです。

もともとの話に戻すならば、
疑似科学の代案としての人工宗教なんてものが学校の現場で教えられるなんてことは、
決してあってはならないのでは、と感じます。
この問題もいずれまた。

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コメント

こんにちは、せとさん。

>いずれ死ぬからでは、、、と思います。
>死ぬから生きることの意味を問うために宗教があるのでは、と私は思います。

たぶん、おっしゃりたい事は「死ぬという事を認識出来るから」という意味だろうと思います。他の動物も死にますが、特に宗教を必要としているとは思えませんからね。

私は「知恵の木の実を食べた代償」なんて言い方をします。人は知性を持つことにより、「先を考える」という事ができる様に成った生き物なんです。今、腹一杯食って満足しながらも「この先もきちんと食えれば良いな」と思い「この先食い物が無くなって飢えたら困るな」と思うのが知性というものなんですね。この、「先を考える」という事ができるという事が、人が発展してきた理由でもあるのです。飢えには備蓄を、寒さには火を、外敵には備えを、病気には治療をと「先を考え」ては用意することで生き延びる場所を増やしてきたわけです。ところがね、先を考えてもどうにもならない物があったんですね、それが死というものなんです。「いずれは皆必ず死ぬ」という予測は立つけど、できたことは、その時期を少しでも先に延ばすことだけで、回避する事はできなかったんですね。そこに「知性をもつことの代償」としての苦しみが生まれるんです。「死んだらどうなるのだろう」という回答の無い苦しみです。そして、その回答のない問いかけへの慰謝として宗教は存在する訳です。

なんていうかな、現代の日本人は少し、この根元的な「回答のない問いかけ」に対する慰謝としての宗教というものを軽んじすぎている気もするんですよ。「私は無宗教です」とか平気で言うわけだけど、じゃあ、この「回答のない問いかけ」に対して強いのかというと、単に目をつむって意識すまいとしているだけで、心の奥底には苦しみを抱えて生きている感じかな。そこにろくでもないカルト宗教などにつけこまれる弱さを持っている気もしますね。

投稿: 技術開発者 | 2009.09.29 08:40

考えるのに、眉山という映画・演劇はよかったです。
悪人はでてきません。みんなそれなりに大変です。
医療問題をみるのによさそうな題材ぽぃです。
今度書きたいです。

投稿: あゆ | 2009.09.29 08:59

>④ 生命を短縮させる意図をもつ積極的安楽死は、本ガイドラインでは対象と しない。<
ここに医療としての限界を感じるのですが、知性ある人間として死に方(早く死ぬ)を選択出来る道も残して貰いたいですね。
死は怖いものですが覚悟でもあると思うんです。私はそうして幸運にも生き残りましたが、出来るなら無残な死に方ではなく安楽死を望みます。自分勝手すぎますかね…

投稿: | 2009.09.29 11:11

こんにちは、よさん。

>ここに医療としての限界を感じるのですが、知性ある人間として死に方(早く死ぬ)を選択出来る道も残して貰いたいですね。

法学的に言うと「安楽死」問題というのは「心変わりの自由」問題なのね。人は心変わりするものなのね。だから「一生添い遂げよう」と思った人と離婚したりもしますよね。面白い判決があってね。ある人が共同生活を教義とするカルト宗教にのめり込んで、全財産を寄付して教団に入られたのね。ところが途中で目が覚めたというか教義が信じられなくなって、脱会したいから寄付したお金を返せという裁判を起こされた訳ね。その時の判決がふるっていましてね。「寄付はきちんとした自由意志で行われていて有効である。しかし、全財産の寄付を全て有効としてしまうと原告の選択の自由(つまり教団を脱会する選択)が大きく損なわれる可能性が高い。その選択の自由を守るために半分は返しなさい」なんて判決なんですね。心変わりの自由もまた人の権利として守られなくては成らないわけです。

なんていうかな、結婚だとか財産の寄付というのは、こうやって後から「心変わり」したときになんとかなる訳ですよ。ところが「安楽死」だけはね・・・。

とまあ、安楽死問題を考えるときに、一つだけ考えておいて欲しいのが「心変わりの自由」という事なんですね。

投稿: 技術開発者 | 2009.09.29 13:08

「心変わりの自由」ですか…
確かに死んだ後に、もうチョッと生きていたかったなんて云っても、こればかりは、どうしようもありませんからね。
死ねば無に帰して何も無くなりますから後悔もないでしょうけど…
生まれるときは自分の意思とは関係なく生まれる訳ですから、死ぬ時ぐらい自分の意思を反映させたいと思うのですが…
「心変わりの自由」‥心に刻んでおきます。

投稿: | 2009.09.29 13:37

技術開発者さん。
あゆさん。
よさん。
コメントありがとうございます。
このテーマ、重くて大切で私もおそるおそる書いています。
頂いたコメントからさらに考えさせていただき、本当に有り難いことと感謝しています。


技術開発者さん>
「現代の日本人は少し、この根元的な「回答のない問いかけ」に対する慰謝としての宗教というものを軽んじすぎている気もするんですよ。」


あああああ、、、
凄く分かります。
これって、おおにして、宗教への警戒というか防御でもあると思うのです。
新興宗教やカルト、はたまた占い、などなど「人間が考えること」を切り捨てさせるような巷に溢れる物への警戒ではないでしょうか?????
本来あるべき宗教はズバリ「教え」ですもんね。
言ってみれば「科学」であると私は思っているのですが、、、、、、、、
如何でしょうか?


あゆさん>

そうですか。
機会をみつけて、観ることができたらと思います。
情報、ありがとうございますo(*^▽^*)o


よさん>
「生まれるときは自分の意思とは関係なく生まれる訳ですから、死ぬ時ぐらい自分の意思を反映させたいと思うのですが…」

そうですね。
この問題、じつは終末医療の大きな問題なのです。
なにしろ「本人の意思」が判定できる状態か否か。
これに関しては2006年の富山県、射水市での「人工呼吸器」とりはずしが社会的問題になったことを思い出します。
いずれにしても、
死というものへの捉え方は日常として、自分の身近に考えるものだろうと思います。
その方法は人それぞれですが。
そこからの出発として生きることへと繋がったらいいな、、、と個人的には思っています。


投稿: せとともこ | 2009.09.29 15:49

こんにちは、せとさん。少し無駄話です。

儒教というのは宗教であり、基本的には祭礼も執り行います。創始者の孔子というのはその祭礼を取り仕切るシャーマンであったんですね。ところが、孔子自身が「我いまだ生を知らず、いずくんぞ死をや」なんて言いまして、要は死後の世界観を持たない訳ですね。私は祭礼部分と切り離して儒教と呼ばずに儒学なんて言ったりするのはそのためなんですけどね。

死後の世界観をもたないけど、教えはあるんですね。その教えというのは「精一杯良く生きろ、そうすると死も怖くは無いよ」みたいな言葉になるのかな。「生死は昼夜と一つの如し」なんて言葉もあるのね。でもって王陽明が「昼が分かれば夜も分かるみたいに、生きると言うことが分かれば死もわかる」なんて教えて、弟子が、「私は生きていますが、死は分かりません」なんて言うと、「朝起きて、ボソボソと飯食って、ボーっと過ごしていて、どうして生が分かろうか」なんてね、「お前は昼を知っていると思っているだけで本当の昼は知らないので夜も知っていると思っているだけで実は知らないのと同じで、良く生きると言うことに精一杯でないから生を知っていない。だから死も分からないんだ。」なんて叱られていたりするのね(笑)。

>本来あるべき宗教はズバリ「教え」ですもんね。
>言ってみれば「科学」であると私は思っているのですが、、、、、、、、
>如何でしょうか?

なんていうか、いわゆる科学という「解き明かすもの」とは本質的に違うんだけど、人間という知性あるものにとって必要なものであると思っています。上の儒学の教えは死を解き明かしてはくれないけど、怖さというか知性が持つ「回答のない問いかけ」への慰謝は含んで居ると思っているわけですね。

私は若いときからずいぶん「死」について考えてきた面があってね。最近、少しずつこの儒学の「精一杯良く生きろ、そうすると死も怖くは無いよ」が少し分かった気がするのね。

投稿: 技術開発者 | 2009.09.29 16:29

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