おむつ考 その2
さて次にいよいよ問題は内田さんに移ります。
秀さんから私の先のエントリーに対して3つの疑問とそれへの異論を頂戴しています。
1「現実とは乖離した理想論」
2「その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか」
3「内田さんは結局「母親よ家に帰れ」と言う結論に行き着くのだろうか」
この3つに関して私の考えを順に述べていきます。
(論点整理のため、秀さんの反論には今は言及しません。)
おむつと母親の記事でも書きましたが、私は内田さんに対して学者、つまり論理を構築していく人と考えています。
私が無責任に自分の思いや感想を書き連ねるのと「重み」と言うか影響力が違うと考えているわけです。従って言葉のはしはしから伝わってくるもの、メッセジーは何かと敏感に読み取ろうとしました。
無責任に思いつきを縷々述べたものでないと言う前提で内田さんの文に対して危惧を感じたわけです。以下の文のように。
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本質を故意にずらし大袈裟に母親とおむつと子育てを述べています。
現実から乖離したその主張は結局、内田さんが笑うところのフェミニズムと同じ主張になっていると思います。
(現実からかけ離れているという点、やおら自分の理想を展開するという点においてですよ。)
内田さんがおかれている立場を考え合せたとき、
あの記事の主張の先にあるものはフェミニズム批判というよりはもっと本質的な男女のあり方その物へ発展する虞があるのではと私は危惧したわけです。
(瀬戸の記事より)
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では、まず一番目。
1「現実とは乖離した理想論」。
子育てはおむつ替えだけではありません。
たとえ、おむつ替えがエキスパートになろうとも、そこから計り知れないコミュニケーションが花開くなぁんて単純なものではないことは内田さんは重々承知していると考えます。
それにも関わらず、内田さんは次のようにおむつと子育てを言う。
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つまり、「おむつの要らない育てられ方をした子ども」は「世界の中に私が存在することのたしかさ」をきわめて早い段階で実感できることになる。
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私はここで内田さんに問いたい。
おむつを替えるたびに母親(保護者・身の回りの世話人)が子どもに話かけ、その体を拭いてスキンシップすることはコミュニケーションではないのかと。
子どもの名前を呼びかけ、うんちの色や固さを確認して子どもの健康状態を確認することは、子どもにとって、自分の存在を確かに実感することではないのだろうか、と。
思うに内田さんはたまたま三砂さんにお会いして、なんとなく書いたおむつ問題なのではと思います。
もしこれが三砂さんがミルクと母乳なんてことで研究していたら、おむつが即・母乳に変わったものと想像します。(母乳だと母親に限定されるから難しいかな???)
さて、二番目。
2「その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか」
これは秀さんの指摘(瀬戸が誤読していると言うこと)に対しては、単純に国語の問題として考えてくださって結構です。
私の文は「内田さんの現実とは乖離した理想論の中で喘ぐ母や親たちと、
その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか、私はさらに迷うのです。」と言うことで、
「その非」とは内田さんの「現実とは乖離した理想論」について指しています。
おむつメーカーの圧力云々、また三砂さんの研究に関しては私は一切言及していません。
むしろ可成興味深く成り行きを見守っています。
さて内田さんはフェミニズムからの指摘を次のように紹介しながら自説を述べています。
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もうひとつの圧力源は、ご想像のとおり、フェミニストからである。
「おむつはつけたままでいい」という主張がフェミニスト的にPC(Politically correct)とされるのは、「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」からである。
「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」というのは、そのようにして女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権制のイデオロギーなのである(とほ)。
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内田さんの中でのフェミニストがどの様なものであるか存じません。
しかし、彼は書くべきだったのです。
「一部のフェミニストから、、、」と。
私や秀さんがどんなに内田さんの命題が特殊命題と言っても、
当の内田さんが全称命題に置き換えて論理を構築していくことは誤りだと私は考えます。
前にも書いたように、これが内田さんのたんなる思いつきの無責任な文ならそれでも私はかまいませんが、多分内田さんはご自分を社会学者と自負なさっていると思うので、私としたら捨て置くわけにはいかないのです。
読者である私たちに解釈を求めさせる文や誤解させる文を内田さんが書いたことは秀さんも認めて下さると思います。
三番目。
3「内田さんは結局「母親よ家に帰れ」と言う結論に行き着くのだろうか」
これに関しては、私は内田さんは本来踏み込むべきではない家庭、家族のあり方に自説を展開したことが誤りではと考えます。
そもそもの発端の三砂さんのおむつ研究に対して、内田さんは、たんに紹介でよかったのです。
それを牽強付会、自説を展開したのですが、その自説が技術からコミュニケーションへとレイアの違う事に結びつけたことからくるミスリード。
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コミュニケーションへの深い信頼をもつことのできないものは、それが男であれ、女であれ、つねに、組織的に社会的リソースの分配機会を逸する。
もし、クールかつリアルな立場から、社会的リソースを確実に継続的に獲得し続けたいとほんとうに願っている人がいたら、私は「おむつが要らない」こどもを育てるところから始めた方がいいとアドバイスするだろう。
自分の子どもが発信するシグナルさえ感知できないし、感知することに興味もないという人間が社会関係の中でブリリアントな成功を収め続けるという見通しに私は同意しない。
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私はこの文から、コミュニケーションや愛、信頼と言う言葉が持つ危うさをヒシヒシと感じました。
先に挙げた西川さんの文と妙に重なるのです。
「全くの1個人を大事にするか、家族の一員としての個人を大事にするかの差だ。生きた人間、血の通った人間、愛がある人間を1番大事にする、」
定量できないものを武器に縛り付けていく危険を内田さんはこの文で発信していると私は考えました。
たとえ、そのような意図がないとしても、
内田さんは立場上、コミュニケーションなどの言葉を安易に使うべきではないと思うのです。
おむつ替えだけがコミュニケーションではない!!!
私はむしろ内田さんがフェミニストの問題を言及するとき、
親子という軸で論じたことが失敗だった思います。
どうしても、このおむつ問題をフェミニズムを論じたいと考えたのなら夫婦・男女のあり方でズバツと書くべきでした。将来の我が子の香しい理想を述べることではなく、
夫婦の子育て論に言及すれば、もっと内容のある物になったと感じます。
と言うことで、内田さんのその論陣の張り方に稚拙さを感じるのです。
まだまだこれについて考えていきたいと思います。
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