「変わる巨大メディア・新聞」を観て
昨日のNHKクローズアップ現代変わる巨大メディア・新聞を見て、
情報というかメディアが大きく揺れている、動いていることを知りました。
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私たちにとって身近なメディア・新聞をかつてない変化の波が襲っている。世界の新聞ジャーナリズムをリードしてきたアメリカ。収入の7割を占める広告収入が、インターネットの拡大や不況によって激減。新聞の廃刊が相次いでいるのだ。ピューリッツアー賞を何度も受賞してきたニューヨーク・タイムズ紙や、西海岸を代表するサンフランシスコ・クロニクル紙など有名新聞社も経営難に陥っている。新聞社が消えたことによってジャーナリズムの「空白」が生まれ、汚職や選挙違反が増加するのではないか、との専門家の指摘もあり、ジャーナリズムをどう守るのか、国を挙げた議論も始まっている。一方、収入の7割は販売に依存し、経営構造がアメリカとは違う日本でも、将来の生き残りを賭けて新聞業界の取り組みが進められている。日米の現状を通じて、新聞ジャーナリズムの行方を展望する。
(上記サイトより)
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ネットが普及することで、こうした変化があることは当然だったのですが、
やはり、新聞、活字の媒体が消えていくことは、
一つの時代の終焉であり、寂しいものがありますね。
「社会の木鐸」としての新聞の在りようが、変わることで政治への監視が薄まり、
それにつれて社会が不安に陥っていくのでは、と言う危惧も番組では報道されていました。
それについて、
ゲストの立花さんが「社会が要請する、要求があれば、
どんな形でも権力への監視を行う筆は残る」と言うような趣旨を述べていました。
なるほど。
確かに、
媒体が何であれ、私たちが情報を求める時、
その品質、つまり精度、というか正確さを限りなく求めるならば、
供給するほうも、
あだおろそかな記事は書かないということでしょうか、、、、、
お互いに成長していく過程は通る必要がありそうですね。
いずれにしても、
今、一つの分岐点に立っていると、思ったものです、、、
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コメント
その番組は観てませんが・・・。
日本の新聞は、まだまだ恵まれていると思うんですよ。それなのに、ロクな企業努力をしないで「報道の危機」とか言うってのは、私は正直言ってどんだけ甘チャンやねん?って思いますね。
たとえば、どの新聞を見たって載っている内容はだいたい同じです。それは、警察・検察発表やお役所発表の内容をそのまま記事にしたり、あるいは「メモ合わせ」と呼ばれる作業で内容を相互チェックしあったり、堂々とオフレコ発言でリークされた情報を記事を書いて、それをさも独自の情報源から取材したようにして書いたり。そんなことするなら新聞記者なんていりません。代表取材の一人で充分でしょう。
そして、そういう構造になっているから、たとえば政治部は政治の事件をスクープ記事にできない、というジレンマに陥ってるんだそうです。スクープしちゃうと、政治家や役人から嫌われて情報を貰えなくなる、するともう記事が書けなくなる。だから嫌われるような記事は書けないんだとか。
そんな体制で、「新聞は社会の木鐸」とよく言えるな、と思いますね。もう新聞は、発表メディアに成り下がってます。かつて朝日新聞は「第二の官報」なんて揶揄されてましたけど、今や全部の新聞が「第二官報」となっちゃってると言って過言ではないと思いますね。(日本経済新聞はブラス「株式会社ニッポンの社内報」)
個人的には、今後は「テレビジャーナリズム」の比重のほうがより重くなると思いますね。あ、あと「共同通信社」「時事通信社」と。あは。
投稿: さいと~ | 2010.01.14 18:40
さいと〜さん。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
こちらは雪です。
さいと〜さんの所はいかがですか?
季節を感じるのは嬉しいが、やっぱり寒い。
さて、頂いたコメント。
あなたには身近でであるから、思いも深いと思います。
確かに、
今や社会の木鐸なんて死語では、と、思うこともしばしばですね、この頃のメディアは。
でね。
私は、そうした質を下げていくのは、私たち読者にも責任があると思うのですよね。
情報の質を吟味出来ないというか、(私自身がそうです、情報の渦に巻き込まれている、、、)
でも、
そうさせた権力にも責任があるし、、、
責任を追求しても仕方がないのですが、今後のあり方を考えると、
やはり「筆の力」と言うか、木鐸を作りたい、、、
と願うものです、、、、、
投稿: せとともこ | 2010.01.14 23:59
わたしもその番組をみていないのですが、新聞や雑誌のような紙媒体のジャーナリズムはコマーシャリズムのうえに成立していた。支払方法が直接購読料を支払うか広告主経由で支払うかのちがいはあっても、情報は読者負担で供給されていたのは、電波が媒体になってもネットが媒体になっても変わりませんよねぇ。
わたしは朝日しか読んでいないのですが、かつてははなばなしかった政治解説の分野は、いまでは見る影もありません。オピニオン誌にもおなじことがいえるとおもう。読者がはなれていったといより、ジャーナリズムが発する情報に電波やネットを凌駕する魅力がないから、手軽なほうに流れるのだろうか。
投稿: 罵愚 | 2010.01.16 04:51
罵愚さん。
こんにちは。
今日はお日さまが出て、ちょっと仕事がやりやすいです。
御地はいかがですか?
さて、頂いたコメント、そうですね。
「読者がはなれていったといより、ジャーナリズムが発する情報に電波やネットを凌駕する魅力がないから、手軽なほうに流れるのだろうか。」
私もそうした質については、そうだろうな、、、、と思います。
活字離れが言われて久しいのですが、それは情報としての活字だけでなく文学などもそうです。
が、
それでも活字になった本を読むと、それはそれで量から醸し出される味わいというか空気と言うか、伝わり、やはりネットからは受け取れないものがあります。
仰るように「質」については、与えるほうも、受け取るほうも敏感でなければと思いますね。
では。
投稿: せとともこ | 2010.01.16 16:20
今朝の朝日新聞3面に「検察VS.民主政権 どうなるー」と題して東大の御厨貴教授が解説文を寄せている。まず冒頭部分で「政権政党と政府が捜査機関と全面対決するというのは、成熟した先進国ではありえない」と断定している。「全面対決」とはどういう状況を指すのか、あるいは「成熟した先進国」とはどういう国を指すのか…つっこまれたときの逃げ道が、あらかじめ用意されているような文章だが、捜査機関が政治腐敗をあばいて権力と対決するのは先進国では珍しくはない。三権分立のシステムは、むしろそれを期待して設計されていると、中学や高校で勉強した。東大では、ちがうのだろうか。
あとにつづく本体部分はハチャメチャで、たとえば「いま小沢一郎という人物を追い詰めることで、検察はこの国をどうしようとしているのか」なんて書いているがピジョンをもって「この国をどうしよう」と考えるのは政治家の仕事で、検察は犯罪事実の有無の解明だけが目的で、政治目的を抱いての捜査を御厨自身が非難しているのではないのか。検察の政治捜査を妄想して非難しつつそれを期待するなんて、矛盾もはなはだしい。
短文ながら、ほかにも笑えるような矛盾満載で、御厨貴とよぶ人物の東大教授の肩書きが錆びたり剥げたりしているのだが、こんな文章を掲載した朝日の不見識にもあきれ果てる。あるいは、新聞社内に、できの悪いゴーストライターでもいるんだろうか。
投稿: 罵愚 | 2010.01.17 17:36
昨日の民主党大会は、おりからの小沢疑惑めぐって…小沢チェルドレンの数におされて、党幹部からも声が聞こえてこない議員たちとはちがって、党大会には地方代表も出席するから、かれらがどういう発言をするのかに注目が集まった。会場は一部をのぞいて取材を制限されたが、ていねいにホローすれば全体像がもれてこないようないようなターゲットではない。ところが、テレビも新聞も、小沢幹事長の挨拶を解説抜きで流しただけで、大会の雰囲気を伝えるものではなかった。
ジャーナリズムは、一社残らずその職務と責任を放棄したようだった。
投稿: 罵愚 | 2010.01.17 17:56
このようにジャーナリズムの無惨は、あきれ果てるしかないのですが、ただひとつだけ同情するのは情報源として首相の発言が朝昼晩とめまぐるしく変転して、朝刊夕刊の締め切りに間にあわない現象です。
ふたつの局をかけもちのコメンテイターが、あっちの局と、こっちの局で、まったく反対のコメントをしているなど、テレビでも追いかけきれない回転数は、これも異常ですね。
投稿: 罵愚 | 2010.01.17 18:05
確かに、このコメンテータって、笑っちゃいますね。
ジャーナリズム。
本当に、その揺れ動く行方が気になりつつ、
つつ、、、
やはり一番は政治そのものあり方が揺れているということなのでしょうかねぇ、、、
いずれにしても、
いろいろ見て行きたいです。
投稿: せとともこ | 2010.01.18 18:00