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2015.09.23

過去記事より「標榜するもの」

過去記事です。

2005年「標榜するもの」
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私たちが憧れ、標榜するものは「近代国家」ではないかと思います。
このところの教科書問題や憲法問題、国際情勢を考えながらそのように思いました。
そこで、今日は簡単にフランス、ドイツ、アメリカの近代国家の成り立ちと、私の知っている彼等の国民性について、ザツーと書いてみます。
==フランス==
近代国家と言えば、誰でもが一番目に思いつく国です。
フランス革命によって近代国家の礎は誕生しました。
「自由、平等、博愛」を謳い中央政府は、残存する地方勢力を打破。身分制から解放された近代的個人によって普遍的理念が国家の下に結集。国の代表は、個人の代表である形態が残存。
「自分たちの文化は、外国にも受け入れられ理解される」と思っている普遍原理に基づいています。
彼等は、いつでも自信に満ちていて明るくて開放的。自分中心。
フランス人であることに誇りを持っています。
(イタリア人も、イタリア人である事に誇りを持っています。
彼等の場合は文明の発祥という意味でしょうか?)
伝統も大切ですが、科学技術や芸術への関心も深く、未来指向。
(ストリートパーフォマンスも、あちこちのメトロの中や広場で見られ、それがなかなか垢抜けていて玄人はだし。外国人の私たちにも声をかけてくれたのはフランス人が一番でした。フランス語を話せない私のボディランゲージを一番理解してくれました。)

==ドイツ==
「民族」と一体化しながら発達してきた国家。
地方分権が発達しながら連邦国家と言う形態をとったドイツは、「民族」「純血」を紐帯にしながら国を形成。
ドイツ人から連想されるものは、厳格、堅実、合法です。
彼等は「法を破らない」。
以前いたドイツのアパートでは、夜8時以降洗濯機や掃除機をかけると、警察に訴えられます。なぜなら法で決まっているから。
ドイツ人と「ナチス」について話す機会があった人なら誰でも思うでしょうが、彼等は、しっかりと自己批判し、羞じています。しかし、決して卑屈ではありません。
特にお年寄りの方は、私たちが日本人だというと、それはそれは喜んでくれました。
この国もベルリンの壁が崩壊してから、東ベルリンから多くの人たちが流れてきました。
ストリートパーフォマンスも、随分増えたそうですが、どこか垢抜けないと私は思いました。
(ゴメンナサイ)

==アメリカ==
日本人でもこの国の国家形成の歴史は知っています。
メイフラワー号に乗って、イギリスから移住してきたピューリタンの人たちの独立と開拓の歴史です。
個人が自発的に集まって共同体を作り、そこには矛盾無く「自由」「平等」「個人」
「共同体」が入り込みました。彼らにパトリオティズム(郷土愛)が自発的に生まれたのは言うまでもありません。
その大きな国家は、あれこれの歴史を超え、やがて多民族も受け入れ自由国家の名乗りを欲しいままにしています。
開拓精神は今に健在。
人なつこくて、エネルギッシュ。
しかし、私の知っている町は南部で封建的でした。
人々の口は重く、警戒心さえ感じたのですが、それはアメリカ社会が抱える問題であることを後になってからわかりました。
それ以外は、快適な人間関係を持つことができました。
アメリカ人は「歴史」の浅さに負い目を持っています。
日本の京都や奈良に憧れています。(また口にこそ出さないがきっとヨーロッパにも)
実際、イタリア人、フランス人、ドイツ人とホームパーティをする機会には何度となく恵まれましたが、アメリカ人とは一度もそうした機会はありませんでした。
彼等はホームパーティよりプールのそばでジャンジャン音楽をかけてバーベキューする方がお好みか?
西武開拓の時代の教会が、彼等にとっては歴史であり、大草原の小さな家が彼等のルーツです。
フロンティアが高じて、世界の冠たるものなろうとする動きが一部ではありますが(^^;
しかし、アメリカはナショナリズムの国ではなくパトリオティズムの国であることは実感します。


===日本====
近代日本は、上からの急激な力、強力な中央集権によって成立したことは、異論のないところです。
垂直志向で形成されたナショナリズムは、自立、成熟した個人を形成する前に、
「国」と「個人」の間に「家」を入れることで、急速に作り上げられました。
そのため、国家形態において、共同性、公共心は中途半端な形で内在。
「公」と「私」が分離していません(この現象は今でも政治の実際でよく見られるところです==公金横領、税金私物化、、、)
また、日本は地理的な性質上、他国と対等な関係で対話する、共存するという歴史を過去に持っていません。
「征服か、服従か」の二者択一の選択を迫れる関係しか築くことができませんでした。
さらに、日本のナショナリズムの担い手が、旧国家の特権階級であったことも、日本人をして、「飢餓感」「敗北感」で満たすに十分なものでした。
こうした歴史の中で私たちは戦後を迎え、
アメリカによる占領支配がなされ、憲法が誕生したことは、すでに知っているとおりです。
ただ、ここで、日本人はその飢餓感から「自分たちの手で」憲法を作ったという思いを持たず、押しつけられたという印象が今もなおは残っている人々がいます。
そして、その思いとは別のところで意図する何者かの利害と一致して、
「憲法改正」論議はかつてなく盛大に今、論議されているようです。
この問題に関しては、また次に譲ることにしますが、
ただ、個人的な意見としたら、
「今、もし憲法を改正して、果たして真の意味で日本国民の自主憲法」が出来たと思えるのだろうか?
やはり、「押しつけられた」という飢餓感は拭えないような気がします。
では、、、
この飢餓感を捨て、民族の誇りを取り戻すにはどうするか???
私は存外、簡単なことではと思うのです。
長い歴史と伝統、芸能を見直し、
自らの誤りは誤りとして受け入れ、未来にわたり失敗を繰り返さなければよい。
そして、けっして卑屈にはならない。(自虐もする必要はありませんーーー自虐は新たな罪を作る)
事実を事実として受け止め、さらに未来へ志向していけばいいのでは、、、と私は思います。
標榜するものは、
近代国家と成熟した市民です。
今、その第一歩を踏み出そうとしているのです。
力ではなく、対話。
相手への理解。包容。
自らの誇りを持って、、、
そんなことを祈りながら、私は書いています。

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コメント

いいですね。その思いは共感できます。
http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2007-07-20-2
公について昔にこういうの書いています。


押しつけられた感については別の見方もできるかもしれません。
「自由主義的思想が気に入らない」というのがまずあり、その口実が押しつけと取れます。
自民など保守派議員の言動見れば十分考えられます。「国民主権は間違い」という議員までいるのですから。


各種日記に書いています。

押しつけかどうかは両論とも根拠はあるようです。
でもうちはそれは小さい問題で大事なのは別のところにあると思います。
そして押しつけを言う人々は多数はあぶない改憲だということです。

日記に何度か書いていますが
中国憲法
帝国憲法
自民党案


現憲法
を匿名にし海外の方に評価してもらうのがようと思います。

あきらかにどれとどれが似ているかみえてくるでしょう。

投稿: あゆ | 2015.09.30 08:59

あゆさん。
了解です!!!
拝見させていただきます。

投稿: せとともこ | 2015.10.05 12:40

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