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2009.12.17

「臨機応変の平和主義」の是非についてツラツラと

オバマ大統領のノーベル賞受賞演説での「必要な戦争観」
強いては「正しい戦争観」について更に考察を進めます。
戦争とは正義と不正義なのか?と言うエントリーを昨年の11月に挙げたのですが、
そこでは戦争の正義が時代とともに変遷し、為政者の思惑で移り変わることを見ていきました。
その道筋として、この時は、「戦争正当化」を「道徳」と「法」を頼りに読み解きました。
近代国家に至る前段階として、
1648年のウェストファリア条約があります。
先のエントリーから引用を以下に掲載します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
国家主権の独立性が ここに認められました。
そして、そこには戦争を起こす外交決定権も含まれていたのです。
戦争は対等な国家間の紛争になりました。
これ以降、主権国家を超える上 位の権威は認められず、一元的権威を前提とする正戦論を適用することは困難になり、戦争の合 法性・違法性を問うことのない戦争合違無差別論(無差別戦争論)が支配的になっていくというのが過去の歴史でした。
戦争への正義(jus ad bellum)
1正当な理由
2正当な権威
3比例性(結果として得られる善が戦争という手段の悪にまさる)
4最終手段
5成功への合理的見込み
6動機の正しさ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そして、近代国家となり、
戦争違法へと国際条約が締結される時代を迎えます。
第一次世界大戦後のパリ不戦条約。
国際連合憲章。
こうして大団円かと思いきや、
新しい戦争観が出てくる中で「先制攻撃」の正当性を謳う動きが出てきたりと世界は新しい流れの中に飲み込まれていきます。
新しい戦争観については、今回はテーマとしては取り上げません。
今回はズバリ「臨機応変の平和主義」です。
先のエントリーでLooperさんから実に示唆に富むコメントを頂きました。
「簡単にいえば、
紛争地域では、武力が和平構築のために必要となる現実のシーンがあるし、過去にもあったということです。」
と、Looperさん。
紹介させて頂きましたが、ご迷惑ならお申し出ください、Looperさん>

そして、その例としてルワンダや今のアフガニスタンの状況がまさにそうであり、
戦争は必要悪であると言う旨のコメントを頂きました。
さて、そうだろうか???
私は考え込みます。


遡ること40年前、マイケル・ウォルツァーの『正しい戦争と不正な戦争』を改めて思います。
「戦争への正義に合致する戦争は自衛戦争や予防戦争だけでなく人道的介入がある。政治共同体は自決権があるという理念に基づいて、主権国家は内政干渉を拒否することが認められる。しかしもしその国家が政治共同体の自決を反映していない深刻な政治的混乱、つまり内戦や大量虐殺が発生していればそれは政治共同体の存在そのものが疑われうるのである。そうなれば、この国家に対する介入が道徳的に正当化しうる可能性が生じる。すなわち、もしも道徳的良心に反する行為に対しては人道主義に基づいて介入が正当化することが制約的に可能となるのである。」と.wikipediaには書いてあります。

まさにこの文言が今回のLooperさんご指摘の中身にあたるのでは、、、と思いますが、いかがでしょうか、Loperさん>
さてさてさて、、、
「人道的介入」ですかぁ、、、

Wikipediaによれば、
「人道主義の理由から他の国家や国際機構が主体となり、深刻な人権侵害などが起こっている国に軍事力を以って介入することをいう。」とあります。
一般にはイラク、ソマリア、ボスニア、コソボなどなどがあります。

コソボ紛争では「野獣性と人間性」という論文で方々で物議を醸したのはハーバーマスです。
ハーバーマスは「犠牲者を悪者の手にゆだねていいとは限らない」と言う主張です。
尤も、このハーバーアさえブッシュのイラク戦争には「ノー」を突きつけました。
だがしかし、
私はいつもここで思うことは「何をもって正義」とし、
何をもって「悪者」とするのか???
です。
紛争解決に武力行使が効を奏するのだろうか???
新たな火種を生み出すだけではないだろうか???
メビウスの輪、クラインの壺ではないだろうか???
と。
さて、ここでもう一度Looperさんご指摘のルワンダを初めとしてアフリカの国々に話しを戻すなら、
確かにOAUは実効的な力を発揮はできなかったと私も思います。
こうした反省を踏まえアフリカ連合が2002年に発足。
これは植民地主義からの解放とアパルトヘイトの消滅と言う位置づけで、日々発展。
2007年には平和フォーラムがアフリカで開催。
現地の人の現地の人による現地の人のための活動が繰り広げられています。
アジアでもASEANは平和共同体を目指しています。
中南米ではUNASUR。
中東・パレスチナではエジプトが中心になり大量破壊兵器地帯構想を。
ヨーロッパではEUが平和と協調を謳っています。
地道に、確実に、平和への願いは世界に広がってきています。
私は「臨機平和主義」はこうした草の根からの平和に対抗するものでは、、、と思うのです。
この問題、実に悩ましい。
であるからこそ、今後も拘り続けます、、、、、
これが最終結論ということではないので、また貴重なご意見やアドバイスなどございましたら、
是非ご教示頂けたらと、思っています。


I hope in international society we settle a dispute by peaceful means.
We need a problem demanding a humanitarian solution.
I think the trouble has peacefully to settle without the use of force
in modernization society.
Thank you.

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コメント

こんにちは、せとさん。

>これが最終結論ということではないので、また貴重なご意見やアドバイスなどございましたら、
>是非ご教示頂けたらと、思っています。

なんていうかな、「善悪論」と「要不要論」がうまく切り分けられていない気がするんですね。国際社会だとわかりにくいので、法治国家内部の話を例として説明するけどね。

例えば、国家が警察と裁判所を持ち、犯罪者を拘束し処罰するのは「善か悪か」というと、実は善悪論でいうと「悪」なんですね。前にロビンソンクルーソーの話で説明したかも知れないけど、「自分のできることでしてはならない事は何も無い」状態を「自然な状態」として、それに制限が加わる事を「悪」と規定すると、あらゆる他律的ルールと他律的強制力は「悪」なのね。でもって、「要不要論」でいうと「必要」という事になる訳です。その理屈というのは、他律的ルールと他律的強制力が無いと「もっと大きな悪い結果をもたらすから」というだけね。そういう考え方から、「法の必要悪論」「行政や司法の必要悪論」という考え方が出てくるのね。人を傷つけたり、人の物を盗んだりした人を捕まえて罰を加えるという行為は「善悪論」でいうと実のところ「悪」なんだけど、必要な悪として「人間は警察をつくり、裁判所をつくり、刑務所を作ってきたという事ね。

でもって、「必要悪」というのは、使い方が難しい概念なので、単純に割り切るべきではなくてよく考えなくてはならないものではあるのね。大事なのは「必要性」をよく考えるということで「善か悪か」を考えるべき事では無いわけです、それは既に結論が出ていて「悪」なんですね。

そういう考え方で言うと「戦争は善か悪か」と言えば既に結論は出ていて「悪」なのね。ただ、じゃあ「悪だから全て駄目」とするなら、もっと大きな悪い事が起こりそうでも何もできなくなってしまうこともある訳です。

投稿: 技術開発者 | 2009.12.17 12:51

技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

私が今回、伝えたいことは、
「道徳」の問題ではなく、
政治の「恣意性」について述べたかったのです。

開発者さんのようなお考え、結論、わかるのです。
だがしかし、
それは、為政者の思惑、ワナにはまることではないか、、、
と危惧するのです。
「ちょっと待てよ」と踏みとどまりたいのです。

投稿: せとともこ | 2009.12.17 12:57

戦争、というと誤解を与えますね。暴力、に正当と不正なものがあるか、ということであり、これは現状、国内ではありですね。なにが不当であるかは、法律で定めており、それを犯した個人や団体は警察権力と司法(つまり国民の意思)で裁かれます。
それを不当とするのはおかしい!という事実認定の問題がここに挟まりますが、これは国家による暴力一般を否定する物ではありません。

問題は国家間ではこのような法治主義が徹底していないし、公平に裁く<戦争裁判所>のようなものはあるが、裁かれるのは個人であり国家ではありません(コソボ、でもそうだった)。

米国のアフガン、やイラクはこの範疇の話です。イラクは大量破壊兵器をもっていたか、いないか、というのは事実認定の問題であり、戦後も、戦争裁判所が(勝ち負けに関係なく、三相犯罪があったかどうかを裁く)存在しないため、勝った側のやり放題、ということになっています(東京裁判、ニュルンベルク裁判、以後同じことがくり返されているし、くり返されるでしょう、当分は)。大きな理由は、米国という強大な軍事国が世界を支配し、戦争裁判などもってのほか!という立場をとり続けだれもこれに異議を称えられないのです(ナサケナや)。

国内において国家権力(=国民意志)による暴力(処罰)をみとめるかどうか、
ということと
国際舞台で、超国家(=国連など)の暴力(世界の人々の意志として)認めるかどうか
の問題だと思います。

米国だけ突出した武力を持っていることを背景とした不正義の問題、ということを除けば、国内の暴力をどう裁くか(国家は裁かず、処理せず、当事者同士の決闘=戦争にまかせる。勝った方が正義)、というのも解決の方法でしょう。国際舞台でも第一次大戦以前はそうだったのじゃないでしょうか。たとえば、竹島問題でニッカンが戦争する、なんてのは19世紀ではしょっちゅうあったことでしょう。

イラク戦争ナンテのはトンでもない!だけど、フセインがいなくなったんだから、ま、いいか!てのもありかな? ヒトラーが、トージョーが消えたから、ま、いいか! (ニュルンベルク&トーキョー裁判)

投稿: 古井戸 | 2009.12.17 12:59

古井戸さん。
開発者さんあてにコメントを書いていたら、
あなたからも新しくいただき、
ありがとうございます、、、


ご指摘のこと、
わかるのです。
だがしかし、
私はもう少し、調べます。
考えます、、、
また、いろいろご教示くださいね。
大いに参考にします。ではまた。

投稿: せとともこ | 2009.12.17 13:02

こんにちは、せとさん。

>それは、為政者の思惑、ワナにはまることではないか、、、
>と危惧するのです。
>「ちょっと待てよ」と踏みとどまりたいのです。

その考え方は大事なのね。ただね、同時に現実というのが決してスッキリと割り切れないものだという事も事実なのね。

私は、西部の開拓時代を頭に描いたりしてね。隣の町と遠く離れたところに入植者が入って、駅馬車が止まるドラッグストアを中心に小さな街ができる。住民の中で争いも起き始めるし、よそから流れ者の乱暴者が入ってくる事もある。最初は腕っ節の強いのが何かある度に自警団臨時に作って対処しているけど、街が大きくなると、自警団に引っ張り出され過ぎて仕事にならないという話もできて、保安官を作るようになるのね。保安官は人間だから癖があるのね。酒が嫌いで酒飲みの違反に妙に厳しかったり、酒好きで酒飲みの違反に妙に甘かったりとかね(笑)。もちろん、そんなのは司法警察権という考え方から良いことでは無いのね。でも、その街で他に保安官が居なければとりあえず我慢するしか無かったりする。

ただ、米国の西部を開拓した人たちは、もともと法治国家から入植してきた人たちだったから、そういう保安官レベルで治安を守る事だけで満足はしなかったのね。きちんと州警察とか州の巡回判事とかまで、治安を守るシステムを広げていったから今の米国ができあがる訳です。

なんていうかな、今の国際社会はそういう西部の開拓時代に、癖のある保安官に治安を維持させている状態に似ている気がするのね。ただ、まだ、民主的な州警察や州の巡回判事を作り上げて保安官の癖によらない治安維持ができるところには達していない段階ね。そういう時に大事なのは、きちんとした国際権力や国際司法を夢見る事だろうと思うのね。

投稿: 技術開発者 | 2009.12.17 14:09

 わたしも技術開発者さんのご意見に賛成で、日本は開拓時代の西部の片田舎の住民として、理想としてはユナイテッドステイツともいうべき地球連邦を夢見ながらも、現実問題としては瀬戸先生が情熱をかたむけるアフリカや中近東のような、遠隔地に過剰な感情移入はするべきではない。向こう三軒両隣の近所づきあいに、身の丈にあった協力をするべきだし、それ以前に、自分の安全は自分で守る。それさえもできない、いまの状況をどうするのか?つまり国内問題から片付けるべきではないのでしょうか?

投稿: 罵愚 | 2009.12.17 15:02

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