昨日、夫と下妻にある光明寺に行ってきました。

下妻駅に近い繁華街の中にも拘わらず、凄く静かな場所にある柊の道場といわれる光明寺。
この寺は親鸞聖人の常陸での最初の逗留地として有名な「小島の草庵」と深いかかわりを持つとのことです。
開基明空(みようくう)房は、六老僧の一人で、寺宝「門侶交名牒」のはじめに、”明光・明空・了海・源海・了源・源誓”とあり「已上門弟六老僧」ということです。
寺の門の前に「親鸞お手植えの菩提樹」があります。

秋の夕日に照らされて伸びやかに空に向かっている裸木が何やら凛と見えるのは私の思いのせいでしょう。
寺の中に入るとまず目に付くのは柊。

ここは案内にもあるように「別名柊道場」とも言われたそうですが、開基明空はヒイラギを好み、境内に多く植えたそうです。その傍らにあるのは次の歌碑。
〜〜〜われもまた心に造る罪科を
名にあらわして 植うる一本〜〜〜
なるほど、、、
日々罪科の私。
柊のトゲが目にいたく焼き付きます、、、
寺をさらに進むと親鸞様がお立ちです。

親鸞にとって常陸の国とはどんな国だったのだろうか、、、、、
像を見ながらはるか昔に思いを寄せます。
下妻歴史探訪をみると、より分かりやすく、思いも深くなるようなので、ちょっと掲載しておきます。
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鎌倉幕府が成立すると、仏教界にも新しい動きがみられるようになりました。 崇高な祈祷中心の
天台宗・真言宗 などは貴族層には受け入れられたが、庶民層の欲求を満たすものではなかっ
た。 そんな中、鎌倉六僧と呼ばれる祖たちが現れます。
浄土宗=法然・浄土真宗=親鸞・時宗=一遍・臨済宗=栄西・曹洞禅宗=道元・日蓮宗=日蓮
である。 こうした鎌倉新仏教のうち、浄土真宗 が 親鸞 によって下妻地域にもたらされます。
1207年、親鸞は朝廷の念仏停止の命令により越後(上越市)に流されるが、赦免されると妻恵信
尼と子信蓮坊と共に東国(現関東)へと移住することになります。 上野国佐貫荘(現館林市)から
常陸国に入り下妻荘幸井郷(現下妻市坂井)に居を構えたとされているが現在の同地域には、伝
承や遺構は一切残っていません。
親鸞が下妻荘に居住した遺構としては、幸井郷から南東に離れた小島郷(現下妻市小島)にあり
ます。 それが小島草庵跡(下妻市小島字四体仏)です。 草庵跡には、親鸞御手植えと伝えら
れる大銀杏樹があり、後に小島郷から稲田郷(現笠間市稲田)に移った親鸞を慕い稲田に向けて
枝を伸ばしていることから、現在では「稲田恋しの大銀杏」と呼ばれています。
親鸞は、下妻小島郷に約3年間居住し、下妻地域での浄土真宗布教活動を活発に行い多数の門
徒を獲得しています。 現在の下妻市栗山にはこの地域の第一門徒とされる 明空 開基の 栗山
高月院光明寺 があり、河内郡飯谷村宿付(現下妻市半谷字宿付)には明空の弟子 道意 により
建立された 飯谷山半谷院光照寺 があります。
(上記サイトより)
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夫と二人でブラブラと境内を歩いていると子どもたちがニ〜三人、自転車で境内をグルグルと回っています。
広いお寺の境内は子どもたちにとってかっこうの遊び場。
夕日が伸び、影が長くなり、ほんの僅かになった木々の葉っぱが光り、
過ぎゆく秋と来る冬が交錯している季節。
静かなお寺を見回りながら、ブラブラ。
帰りは筑波山を見ながら夫に聞きました。
「あの筑波山、親鸞もみていたんだね、、、」と。
「そうりゃ、そうだろう」と夫。
薄紫に映える筑波山は関東平野のど真ん中でドッシリと行く手に待ちかまえていました、、、
親鸞と下妻。
なかなか感慨深い「とある旅」の一日でした、、、
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