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2009.11.18

家族とは何か、補足

ギャルからおばさんまでと言うエントリーを2004年に挙げました。
そのときは、
名前というよりは役割からくる呼び名、とくに女性の呼び名の変遷を考えました。
その中で、
「もう一度、呼び方について考えてみよう」と書き、
新川和江さんの 私を束ねないで」の詩を引用しました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱(ねぎ)のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂

わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽ばたき
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちている
苦い潮 ふちのない水

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
・(コンマ)や,(ピリオド)いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じように
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

(新川和江  私を束ねないで  より)

==============

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

と、新川さんは謳うのだが。

私は風、
そんな思いの女性たちが増えていることは、
健全な社会の証では、と私は思うのですが、、、、、

なお夫婦別姓については以前夫婦別姓論議
その2で問題の本質を見ていきました。
そこで法案の歴史を見てみました。
===============
「夫婦同氏原則」です。
しかし、現実生活では齟齬を来す場合もある、と言うことで昭和50年代からすでに、「制度としての夫婦別姓に関する議論」が行われていました。この当時は女性労働者の便宜の問題として捉えられており、必ずしも民法の改正を主眼としておらず、旧姓の通称使用の普及にも軸足がありました。
その後、民法にまで踏み込み、通称という一時的なものでなく普遍的に別姓を認める法律の改正が求められるようになります。
婚姻時に夫婦が同姓か別姓かを選択する「選択的夫婦別姓制度」とする案が主流となり、1990年代より国会に議員立法による民法改正案が提出されるようになりました。
ついに1996年には法制審議会が選択的夫婦別氏制度を含む「民法の一部を改正する法律案要綱」を答申。
法務省が選択的夫婦別姓制度試案を自民党に最初に提示したのが2001年。
翌02年には「例外的夫婦別姓制度」を提示。
しかし、自民党内はまとまらず、以後、法務省は提案をしていません。
98年以来、野党共同で提出し続けている民法改正法案は、継続審議、廃案になったままです。
(以前の記事より)
=================

この変遷をみても、
女性、あるいは男性が、本来ある姿として個人を考えるとき、
家族、役割、姓は、本人の意思によることを求めることが大きな要求に変わっていったことがわかります。
これは、何も家族の絆を蔑ろにするということではないのです。
個人が尊重されることが、
家族、あるいは社会が安寧であることでは、、、と思い、
そのささやかな第一歩では、と願う人たちの熱い思いなのです!!!

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コメント

 通読させていただきましたが、やっぱり理解できません。瀬戸智子さん、どうしてあなたは瀬戸智子なの?の疑問が解消しないのです(笑)。
 自分の姓を選ぶ自由がほしいのなら、結婚も養子縁組も関係ない、いつでも、どんな苗字でも名乗れる制度を要求するべきではありませんか?無姓の自由をほしがる無精者もいるかもしれないし、もっと過激には、初恋相手の苗字をもらって緊張感のある夫婦生活なんてのもしゃれている。にもかかわらず、あなたたちの要求は結婚前の旧姓を名乗りたいだけの話です。自分らしくもなんともない、あなたたちが大嫌いな男社会のカーボンコピーにすぎません。
 もしも、そんな大胆な提言をして、入り口でシャッターをおろされてしまう事態を避けた、巧妙な策略だとしたら、せめてわたしにだけはこっそりと本心を打ち明けてください。だれにも話しませんから…

投稿: 罵愚 | 2009.11.18 14:24

「家族、役割、姓は、本人の意思によることを求めることが大きな要求・・・」

なるほどそうかもしれませんね。うちのいう自己決定権ですよね。近年やたら自己責任社会風潮なのでなおさら自己決定が重要です。
自分の人生に本当に責任とれるのは自分かも???

うちとしては、ステレオタイプな家族も走でない家族も、夫婦同姓も別姓もその中間もみんなが否定される事なく生きれる事です。

投稿: あゆ | 2009.11.18 15:38

このテーマは、
姓、そのものについての問題意識はそれとして、
法律の中での姓について言及してみました。
それと家族のあり方と重層的に捉えようと試みました。


「せめてわたしにだけはこっそりと本心を打ち明けてください。だれにも話しませんから…」

ハハハ。
おちゃめなコメント、笑いましたよ(o^-^o)

投稿: せとともこ | 2009.11.18 15:41

あっ、あゆさん。
コメントを書いているうちに頂いたようで、
ありがとうございます。


「ステレオタイプな家族も走でない家族も、夫婦同姓も別姓もその中間もみんなが否定される事なく生きれる事です。」


私もあなたのご意見、賛成です。
あゆさんのズバリと本質に迫る主張、私はすごく分かりやすくて、いいなぁ、、、と思っているのですが、
今回も全く同意見です(*^-^)

投稿: せとともこ | 2009.11.18 15:45

こんにちは、せとさん。あくまで無駄話です。

なんていうかな、私は中国史を勉強するし中国の文化も人よりは詳しいのね。でもって、たぶんご存じだと思うけど中国は昔から夫婦別姓でやってきました。中国の夫婦別姓というのは、個人を大事にするからではなくて、血統(正嫡)を何より重んじることから生じて居るんですね。例えばね、従兄弟というのが居るじゃないですか、日本語だとお父さんの兄弟の子もお母さんの兄弟の子も皆「従兄弟」なんだけど、中国の文化だと違うんですね。例えば毛さんと江さんが結婚して子供が毛を名乗っているとするとね。毛さんの兄弟の子供が毛と名乗っていると「堂兄弟」なんですね。中国では長幼男女の別を常につけるから、「堂兄」「堂弟」「堂姉」「堂妹」と呼ぶんだけどね。でもって江さんの兄弟の子供は毛とは名乗っていないから、「表兄弟」なのね。「表兄」「表弟」「表姉」「表妹」と呼ぶわけです。従兄弟だけじゃなくて、おじさんおばさんについても姓を同じくするかどうか、自分の親より年上か年下かで呼び方が違うんだけどね(笑)。

なんていうかな、こういうのを知ったときに「そこまで家系にこだわるのか」なんて驚いたりしたんだけどね。中国の場合には、夫婦で作るの家庭というものとは別に血統上の「家系」というのが厳密に存在して、その区別をきちんとするために夫婦は別姓でなくてはならなかったのね。

なんていうかな、こんな知識を持っていると、夫婦別姓論=個人の尊厳論とはなかなか成らなくてね(笑)。

投稿: 技術開発者 | 2009.11.19 11:39

技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
パソコンの調子が悪くてお返事おそくなりました。
ごめんなさい。
そうですね。
確かにご教示いただいたように、
中国の歴史をみると、そんな気もします。
が、
ここでは、夫婦別姓論議が、即個人の尊厳ということでなく、
個人の尊厳の中に別姓の自由もあるということを述べたかったのですが、、、
いかがでしょうか?

投稿: せとともこ | 2009.11.21 12:01

 あゆさんの「夫婦同姓も別姓もその中間もみんなが否定される事なく生きれる事」も、技術開発者さんの「夫婦別姓論=個人の尊厳論とはなかなか成らなくてね」も、それに対するせとともこ さんの「夫婦別姓論議が、即個人の尊厳ということでなく、個人の尊厳の中に別姓の自由もある」も、婚家の姓か旧姓かの二者択一はご主張の解決策にはならない。あなたたちの望みをかなえようとすれば、創氏の自由も無姓の自由も主張しなければ合理性がないという、わたしの指摘がご理解いただけた結果だと思う。
 で、、問題は、にもかかわらず、どうして夫婦別姓などという中途半端な問題提起がくりかえされるのか?の疑問です。いままでみなさんは、なぜ別姓を要求してきたのか?そしてその要求は、これからどう変化するのでしょうか?もしかしたら、それは家族制度そのものの否定につながるのでしょうか?あるいは「家族とは何か?」の話題になるのでしょうか?
 それともいつものように、わたしの疑問や質問は放置して「困ったチャン」「非生産的な議論」と侮蔑してシャッターをおろすのでしょうか。

投稿: 罵愚 | 2009.11.23 08:17

うち、多少中国勉強しましたが、個人主義(新自由主義?)が社会的になじみそうな反面、すごぃ家族主義ですよね。

うちもそうだなあ~て思ってました。

夫婦同姓が個々の尊厳侵害でなく、道徳云々・秩序云々とか(言葉はさまざま)全体主義的風潮が個々の尊厳を奪っていくのかも??

まな板のうえの鯉のことかんがえましょうね~。


夫婦別姓にしたい人にするな!と非難するのは・・。
夫婦同姓にしたい人にするな!と非難するのは・・・。
どちらもするなという人は困らなくて、されるほうは自分の人生がかかっています。

ほどほどにかも?

投稿: あゆ | 2009.11.23 19:55

追伸(補足)

うちはダーと同じ姓にしたいな~て思います。
でも別姓にしたい人もちゃんと認めなきゃと思うんです。
逆に考えてだって「同姓にするな」と否定されたら大変ですもの。

投稿: あゆ | 2009.11.23 20:05

こんにちは、あゆさん。

>うち、多少中国勉強しましたが、個人主義(新自由主義?)が社会的になじみそうな反面、すごぃ家族主義ですよね。

家族主義というより家系主義がとても強かったのね。儒教の宗教的側面なんだけどね。姓を同じくする一族は自分たちの祖先を祀り、祀られた祖先の霊は自分を祀ってくれる子孫を守るという宗教観が根底に有る訳ね。そのことで「家系を同じくする」と言うことの意味が日本とかとは全然違う意味を持っていた訳です。

或る意味でこういう宗教観に基づく家系主義も「生き延びる手段」として機能していたのね。何かの動乱で財産を失った者が遠くに逃げて、そこで遠縁だろうが何だろうが、同じ家系の者を尋ねて援助を乞うと、援助しなくてはならないみたいな感じかな。世界中にあるチャイナタウンなんかもそういう家系的な扶助システムを利用してできあがったりしているんだけどね。

>ここでは、夫婦別姓論議が、即個人の尊厳ということでなく、
>個人の尊厳の中に別姓の自由もあるということを述べたかったのですが、、、
>いかがでしょうか?

そのことに反対する気は全くないです。ただね、理解して欲しい事が一つだけあって、それは人間というのは「文化パターンを刷り込む」事で社会を成り立たせてきた生き物だということね。別に刷り込む必要性があったかというと実のところ論理的な意味では無いのね。ただ、文化を刷り込んだ方が「楽ができた」というだけね。つまり、あるパターンを「社会で生きるとはこういうものだよ」と刷り込む訳ね。そうするとそのパターンに従う限り、個人は選択をしなくてすむから楽ができるのね。これは実は個人がきちんと自立するということとは或る意味で相反するんですね。人間は「楽をして生きたい」と思うから文化パターンを作って、「社会とはこういうものだ」と刷り込むことで楽をしてきただけね。

なんていうかな、人間の知性というのはまだまだ「発展途上」なのね。そう言う意味でこれから知性をさらに進歩させようとするなら、そういう文化パターンに従って楽をするという事から脱却する時期をいずれは迎えなくてはならないのも事実なのね。ただ、「今まで文化パターンを刷り込んで楽をしてきた」と言うことは理解しておいて欲しいのね。個人の自由を追求するということは、そういう「楽をする」道を捨てると言うことで、或る意味でしんどさを求めると言うことでもあるのね。そのしんどさに耐えることではじめて知性はもっと進歩出来るのね。

投稿: 技術開発者 | 2009.11.24 17:18

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