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2009.09.16

学校教育の中での科学と宗教

ほたるいかの書きつけのFSMさんが成果・効果・科学・思想(その2)というエントリー内で、
メカさんという方と科学と宗教について興味深い対話をされています。
私も刺激されながらお二人の、あるいは他のコメントをなさっている方々の意見を読み、それはそれで考えていました。
その中で、メカさんのコメントの1つが気になり、気になり、、、、、
気になったら調べないではいられない性分なので、
ちょっとばかり、昔の本を出して読んだり、考えました、、、
で、
その内容はズバリ。
インテリジェント・デザイン、略してID論。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
インテリジェント・デザイン(「知的設計」論、intelligent design)とは、知性ある設計者によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説。しばしば、ID(アイディー)と略される。
聖書信仰を基盤にする宗教的な論説の創造科学から宗教的な表現をなくして一般社会や学校教育など、広く受け入れられるように意図したもので、近年のアメリカ合衆国で始まった。宗教色を抑えるために、宇宙や生命を設計し創造した存在を「神」ではなく「偉大なる知性」と記述することが特徴である。これにより、非キリスト教徒に対するアピールを可能とする。また宗教色を薄めることで、政教分離原則を回避しやすくなる(公教育への浸透など)。
上記wikipediaより
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

そもそものきっかけは、メカさんの、コメントの一部です。
コメントNo.19.
「ただし学校教育についてはいささか事情が違う。学校とは有益な知識を教育する場だ。創造論と進化論のどちらを教えるべきかという問題は、進化論の方が創造論よりも実用的であるから進化論を優先して教えるべきなのであって、進化論が正しく、創造論が間違っているから教えるべきではないというのとは違う。学校の授業時間が無限なら両方教えたっていいと思うが、限られた時間内で何を優先して教えるべきかといえば、進化論の方だろう。
メカ 2009-09-14 01:09:39 」。
この一部分を切り取り、アレコレと言われるのはメカさんの本意ではないだろうし、私もメカさんに物申すことが目的ではないので、メカさんには話題を振っていただいたということで、ここからは、ID論についてツラツラと。

なおメカさん>
もしご覧になってコメント掲載が不愉快だったら申し訳ないので、お申し出いただければ、この部分は削除します。

さて、
実はID論については、私のエントリーのコメント欄でも一度話題になりました。詳しくはこのエントリーをご覧いただけたら誤解がないと思いますが、
ここに一部だけ紹介。

さて、こうした時、いつも登場なさるのがお馴染の技術開発者さん。

「こんにちは、せとさん。
ニセ科学批判をしていると時に「創造論と進化論」なんて争いに巻き込まれたりもします。いわゆる「インテリジェント・デザイン論争」なんて話です。なんていうか、私は創造主はいてもかまわない論者なんです。ただ、いちいち進化に手を出したりする様なケチくさい創造主ではなくて、「宇宙が生まれる様に自然法則を定め、生命が生まれる様に自然法則を定め、生命が進化するように自然法則を定め、生命の進化の過程で知性が生まれる様に自然法則を定めて、後は法則のままに放っておく」様な創造主です。もし宇宙を作った創造主というのがいるなら、時間というものもまた超越していると思うので、それを「まだるっこしい」なんて思いはしないでしょうからね(笑)。
中略
宇宙が自然法則の偶然によりでき、生命が自然法則の偶然によりどこかの星で条件を満たして発生し、生命進化の偶然性により進化して、知性が発生するという偶然性にしても、その大元の自然法則にそのようになる「当たりの球」が入っていないと起きない訳です。自然法則の中にそのような「当たりの球」を組み込んだ創造主を考えても、なんら自然科学とは矛盾しない訳です。こういうのは「理神論的な創造主論」と言うらしいです。」
と、開発者さん。

続いて私。
「生命の神秘というか、自然の驚異というか、感動、かんどうでした。
「いちいち進化に手を出したりする様なケチくさい創造主ではなくて、「宇宙が生まれる様に自然法則を定め、生命が生まれる様に自然法則を定め、生命が進化するように自然法則を定め、生命の進化の過程で知性が生まれる様に自然法則を定めて、後は法則のままに放っておく」様な創造主です。」
本当に仰るとおりです。」

そして、シカゴさん登場。

「法則について。法則が自然界に存在しているというよりもむしろ自然界に必然的に起こる現象についてそれが法則性をもっているということを人間が認識・発見した結果が法則だと私は考えています。つまり自然界は法則にしたがって変化をしているわけではなく、たまたまの偶然がもたらす必然ないし因果関係を人間がとらえたものが法則と呼ばれているのだということです。そして人間の認識もまた自然界の一部として偶然の結果生じる必然という法則性をもっているために、人間が自然界を理解する方法――つまり論理――も法則として認識されるという風に私は理解しています。

ちなみに三浦つとむはこのように人間の精神を含む自然界全般に亘る法則性のことを弁証法とよんでいます。」


そうして開発者さん。

「「自然界に必然的に起こる現象についてそれが法則性をもっている」という部分は、人間とは無関係に法則性を持っているという部分を忘れないで欲しいのですよ。その部分を常に確認しながら、「人間が認識・発見した結果が法則」の部分の思考を深めてしまうと、「法則は人間が作ったものでるから、人間の考えによって変わり得る」みたいな「悪しき相対主義」への扉を開いてしまうからね。

なんていうか、私は分析屋ですから、良く「真値」と「測定値」という事を考えるんですね。例えば、目の前に1グラムの炭化物があると、その中にはある決まった量の炭素があると考える訳です。この「決まった炭素の量」を真値と考えます。それは、実は我々には知ることのできない量です。その炭化物100mgを燃やして出てくる二酸化炭素の重さを測るなんて事もやるんですね(乾式燃焼重量法と言います)。厳密にやると、29.85mgなんていう風に出るんですが、どうやってもこの4桁目の部分では1になったり9になったりという揺らぎがでます。こういう繰り返し変動以外にもいろんな変動要因を足し合わせていって、29.85±0.30なんて不確かさのついた値をつけます。これが「測定値」です。この不確かさというのは、「この範囲内に99%の確率で真値があると私は確信している(2σで出していますからね)」という値です。我々はこうやって「神のみぞ知る真値」をある範囲内に閉じこめて理解しようとする訳です。これが標準物質に値を付けるという作業なんですね。

なんていうか「真値」があり、それをできるだけ狭い範囲で「この中にある」と使用とする態度というのを理解して欲しいわけです。」
と、
悪しき相対主義について書かれています。


そうしてそうして、シカゴさん。

「そういうわけで技術開発者さんが「神のみぞ知る真値」という表現で指しておられる客観的な量について私はその存在を露ほども疑ったことはありません。

最後に、ディーツゲンやエンゲルスのいう「真理と誤謬の相対性」というのは真理や誤謬は人間の認識であり、客観的に存在する自然界の法則性を概念的に把握する人間の認識にはつねに限界があるという意味です。それゆえ真理はつねに限界をもつすなわち真理はつねにある限定的な前提条件のもとで成立するということを忘れてはならないということの戒めを「相対性」ということばで表したものです。しかし、その前提条件つまり限界を承知している限りでその真理は絶対的な真理なのだともいえるわけです。

必然は偶然から生まれるのですが、しかし偶然もまた必然の結果であるとも私は考えています。」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

これで、このエントリーの会話は終わるのですが、返す返すも誤解のないように、当該エントリーのコメント欄を全部お読みいただくことを願っています。
このやり取りで、実に多くを学んだ私でした、、、


さて、宗教と科学。
どの側面から切り取ればいいのか、あまりにすそ野が広いので迷うのですが、
今日は先に紹介したメカさんに刺激されて学校教育の中での創造論。

アメリカで公教育のID論導入についてはアメリカ特有の問題があります。
つまり、
アメリカと他の西洋諸国では生物の進化に対して、受け取り方がかなり違うこと。
アメリカでは成人の約4割が「生物進化論は誤り」と答えたと、いう結果が2005年の比較調査で判明。
その理由は、やはりローマカトリックとプロテスタントとの問題など歴史をひも解く必要がありそうです。
また、
教科書採用言えばに関して言えば、
学区が独自の教科書を採用できるアメリカと、トップダウン式で採用される西欧諸国の違いもあるそうです。
近年では記憶に新しいのは「ローズビル教育委員会事件」(2003〜2004年)。
また、裁判として有名なのはマクリーン裁判。
これらについての詳細は中岡望の目からウロコのアメリカなどのサイトを見るとよくわかります。


そして、この問題を考えるとき、創造論とは宗教なのか、科学なのか、、、、
と、言う問題に立ち入るのです。
これに関しては「科学哲学における線引き問題の現代的展開」などで有名な 伊勢田哲治さんの本や論文が参考になります。
宗教ならば、学校で教えることは信教の自由に反する。
では、科学か、、、と問われれば、是とは言えない。
伊勢田さんは、ご自分の論文で以下のように書かれています。(長いので瀬戸がまとめました)
「線引き問題は科学哲学の現実への応用の一環として決して時代遅れではない。、、、、、
ただ、線引き問題という問題設定への批判が科学哲学内部にあることを考えると、なぜ科学的であることが大事なのか、という基本に立ち戻って問題を立て直す必要があるだろう。」
と、続き、最後に、
「ID論の対象になった教育の現場での問題、あるいは科学技術政策全般に関わってくることである。
ゆえに関心をもつ科学者や一般市民がそれぞれの現場で哲学的な問題として考えていくことが必要である」
また、
「科学が世界についての知見を深めるという役割を果たす上でどういう寄与
をしているのか(いないのか)を分析することである。
以上をまとめるならば、線引き問題はたしかに重要でおもしろい問題ではあるけれど
も、旧来の問いの設定にはさまざまな難点がある。線引き問題は、より科学的な分野と
より非科学的・疑似科学的な分野の間の差を示す指標を、理論そのものよりもその分野
の研究者の態度や機構にもとめるような形で再定式化される必要があるのではないか、
というのが私の提案である。 」
と、未来、将来に向けての提案もなされています、、、


今、わが国では学校教育に水伝が普及されようとしている中、
科学者は危惧を表明しています。
日本では、学校教育の中には宗教は入って来る土壌は今はありません。
ただ、近年、歴史の教科書に神話が出てくるような記述が問題になっています。

と、言うことで、
ここで、改めて、
科学とは何か、
宗教とは何か、
そして哲学とはなにか、、、
を、考える時期ではないかと思ったものです。

伊勢田さん言われるところの「「ID論の対象になった教育の現場での問題、あるいは科学技術政策全般に関わってくることである。
ゆえに関心をもつ科学者や一般市民がそれぞれの現場で哲学的な問題として考えていくことが必要である」と、言うことでしょうか、、、、
関心を持つことが、まずは第一歩かと。
そもそもの発端はニセ科学です。
と、言うことで、この問題はまた考えていきます。
これは、しっかりと見て行くことが肝要です。

FSMさん、メカさん、開発者さん、シカゴさん。
ありがとうございました。
またご意見などいただけると嬉しく思います。


と、書いていたらいつもコメントとトラックバックを下さるhamhamさんから学校の授業に介入する 自民党道会議員、北海道教育委員会 と言う記事を送っていただきました、、、

あらあら、、、
これはこれで大変。
また考えます、hamhamさん>

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コメント

こんにちは、せとさん。

教育という事の基本の所に「生き延びるスベを教える」があると考えています。そういう意味では実利的であることを否定する気はないんですね。

apjさんの所のコメント欄で落語の「せんみつの与太郎」の話を書いた事があります。長屋に千のうち3つくらいしか本当の事がないという虚言癖のある与太郎がいるとしましてね。長屋の人は「せんみつ」と呼んで馬鹿にもする訳ですが、「あれは直らない」と諦めてもいる訳です。でも、何もしないかというと、例えば新たに長屋に入ってきた人が真に受けそうになると「あいつはせんみつだから真に受けるな」と教え「あいつの言うことを真に受けて人に話したりするとお前も『せんみつ』になるぞ」と教える訳です。これだけの話なんですが、この長屋では、直しがたい虚言癖を直すよりも、それにより被害が起きることを防ぐ事を選んでいる訳です。そういう意味で実利的なんですね。与太郎にしても、周りがそういう態度であれば、被害が出て大きな罰をくらうこともなく生きていける訳です。

なんていうか、創造論を信じる者たちがいて、進化論を信じる者たちがいるときに、「どらが正しい」ではなく「どう付き合うべきか」を互いが考えることの方が実利的である場合もあるかも知れませんね。


投稿: 技術開発者 | 2009.09.16 12:57

なんか難しいので、少し外れちゃいます。
先日少しふれた宗教学者の方々によると通常先進国は世俗化するそうです。

例外がアメリカで世俗どころか原理主義国家だそうです。
どう原理主義なのかうちにはわかりません。
欧州とちがい教育での宗教はもめるらしいです。

中岡さんのはうちも見てます。

投稿: あゆ | 2009.09.16 13:47

面白いものですね。
物事の判断基準というエントリーで記事を書いたばかりなので、宗教と科学を取り上げられたコノ記事を読んで、偶然に驚き笑ってしまいました。
科学も宗教も哲学もその他の学問も生命の不可思議を研究・分析・応用することにより個々の生命存続の方法を探究しているものと私は思っています。
人間という生物は私の驕りかも知れませんが、生命体の中でも異色生命体と私は捉えています。それは人間が野生とか本能を凌駕する知性と理性を兼ね備えたと思っているからです。
宗教も学問と同線上に在ると考えれば偏らず相対的に学校で教える事は間違いとは思えませんが、宗教というだけで宗教思想理念に拘る人たちが多いだけに問題を難しくします。
各宗教が絶対的なものならば宗教紛争など起こらないと思うのですが、実際には世界各地で宗教紛争は絶える事がありません。絶対的なものでない限り宗教も、また、科学の一部或いは学問の一部と考えるのが妥当ではないでしょうか…?

投稿: よ | 2009.09.16 14:08

こんにちは、よさん。

>絶対的なものでない限り宗教も、また、科学の一部或いは学問の一部と考えるのが妥当ではないでしょうか…?

私は、たぶん、今の日本では珍しい「宗教を必要とする人」なのね。理神論的創造主論なんかも書いているけどね。自然科学という学問が私に与えてくれるのは「How(いかにして、どのようにして)」に対する答えでしか無いのね。哲学は「Why(いかなる目的で)」みたいな事、つまり存在理由を示そうとずいふんがんばっているし、私もずいぶんと哲学書を読みあさったりもしたんだけど、まだ答えは見つからないのね。

なんていうかな、理神論的創造主論というのは、私に「心の平安」を与えてくれる面はあるんですよ。宇宙の始まりから、今現在の我々人類の持つ知性に至るまでの流れを示す訳だけどね。なんていうかな、「いつか、もっと知性が進歩したら、その答えもみつかるよ。がんばって知性を磨こう」みたいな意識かな。創造主が定めた自然法則に従って発生し、今もまだ進歩しつつある「知性」を見るとき、「知性の進歩に(今は分からないけど)大きな意味(目的)があるんだ」みたいな直感を与えてくれるのね。

別に、「皆さんもご一緒に信じましょう」なんて言う気はないんですよ(笑)。ただね、人は知性を持ったときに、「自分たちはどういう目的で今ここに居るんだろう」みたいな事に悩むようにも成ってしまったものの様な気がするのね。それに対して「目的はあるさ、いつか分かるよ」という直感があるだけでも、ずいぶんと知性にとっての癒しになると思っているのね。

なんていうかな、特に日本では「宗教なんて過去の遺物さ」みたいな雰囲気が強いんだけどね。私の感想では「皆さん良くそれで悩まずに生きられるな」みたいな面もあるんですね(少しうらやましさもあるかもしれない)。

投稿: 技術開発者 | 2009.09.16 16:41

技術開発者さん。
あゆさん。
よさん。
こんにちは。


技術開発者さん。
「教育という事の基本の所に「生き延びるスベを教える」があると考えています。そういう意味では実利的であることを否定する気はないんですね。」

とてもよくわかります。
その生き延びるために、
どうあるか。
科学であり、哲学であり、文学であると思います。

この問題、もう少し考えて、またお返事しますね。

あゆさん。

「先日少しふれた宗教学者の方々によると通常先進国は世俗化するそうです。

例外がアメリカで世俗どころか原理主義国家だそうです。
どう原理主義なのかうちにはわかりません。
欧州とちがい教育での宗教はもめるらしいです。」


あああ、このあたり、多分プロテスタントが多いからと思います。
移民政策の一環として、とにかく聖書の一言一句を信じることから、
フロンティアの重労働に耐えていったのかもしれません。
チョット前に読んだ本に書いてあったので、また調べますね。

よさん。
おおお、、、、
なんと偶然ですね。
フムフム。
鋭い感覚で切り取っていただいた気がします。
いずれにしても、この問題、一筋縄ではいかないので、
また考えますね。
では、、、、、

投稿: せとともこ | 2009.09.16 18:00

技術開発者さん御指導ありがとうございます。
>「自分たちはどういう目的で今ここに居るんだろう」みたいな事に悩むようにも成ってしまったものの様な気がするのね。<
一般に若い人たちが、よく、突き当たる悩みから始まる疑問なのですが、かく云う私もその一人でした‥と言うよりも現在も時折悩み疑問を呈する事があります。
私は弱いから今でも危機に際しては信じていないにも関わらず神頼みや題目を唱えたりします。
人間は癒しに飛び込み浸かる人と癒しを都合よく利用する人と2種類在ると思うんです。後者は信心が足りないなどと揶揄されますが、それでも良いと思っています。
日本で宗教が過去の遺物と化しているのは或いは表面上そのように見えるのは私と同じく癒しを都合よく利用する後者が多いからではないでしょうか?
理神論的創造主論‥勉強してみます。

投稿: | 2009.09.16 18:46

よさん。

「私は弱いから今でも危機に際しては信じていないにも関わらず神頼みや題目を唱えたりします。
人間は癒しに飛び込み浸かる人と癒しを都合よく利用する人と2種類在ると思うんです。後者は信心が足りないなどと揶揄されますが、それでも良いと思っています。」


私も同じです。
以前も書いたように夫に「さとれ」と諭されている私。
禅や般若心教、あるいは上座仏教で、いつも教えられる私です。

自分の問題として、拠り所になるものは求めつつ、
真理を求めると言う意味で科学に対しては謙虚でありたいと思いつつ、、、、、
なかなかできません。
が、
これもまた1つのあり方として、受け入れています。

理神論、私も興味があります。
また開発者さんから教えていただきましょう♪

では、、、また。

投稿: せとともこ | 2009.09.16 19:24

あっ、、、、、
そうそう、
あゆさん。
私がいつもROMしているブログで、「東海林さだおがいいなぁ」のちょちょんまげさんが、原理主義について書かれています。
一応参考まで。
http://chochonmage.blog21.fc2.com/blog-entry-58.html

では、、、、またね!

投稿: せとともこ | 2009.09.16 19:27

せとさん。 今晩は。

>と、書いていたらいつもコメントとトラックバックを下さるhamhamさんから学校の授業に介入する 自民党道会議員、北海道教育委員会 と言う記事を送っていただきました、、、
あらあら、、、
これはこれで大変。
また考えます、hamhamさん>

よろしくお願いします。m(_ _)m
何たる奇遇!! 私には霊感がはたらかないのに。普遍性のある大事な問題は時空を越えるのでしょうか? せとさんのエントリー記事を読ませていただきまして、新しい時代になり、古くて新しい課題が、様々な形で、様々な国に起きていることがヴィヴィトに分りました。解明への意欲も湧いて来ます。捉えるにあたっては、人それぞれの考えがあるのでしょうが、その根底には、その人の人生観、世界観、哲学が要請されてくるようにも感じました。

日本の学校教育においては、新政権になり、教育行政がどう動くか? 父母、保護者、先生方、主権者国民が、次世代の担い手である可愛い子ども達の将来を、未来をどのように考えるのか。どのように育てるのかにかかわって来るように思えます。豊かな感性に裏打ちされた理性の出番になって来ているようにも思えてしょうがありません。

それにしても現在、教育行政の不当な重圧に耐えながら、心身ともに疲労困憊して来ている先生方の健康を気遣っております。早く、この問題を解決しろと、新政権には要求します。(ゝ_〃;

投稿: hamham | 2009.09.16 20:14

hamhamさん。
こんばんは。
秋の夜長。
虫たちの声を聞きながら、
今、ゆっくりとしているところです。
コメントありがとうございます。


本当に奇遇ですね。
奇遇と言えば、よさんも同じようにエントリーを挙げられ、
また、先にあゆさんの書いたようにROM先でも創造論と学校教育のエントリーを見たりと、、、、
本当に奇遇。

「人それぞれの考えがあるのでしょうが、その根底には、その人の人生観、世界観、哲学が要請されてくるようにも感じました。」


はい。
そうですね、、、、、
生きてきた歴史が自分史となり呼吸しているのでしょうか、、、
思えば、おもうほど、丁寧に生きていくことが大切ですね。
こうしてネットで知り合いになり、親しくお話させていただき、本当に縁を感じ、楽しみながら、書いていこうと思っています。

さてさてさて、、、、、
教育もさることながら、
新政権、どうなるか本当に注目ですね。
今は、気長にも見守りたいものです、、、、、

投稿: せとともこ | 2009.09.16 20:25

こんばんは。トラバありがとうございます。


うちでの「議論」については、本当は議論すべき論点が色々出てきていたのですが、話が収拾しなくなりそうだったので、かなりスルーしています。せとさんが取り上げてくださったのも、その一つですね。


宗教をどう捉えるか、というのは、本当に難しいことだと思いますが、私が考える基準の一つは、民主主義社会において、自立した自律的な主体としての生き方を支えることにつながるのか否定することにつながるのか、ということです。どのようなニセ科学を問題視するかということも、同一平面上で考えられるのではないかと思っています。
 深く考察する価値のあることなのだろうと予想はしているのですが、自分の能力を越えたところにポイントがあるので、展開できていないのが情けないところではあるのですが。
 日本国憲法や(改悪前の)教育基本法などの根底に流れる思想と密接に関連していると思うのですが、いかがでしょうか。

投稿: FSM | 2009.09.17 01:15

うわ~。原理主義ですね~。
イラク戦争は原理主義戦争ですか?(笑い)

ブッシュ政権の影に原理主義あり??

イスラム革命輸出の原理主義もこわいけど、
宗教右翼原理主義・金融原理主義?市場原理主義・とかの強引な輸出もねえ・・・。

投稿: あゆ | 2009.09.17 08:26

こんにちは、あゆさん。少し「聖俗分離」と「俗物化」と「原理主義」のことを説明させてください。

宗教というのは、まあ最初は皆、新興宗教なんですけどね。でもって新興宗教の時期というのは「教条的」と「利益・不利益」がセットになっている面があるのね。「教えを全てきちんと信じてきちんと守りなさい。そうすれば良いことがあります。教えを信じなかったり破ったりすると悪いことが起こりますよ」なんてね。でもって、教えの中に人の心の琴線に触れる部分をしっかり持つ宗教は、だんだんと大衆化というか信者を増やしていくんだけど、その過程で「聖俗分離」と言われる「俗な事」への締め付けをゆるめ、「聖なる帰依」に代わるのね。「教えの一字一句よりも、教えの本質を理解しなさい」みたいになるのね。そして「俗な利益・不利益」ではない「信じれば心の平安が得られますよ、信じないと乱れた心のまま苦しむことになります」みたいな感じですね。「教え」はだいたいそういう方向に変化するんだけど、大衆化は同時に教団組織というのを生み出して「教団の俗物化」も進めてしまうのね。なんていうか、信者を救うことより教団を強くしたり富ませたりすることが優先される様なことね。例を挙げるとカトリック教会が免罪符を売り出して、「沢山買うほど罪が許されやすくなりますよ」なんてね(笑)。

一般に原理主義運動というのは、この教団の俗物化に対抗して起こる訳ね。ルターが「免罪符とは聖書のどこに書いてあるのか」みたいに噛みつくとかね。こういう活動は教団の堕落を防ぐんだけど、同時に「聖俗分離」にも反動がきてしまう訳です。「聖書に帰れ」みたいな運動が起こって新しい教団ができると堕落はしていないんだけど、「教えの一字一句よりも、教えの本質を理解しなさい」に歯止めがかかって「俗な事」への教義の介入も復活してしまい易いわけです。

米国という国はカトリックの大衆化による反発によって生じたプロテスタント(カトリックに対しては原理主義)である国教会に対してさらに反発したピューリタン(王様という俗な権力と調和しようとした国教会に対しては原理主義的といえる)が立てた国だからね。そういう意味では「聖俗分離」が他の国より進んでいない面はあるかも知れません。

投稿: 技術開発者 | 2009.09.17 10:14

FSMさん。
あゆさん。
こんにちは。
コメント有り難うございます。

FSMさん>
粘り強い対話、お疲れさまです。
とても刺激になりました、、、、、
FSMさんのブログ内での密度の高い会話を拝見してながら、
改めてニセ科学について、どの様に告発すべきか、考えました。
多くの方は、「それが科学ではない、、、」と知りつつも藁にも縋る思いという厳しい現実に立ち向かう時、
拠り所を求めるのでしょうね、、、

先日、山手線に乗っていたら、
電車の中でのデジタル案内(次はどの駅、、、とか提示する案内)に血液型占いがありました。
驚きながら、それでもつい見てしまうのです。
そして、アドバイスなんて言うのがあって、それは、かなりプラス思考で書かれているんですね。
そう言うのを読むと、安心するんだろうな、、、、
と、思いながら見ていました。


本当に生活のアチコチに侵食していますね、、、、、

いつもいつも、こうしたとき、思うのは教育です。
別のエントリー
http://ts.way-nifty.com/makura/2009/09/post-c632.html
で黒猫亭さんと開発者さんとも新自由主義について会話したのですが、
あの折も「教育の大切さ」や憲法を考えました。

なかなか奥が深いですね。まだまだ考え中。

と、言うことでどうぞ、これからも宜しくお願いいたします。


あゆさん>
うううう〜〜〜〜ん。
これまた原理主義も方々に侵食ですね。
なんというのか。
どこかでシナリオが書かれているのかしらん????

投稿: せとともこ | 2009.09.17 10:28

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