森鴎外 追儺より
森鴎外に追儺と言うタイトルの本があります。
この本、短編ですぐ読めます。
そして何度読んでも面白い。
何が面白いって、鴎外のすっとぼけているところが、なんだか可愛い。
自然体の文なのです。
こんな風に淡々と書けるといいな、、、と思います。
まず冒頭。
「悪魔に毛を一本渡すと、霊魂まで持つて往かずには置かないと云ふ、西洋の諺がある。」
と、書かれているので、なるほど確かに鬼の話にでもなるのか、、、と思い読み進みます。
読み進むうちに、
うっっうう〜〜〜ん???
どこが追儺???と悩み、さらに読み進むと、
出てくるのです。豆まきが。
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此時僕のすわつてゐる処と diagonal になつてゐる、西北の隅の襖がすうと開いて、一間にはいつて来るものがある。小さい萎びたお婆あさんの、白髪を一本並べにして祖母子(おばこ)に結つたのである。しかもそれが赤いちやん/\こを著てゐる。左の手に桝をわき挾んで、ずん/\座敷の真中まで出る。すわらずに右の手の指尖を一寸畳に衝いて、僕に挨拶をする。僕はあつけに取られて見てゐる。「福は内、鬼は外。」お婆あさんは豆を蒔きはじめた。北がはの襖を開けて、女中が二三人ばら/\と出て、翻(こぼ)れた豆を拾ふ。お婆あさんの態度は極めて活々としてゐて気味が好い。僕は問はずして新喜楽のお上なることを暁つた。
(森鴎外、追儺より)
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フムフム。
これが追儺と言うタイトルの所以かと了解。
それにしても、ここに至るまでの文学論やらあるいは料亭の雰囲気が粋です。
鴎外とともに料亭の格子をくぐり、部屋で待っているような気になります。
何も特別のはからいのある文とも思えないのですが、そのけれん味のなさが却って文章にイキイキとした命を吹き込んでいるんだと思うのです。
鴎外はその老婆の豆まきを以下のように分析します。
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Nietzsche に芸術の夕映といふ文がある。人が老年になつてから、若かつた時の事を思つて、記念日の祝をするやうに、芸術の最も深く感ぜられるのは、死の魔力がそれを籠絡してしまつた時にある。南伊太利には一年に一度希臘の祭をする民がある。我等の内にある最も善なるものは、古い時代の感覚の遺伝であるかも知れぬ。日は既に没した。我等の生活の天は、最早見えなくなつた日の余光に照らされてゐるといふのだ。芸術ばかりではない。宗教も道徳も何もかも同じ事である。
(森鴎外 追儺より)
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我等の内にある最も善なるものは、古い時代への郷愁と、それを綿々と伝える意思なのだろうか、、、と鴎外は老婆の豆まきのそれを見ながら思うのです。
豆まきと言うあまりに懐かしく、そしてワクワクする行事。
鬼は外、福は内、と言いながら鬼をおかっけるおかしさ。
そこには長い冬の分れと来る春への喜びが溢れ、
また鬼への哀愁があるのですが、、、
そんなアレヤコレヤと走馬灯のように一瞬にして思う老婆の豆まき。
想像するに「佳き時」の流れを感じます。
と、言うことで今日は追儺、節分です。
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コメント
しかしながら現在のこの国を襲っている鬼は自衛隊を殺人組織とののしる9条平和主義、政治活動と不動産屋の営業活動の見分けのつかない金権腐敗、母親にもらったおこづかいで政治をもてあそぶマザコン民主主義…鬼は民主党政権ですが、きわめつけは自国の領民をさらっていったひとさらいの無罪放免に手を貸した菅直人や江田五月でしょう。民主党政権には赤鬼やら青鬼がうじゃうじゃといる。
日本海の向こうには山椒大夫の館があって、赤鬼やら青鬼は太夫が派遣してくる手下どもでしょう。その鬼どもがこの国をのっとっている。節分の鬼はそとの標的は民主党政権だと思う。
投稿: 罵愚 | 2011.02.04 05:53