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2009.10.13

「落照の獄」を読んで

yomyomから小野不由美さんの新作が出ました。
タイトルは「落照の獄」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
十二国の中、北方に位置する柳国。賢君・劉王による治世が百二十余年続く法治国家だが、その首都芝草(しそう)において犠牲者総数二十三人を数える殺人事件がおきる。国民の非難の声が高くなる中、重罪人・狩獺(しゅだつ)の裁きが、国府の司刑・瑛庚(えいこう)らによって始まった──。
(上記サイトより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と、言うことで十二国記シリーズで、今まで謎だった柳の国の話。
ネタバレにならないように、感想を書きたいのですが、ちょっとネタバレの部分があったら、
これから読む方に申し訳ないので、ここまでにしてください。
読んだ方や、読む予定のない方は、お付き合い頂けたら嬉しく思います。
まずは断りを入れた後、
さて、感想。

これは、今までの十二国記とはちがって、かなりというか、すごく現代的テーマ、
それも「死刑制度」を縦軸にもってきています。
横軸は、国が次第に荒れてきているその原因は何か、
ズバリ、
主上が政治に熱意を示さず、放置し出したことです。

さてさてさて、、、、、
縦軸の死刑制度。
重いですね。
テーマ自身が重いのだが、小野さんの手にかかると、それぞれの立場の人々が、
それぞれに思い悩む様が手に取るように伝わってきます。
主人公は法を下す立場のもの。
法治国家として、法を重んじ、犯罪者にも厳罰で臨むのではなく、矯正教育をもって立ち直らせることを旨として来た柳の国。
今までは、確かにこの矯正方法は功を奏していたのだが、
ここにとんでもない犯罪者が出現。
民は厳罰を望み、判断を下すものも、それは妥当と思う。
が、
厳罰を下すことが則ち解決に結びつかないこと、あるいは更に厳罰に処する犯罪者が続出することへと、続くことを知っている。
厳罰で犯罪は防御できない。
厳罰を下すことを許すようになることは、法治国家として犯罪に負けたことである。
と、主人公は思い、悩み、考え、積んだり崩したりと結論の出ない毎日を過すのだが。
一方、
一番憎むべき犯人、許し難い犯人は、犯罪そのものへの後悔も反省もなく、迷う裁判官たちをただあざ笑うばかり。
そして、ついに結論は出るのだが、、、、
が、、、、
導かれる結論に至る道筋で、国としての有り様がとわれていきます。
犯罪者を人として認めない社会。
邪魔ものは目の前から取り去ろうとする短絡的な思考などなど、
およそ人なら、思ったり感じたり考えることの列挙の中で、
少しずつ、すこしづつ、歯車が狂い出す様が描かれています。
それは、国としての崩壊への第一歩であるとして、物語は終わります。


ううううう=====ん。
難しい。
死刑制度、裁判員制度。
小野さんは、物語の中で、
犯罪人に極刑を言い渡すことも、新しい形の殺人であるとして、主人公に悩まさせます。
また、被害者でない多くの民衆の心理として、「それは理ではなく反射である」と述べ、
だがしかし、こうした反射もまた人としての当然の反応であることを認め、
認めた上で、死刑制度が防壁にならないことを指摘しています。
私は死刑制度には反対論者です。
感情としては「許し難い犯罪には、死刑もありか」と思うこともないわけではありません。
が、
死刑制度があっても、なくても犯罪はあるだろうし、防御にはならないと思います。
むしろ、以前も書いたのですが、
死刑という制度そのものが、統治権力の「力のさらなる増大」に繋がることを危惧するのです、、、、、、、

この問題、あまりに大きく重いので、また考えていきます。

最後に、
小野主上、はやく、次の文も書いてくださぁ===い、
泰麒が気になるよ〜〜〜〜

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コメント

こんにちは。

ともやん さん:
> 死刑制度があっても、なくても犯罪はあるだろうし、
> 防御にはならないと思います。

メアリーランド大学のJohn Lottの本「Freedomnomics」によると、アイザック・アーリック以後、最近にいたる研究は、「死刑は犯罪抑止に有効」という主張をサポートするようです。
死刑執行を停止してから犯罪が増加し、死刑執行を再開してから犯罪が減少した、ということで、死刑執行1件あたり15人の殺人を抑止している、と。
抄訳のPDFが以下のURLで読めるようです。もし興味があればご覧下さい。

http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/Freedomnomics%20summery%20trans..pdf

投稿: YJS | 2009.10.14 08:15

 これは重いですね。有効かどうか両論ありますよね。死刑制度ある国の方が犯罪おおいともいえますが・・・。でもこれだけでは・・。廃止でふえた国もありますが、これだけでは・・。
死刑が抑止になるケースは少なくないけど立証困難。抑止にならない、死刑目的犯罪も。

 死刑で抑止はかりに(あくまで仮に)いいとしてもそれが先行するのは怖いです。なぜそうなったのか?社会構造そのものの矛盾・弱さとかも考えて誰も「追い詰めない」社会構築がまず必要かなあと。

投稿: あゆ | 2009.10.15 09:17

YJSさん。
あゆさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
バタバタしていてお返事遅くなりごめんなさい。
それにしても、今日は秋晴れ。
お二人のお住まいの地は如何ですか???

さて、
YJSさん>
ともやんですよぉおお(*^-^)
ははは。
こうして呼びかけていただくと嬉しいような気恥ずかしいような。
でも、これからも、呼びかけてください。ははは

で、
教えていただいた論文、読みました。
長いですね、、、
まだ咀嚼していないので、すぐに感想は書くことができないので、これに関してはちょっと待ってくださいね。いずれ折りを見てエントリーを挙げます。
それにしても、この問題、ちょっとやそっとでは語れませんね。
私自身は核抑止力と同じように思っているんですよね、この問題については。

こんなとき、開発者さんだったら「必要悪」とかいわれうんだろうか?と思ったりして。

さて、それはそれとして。
慟哭、今、手元に在りますよ♪
まだ読んでいませんが。
あなたじゃないが、大事にだいじに読みます♪
進行形は京極堂です。


あゆさん>
「死刑で抑止はかりに(あくまで仮に)いいとしてもそれが先行するのは怖いです。なぜそうなったのか?社会構造そのものの矛盾・弱さとかも考えて誰も「追い詰めない」社会構築がまず必要かなあと。」


うん。
私もマッタク同感です!!!
どんな社会でも完璧ということはないから、いっていの割合で犯罪者はいるのだろうとは思うんですよね。
ただ、根絶、絶滅ではなくても、減らすようにするためには「いきやすい」「住みやすい」「暮らしやすい」社会を作っていくことでは、と思うのです。
刑罰よりは、社会の仕組みを考えることが先決かな???
と、思ったりしています。
どうなんでしょうかね????

投稿: せとともこ | 2009.10.15 13:11

こんにちは、せとさん。

>こんなとき、開発者さんだったら「必要悪」とかいわれうんだろうか?と思ったりして。

もともと人間が皆聖人君子なら法律は要らないですからね(笑)。まあ、死刑という重い問題から離れて、法の意味・必要性という事を考えるなら「抑止力としての必要悪」の考え方は常にあるんですね。

>刑罰よりは、社会の仕組みを考えることが先決かな???
>と、思ったりしています。

なんていうかな、前に「人間の特殊性」みたいな事を書いたかも知れないんだけどね。人間は知性を持つことで「群れとしての『生き延びやすさ』を強化した方が個々の『生き延びやすさ』を追求するよりも有利だ」と気が付いた生き物なんです。群れの中で個々が「殺し合ったり、奪いあったり」するよりも群れの中ではそれを禁忌として、互いに協力する方が「群れとして生き延びやすく成り、その結果として個々も生き延びやすい」事に気が付いた生き物なんですね。そういう禁忌の上に「分配」とか「貯蔵・貯蓄」という文化も生まれてくるのね。ためしに「奪う」が禁忌とされない群れで「貯蔵」という文化をどうやって発達させるか考えてみて欲しいのね、たぶんできないから。

そういう意味では「罪」という概念は人間の文化の根底にあるものなんです。野生には「罪」という概念はなくて単に「個が生き延びるための行動」に過ぎないんです。そして、文化というのが人間にとってあくまで後天的なものだと考えるなら、もともと罪というのは生得的には「魅力的」なものなんですね。人間は長い歴史の中でひたすら、次の世代に「禁忌」を刷り込むことで、野生においては魅力的な「罪」を群れ(社会)としては「やってはならないこと」として文化が崩壊するのを押さえてきた訳ね。でも「刷り込み」だけではやはり完全には防げないのね。そこでシステムとして「罪を犯した者には罰がある」として、禁忌を犯す者を減らそうとしてきただけなんです。

戦争論を書いた時に「皆殺しという解決が一番後腐れがない」なんて書いたけどね。実は「罪」の魅力の中で「殺す」が一番魅力的なんですね、野生から言えばだけどね。奪えば奪い返される心配をする必要があるけど、殺して奪えば奪い返される心配をする必要がないからね。そのために文化の根底におく禁忌の中でも一番強い禁忌として「殺すな」があり、禁忌の刷り込みだけでは弱いから罰の中でも一番強い「殺す」という罰を用意しているだけのことではあるんです。

なんていうかな、こういう文化の原始時代の発達史から考えるとね。現代社会で蔓延している「個々の生存競争を激しくすれば、群れとして強くなって群れが生き延びやすい」という概念の中で、人間の群れとしての禁忌が薄まるのは当然だし、その補完として「厳罰主義」に多くの人が走りたくなるのも当然なんですね。その結果として本当に人間が「生き延びやすい群れ」を作れるのかどうかは疑問だけどね。

投稿: 技術開発者 | 2009.10.16 15:28

こんにちは、せとさん。もう少し書きますね。

「皆が聖人君子なら法は要らない」なんて書くけど、私にも理想というのはあって、「法ありて用いられること無し」という理想というのもあると思うわけですよ。なんていうかな、例えば、最近厳罰化された法でいうと「飲酒運転」なんかが有る訳ね。以前は「業務上過失致死」でも最高が懲役5年だったんだけど、危険運転致死罪とかができたから、20年以下1年以上(併合罪があると最高30年まであり得る)になったのね。私が或る意味でちょつと吃驚したのが、そういう厳罰化の中で、社会の雰囲気がずいぶん変わったという事ね。まあ、だいぶん少なくなっていたのだけど、飲み会とかで「車なので」という人に「乾杯に口を付けるくらいはしろ」とか「車を置いて帰ることにして飲め」とか言う馬鹿な人を本当に見なく成ったのね。私は、そういう人が嫌いだったから、とても嬉しい。別に厳罰化を喜ぶ気はなくて、厳罰化せずに「飲酒運転は罪」という雰囲気を作ることができたらもっと良かったと思っているのだけどね。

なんていうかな、銀行で毎日出納のチェックをする訳だけど、それで行員の不正が毎日見つかると言う訳じゃないでしょ。むしろ、「今日も何も問題はなかった」と終わる日がほとんどで、行員さんの多くは自分の不正も職場の同僚の不正も見ることなく停年を迎える人の方が多いのかなと思ったりするんですね。じゃあ、日々の出納チェックはシステムとして無くした方が良いかというとやはりあるべきだし、そして、自分の周りではなくても、別な銀行で行員による不正送金とかが起こって罰を貰うのを見ることで、「自分は決してしないぞ」を認識するよすがになる。

なんていうかな、死刑に関する議論を見るときにね、「法ありて用いられること無し」の理想というのが忘れられている気がするのね。私に言わせると法というのは、あくまで人間の文化が次の世代に刷り込む禁忌を補助しているだけのものだからね。死刑の有無ではなくて、死刑が適用される様な犯罪が起きないことの方が大事なのね。

投稿: 技術開発者 | 2009.10.16 17:48

技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
とてもよく分かりました。
相変わらず、多岐にわたり考察を加えてくださり、
理解が進みましたo(*^▽^*)o


「現代社会で蔓延している「個々の生存競争を激しくすれば、群れとして強くなって群れが生き延びやすい」という概念の中で、人間の群れとしての禁忌が薄まるのは当然だし、その補完として「厳罰主義」に多くの人が走りたくなるのも当然なんですね。その結果として本当に人間が「生き延びやすい群れ」を作れるのかどうかは疑問だけどね。」
と、書いていただき、

全く同感の私です。

人間が進化の過程で獲得してきた適応の形の一ち、と言うか本能として「自分の遺伝子を保存する」と言うことがあったと思うのですが、
この保存、生き延びるということを目的として文化、法律、宗教を人は編み出してきたのでしょうね。
だがしかし、
それは同時に自分自身を縛ることでもあったのだろうか???

いずれにしても、
「法ありて用いられること無し」、、、と言われる開発者さんのため息にも似た思いが伝わり、
納得。
凄くわかります!!!
と、言うかそうでなければと思います、本来。

開発者さんいわれるところの未熟な市民社会をまざまざと見せつけられる事件や問題、山積です。
ふっ〜〜〜
と、ため息つきつつも、
こんな時代を生きているものとしての責任を感じつつ、考えていきたいものです。
これからもいろいろお教え下さいね。

では、また。

投稿: せとともこ | 2009.10.18 11:51

こんにちは、せとさん。

>だがしかし、
>それは同時に自分自身を縛ることでもあったのだろうか???

それはそうなります。私が良く使うたとえ話は「孤島のロビンソンクルーソー」ですが、彼が無人島に一人で居るとき、彼には「自分ができることでしては成らないことは何も無い」訳です。ディフォー自身も小説の中でそう書いている訳ですけどね。ところが、フライデーを助けて、彼と二人で暮らす時には、まず約束をする訳です。「自分はお前を害したりしないから、お前も自分を害さないでくれ」とね。ここにクルーソーに「自分ができることでも、してはならないこと」が生まれる訳です。つまり、自分をその約束によって縛っている訳です。その代わり、彼はフライデーと二人で生きることができる訳です。つまり、そこに社会が成立し、彼は社会的生活ができる訳ですね。社会で生きるというのは、自分を縛ることを必要とする面があるんですよ。

投稿: 技術開発者 | 2009.10.19 08:00

技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

「社会で生きるというのは、自分を縛ることを必要とする面があるんですよ。」

はい。
本当に。
痛しかゆし。
私たちは、そうしたバランスの上で生きているんですね。
何事も、二者択一というような単純なものではないということでしょうね、、、
フムフム。
です。

投稿: せとともこ | 2009.10.19 12:42

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