社会学とデータ
本当は民主党のことをツラツラと書くつもりだったのですが、
いつも深い分析と的確な表現で本質を丁寧に見ていく黒猫亭さんのエントリー一夜開けてに寄せられたコメントと、その後の黒猫さんのやりとりを見ながら考え込んでしまいました。
私たちは簡単に「小泉さんが悪かった」
「この責任は小泉ー竹中路線」
「アメリカべったりの新自由主義がこの国をメチャクチャにした」と言います。
実際、その側面は大きいのですが、
黒猫さんのブログ記事にコメントなさったBaruさんは、「小泉政権が日本経済を悪くさせたというがその根拠、エビデンスは何か?」と質問。
とくに黒猫さんのエントリーに関して、
1.企業内部留保の増加
2.労働分配率の低下
3.世帯当たり収入の低下
4.給与者一人当りの年収の低下
などについて統計、エビデンスを質問なさいました。
その質問は自然の疑問からのものであり、ご自分で示された参考サイトの統計や分析が書かれています。
それに対して黒猫さんは「小泉政権批判はエビデンス主義と謂うより、改革理念の合理性の検証」とまずご自分の立ち位置を明らかにして、その後「統計資料」とは何か、、、と書かれています。
このやり取りを見ながら私も一緒に考えました、、、
コメントを書こうと思ったのですが、自分自身の備忘録と言う意味をかねて、今日は社会科学の中でのデータ利用についての本(藤井史郎さんや吉田央さん、芳賀寛さん、富岡淳さんの論文)を読み、勉強したことを書いていきます。また「行政改革」が日本の経済を支えている中小企業にどうのような影響を与えたかなどは、時間があるとき、また新しくエントリーを挙げていきたいです。
社会科学においてデーターを扱うというのは自然科学以上に困難を極める物と思います。
(自然科学のデーターについては正しくデータを扱うための本2冊(化学系)と言うタイトルで自然科学のデータについて記事を書いているのは技術系サラリーマンの津村さんの記事などが参考になります)。
社会科学は自然科学以上に対象に対して研究者の有する背景や社会的意味が影響を与えます。データを読み取る時、これらの要素も鑑みることが大切です。
社会調査には「統計的社会調査をさす量的調査」と「事例的社会調査をさす質的調査」があります。
質的調査とは、インタビュー、内容分析(content analysis, textual analysis)、会話分析、観察など多様な手法を指す概念です。
統計や各種のデータを採取、利用することはかつてなく多くなったにも関わらず、その利用法はいまだ一般化されず、研究者や集団がある仮定を検証するときの一つの証拠とみなされているだけに終わるようです。
また、さまざまのメディアが集める情報、つまり住民や事業者などを調査対象として統計を行い、その結果はプライバシー保護のため統計作成者に保管。
新聞やネット、テレビなどでの情報公開は統計作成者の判断に基づいて開陳されるので、全体を正しく反映しているか否かは統計作成者だけが知っています。
こうした現実を少しでも前向きに改善しようと独立行政法人労働政策研究・研修機構が、中心に研究。「あらためてデータについて考える」などの特集記事を雑誌に掲載しています。
労働経済や生活経済への実証的研究におけるミクロデータやパネルデータ利用など質的調査の関心は高まって来ています。
統計法の改訂や改革、データの整備なども積極的に政府に働きかける動きが出てきました。
さて、このエントリーのきっかけとなった小泉内閣、つまり「構造改革」であり「格差社会のい拡大」をみるために社会科学の実証研究は全体社会の格差構造の分析とともに、個体や部分社会の自律的動きも分析していくことが必要です。
「貧困」の実態解明は社会科学の大きなテーマの一つです。
社会諸階層と現代家族 研究者は鎌田とし子さん。
独占企業労働者層とは違う労働者層の生活の実態を調査することで、「非正規労働者」、ワーキングプア、など今日的な問題を分析しています。
また、
「社会階層と社会移動」全国調査別名SSM調査は高く評価されています。
これらの調査結果を分析して「階級社会]について多くの著書を出しているのは橋本健二さん。
資本家、新中間、旧中間、労働者と階級を分類。
さらに、フリータ=、無業者、女性パート層などについて考察。
とくに橋本さんは「新中間階級」が増加していることについて、これらの階級が労働者階級を搾取するような構造になりつつあると指摘。
この新中間層の動向こそが大きく社会を動かすというものです。
さらに多くの研究者がこの格差について統計処理を行い、分析、論文を発表しています。
また、こうしたデータ集積とはべつに個人の生活史を集める統計などもあることは先に書いたとおりです。
量的な社会調査として全体社会構造とその動向。
なお質的調査としてドイツの論点整理(1970年)には、
その意義は「現代生活、世界の多元化と個別化の進行のもとで、新しい社会の文脈を捉えるために、既存の理論からの演繹的方法では限界がある。」としています。
「厳密に定義された既存の概念と理論からの出発の代りに、問題を大まかに示す感受概念から出発する。
実証データはあくまでローカルなものとみなす。
自然科学的な普遍妥当性に囚われるより日常生活において意味のある問題に向かう、
などなどの大切さを強調しています。
社会学における統計処理。
難しいですね。
難しいがゆえに、データをみただけで、すぐ結論という訳にはいきません。
いかないのですが、
上にもあるよう「感受概念(sensitizing concept)」の見直しが大切なのかと思いました。つまり、感受概念とは、個々の経験的な特性を捨て去ってしまうのではなく、それに取り組まなくてはならない必要性から要求されるもので、日記、手記、手紙、記録などの質的データを使用し参与観察法をもちいる方法です。
さてさてさて。
こうして見ていくと、統計とかデータとかとかよりも、
生活の体感として貧困が広がり、格差がますます広がり、未来や将来への展望がもてなくなったという社会に日本をした功労者(?)は小泉さんと、小泉さんに象徴される構造改革だと思います。
小泉さんが総理のとき、その政策のおさらいという意味で、私は以下のような記事を書きました。
==============
この五年間、やってくれました小泉さん。
大企業の余剰資金はバブル期を上回る87兆円、
一方、国民の貧困化は拡大。
「格差社会」です。
具体的に数字で見ましょう。
1997年と比較して生活保護世帯は60万から100万世帯に大台にのりました。
教育扶助・就学援助を受けている児童・生徒は6・6%から12・8%。
貯蓄ゼロ世帯は10%から23・8%。
〜〜〜〜〜〜〜〜
2002年
・健保サラリーマン本人の3割負担導入、老人医療費負担増などの医療改悪法
・母子家庭の児童扶養手当削減の法改悪
2003年
・派遣労働を拡大した労働法制改悪
・武力攻撃事態法など有事関連3法
・年金給付を物価スライドで削減する法改悪
2004年
・保険料引き上げと給付切り下げの年金法改悪
2005年
・サラリーマン世帯を直撃する定率減税縮減
・国民向けサービスを切り捨てる郵政民営化法
・施設利用者の居住費・食費を全額自己負担にする介護保険法改悪
・障害者の福祉サービスに1割負担を導入する「自立支援」法
ここまで悪法を通した小泉さん。
それでもまだまだ足りません。
この4月からの数々の悪法に加え、公務員削減を狙っています。
そして、さらに怖いことには憲法の問題や自衛隊の問題、外交の不手際などいろいろ大味外交方針でした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2001年
・米国のアフガン戦争支援のため、自衛隊をインド洋に派兵したテロ特措法
2003年
・武力攻撃事態法など有事関連3法
・戦後はじめて戦闘地域に地上部隊を派兵することになったイラク特措法
2004年
・米軍支援法など有事関連7法
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(以前の記事より)
================
Baruさんの直接の質問や疑問には答えを出すことは出来ませんでしたが、
改めて、考える機会を得ることができました。
黒猫さん。
Baruさん。
どうもありがとうございました。
また、いろいろお教えいただけたらと思います!!!
なお格差社会については、以前以下のようなエントリーを挙げていますのでお時間があるときでもご覧頂けたら嬉しく思います。
深刻な格差社会
貧困化する日本
量的緩和 その1
量的緩和 その2
量的緩和 その3
量的緩和 その4
ホリエモンを生み出した者は誰か その1
ホリエモンを生み出した者は誰か その2
村上ファンド
日銀福井総裁の罪
などなどです。
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コメント
>統計とかデータとかとかよりも、生活の体感として貧困が広がり、格差がますます広がり、未来や将来への展望がもてなくなったという社会<
一般国民は学者先生の机上の論理を並べられても聞く耳を持つ人は少ないでしょうが、自分がオニギリ1つで他者がオニギリ2つという事には敏感に反応します。生活実感自体が景気のバロメーターと云っても過言ではないと思います。
郵政民営化が改革の本丸と叫んで民営化だけを行い誤魔化し改革の道筋も決めず実行せずに痛みだけを先攻させた小泉・竹中似非改革に一厘の利も私は認める事が出来ませんが、世の中には色々様々な人が居るんですね。
仏教に方便が在るように政治も国民に解り易い政策の説明が、まず、必要だと思います。その根底には学者先生の机上の論理も不可欠だと認めます。が、実感とデータが乖離しているときは格差が潜んでいる事を知るべきです。
話が頓珍漢になったので止めます。
投稿: よ | 2009.09.07 20:48
ご紹介戴いて有り難うございます。
ただ、どうもこの個別の議論自体はあんまり穣りあるものではなかったと謂う印象です。お相手の方には申し訳ないのですが、統計資料がプレゼン資料以上の扱いではないように感じました。
或る文脈で主張されていることと、別の文脈で主張されていることが、筋論として矛盾していたり、一般的に定説と見做されている見解を踏まえていなかったり(踏まえた上でオブジェクションを提起されるのは勿論アリですが、その際は証明責任が伴います)で、逐次的に何でも反論されるのでは、結論ありきのディベートでしかなく、統計資料も持論に都合の好い数字を持ってきただけ、と謂うことになります。
オレも別段経済に殊更詳しいわけではないし、統計情報の分析についても素人ですが、遣り取りした感触ではお相手の方も似たり寄ったりのレベルなのでは、と謂う印象を拭い去れませんでしたので、そのレベルで素人がああだこうだと憶測をぶつけ合うことに何かの意味があるようには思えないんですね。
>>社会科学においてデーターを扱うというのは自然科学以上に困難を極める物と思います。
仰る通りで、社会科学の分野では一回性の強い事象を扱うのですから、モデル化して抽象することが困難ですし、膨大なファクターを扱う必要があります。統計情報の分析も、結局それは「事実解釈」の問題になるので、その解釈の客観的妥当性を担保することはかなり難しいと言えます。
また、経済の理論と謂うのも、どうしても不確定要素が多いわけで、「こうすればこうなる」と断定することが結構難しい。「骨太の方針」のように「こうすればこうなるはずだから、まずここを毀す」と謂うのはそもそも危ない考え方なんですね。政策のレベルで謂うなら、上手く行かなかった場合の担保が保証されていない限り、多大な犠牲の伴う政策は実行するべきではない。
結局、専門家ではない人間が検証し得る事柄と謂うのは普遍的な筋論の部分でしかないんだと思いますが、その意味で間違った政策だったと謂うことですし、そこが間違っていれば政治として十分間違っていたと言えると思いますね。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.08 05:25
一つ大事なことを書き漏らしました。
あの方のご意見がすべて無前提で正しいと仮定しても、その考え方には憲政上無視出来ない重大な問題があるとオレは考えています。それはつまり、「特定政権が国民に無説明で勝手に背後の目的を想定し、国民を欺いてその所期の目的を達成した場合、それは政治的実績として評価すべきなのか」と謂う問題です。
オレ個人としては、これは民主主義の理念上許されることではないと考えます。殊に多くの国民の不利益がもたらされる可能性がある…と謂うより、すでにその不利益が想定に織り込まれている政策に関しては、決して許してはならないと考えます。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.08 07:12
こんにちは、せとさん、黒猫亭さん。少し説明させてください。
実のところ、日本の新自由主義政策というのは小泉政権(経済ブレーンは竹中)で始まった訳ではなく、中曽根政権(経済ブレーンは中谷)から始まっている訳でして、小泉政権の前後で統計数値を比べてもあまりスッキリはしないのです。まあ、早い話が20年かけて半殺しにしておいて、最後の5年でとどめを刺した様なものですから、「死ぬ前も死にかけていた」という結果になる訳です。
もう一つ忘れて欲しくないのは、格差というのは産業の中でも生じているという事です。つまり大企業による中小企業の利益の収奪が進んでいます。例えば、ついこないだの原料高騰の時に、大企業はなかなか中小企業の部品価格の値上げを認めずに、中小企業が内部留保を取り崩すのを待ってから値上げに応じるなどということをやったわけですね。このような中身の解析無しに「企業の内部留保は」と調べるなら、のきなみ低下している中書企業の内部留保の数値と、利益をため込んだ大企業の内部留保が相殺して見えて来なくなります。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.08 08:17
主語・視点・切り口によりかなりかわるし、このことにかぎりませんが白か黒かでいえなさそうです。
うちの日記財政2008では財政状況は好転していました。格差は拡大していました。
この事実をどうみるのでしょう???
いろいろありそうです。
後継者の安倍政権は「白河(山口)の水は・・・」で「元の田沼・・」(田中政権)が恋しきなんていう声もあるとかないとか。
少子化で少子化担当の人の話では雇用問題が大きいそうです。
雇用・社会保障と少子化はセットかも?
法人の維持に必死でそれを構成する自然人にまで配慮が行き渡らないのかも?
少子化 http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2009-08-12
2008年社会保障 http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2009-08-11
2008年財政http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2009-07-24
法人と自然人 http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2009-09-04
失業者に10万円 http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2009-08-26
投稿: あゆ | 2009.09.08 08:47
>技術開発者さん
>>実のところ、日本の新自由主義政策というのは小泉政権(経済ブレーンは竹中)で始まった訳ではなく、中曽根政権(経済ブレーンは中谷)から始まっている訳でして、小泉政権の前後で統計数値を比べてもあまりスッキリはしないのです。
勿論、仰る通りです。日本の新自由主義政策はレーガノミックスやサッチャーリズムに倣ったもので、小泉政権がいきなり持ち出したものではありません。その二〇年間の間に本家ではボロが出て問題点が抽出されているわけですから、幾らでも好いポジションからスタート出来そうなものでしたけどね。
ですから、都合の好いところは局所的に統計を視て、都合の悪いところは長期的に統計を視る、またはその逆、なんて操作も幾らでもできるわけですが、それが実態の解釈として妥当とは言えないわけですね。
>>つまり大企業による中小企業の利益の収奪が進んでいます。
景気変動のデメリットは外に圧し附けて、メリットは内部で寡占すると謂う構図ですよね。結局一部大企業の極一部以外は景気上昇の恩恵を受けられない仕組みになっているわけです。
だから「極端な」格差社会になっているんだと謂う話なんですが、どうしてこう謂う現状でも仕方がない、政治にはこれ以上のことは出来ないんだ、と謂う見方が一定数存在するのか、そのほうがよほど不思議ですよね。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.08 10:37
よさん。
黒猫亭さん。
技術開発者さん。
あゆさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
よさん>
芥川賞のトラックバックありがとうございました。
早速、拝見。
「この作品は面白いと感じさせない面白さが味噌なのかも知れない…」
笑っちゃいました(o^-^o)
内容はまだ読んでいないので感想は述べることはできませんが、また読んでみますね!!!
さて、頂いたコメント
↓
「仏教に方便が在るように政治も国民に解り易い政策の説明が、まず、必要だと思います。その根底には学者先生の机上の論理も不可欠だと認めます。が、実感とデータが乖離しているときは格差が潜んでいる事を知るべきです。」
はい。その通りですよね。
私も同感です。
私たちに分かりやすいこと、誤魔化さないこと、をまずは守って欲しいです。
「人生色々」とか「公約を守らないことは大したことではない」なんて政治家はゴメンです!!!
黒猫亭さん>
私はあなたの事細かい分析と粘り強い対話にはいつも教えられています。
落語をはじめとして、ゲームのことやいろいろコッソリと、かつ微笑ましく笑っているんですよ。o(*^▽^*)o
さて。
Baruさんの質問。
私も「なんだかぁ、、、なぁ」と思ったのですが、
Baruさんはご自身の中で解決を模索なさって、洞察深いあなたのところまで行き着いたのでしょうね。
それはそれでいいのですが。
やはり部分しかご覧になっていない感は否めません。
黒猫さんのコメントで納得頂けたらいいですね、、、
今度、ニセ科学、また頑張って書きます。
その折はまたいろいろお教えくださいね。
(飲み過ぎないように♪)
技術開発者さん>
うううう〜〜〜〜ん。
内部留保。
結局、兵糧攻めになったら小さい物から、もたない物から潰れていく、ということですかぁ、、、
なんていうのか。
全然関係ないのですが、日本の「ものつくり」って、
中零細が支えてきたではないですか。
そんな小さな企業が潰れることは、この先、日本は何を支えに進むのでしょうか????
またご意見お聞かせくださいね。
あゆさん>
「主語・視点・切り口によりかなりかわるし、このことにかぎりませんが白か黒かでいえなさそうです。
うちの日記財政2008では財政状況は好転していました。格差は拡大していました。」
あっ、そうなんだぁヽ(´▽`)/
さて、ご指摘の少子化問題。
これは、がっぷりよつで考える必要がありそうですね。
あなたの記事、参考にさせていただき、また考えますね。
その折はお付き合いくださいね!!!
投稿: せとともこ | 2009.09.08 12:34
こんにちは、せとさん。
>全然関係ないのですが、日本の「ものつくり」って、
>中零細が支えてきたではないですか。
>そんな小さな企業が潰れることは、この先、日本は何を支えに進むのでしょうか????
少し話が片寄りました。実は企業間格差は規模の大小だけでなく、業種間格差も生み出されています。はやい話が、製造業そのものには「経済成長を製造業から喚起する余力」は乏しいんですね。基本的に新自由主義経済の仕上がり期に起こることというのは、金融業などによるバブル経済が起こり、その余波で製造業の景気が上向くだけです。そういう意味では「ものつくり」そのものが、成長を望むことが難しくなっているんです。安定成長期への切り替えができずに或る程度の成長を望む以上、金融業などによるバブル経済を起こして、その余波で物を売るしか無いわけです。
別なエントリにも書きましたが、なぜ高度経済成長が永久に続かないかというと、「欲しい物が飽和する」からです(私の6台目のTVのたとえ話ですね)。当然、そういう「消費欲求の飽和」のツケを最も強く貰うのは製造業になります。所得は或る程度あるのに、貰うだけ使わなくなった給料は貯蓄に回ります。貯蓄を集めた銀行は融資先を必要としますが、物が以前ほど売れなくなった製造業は新しい工場を建てる様なことをしませんよね。工場を建てて物を作って売った利益から融資の元本・利子を得るという融資先も狭まる訳です。結局「高くなりそうな土地や株券を買って高くなったら売って元本・利息を払う」という融資ではなく投資型の運用が多くなる訳です。実体需要によって高くなる部分への投資は問題ないのですが、投資家の間をグルグル回すことで値を上げていくバブル経済投機への投資が始まってしまうわけです。これが高度成長期の終わりにバブルが起こりやすくなる理屈です。バブルが起こると、実は全ての産業が「一息つける」状態が起こります。景気そのものは良くなりますからね。バブルで儲かった会社は社員の給料やら株主の配当も増大し、高級車やら別荘が売れ、海外旅行も盛んになり、それらの余波が製造業にも及ぶ訳です。日本の場合は1986年から1991年の頃に国内バブルを起こし、その後始末に苦労した訳ですが、実はその次の段階で国際バブルにも巻き込まれていた訳です。米国のマネタリズムを基本としたバブルの余波に頼ることで国内バブルの後始末をなんとかしたら、次は国際的なバブルの崩壊に見舞われた訳ですね。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.08 16:25
あ、ここでも議論がもりあがっていますね。
前の議論をむしかえすつもりはありませんが、
技術開発者さんが、経済のマクロな視点から書かれていますので、私は内部から見たことを書きます。
私が社会人になってからすこしした頃、石油ショックから立ち直ってバブルに差し掛かったころですかね、「作業の標準化」とか、「マクドナルドを見習え」とか、社内でしきりに言われていたわけです。私なんぞも経営上の理由なぞに考えが及ばず、ただパソコンを使って作業の標準化ができるので、嬉々としてその流れに貢献していたのです。
そうしていると、いつの間にか作業員のなかから正社員が減って協力会社の人といれかわって行きました。
そしてバブルが崩壊すると、こんどは、財務体質の健全化が叫ばれだしました。利益率をあげろというわけです。
しかし、すでに物が売れなくなっている時代、利益率を上げるには人件費を抑制するしかないわけで、先に始まっていた傾向が強力に推し進められたわけです。作業者はほとんどが派遣社員となり、余った正社員はむげに首を切るわけにもいかないので、子会社に出向させるなどして強引に人減らしをしたわけです。当然新規採用は抑えられ、採用される側からみれば、就職氷河期となるわけです。
そういう犠牲を払って、企業は財務体質を健全化したわけですが、企業の健全性の指標は財務体質だけではありません。ある年代の社員層が新規採用抑制の結果不足しているわけで、実際製造業においては、技術の伝承が大きな課題になています。
贅肉がとれてスリムになったように見えるけれど、骨はすかすかでひびが入っている状態です。
ということで、格差社会はべつに小泉構造改革の結果ではなく、もっと以前から用意されていたのです。
ただ、小泉構造改革がその傾向に拍車をかけたことは否めないでしょう。
もっとも、小泉さんも竹中さんもそういうつもりではなく、不良企業が倒産して優良企業だけが残れば経済は再び活性化し、雇用も回復するだろうと思っていたのじゃないですかね。
ただ、実際にはそうならなかった。それは、経済はマクロの視点だけから見ていたので本質を見失ったのではないかと思います。同時にミクロなところで何が起きているのかも注目していなければいけないということだろうと思います。
あ、元の話題からずいぶんそれてしまいましたね、統計、エビデンスの話でしたっけ。ま、これにかんしても統計上の数値が単なる合計値か、ミクロな構造を反映したものかは重要な要素だとおもうのですね。
最後に一言。
「作業の標準化」「誰にもできる仕事」を作ることで、単純労働者と頭脳労働者を生みだし、格差社会の原因となったことを書いてきたわけですが、最近はその傾向の揺り戻しみたいなのを見かけるようになってきました。
ベルトコンベヤーを使った流れ作業の最たるものだと思うのですが、最近はセル生産方式といって、一人の作業者が最初から最後の工程までこなす方式が増えています。
ささやかですが、新しい流れがはじまっているのかなと思います。
投稿: Johannes Chrysostomos | 2009.09.08 22:21
>Johannes Chrysostomosさん
>>ま、これにかんしても統計上の数値が単なる合計値か、ミクロな構造を反映したものかは重要な要素だとおもうのですね。
仰る通りで、たとえば非正規雇用者が増加して全体的な就労者人口が増加した、と謂う状況を想定すると、
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090116/crm0901160912008-n1.htm
こう謂う境遇の人が増えても、統計上の数字では雇用が増加したと謂う言い方も出来ると謂うことです。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.08 23:36
なんかいいコメント多いのでよんでて、改めてなにがおかしいのかわからないなあと思いました。
被害者指数と加害者指数(うちが勝手に作りました)が全然あわないです。
光と影の大きい改革・国際情勢・金融市場・経済団体・個々の企業・雇用する人される人・みんなそれぞれ自分まもろうと努力したけど、ちょぃ問題も。
でもその結果大きなツケ(しわ寄せとか)を負わされた人がいます。
(おにぎり事件とか。)
小泉改革にも問題あるけど、社会全体で犠牲者出さない気配り優しさもつ「ゆとり」が欲しいなあと思いました。
投稿: あゆ | 2009.09.09 09:35
こんにちは、Johannes Chrysostomos さん。
>それは、経済はマクロの視点だけから見ていたので本質を見失ったのではないかと思います。同時にミクロなところで何が起きているのかも注目していなければいけないということだろうと思います。
非常に的確なご指摘なんです。ケインズ経済政策がスタグフレーションという事に対策を出せない行き詰まりを新自由主義に突かれてとって代わられたという話を書きました。高度成長を支えていた中間所得層の消費-貯蓄分配率が変化し始めた時にさの選択を左右する因子が複雑で、マクロ経済学的な対策が打ち出せなかったのです。マクロに扱おうとすると選択が起こる時の動機なんかのシンプル化は避けられませんからね。ただ、とって代わった新自由主義政策というのはケインズ経済政策以上に「シンプル化」を推し進めたものであったのです。「人は経済格差により働く意欲が高まる」とか「競争淘汰の激化により創造的破壊が起こり最適化が進む」とかですね。
私がケインズ経済学的な解説とともに、時々、アマルティア・センなどの厚生経済学の話もするのは、まさにこの部分なんです。厚生経済学は経済を「人間の活動」として人間の活動の動機付けや選択の問題を非常に深く取り扱いますからね(厚生経済学はミクロ経済学に分類されます)。本当は私に能力があれば、この2つの経済学の統合とかを示せれば良いのですが、とてもではないですが能力が足りませんので、バラバラ紹介しかできない訳です(笑)。
余談になりますが、中谷さんは「新自由主義はなぜ自壊したのか」という本を書かれて「転向した」と言われていますね(竹中さんあたりは「自壊したのは中谷である」と攻撃しているみたいですが:笑)。面白いと思うのは、実はまだ読んでいないのですが、、この本の中で中谷さんはブータンなどで行われている「厚生経済学政策」というのに興味を示されているみたいです。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.09 10:09
こんにちは、あゆさん。
>改めてなにがおかしいのかわからないなあと思いました。
>被害者指数と加害者指数(うちが勝手に作りました)が全然あわないです。
そういう感想をお持ちになるのは当然なんですね。もともと、「今まで通りのことをやっていてもうまく行かなくなる情勢」という「加害者がいなくても被害者が出る」状況なんですね。例えば、長雨で農作物が不作で皆で腹一杯は食えない様な状況なんですよ。そのなかで、「皆で分け合ってしのごう」という指導ではなく、「強い者が取れ」指導をやっただけのことです。なんとか確保した強い者もそんなに贅沢にため込んだ訳では無くて「安心して生きていけるために集めた」程度だけけど、弱い者は飢え死に寸前になる訳ですね。トータルを平年作の水準でみたら、加害と被害が一致しないんです。
>光と影の大きい改革・国際情勢・金融市場・経済団体・個々の企業・雇用する人される人・みんなそれぞれ自分まもろうと努力したけど、ちょぃ問題も。
>でもその結果大きなツケ(しわ寄せとか)を負わされた人がいます。
前にも書きましたが経済学には「合成の誤謬」という言葉があります。個々の選択は合理的であり非難されるほどのものではない選択であっても、皆が気を揃えたようにその選択をすると全体ではとんでもなく望まない方向にいってしまう現象です。本来、政治というのはそういう時にその個々の選択を壊さなくてはならないものなんです。それができなかったというのが「政治上の罪」であるわけですよ。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.09 10:28
>あゆさん
技術開発者さんのご解説が適切だと思いますが、敢えて雑でわかりやすい話を(笑)。
経済的な状況が悪くて全体を潤すことが難しいと謂う場合、全体を潤す為には大きなリスクの伴う新奇な試みを実行する必要がありますが、状況が悪いからこそそのような必要が生じるわけですから、コストやリスクが大きくなってきます。
その場合、一番楽な選択肢は従来通りのやり方でもっと堅い商売をして、お金のかかる部分を切り捨てることなんですね。これならコストもリスクがありませんが、それでは全体を潤すことは出来ませんし、問題の解決にまったく益しませんから、いずれじり貧になるでしょう。
そのような状況において公平な分配を行うと、強者も弱者もひとしなみに経済状態が悪くなるので、強者が従来通りの生活をする為には弱者に廻る分を少なくすれば好いわけです。強者は相対的に少数者ですから、多数者である弱者の扱いを苛酷にすれば強者のみが潤うことも可能なわけです。
要するに、抜本的な問題に対しては無策でも強者が何とか従来通りにやっていける仕組みになっていて、弱者の最下層は最低限の生活も困難になっていると謂うことなんだろうと思います。で、意図的にか結果的にかは識りませんが、最下層へは転落しやすく、そこから脱出することは難しいと謂う、収奪の範囲を拡大する方向に圧力が働いていると謂うことでしょう。
Johannes Chrysostomos さんのご意見では、小泉・竹中コンビはそこまで周到な算盤を弾いていたわけではなくて、そう謂う仕組みにすればみんな死ぬのは厭だから必死で頑張って景気が回復するだろうと期待していたと謂うことなんでしょうね(笑)。
雑なアタマの持ち主に政治を任せると、結果的に人死にが出ると謂う好例でしょうね。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.09 11:27
こんにちは、黒猫亭さん。
>Johannes Chrysostomos さんのご意見では、小泉・竹中コンビはそこまで周到な算盤を弾いていたわけではなくて、そう謂う仕組みにすればみんな死ぬのは厭だから必死で頑張って景気が回復するだろうと期待していたと謂うことなんでしょうね(笑)。
新自由主義経済学というのの基本くらいは説明しておいた方がよさそうですね。小泉さんは政治家ですが竹中さんは経済学者であり、新自由主義経済学(シカゴ学派と呼んだりします)の学者ですから、いちおう、理論に基づいてはいた訳です。ただ、その理論が現実を悪化させるトンデモであったと言うことです。
新自由主義の理論の元はミルトン・フリードマンになります。1976年のノーベル経済学賞の受賞者ですね。「おいおい、ノーベル経済学賞ってそんないい加減な理論に出すのか」といわれそうですが、実はノーベル経済学賞を受賞するまでの研究業績というのはケインズ経済学者としてなされていまして、或る意味でケインズ経済学を発展させる業績とも言えたわけです。別な所で「高度成長は七難隠す」という事を言いましたが、彼のケインズ経済学者時代の業績というのは「七難隠す」を見事に説明したものと言ってよいのでは無いかと思います。
問題はノーベル経済学賞を取るような研究をした後でして、ひたすらケインズの問題点を追求しはじめる訳です。ケインズは大恐慌時代を生きた人でして、彼の研究対象は不況であり、出てきたものは恐慌を起こさない政策でした。フリードマンは米国の高度成長時代を生きた人であり、彼の研究対象は高度成長のもたらす「七難隠す」であり、出てきたものは成長の維持政策であったといっても良いでしょう。
フリードマンは反ケインジアンの筆頭として、ケインズ政策のあらゆる部分を批判するわけです。「財政支出、相続税、累進課税制度、政府のマクロ経済管理などのケインズ派の政策は経済成長が未発達な段階のもので、経済が成長した現代においては不要であるだけでなく有害だ」という理屈になるわけです。
まあ、これだけなら単に経済学論争に過ぎないとも言える訳ですが、これにまず、財政赤字に苦しんでいた米国の政治家が飛びつく訳です。そして当然の様に日本の中曽根政権も飛びつく事になります。さらには、フリードマンのいたシカゴ大学を中心にして親米国家に新自由主義経済学を学んだ者をばらまく訳ですね。彼らは「シカゴボーイズ」と呼ばれています。中谷さんのように政治家にブレーンとして重用される経済屋だけではありません。新聞社とかマスコミの中にいる経済屋にもずいぶん新自由主義のシンパがいる状態を作り上げる訳です。
こうなると親米国家は皆、一気呵成に新自由主義に走ることに成るわけです。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.09 13:40
>技術開発者さん
それで、政治が介入することで非効率が生まれるが、市場原理に任せれば市場には効率を一義的に追求する自律的な原理が働いているはずだから、最適な効率化が実現されるはずだ、みたいな話になって、ところが実は市場原理は効率化を一義的に指向するわけではない、みたいな流れになったと記憶しておりますので、その先をもう少しご解説戴ければ。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.09 15:51
こんにちは、黒猫亭さん。
>ところが実は市場原理は効率化を一義的に指向するわけではない、みたいな流れになったと記憶しておりますので、その先をもう少しご解説戴ければ。
なんていうか、別に新しくも珍しくもない経済学上の論争にすぎないんですね。議論の要素としては出尽くしている感じもします。
アダム・スミスの時代に「みえざる手」という言い方で「各個人が自己の利益を追求することで、社会の利益となる」という言い方で放任主義を唱え、多くの経済学者によって引き継がれてきました。もちろん様々な部分で修正は加えられています。例えば、幾つかの「市場の失敗」を引き起こす様な事(例えば独占に至ると市場原理そのものが働かなくなりますよね、市場原理に任せることで独占が起こる場合もある訳です)に関しては古典経済学においても規制を加える訳ですが、それは放任主義により生ずるゴミ処理の様な扱いでして、真っ向から異を唱えるというものでは無かった訳です。異論はあるのですが真っ向から否定したのはケインズだという事になっています。
余談になりますが、資本主義国家に対するものとして社会主義国家があり、社会主義国家においてレーニンなどの「国家による計画経済」と言うのがあるので、放任主義に対して計画経済が対抗している様なイメージがあるのですが、もともと、これは社会論でして経済学として放任主義論と計画経済論ぶつかりあった面はあまり無いのです。ぶつかり合おうにも、ベースとする社会のあり方論が違いすぎるので、議論出来ないとも言えます。あくまで、資本主義の中で放任主義とケインズ学派がぶつかる訳です。ただ、ケインズの時代には社会主義の考え方は既に出ていますから、影響は受けています。
ケインズ理論の中心は有効需要論です。単純化した例で申し訳ないですが、「作り店に並べる」という事の効率性よりも「作り店に並べたものがきちんと売れる」ということの効率性を重んじて考える訳ですね。「作り店に並べる」事の効率性の追求には「できるだけ少ない労働者でできるだけ低賃金で」が含まれます。ところが「売れる」という部分には「買うだけの購買力のある買いたいと思う客」が必要です。所得格差が増大すると「買いたいけど金がない」貧困層と「金は有るけどもう既に買ったから買う気がない」富裕層が生じて効率が悪い訳です。もちろん経営者が皆、賢人で、息を揃えてこの「売れる」という効率を重んじるなら、社会は最適化されますが、「抜け駆け」もまた可能ですよね。息を揃えて「売れる」という効率もまた重んじて「作り店に並べる」効率追求のうち、労働者(=購入者)の利益分配に配慮する中で、配慮しないなら「利益の追求」が可能です。とまあ、こんな感じで総有効需要管理政策の必要性を唱えた訳です。
でもって、フリードマンがこういうケインズの考え方に異を唱えて、古典経済学の放任主義に戻ることを提唱し、政治家がそれに乗ったというのが現代です。
なんだか、黒猫亭さんがお求めの説明とは違うかも知れませんね。あまりに論点がいっぱいあるので、どれを説明して良いか分からなくなるんですね。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.10 09:08
実にいい解説ありがとうございます。
「政治上の罪」ですか。
もの前の個々の現実に現実的対応していたら理念失い破綻した戦前という学説思い出しました。
シカゴ学派ですが、以前(多分去年)新自由主義は日本発の理論だったと書いた人がいます。それがアメリカに行き逆輸入されたものみた某経済界の人が推進させたとか。
文藝春秋です。
なんかよくわからない?内容だったのでそれ以上覚えてないです。
{ 「合成の誤謬」という言葉があります。個々の選択は合理的であり非難されるほどのものではない選択であっても、皆が気を揃えたようにその選択をすると全体ではとんでもなく望まない方向にいってしまう現象です。}
なるほどそうなんですか。
規制緩和だとこれを修正するのを減らしそうですね。
投稿: あゆ | 2009.09.10 09:28
>技術開発者さん
わかりやすいご説明、有り難うございます。
>>あまりに論点がいっぱいあるので、どれを説明して良いか分からなくなるんですね。
では、論点を絞って、まず以下について。
>>その二〇年間の間に本家ではボロが出て問題点が抽出されているわけですから、幾らでも好いポジションからスタート出来そうなものでしたけどね。
日本で小泉構造改革が始まるかなり以前から、英米の新自由主義政策は躓いていたはずなんですが、それでも当時の日本で新自由主義的な改革を行うことに何らかの合理性はあったのか、と謂う疑問です。
ウィキの記事を読むと、米国が世界に新自由主義をばらまきたかった国益上の動機については大体察しが附くんですが、それに従うことには、日本側の視点で本当に対米従属と謂う以外の意味はなかったのか、この辺についてご意見を覗えれば、大分スッキリするような気がします。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.10 12:11
黒猫さん。
こんにちは。
「日本で小泉構造改革が始まるかなり以前から、英米の新自由主義政策は躓いていたはずなんですが、それでも当時の日本で新自由主義的な改革を行うことに何らかの合理性はあったのか、と謂う疑問です。」
あっ、、、、
それ、すごく興味あります!!!
開発者さんのコメント、楽しみですo(*^▽^*)o
私も、
ちょっとアジアの中でのグローバリゼーションについて、書こうと思っていたことがあるので、
ちょっと調べてみます。
その前に、民主党とホメオパシー、、、書きたいが。
その折は、またいろいろ教えてくださいね。
では。
投稿: せとともこ | 2009.09.10 12:31
こんにちは、黒猫亭さん、せとさん。
>日本で小泉構造改革が始まるかなり以前から、英米の新自由主義政策は躓いていたはずなんですが、それでも当時の日本で新自由主義的な改革を行うことに何らかの合理性はあったのか、と謂う疑問です。
一番の要素としては、「新自由主義の導入目的に本音と建前の乖離があった」という事が大きいです。黒猫亭さんのところに書きましたが、日本の新自由主義政策というのは中途半端で折衷的で米国や南米などの事例を元に批判が行いにくかったという事もあります。
まず「本音と建て前」で言いますと、新自由主義政策というのは「経済を放任する事で経済成長を促進する」のが基本です。そのための手段として政府による規制を無くしていきますから、付録の様に「政府は小さくなって金がかからなくなる」訳です。ところが、中曽根政権は「政府を小さくして金がかからなくなること」を目的に新自由主義政策を取り入れた形になっていて、経済成長の方が付録的になっている訳です。さらに、その政府を小さくすると言うことに関して「古い体制にしがみついている既得権益亡者の追放」というスローガンが加わります。
実際、チリやアルゼンチンなどは新自由主義政策を取り入れるなり、数年でバブル破綻を起こしている訳です。それを紹介しながら、「新自由主義は危険だ」と警告する本も1990年代に出てはいました。ただ、日本の多くの国民が「新自由主義というのは今までの政策で溜まった悪い部分を取り除くことだ」みたいな認識なんですね。経済政策という認識そのものが薄いので、経済政策の失敗によるバブル破綻したチリやアルゼンチンの前例が受け入れて貰えなかった面があります。
スローガンの方はもっと強力に作用していまして、1995年に内橋克人らが米国の規制緩和の実情を元に「規制緩和という悪夢」を出しているのですが、多くのマスコミから「彼は既得権益の擁護者である」とレッテルを貼られて攻撃されているわけです。
私なりの推測になるのですが、米国がばらまいた「シカゴボーイズ」は日本の場合に政権のブレーンに食い込むというよりも、マスコミの経済部に食い込んだのではないかと考えています。一例ですが、村上義彰に有罪判決が出たとき、「あたかも『金儲けはけしからん』と言うような判決であり、こういう司法は経済の発展を阻害する」という論調の記事を大新聞の経済面で見かけて、「ここまで汚染されているのか」と思ったことがありますね。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.10 13:13
こんにちは、あゆさん。
>シカゴ学派ですが、以前(多分去年)新自由主義は日本発の理論だったと書いた人がいます。それがアメリカに行き逆輸入されたものみた某経済界の人が推進させたとか。
うかつにシカゴ学派という言葉を使いすぎたかも知れません。シカゴ大学というのは或る意味で、常に新しい経済学の発信基地だった面がありまして、古典経済学が盛んな頃のシカゴ学派と言えばリベラル派のケインズ経済学者だったこともありますからね。余談ですが、フリードマンはシカゴ大学の自分の師匠(ケインズ経済学者です)に破門されているんですね。ところが大学を追い出されたのは師匠の方だったんです。それ以降のシカゴ学派が新自由主義です(第2世代シカゴ学派なんて言い方もマイナーですがあります)。でもって、経済政策論のシカゴ学派とは別に最終的には新自由主義に取り込まれる事になる産業構造論という分野がありまして、これもシカゴ大学発でハーバードと論争していたのでシカゴ学派と呼ばれます。日本発という事ではないのですが、この産業構造論に関しては日本の事例というのが結構影響を与えています。この産業構造論というのは、企業結合つまりコンチェルンとかカルテルの問題を扱ったりするんですが、この分野のシカゴ学派も規制緩和の方向でして「カルテル以外は取り締まるべきではない」みたいなことを言っています。単純に言えば「財閥は有っても良い」です。日本なんて実質的に財閥が復活していますから日本発かも知れませんね。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.10 16:25
>せとともこさん
社会学とデータの問題については、早い段階でこちらに引き取って戴いて有り難く思います。興味深いテーマではあるんですが、黒猫亭個人の立論を踏まえていない批判について黒猫亭個人が責任を引き受ける必要を感じなかったので、ウチのほうでは議論を切りました。
当初は、お相手の方の立論に対する意見を求めておられるような口ぶりだったので、儀礼上お附き合いさせて戴きましたが、ハッキリ黒猫亭の立論に対する批判だと明言されたので、そんないい加減な議論に附き合う義理はないと判断致しました。
少し技術開発者さんにも強い言い方をしてしまいましたが、そのような事情ですので、統計的な視点を引き取って戴いたせとさんのところで議論を継続させて戴くのが筋かな、と思いました。
そう謂う次第ですので、もう暫くこちらでこの話をさせて戴けますと有り難いです。
>技術開発者さん
重ねてのご解説、有り難うございます。これで、大分スッキリしてきたのではないでしょうか。
>>ところが、中曽根政権は「政府を小さくして金がかからなくなること」を目的に新自由主義政策を取り入れた形になっていて、経済成長の方が付録的になっている訳です。
これは、名目においても動機においても、経済振興が目的ではなく、小さな政府にすることで不健全な財政を立て直したいと謂うのが本音だったと解してよろしいのでしょうか。そうすると、当初不良債権処理から始まった小泉政権が、次に財政立て直しを動機として新自由主義「モドキ」の改革に乗り出したことも理解出来ます。
これは大筋Baruさんの読み筋とも一致するわけですしそれはそれで一つの見方として異論はないんですが、何故それが構造改革が一定の成果を挙げたとか、構造改革を批判するのは筋違いだと謂う話になるのかと謂うところが筋が通らないわけですね(笑)。つまり、構造改革肯定と謂う結論に繋げる筋道が無理筋だから、ウチの議論とは噛み合わないんです。
>>さらに、その政府を小さくすると言うことに関して「古い体制にしがみついている既得権益亡者の追放」というスローガンが加わります。
>>実際、チリやアルゼンチンなどは新自由主義政策を取り入れるなり、数年でバブル破綻を起こしている訳です。
既得権益亡者の追放と謂うスローガンについては、小泉構造改革でも引き継がれていますよね。敵を作って糾弾すると謂う手法が多用されています。それはそれで糾弾型の政治手法は倫理的に問題がないのか、と謂う疑問はありますが、それは一旦措きます。
中曽根政権時代なら、まだ表向きサッチャーリズムやレーガノミックスが一面では経済的な効果を上げていると謂う見方が在り得たので、附録的な扱いの経済対策についても「こちらのほうでも成果があるかもしれない」くらいのバランスだったと思うんですが、小泉構造改革前夜の時点では、英米共に実質的な成果が得られなかった、寧ろ新自由主義経済政策は誤りだったと謂う結論が出ているはずですし、技術開発者さんが挙げられた南米諸国の致命的失敗例があるわけです。
財政立て直しが小泉構造改革の真の狙いだったと謂う仮定に基づくなら、数々の実例が示す経済破綻の可能性と謂う高確率のリスクを無視して、政府財政の立て直しを企図した挙げ句、借金自体は増えているのですから、何の成果も得られなかったことになります。
オレ個人の意見としては、小泉・竹中コンビと謂うのは、その場のノリだけで痙攣的に動く劇場型の政治家と、自己中心的な拝金主義者と謂う最悪の組み合わせの同床異夢だったんだろうと考えていますが、少なくとも竹中平蔵のほうは経済学者ですし、新自由主義者なわけですよね。
なので、小泉純一郎はとりあえず郵政民営化と謂う宿願の政治目的が達成出来ればプロセスなんかどうでもよかったんだろうし、竹中平蔵のお題目をそのまま受け容れていたのだと思いますし、竹中平蔵自身は新自由主義の誤りを認めず、もっと市場主義に徹して小さな政府にすればすべて上手く行くはずだと信じていたのかもしれません。
だとすれば、それこそ多面的な意味で小泉構造改革は非合理な政策だったわけで、ウチで挙げた論文でも技術開発者さんが仰るように、小さな政府的な政策と大きな政府的な政策がごっちゃになっていて、新自由主義改革としては中途半端なものだったと指摘されていますし、それは竹中平蔵の青図で謂えば市場主義に徹するものではないのだから、ハナから経済振興なんて得られないと謂うことになります。
また、構造改革以前に既存の新自由主義政策はすべて破綻していたわけですが、その事実を無視して財政健全化と謂う限定的な目的を追求したのだとすれば、既存の新自由主義政策が喫した経済的失敗と同様の事態がもたらされた場合、それは政策理念自体が間違っていたと謂うことになります。
その意味で、「もっと市場主義に徹していれば」とか「改革が中途半端だったから」と謂う弁解は通らないはずですね。小泉構造改革よりももっと新自由主義に徹した政策が一度も成功していないのですから、成果が上がるはずだと謂う保証なんか一切ないわけで、そんな経済学の実験みたいな成算のない政策を実行されても困るわけですね。
>>私なりの推測になるのですが、米国がばらまいた「シカゴボーイズ」は日本の場合に政権のブレーンに食い込むというよりも、マスコミの経済部に食い込んだのではないかと考えています。
この辺、マスコミの援護射撃が大きかったと謂う感触はたしかにありますね。普通に考えて非合理な政策なのだし、捕らぬ狸の皮算用で「景気回復」「持続的な成長」が得られるはずだと謂うオマケが附かなければとてもじゃないが民意が得られるものではない小泉構造改革を批判する言説と謂うのは、奇妙なくらい目にしたことがありません。
しかも、政策実行者である政治家とは違って個々のマスコミ人は発言の責任なんかとらないで済む。無責任な話です。囃子方が無責任に煽って批判意見を封殺した挙げ句、こう謂う世の中になった責任は一切とらないわけですね。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.11 03:07
こんにちは、黒猫亭さん。
このブログのコメント欄で、私は良く「良くない物を壊すのは良い、ただ壊した後に何を構築するのかはよく考えて欲しい」という事をしばしば書いてきました。行政システムのサービスというのは、人の目に付かない所で、国民生活を支えている面があります。システムの悪いところを直すのではなく、システムそのものを無くしてしまったときに、その国民生活を支えているシステムもまた失われる訳です。
そういう意味では新自由主義というのは「悪魔の囁き」の面があるんです。「良いんだよ壊すだけで、行政システムなんて無くなっても、市場原理が働けば何でも良くなるんだから・・・」という囁きです。再構築には知恵も努力もいります。でも破壊にはさしたる知恵も努力も要らないのです、壊すのは作るより遙かに容易ですからね。人は易きに流れやすいのですよ。
>また、構造改革以前に既存の新自由主義政策はすべて破綻していたわけですが、その事実を無視して財政健全化と謂う限定的な目的を追求したのだとすれば、既存の新自由主義政策が喫した経済的失敗と同様の事態がもたらされた場合、それは政策理念自体が間違っていたと謂うことになります。
実は黒猫亭さんと私に少し認識の違う面があるんですね。私は「新自由主義」を考えるときに経済に特化して考えてしまいがちなんです。経済に特化して考えると米国や英国などは、リーマンショックまでは破綻していないと考えています。むしろバブル型の経済成長の恩恵を受けていたと考えています。もちろん、このバブルは市場を放任した事により生じて居ますから、社会的には非常に沢山の問題が発生します。黒猫亭さんは、そういう社会問題の発生という面を意識されるので「既存の新自由主義政策はすべて破綻していた」とお考えになるのかなと思っていますが、こと経済ということに関しては小泉政権時の英米は破綻しておらず、むしろバブルに踊っていたと考えています。例えば郵政改革にしても、目的は200兆円を超える郵貯や簡保の資金を国際金融市場に投資して利益を上げたいがあるわけです(国が国民から預かっている資金は投資出来ないので、民間が預かっている資金に変えると言う手続きが必要です)。実際、その頃の国際金融市場は高い利率で運用されていましたのでね(その代わりリスクも増大していました)。まあ、ゴタゴタしいてるうちにリーマンショックで国際金融市場そのものが破綻したので、国民の貯蓄は悲惨な結果を免れた訳ですけどね。
私はバブルの説明に、1000円ずつ持った3人が、元値10円のチューリップの球根を「20円で買う」「30円で買う」と値を釣り上げながら3人の間を回すという話をします。やがて買い手の手持ち資金より値が上がりますが、その時はその前段階で球根を売った者からお金を借りて買うわけです。これを続けると球根の値段が3000円を超えたところで、お金をかき集めても値段が釣り合わなくなり、売買が止まり、バブルがはじけます。ところが、その時に新たに1000円を持った4人目に加わって貰うとグルグル回しを続けることができます。「国際金融の自由化」により、新たな参加者を増やし続けることで、バブルを長引かせていたというのが小泉政権時の米国の経済状態であった訳です。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.11 08:45
はなしがおもしろいのでせとさんそっちのけですみません。
1
新聞?のコラムでは内閣がする政策はほとんどないようにかかれていたものが最近ありました。小泉内閣がしたのは郵政民営化だけであとは違うらしいです。
構造改革と名前つけただけ?
2
強者にまわして弱者のけずるという発想よく聞きます。
拠点にある程度集中させるんです。
なんかのゲームでうちがやる手法です(笑い)
違うのは、拠点から支援がいくか、「自己責任」で心情的に支援いやがるかの違い??
3
日経新聞にもかかれてましたが、企業規制・労働者保護は社会主義で、社会主義は破綻しているという理論で、このまま新自由主義続けるべきというコメントしている人がチラホラ。(アメリカの誰かさんとか)
何がおかしいのかますますわからなくなります。
でもなにかおかしいです。
投稿: あゆ | 2009.09.11 09:15
黒猫亭さん。
技術開発者さん。
あゆさん。
ドンドン、書いてください。
私もすごく刺激を受け、勉強になります(o^-^o)
本当はこちらにもコメントを書きたいのですが、今日は911なので、アフガンの現状を調べているのです。
それから、アジアの現状も、このエントリーとからめ、チョット調べ中。
黒猫さんや開発者さん、あゆさんのコメント参考にしています、、、、、
では、ドンドン書いてください。
投稿: せとともこ | 2009.09.11 09:41
黒猫亭さん。
アジアについて考察を加えようとしましたが、
タイの通過危機いらい、ごちゃごちゃなので、まだ志なかばのエントリーですが、書きましたので、ご覧ください。
技術開発者さん。
「「新自由主義」を考えるときに経済に特化」
では、本質を見逃す気がしますが、、、、
いかがでしょうか???
投稿: せとともこ | 2009.09.11 15:37
あゆさん>
トラックバックが送れませんが、
新しいエントリーもご覧ください。
投稿: せとともこ | 2009.09.11 17:16
新自由主義は経済理論だからかも??
特化しないと整理できない部分と総合的見方と両方いりかも??
ある学者がいうにはアメリカは先進国ではめずらしい原理主義国だそうです。
(宗教事情で宗教面原理主義少しでてます。)本来経済に特化されている理論が他の思想と結びつきややこしくしているのかも???
うちの宗教事情によると宗教右翼は飢えている人を見捨てるのは聖書にはんするという人がでてきたそうです。
その逆で、自由が大事だから(規制いや)道徳さけんで自由制限は・・・という声も。
この声が一時的か流れができるかは予想不能だそうです。
投稿: あゆ | 2009.09.11 19:27
>せとともこさん
どうも有り難うございます。実のところを謂うと、小泉構造改革を振り返る場合、一見して辻褄の合わないところが無闇に目に附くわけですが、おそらくそれには理由があるんだろうと考えています。とりあえず、非合理だと謂う批判を加えることは可能です。しかし、何故なのかと謂う部分については、細かく視ていかないとわからない。その部分について技術開発者さんのお力が籍りられれば、と思います。
>技術開発者さん
>>でも破壊にはさしたる知恵も努力も要らないのです、壊すのは作るより遙かに容易ですからね。人は易きに流れやすいのですよ。
仰る通りで、オレも小泉構造改革については、過去に「後先を考えずにただ毀しただけ」と謂う批判を加えています。これを「方針」では「創造的破壊」と呼んでいるわけですが(笑)、創造的破壊と言うのであれば、破壊のプロセスがそのまま創造のプロセスに繋がっていなければならないはずです。しかし、破壊は行われたが一向に創造が行われていない、ここが問題なんだと思います。
>>実は黒猫亭さんと私に少し認識の違う面があるんですね。私は「新自由主義」を考えるときに経済に特化して考えてしまいがちなんです。
いや、それは本質的な認識の相違ではありません。オレが言っているのは「新自由主義政策」で、技術開発者さんが仰っているのは「新自由主義経済」でしょう。技術開発者さんが、
>>もちろん、このバブルは市場を放任した事により生じて居ますから、社会的には非常に沢山の問題が発生します。黒猫亭さんは、そういう社会問題の発生という面を意識されるので「既存の新自由主義政策はすべて破綻していた」とお考えになるのかなと思っていますが、こと経済ということに関しては小泉政権時の英米は破綻しておらず、むしろバブルに踊っていたと考えています。
…と仰ったのは、「経済活動は活発だったが政策としては破綻していた」と謂うことでしょう。それは何処に視点を置くかの違いで、同じことを言っているのだと思います。「社会的には非常に沢山の問題が発生」しても好いから、経済活動が活発になれば好い、それは政治の採るべき理念ではありませんね。政治と謂うのは、社会的な諸問題を解決する為に経済活動を振興するのであって、その逆であってはならないはずです。
オレは一貫して今のような世の中の在り方は許されるべきではないと考えていますし、それは政治の失敗が大きいと考えています。このような世の中になっても好いから経済活動を振興すべきだと謂う理念の政策は、政治の在るべき姿として間違っていると考えます。この点については、技術開発者さんもご異存はないはずです。
オレが、
>>構造改革以前に既存の新自由主義政策はすべて破綻していたわけですがその事実を無視して財政健全化と謂う限定的な目的を追求したのだとすれば、既存の新自由主義政策が喫した経済的失敗と同様の事態がもたらされた場合、それは政策理念自体が間違っていたと謂うことになります。
…と申し上げたのは、このような世の中になることは過去の実例でわかっていたはずだが、それでも敢えてその道を選んだのか、と謂う意味ですし、「経済的失敗」とは「経済振興の失敗」ではなく「経済政策の失敗」の謂いです。
せとさんやあゆさんが示唆されているように、おそらく新自由主義経済理論で謂う経済振興と、政治に求められるそれは、意味合いが完全に違うのではないか、つまり新自由主義経済理論に基づいた政策それ自体が間違っているのではないか、そのように思います。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.11 23:57
続きです。
それは逆に謂うと、何故こんな世の中になっているのに、新自由主義や小泉構造改革に一定の支持があるのかと謂うことを説明出来ると思うんですが、つまり、新自由主義者は、「格差はあって然るべきだ」と考えていると謂うことだと思います。
竹中平蔵などは、何処かで「ニューヨークの町並みを歩いていると、スラム街と高級住宅街が通り一つ隔てて隣接している、これが社会のあるべき姿だ」などと言っています。そもそもアメリカの社会問題を問題性としては捉えていないんですね。この種の思想の持ち主が政策に関与すること自体が危ないわけです。
つまり、有能な人間と無能な人間、努力した人間と努力していない人間、成功した人間とそれ以外の人間の間には、得られるものに大きな格差があるのが当然なんだ、と謂う考え方ですね。たしかに、一種社会的なモチベーションを喚起する観点では、勝者にインセンティブが与えられるべきだと謂う発想も理解出来ますが、アメリカのような極端な格差があるべきだと謂うのはグロテスクな考え方だと思うんですよ。
たとえば、アメリカのセレブのお宅拝見みたいな番組を見ると、一人の人間が占有することが馬鹿馬鹿しいくらい広大な邸宅があって、一個人が私有することに意味があるとは思えないような遊園地だの鉄道だの博物館のようなコレクションだのがあったりするわけですね。これはハッキリ言って王侯貴族の現代版で、経済や科学技術が発達しているだけ、もっと無意味に豪華だったりするわけですね。このレベルで富が一個人に集積すること自体、政治的な意味での経済の在り方が未成熟で原始的だと思うんです。
世界の長者番付に名を連ねる富豪たちの個人資産は、中規模の国家の国家予算に匹敵する額だったりするわけですが、一個人が国家に匹敵するレベルの富を私的に集積可能な世の中であること自体が、いびつで極端に未成熟な社会構造であると謂うことを表していると思うんですよ。
この種の社会的格差は、原理的に必ず固定化するんだと謂うことに説明が必要だと謂うこと自体が馬鹿馬鹿しいと思います。社会的身分と謂うのはつまり固定化された格差であって、今現在有利な層はその有利を制度的に維持しようと努力するのですから、必ず格差は固定化し、固定的な身分に変化します。少なくとも新自由主義理論に基づく政策には、その固定化を排除する要素が担保されていないはずですね。
しかし、どうも人々の中には、その種のいびつな極端さに対する憧れを持つ層が一定数存在するんじゃないかと思うんですね。一個人が使い切れないほどの富を寡占する、勝者がすべてを獲る、その種のダイナミズムに対する憧れが。で、それは一種の自己インフレ的な心性と親和性があって、自分や自分を投影出来る「英雄」が他の大勢の凡庸な人間よりも極端に優遇されるべきだと謂う欲求を満足させる部分があるのではないかと思います。
で、さらに考えていくと、小泉政権以前の新自由主義政策と、それ以後の政策の質的違いは何処にあるのかと謂えば、「格差はあって当然なんだ」と謂う考え方の扱いではないかと思います。
国民視点では「頑張った者が報われる社会」と謂うのは、非合理な富の集積を配して適切且つ段階的に富が分配されることをイメージしますが、新自由主義的な文脈ではそのものズバリ「極端な格差」を意味するわけで、そこにギャップがあったわけですが、小泉政権以前では、日本人がそんなアメリカ並の極端な格差を許容するはずがないと謂う配慮があって、新自由主義に徹した政策は行われなかった。飽くまで全体的な国民生活を豊かにする為に経済を振興するんですよ、と謂う建前を貫いていたわけですね。
しかし、小泉構造改革は「格差はあって当然なんだ」と謂う考え方の下に行われたわけで、従来は政策が解決すべき社会問題であると謂う「フリ」をしていた新自由主義的政策のツケを、それが社会のあるべき姿なんだと強弁して公然と目的的に追求するようになった、その辺が違うのかな、と思います。
サッチャーなんかは「社会などと謂うものは存在しない」として市場主義を前面に打ち出したわけですが、「じゃあ国家だって要らないじゃん」と謂う話なんですよねぇ。国家は市場経済の為に存在するわけではなく社会の為に存在するわけで、技術開発者さんが仰るように「何もしなくても好い、毀すだけで好い」と謂うのは、楽なほうに流れる人間の習い性にとっては常に危険な誘惑だと謂うことでしょう。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.11 23:58
あゆさん。
黒猫亭さん。
こんにちは。
此方は雨の朝です、、、
天気が変るりやすいのでお二人ともご自愛ください。
あゆさん>
私は新自由主義はアメリカのグローバリゼーションの経済面を担うものだと位置づけています。
ゆえに、経済だけに特化したら、真の目的と言うか裏に隠されている物を見逃すのでは、、、と思っています。
憲法に、教育にと進出しています。
もっと多角的に分析をしていく必要を感じています。
黒猫亭さん>
開発者さんからは月曜日以降、お返事が来ると思い、私も楽しみにしています。
個人的には、黒猫さんの「もどかしさ」に近いものを感じています。
今後の、このコメント欄の成り行きを見ながら、また考えます。
では、、、、、
投稿: せとともこ | 2009.09.12 10:54
こんにちは、黒猫亭さん。
>「社会的には非常に沢山の問題が発生」しても好いから、経済活動が活発になれば好い、それは政治の採るべき理念ではありませんね。政治と謂うのは、社会的な諸問題を解決する為に経済活動を振興するのであって、その逆であってはならないはずです。
そのとおりですが、2000年の頃のこの国の世論は、「政府は経済を活性化しろ」のかけ声に満ちていた気がします。なんて言いますか、1980年代後半からバブルに踊り、1990年代の後半をその後始末に追われ、後始末に一息つきながら「好景気が欲しい」という大きな期待があったように思うわけです。そしてその時期は、米国がバブルに踊っており、それが「新自由主義政策の成果」ともてはやされている訳です。
なんていうかな、国民全体の「考え方」は今でも何一つ代わっていないのでは無いですか?
投稿: 技術開発者 | 2009.09.14 08:58
>技術開発者さん
>>なんていうかな、国民全体の「考え方」は今でも何一つ代わっていないのでは無いですか?
ここは少しニュアンスがわかりません。庶民が経済政策に景気回復を期待するのは、どんな状況だろうと当然なのではありませんか? その意味でなら、たしかに国民全体の考え方は今でも何一つ変わっていないと謂えるでしょう。
そして、小泉構造改革は庶民に「景気回復」を約束していますが、結果的には新自由主義経済理論の文脈では経済は活発化したかもしれないが、「景気」は一向に回復していません。
そこに嘘があったのが政治の過ちだろうとオレは考えているのですが、技術開発者さんが国民の意識の側について問題意識をお持ちなのであれば、もう少し具体的に仰って戴けると参考になります。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.14 16:10
こんにちは、黒猫亭さん。
>技術開発者さんが国民の意識の側について問題意識をお持ちなのであれば、もう少し具体的に仰って戴けると参考になります。
なんていいますか、「景気をよくする」という言葉の後ろに隠れた、「望む生活」みたいなものが、ひどくぼやけている訳です。「景気が良くなれば、雇用も生活も将来もうまく行く」みたいなイメージだけあって、具体性が見えないというか、そんな漠然としたイメージで国民が「景気を良くしろ」と望み、そこに新自由主義政策が入りこんできたイメージですね。
>「景気」は一向に回復していません。
>そこに嘘があったのが政治の過ちだろうとオレは考えているのですが、
私なりの政治観ですが、私は政治というのはまず第一に「現状の理解を求めるところから始まるもの」だと思っています。余談に成りますが、私は自分の勤めている研究所の移転の実行責任者だったことがあります。バブル期に計画が始まり、バブルがはじけて右往左往している間に無駄に時間が過ぎ、最初に計画した事の1/3から1/4で移転し無くなくては成らないところに追い込まれた移転でした。最初にやったことは「縮小移転である」という現実を職員に突きつける事でした。「じゃあ、止めようよ」に対して「我々はもう止めることもできないところまで追い込まれている」と説明する事だったんですね。その後は「痛みに耐える」を押し付けただけです。研究のための装置を捨てさせ、狭い部屋に多くの研究者を押し込めて仕事をさせる方向にね。
私に言わせると、国内の実体需要が高度成長期に比べて遙かに低下している以上、経済成長率つまり景気そのものも「ほどほど」というか、国民のイメージする「景気が良い」とはかなりかけ離れた低い状態で安定化させなくてはならないのだろうと思う訳です。国民のイメージする「景気がよい」を追い求めると必然的に外需依存となり、その結果として、国内に多くの不振業種(農業、繊維や陶磁器などの比較劣位産業)を生みだすばかりでなく、最終的には工場の海外移転などが促進され、国内の雇用は低下します。税の累進度を高く維持したままだと、国外での製品の競争力が陰りますから、法人税の累進度を下げる必要も出てきます。その結果として歳入における累進型課税よりも人頭型課税(消費税などですが)を増やす必要も出てくる訳です。
なんていうか、小泉政権というかここ30年ほどの自民党政権の政治の過ちというのは、「もはや、国民の皆さんがイメージする『景気が良い』状態は望めなくなった。望めばもっともっと酷いことになるよ」と説明することができなかったという事だと考えています。そして、安定成長期の国家戦略というものを描くことなく、国民のイメージする「景気がよい」を追い求めてしまったことだろうと思っています。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.15 08:22
>技術開発者さん
>>私に言わせると、国内の実体需要が高度成長期に比べて遙かに低下している以上、経済成長率つまり景気そのものも「ほどほど」というか、国民のイメージする「景気が良い」とはかなりかけ離れた低い状態で安定化させなくてはならないのだろうと思う訳です。
これは仰る通りでしょう。実際に社会状況が悪化した今になってこう謂うことを言うと、非常に胡散臭い印象を与えるのですが、ここ四半世紀くらいの社会の流れの中の何処かで、モノ主体の豊かさについて価値観の転換が起こらなければならなかったんではないかと思うんです。
今更持続的成長とか言い出したところで、モノ主体の価値観から脱却しなければ意味はないんですが、誰もモノを離れた価値観に基づく社会像についてヴィジョンがない、その辺をもっと時間を掛けて考えておく必要があっただろうと思います。モノ主体ではない価値観と謂っても、それはスピリチュアルやオカルトや、エコだのロハスだのではないはずなんですよね。そう謂う意味では、何処かでニセ科学問題とも接続してくる問題なのかな、と思います。
とまれ、もっと早い段階で、国民全体が公平に満足出来る生活を維持する社会像を選択していくのだと謂うヴィジョンを打ち出して、低成長型の安定的な国家運営にシフトしていれば、こう謂う惨憺たる状況にはならなかったと思いますし、バブルを経験する前の日本人であれば比較的容易に理解可能だったと思います。
そうならなかったのは、やはりアメリカの意向、財界の意向、そう謂うものがあったんではないかと想像しますが、就中アメリカの大国エゴが大きいのかなと思います。その辺のいびつな世界構造がどうなるかは、オバマ政権の本気度に依存するのかもしれませんね。
少なくとも、医療保険制度改革を口にしただけで共産主義者呼ばわりと謂うのは明らかに異常な国情なんですが、どうもその異常性に自覚がない国民が多いところが問題なのかな、と。ただ、米民主党政権下だとリベラル層の良識的な意見も力があるはずなんですが、保守層の反撥ばかりが報道されているのが実情に即しているのかどうかに疑問はありますが。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.15 11:50
こんにちは、黒猫亭さん。
>少なくとも、医療保険制度改革を口にしただけで共産主義者呼ばわりと謂うのは明らかに異常な国情なんですが、
私は自分をフェビアン社会主義者だと公言しますが、それは一面最終的には共産主義者でもあり得る訳ですよ(笑)。
まじめな話として、マルクスの歴史観は資本主義は「最終的に」その内包する矛盾により社会主義革命を引き起こし、共産主義になる必然性をもつとしますからね。問題はその「最終的」というのは、まだまだずっと先でも構わないわけです。資本主義によって生ずる矛盾を議会制民主主義によって漸進的に解決していくというのがフェビアン社会主義ですが、矛盾の増大に応じて社会主義政策は強化されなくては成らず、経済の中の計画される部分が増えていくというだけなんですね。格差是正を議会制民主主義を通じて強化するなら、経済格差の少ない共産主義社会にも近づきます。
>どうもその異常性に自覚がない国民が多いところが問題なのかな、と。
別な所で、「自民党は稚拙なフェビアン社会主義政策を行う社会主義政党であった」ということを書いていますが、稚拙とはいえ高度成長に本来はもっと大きく開くはずであった所得格差を押さえ込んで「総中流」を導いたのは自民党の社会主義政策でした。本来格差の下の方でもっと格差にあえぐ可能性のあった農村部や労働集約型の産業の従事者は、非常に大きな票田としてその社会主義政策を支持した訳です。ところが、自分たちが社会主義政策を支持しながら、その政策を「自由主義の政党」が行う政策だから社会主義政策では無いと思いこんでしまったところに大きな不幸がある様な気がします。
高度成長が終わり「七難かくす」が隠されなくなったとき、国民の目に飛び込んできたのは「つぎはぎだけの場当たり農業政策」の矛盾であり、「ハコモノ行政」の無駄であったわけですね。これらは自民党の行ってきた「社会主義政策の稚拙さ」が引き起こしている訳ですが、国民が社会主義政策であるという認識をもっていないために、社会主義政策という観点に立った「稚拙さ」の追求が起こらずに、自由主義政策の観点にたった「破壊」が表面に出てしまった様な気がします。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.15 13:51
黒猫亭さん。
技術開発者さん。
こんにちは。
私もずっとコメントを拝見しながら考え中。
途中での感想なので、
私の感想に拘らずに、続けてください。
それから、あゆさんの疑問にもお答えいただけたら、嬉しく思います。
開発者さんのコメント↓、痛いほど分かります。
「今更持続的成長とか言い出したところで、モノ主体の価値観から脱却しなければ意味はないんですが、誰もモノを離れた価値観に基づく社会像についてヴィジョンがない、その辺をもっと時間を掛けて考えておく必要があっただろうと思います。モノ主体ではない価値観と謂っても、それはスピリチュアルやオカルトや、エコだのロハスだのではないはずなんですよね。そう謂う意味では、何処かでニセ科学問題とも接続してくる問題なのかな、と思います。」
私はいつも、こうした場合、教育を思うのです。
http://ts.way-nifty.com/makura/2006/04/post_a021.html
↑、この記事は3回に亘、考察しました。
お時間がありましたら、またご覧ください。
さて、ふと思ったのですが、
今、ここにはいらっしゃらないので恐縮ですが、愚樵さんあたりと対話すると、いつも感じることでもあります。
愚樵さんの表現は奇抜で、微妙に違うとは思うのですが、
仰りたい事は「もの氾濫が産む倦み」とか「合理性を追求することへの危惧」なんでは、、、と思います。
表現法と解決を目指すためのあり方が、Looperさんや私と違うので、たいていはぶつかるのですが、、、
しかし、とても学ぶことも大です。
で、
で、
何を言いたいかというと、
前にもチラリと書いたように、新自由主義が教育へも、憲法へもひそかに、しっかりと侵食していっている様をみると、
私は、何か、大きな意思を感じるんですよね。
(あっ、私は決して世に言う陰謀論者ではありません)
知らされていない国民。
悩まなかった庶民。
などなどを考量する前に、
「稚拙」を装った、新自由主義、あるいはそれに象徴されるものを考えていく必要を感じます。
もう少し考えます。
またご意見お聞かせください。
黒猫さん>
話しの腰をおっていたらご免ね。
投稿: せとともこ | 2009.09.15 18:16
>せとともこさん
>>開発者さんのコメント
あ、すいません、それ言ったのはオレです(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.15 19:18
ああああ、、、、
ははは。
ごめん。
黒猫さん。
相変わらず、あわてん坊ですね、、、
失礼をいたしました。
ひらにぃぃいいい。
ところでapj軍団、面白かったです。(o^-^o)
投稿: せとともこ | 2009.09.15 19:26
こんにちは、せとさん、あゆさん。
>それから、あゆさんの疑問にもお答えいただけたら、嬉しく思います。
9/11に書かれた「何がおかしいのかわからないけど何かおかしい」については、黒猫亭さんとの議論を読まれれば少しは理解して貰えるかもしれません。安定成長の時代に対応しなくてはならないと言うことは国民にとっても新たな経験なのですよ。マスコミの混乱というのは国民意識の混乱でもあり、それは相互に混乱を深めていく様な面も持っています。
>(宗教事情で宗教面原理主義少しでてます。)本来経済に特化されている理論が他の思想と結びつきややこしくしているのかも???
というか、ヨーロッパの経済発展は宗教と関係が深いのですよ。荒っぽい言い方になりますが、カトリックは「蓄財」をよろこびません(蓄財するなら教会に寄付しろなんてね)。それに対してプロテスタントは基本的に蓄財を禁欲的勤勉さの証として尊びます。そして、経済発展には産業を興すための基礎資金が必要でした。そのため、カトリック国よりもプロテスタント国の方が産業発展がしやすかったりします。
イギリスの国教会はプロテスタントに分類されますが、カトリックの影響もかなり残しています。産業が発達することで貧富の差が生じ王室が富者への課税を強化しようとした時に宗教分裂が生じます。これも荒っぽい言い方になりますが禁欲的勤勉さの証である財を国王が取り上げる事を認める国教会と抵抗する清教徒の争いです。こうして、清教徒は弾圧を受ける事になります。そして清教徒の一部はメイフラワー号で新大陸へ・・・。
ということで、清教徒の歴史で言うと「蓄財」とは、自らが勤勉であることの証を神に対して行っている事になるわけです。また蓄財を社会のために使うことは奨励されるのですが、その際も「貧者に施しをしてその勤勉さをそこなうのではなく、社会を発展させることに使う方が良い」という考え方も根強くあるわけです。余談ですがカーネギーの残した財産なども、図書館の創設や奨学資金の提供の様な使われ方が多いですね。
こういう清教徒的な考え方が「新自由主義」に強い影響を与えているのは確かでしょう。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.16 08:31
うちが聞いたのは宗教右翼(信仰派)と小さい政府(社会保障なくしていこう派)です。
今回の選挙で宗教右翼は聖書には貧困者見殺しにしていいとはかいてない!
小さい政府は道徳もちだして規制するのは・・・。
というのがでたそうです。。これは一時的かもしれません。
経済理論の新自由主義は宗教右翼と結びついていたのでややこしくなったかも???
アメリカは特殊らしく、やはり移住段階からの歴史がありますよね。
投稿: あゆ | 2009.09.16 08:56
>せとともこさん
いや、お気になさらず(笑)。単に技術開発者さんが言ったことになるとご迷惑かな、と思ったもんですから。
apj 団については、大本は「取り巻き」呼ばわりの問題ですよね。不心得者が何処かに殴り込んでフルボッコにされると、ブログ主とその取り巻きが口裏を合わせて意見を圧殺した、みたいに言う人が後を絶ちません。今回話題になったケースは少し違いますが、基本は「共有されている客観的な正しさ」を認めまいとして「人的な作為」に見せ掛けようとする姑息な論法の問題ですね。
>技術開発者さん
なるほど、その論法だと、共産主義者以外存在し得なくなりますね(笑)。すべて最終的な共産主義のゴールに至る過渡的段階と謂うことになりますので。
とまれ、少し論点がズレたのでどう軌道修正しようかと考えたのですが、せとともこさんが問題視しておられるアメリカ一極主義みたいなものと絡めて、アメリカが内部からそれを脱却出来るか、みたいなところに少し関心がありますので、その辺について。ウォール街でのオバマ演説をウチで採り上げたのもその関連なんですが。
たとえば、アメリカと謂う国の経済の在り方を考える場合、ローリングトゥエンティーズへのノスタルジーがあるんじゃないかと常々思うんですが、結局延々と狂躁の二〇年代から世界恐慌への流れを繰り返しているように思います。
サブプライムローン問題からリーマンショック、そしてまた世界恐慌と謂う経験を経ても、アメリカは旧来のアメリカニズムから自力では脱却出来ないのか、その辺についてお考えを伺えませんか。脱却出来ないとしたら、アメリカと謂う国はどれだけ非道い目に遭っても同じことを延々繰り返す、総体としては依然野蛮で暴力的な国だと謂うことになるんだと思いますが(笑)。
日米共に民主党政権となった今、次の年次改革要望書の内容がどうなるのか、それに対する政権の対応はどう変わるのか、それとも変わらないのか、その辺を占う材料として、現在のオバマ政権に従来のアメリカ的社会構造から脱却する意志が本当にあるかどうかと謂うことがあるんではないかと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2009.09.16 09:51
こんにちは、黒猫亭さん。
>サブプライムローン問題からリーマンショック、そしてまた世界恐慌と謂う経験を経ても、アメリカは旧来のアメリカニズムから自力では脱却出来ないのか、その辺についてお考えを伺えませんか。
ずいぶん、難しい事を考えさせますね(笑)。日本という「借り物の考え方」でやっていて、比較的簡単に前段階の考え方を捨てやすい国民ですら、まだ、「経済成長で七難隠す」時代のノスタルジーから脱却できない訳ですからね。国際的な金融資金の流動化という政策が国際的なバブルと破綻を招いた事を目の当たりしながら、依然民主党は「国際金融市場の自由化」を公約に掲げていますし、国民は支持しているでしょ。マスコミも「規律さえ保てば良いことだ」と押している。実体経済、すなわち「消費需要」に支えられた部分に注ぎ込まれる以上の金融資金が生じれば、様々な思惑売買による国際的物資価格の乱高下が起こったり、バブルが起こるのは経済的必然と言って良いのですけどね。そして、それは実体経済を弱めていくという悪循環を引き起こします。これは、国単位の小さな「規律を求める政策」でどうこうなる話ではないんです。
現在、多くの経済屋が「世界不況は底を打った」と言っていますが、私は危ぶんでいます。2番底、あるいはその後も3番底くらいまであるかも知れないと思っています。
歴史が私に教えてくれることの一つは、どん底近くまで行くと「考え方の変化」が起こるという事です。逆にそこまで行かなくて「考え方を変えて」持ち直した事例は極めて少ないのです。
投稿: 技術開発者 | 2009.09.16 10:46
技術開発者さん。
「現在、多くの経済屋が「世界不況は底を打った」と言っていますが、私は危ぶんでいます。2番底、あるいはその後も3番底くらいまであるかも知れないと思っています。
歴史が私に教えてくれることの一つは、どん底近くまで行くと「考え方の変化」が起こるという事です。逆にそこまで行かなくて「考え方を変えて」持ち直した事例は極めて少ないのです。」
フゥム。
奥が深いのですね、、、、
ううううう====ん。
歴史というか、
人間の在りようが、そんなものなのかしらん????
開発者さんがいつも言われる「自律」。
人は生きるために、規範を作って社会生活を営むのですが、
忘れていくことも、これまた人の才能。
でなければ、人類は生き延びることができなかったのかしらん、、、、、
と、言うことで、
これまらビックリ箱が待っているんでしょうか?
ある意味、ワクワク。
またある意味、ドキドキです、、、、、
投稿: せとともこ | 2009.09.16 18:05