2009.04.27

悪妻の日

ご存じでしたか?
今日は悪妻の日だそうです。
由来はソクラテス。
「紀元前399年、ギリシアの哲学者・ソクラテスが、時の権力者から死刑宣告を受けて、刑の執行として獄中で毒を飲んで亡くなりました。」と言うことで哲学の日でもあるのですが、
そこから派生して「悪妻の日」
ソクラテスの妻、クサンティッペが悪妻として有名であることから制定されたそうです。
事実はいざしらず、悪妻としてのエピソードは今に伝わります。
三大悪妻として、その他の二人は、
コンスタンツェ・モーツァルト(作曲家モーツァルトの妻)と、ソフィア・トルストイ(作家トルストイの妻)だそうです。

悪妻ねぇええええ。

うううう〜〜〜ん。

wikipediaの定義を見ると以下の通り。

「夫が結婚したことを後悔するような品行の妻(家でくつろげないなど)」、もしくは、「傍目から見てあのような品行の女性とは結婚したくないと思うような妻」とするのが妥当な定義である。対義語は良妻。現代において家父長制的な夫が非難されるのと同様、夫婦関係において実権を握る妻を悪妻とする見方もある。」

うううう〜〜〜〜ん。

尤もwikipediaだから、こんなところか。

さらに、

「過度の浪費、賭博好き
浮気
夫に対する暴力」

と、
続き、

「歴史上の悪妻とは
権力欲が強い
嫉妬深い
自己主張が強い
夫に従順でない
などが基準になっていると考えられる。」

だそうです。

ふっうううう。

さてさてさて、、、

さてさて、悪妻。
どんなものでしょう???

以前シャロット姫からノーラまでというエントリーを挙げたことがあります。

妻として、女として、
女性たちが如何に芽生え、成長していったか、、、
を、ルサンチマンとして考えたことがあります。

そこで私は以下のように書いています。
「一連のフェミニズム運動、
ラディカルな「性差別反対」運動。
等、時々の運動の成果ではあると思うのです。
しかし、
こうした先輩たちの運動の歴史を経ても、
いまなお厳然と
「女同士の恨み、つらみ」があるとしたら、
これは、
「未成熟な近代市民」という範疇に入ってしまうのではないだろうか???

「成熟」という言葉が持つ意味は、
「自分の立場と相手の立場の違いを、
想像、理解し、
お互いに、相手の立場を尊敬すること」
だと、私は思うのです。
ところが、現実には、
コメントしてくださった方の指摘のように、
「ルサンチマン」をお互いが、
相手に対して、持っているとしたら、
そして、お互いに、
「相手の立場より、自分の立場がより大変」
と、思っているとしたら、
やはり、
それは、
過去の遺物を自分の中に抱えていることなのでしょう。
「正義」とか、
「真理」とか、
そんな言葉では表されない
「魂」の部分で、
私たちは、まだ
近代市民としての成熟をみていない、、、
そんな気がしてなりません。」

なるほど。
これは2004年の記事ですが、
今なお思うことは同じです。


さて、最後に、悪妻と言えば、夏目漱石夫人ならぬ、坂口安吾の
悪妻論
面白いです。

悪妻と知性。

鋭く分析していて、
愚かなるもの、悪しきものへの限りない愛情が伺える坂口らしい文章です。
お時間のある方はご覧ください。

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2006.11.20

おむつ考 その2

前の記事より

さて次にいよいよ問題は内田さんに移ります。
秀さんから私の先のエントリーに対して3つの疑問とそれへの異論を頂戴しています。
1「現実とは乖離した理想論」
2「その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか」
3「内田さんは結局「母親よ家に帰れ」と言う結論に行き着くのだろうか」

この3つに関して私の考えを順に述べていきます。
(論点整理のため、秀さんの反論には今は言及しません。)

おむつと母親の記事でも書きましたが、私は内田さんに対して学者、つまり論理を構築していく人と考えています。
私が無責任に自分の思いや感想を書き連ねるのと「重み」と言うか影響力が違うと考えているわけです。従って言葉のはしはしから伝わってくるもの、メッセジーは何かと敏感に読み取ろうとしました。
無責任に思いつきを縷々述べたものでないと言う前提で内田さんの文に対して危惧を感じたわけです。以下の文のように。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
本質を故意にずらし大袈裟に母親とおむつと子育てを述べています。
現実から乖離したその主張は結局、内田さんが笑うところのフェミニズムと同じ主張になっていると思います。
(現実からかけ離れているという点、やおら自分の理想を展開するという点においてですよ。)
内田さんがおかれている立場を考え合せたとき、
あの記事の主張の先にあるものはフェミニズム批判というよりはもっと本質的な男女のあり方その物へ発展する虞があるのではと私は危惧したわけです。
(瀬戸の記事より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

では、まず一番目。
1「現実とは乖離した理想論」。
子育てはおむつ替えだけではありません。
たとえ、おむつ替えがエキスパートになろうとも、そこから計り知れないコミュニケーションが花開くなぁんて単純なものではないことは内田さんは重々承知していると考えます。
それにも関わらず、内田さんは次のようにおむつと子育てを言う。
=======
つまり、「おむつの要らない育てられ方をした子ども」は「世界の中に私が存在することのたしかさ」をきわめて早い段階で実感できることになる。
======
私はここで内田さんに問いたい。
おむつを替えるたびに母親(保護者・身の回りの世話人)が子どもに話かけ、その体を拭いてスキンシップすることはコミュニケーションではないのかと。
子どもの名前を呼びかけ、うんちの色や固さを確認して子どもの健康状態を確認することは、子どもにとって、自分の存在を確かに実感することではないのだろうか、と。
思うに内田さんはたまたま三砂さんにお会いして、なんとなく書いたおむつ問題なのではと思います。
もしこれが三砂さんがミルクと母乳なんてことで研究していたら、おむつが即・母乳に変わったものと想像します。(母乳だと母親に限定されるから難しいかな???)

さて、二番目。
2「その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか」

これは秀さんの指摘(瀬戸が誤読していると言うこと)に対しては、単純に国語の問題として考えてくださって結構です。
私の文は「内田さんの現実とは乖離した理想論の中で喘ぐ母や親たちと、
その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか、私はさらに迷うのです。」と言うことで、
「その非」とは内田さんの「現実とは乖離した理想論」について指しています。
おむつメーカーの圧力云々、また三砂さんの研究に関しては私は一切言及していません。
むしろ可成興味深く成り行きを見守っています。
さて内田さんはフェミニズムからの指摘を次のように紹介しながら自説を述べています。
=======
もうひとつの圧力源は、ご想像のとおり、フェミニストからである。
「おむつはつけたままでいい」という主張がフェミニスト的にPC(Politically correct)とされるのは、「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」からである。
「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」というのは、そのようにして女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権制のイデオロギーなのである(とほ)。
======
内田さんの中でのフェミニストがどの様なものであるか存じません。
しかし、彼は書くべきだったのです。
「一部のフェミニストから、、、」と。
私や秀さんがどんなに内田さんの命題が特殊命題と言っても、
当の内田さんが全称命題に置き換えて論理を構築していくことは誤りだと私は考えます。
前にも書いたように、これが内田さんのたんなる思いつきの無責任な文ならそれでも私はかまいませんが、多分内田さんはご自分を社会学者と自負なさっていると思うので、私としたら捨て置くわけにはいかないのです。
読者である私たちに解釈を求めさせる文や誤解させる文を内田さんが書いたことは秀さんも認めて下さると思います。

三番目。
3「内田さんは結局「母親よ家に帰れ」と言う結論に行き着くのだろうか」
これに関しては、私は内田さんは本来踏み込むべきではない家庭、家族のあり方に自説を展開したことが誤りではと考えます。
そもそもの発端の三砂さんのおむつ研究に対して、内田さんは、たんに紹介でよかったのです。
それを牽強付会、自説を展開したのですが、その自説が技術からコミュニケーションへとレイアの違う事に結びつけたことからくるミスリード。
========
コミュニケーションへの深い信頼をもつことのできないものは、それが男であれ、女であれ、つねに、組織的に社会的リソースの分配機会を逸する。
もし、クールかつリアルな立場から、社会的リソースを確実に継続的に獲得し続けたいとほんとうに願っている人がいたら、私は「おむつが要らない」こどもを育てるところから始めた方がいいとアドバイスするだろう。
自分の子どもが発信するシグナルさえ感知できないし、感知することに興味もないという人間が社会関係の中でブリリアントな成功を収め続けるという見通しに私は同意しない。
=======
私はこの文から、コミュニケーションや愛、信頼と言う言葉が持つ危うさをヒシヒシと感じました。
先に挙げた西川さんの文と妙に重なるのです。
「全くの1個人を大事にするか、家族の一員としての個人を大事にするかの差だ。生きた人間、血の通った人間、愛がある人間を1番大事にする、」
定量できないものを武器に縛り付けていく危険を内田さんはこの文で発信していると私は考えました。
たとえ、そのような意図がないとしても、
内田さんは立場上、コミュニケーションなどの言葉を安易に使うべきではないと思うのです。
おむつ替えだけがコミュニケーションではない!!!

私はむしろ内田さんがフェミニストの問題を言及するとき、
親子という軸で論じたことが失敗だった思います。
どうしても、このおむつ問題をフェミニズムを論じたいと考えたのなら夫婦・男女のあり方でズバツと書くべきでした。将来の我が子の香しい理想を述べることではなく、
夫婦の子育て論に言及すれば、もっと内容のある物になったと感じます。

と言うことで、内田さんのその論陣の張り方に稚拙さを感じるのです。

まだまだこれについて考えていきたいと思います。

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2006.11.13

おむつと母親

内田さんのフェミニズム批判の意味を考えると言うタイトルのトラックバックを秀さんから頂きました。
コメントを、とも考えたのですが些か長くなりそうなので改めてエントリーをたてます。

まず最初に秀さんは次のように書き出して論理を進めていらっしゃいます。
「僕はおおむね内田さんの主張を肯定的に受け取っており、瀬戸さんは否定的に受け取っているように見える。その違いがどこにあるかを考えるのも興味深いことだ。」
これに関しては私も同様です。
私はブログを通しての秀さんから、いつも論理的に考えていくこと、対象をできる限り客観的に捕らまえ、次にそこから普遍妥当性を導き出し、いずれ自らに還元していくという考え方を教えていただいています。
科学的考察の仕方を学ぶ「師」であり友人である秀さんです。
そんな秀さんとは何故かフェミニズムになるとバァンバァンぶつかるのです。
さて、それはさておき今回の秀さんのエントリーで決定的に違ったのは、
ズバリ
「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」という前提は全称命題か特殊命題か
です。

これを考える前に、まず三砂さんの研究について。
これに関しては、私は三砂さんが何を研究しようと異を唱えるものではありません。
ただ、個人的にはluxemburg さんのコメントや、涼風庵徒然の石橋さんが書かれているように「おむつをしなくても良い環境作り」の方にこそ研究の労を費やす方がより生産的ではと考えます。
実は私もお二人の考えを聞くまでもなく文化と排出物の考えに違いはあるんじゃないかと思っていたのです。
国外線に乗ると食事後ってトイレに順番がつきます。
その折、外国の方は靴やスリッパを履かずにソックスのままでトイレに平気で行く姿を何回となく目にしました。
私は靴を履いてズボンの裾をたくし上げてと如何にも汚い所に行くような出で立ちなのですが、彼らは全然そんな風じゃなくておおらかなのです。
公衆トイレを暗くて汚いものと思う自分を少々恥じたりしています。
その折に思ったことは海外の人って日本人とは排出物に対して違った感覚があるのかな?と言う事だったのですが、その折のことを思い出しました。
と、言うことで三砂さんには、子どものおしっこやウンチに対しておおらかな環境について文化と言う点からも考察を深めて頂きたいものです。

次に内田さんの主張するところのフェミニズムについて。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「おむつはつけたままでいい」という主張がフェミニスト的にPC(Politically correct)とされるのは、「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」からである。
「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」というのは、そのようにして女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権制のイデオロギーなのである(とほ)。
(内田さんの記事より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
本当にフェミニズムと称している人たちが三砂さんにこの様に述べたのなら、確かに内田さんの言われるように(とほ)。と私も思います。
ヤレヤレと思います。
だがしかし、その後の展開はいただけない。
本質を故意にずらし大袈裟に母親とおむつと子育てを述べています。
現実から乖離したその主張は結局、内田さんが笑うところのフェミニズムと同じ主張になっていると思います。
(現実からかけ離れているという点、やおら自分の理想を展開するという点においてですよ。)
内田さんがおかれている立場を考え合せたとき、
あの記事の主張の先にあるものはフェミニズム批判というよりはもっと本質的な男女のあり方その物へ発展する虞があるのではと私は危惧したわけです。

次に秀さんの記事について改めて考えます。
「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」ということを正しい前提として立てるなら、論理的には整合性を持った主張として立てることが出来る。」
と、秀さんも書かれています。
私も全く同意です。
では、正しい前提かということになると私は「正しい」と考えます。
さらに拡大するならば
「何人も他者に縛り付けられるべきではない」と言うことです。
それがたとえ母親であろうと父親であろうと子どもであろうと夫や妻であろうと、
「縛り付けられるべき」対象というのはあってはなりません。
勿論、現実にはいろんなしがらみの中で生きている我々ゆえ縛られ、縛られ拘束されて生きています。
それぞれの立場で支えあいながら生活しているのは当然です。
しかし、ここでは秀さんは学問として純粋に命題が正しいかと問うているものと考えれば、この命題は前提は正しくなおかつ全称命題として立派に成り立つと思います。

と、言うことで秀さんを初めとして皆さんからまたご意見頂けたら嬉しく思います。

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2006.11.10

母親と保育所とおむつ

以前から、
と言っても、7月の末仮言命題そのものの真理性とその前件と後件の真理性と言うタイトルで数学屋の秀さんが「おむつ」について書かれた記事を読んでからズット、ずっと喉に骨がひっかかった思いでいました。
そこへ「母親は家庭で子育てを」下村官房副長官がまたアホを晒すと言う記事をdr.stoneflyさんが書いていらしたのを読んで、
これはチト書かねばと思った次第。
まず下村発言から。
次に秀さんの元ネタの内田樹さんの記事について書いていこうと思います。

下村発言
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「本当にいいのか見直すべき時期に来ている。(特にゼロ歳児保育に)税金投入するなら、(母親は)無理に働かなくても、家庭でしっかり子育てをやってもらえるようにシフトしていくことが望ましい」と述べた。政府が進めている待機児童解消策の見直しを求めたものと見られる。
また、下村氏は「家庭をバラバラにする政策ではなく、人間社会の原点である家庭を再び構築していくような政策が必要だ」と強調した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そもそもの発端の保育所問題についてはdr.stoneflyさんが追い続けていらっしゃるので、これに関してはお任せします。
下村発言で私が特に取り上げたいのは、憲法24条との絡みです。
青い鳥コンプレックスと言うタイトルで憲法24条見直しプロジェクトについて私が記事にしたのは2004年の7月。
この時議論の根底とされたのは以下のようなものでした。
〜〜〜〜〜〜
この分野における本プロジェクトチーム内の議論の根底にある考え方は、
近代憲法が立脚する「個人主義」が戦後のわが国においては正確に理解されず、
「利己主義」に変質させられた結果、
家族や共同体の破壊につながってしまったのではないか、ということへの懸念である。
権利が義務を伴い、自由が責任を伴うことは自明の理であり、
われわれとしては、家族・共同体における責務を明確にする方向で、
新憲法における規定ぶりを考えていくべきではないか。
同時に、科学技術の進歩、少子化・高齢化の進展等の新たな状況に対応した、
「新しい人権」についても、積極的に取り込んでいく必要があろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜
これは有り体に言えば「女よ家に帰れ」と言うものです。
もっと詳しく知りたい方は自民党のホームページ(http://www.kenpoukaigi.gr.jp/seitoutou/20040610jiminkaikenPTronten2.htm)をご覧ください。

なおSTOP!憲法24条改悪キャンペーンと言うサイトに論点整理されています。
「同時に、人間の本質である社会性が個人の尊厳を支える「器」であることを踏まえ、家族や共同体が、「公共」の基本をなすものとして、新憲法において重要な位置を占めなければならない。」
と言う家族・家庭のあり方を憲法=国が介入していくという露骨なもので、これに関しては各方面から糾弾されまくりました。
さてさて、先の下村発言。
母親は家庭で子育てをしっかりやっていく必要を説いたのですが、
まさに「女よ家に帰れ」の発想です。
時代に逆行するものです。
これに関しては、流石の高市さんも下村発言には苦言を呈したそうです。


次に三砂さんの「おむつ研究」。
と、言うか内田樹さんの記事。
まず、三砂さんの研究というのは「母親にシグナル=排便が読めればおむつは要らない。」
と言うものだそうです。
それに対して内田さん。
〜〜おむつの要らない育てられ方をした子ども」は「世界の中に私が存在することのたしかさ」をきわめて早い段階で実感できることになる。
これがそれから後の子どもの人生にどれほどゆらぎない基礎を与えることになるであろう。
どれほどの「余裕」と、「お気楽さ」と、「笑顔」と、「好奇心」をもたらすことになるであろうか。〜〜
と言う。
果たしてそうだろうか???
母親は子どものシグナルを発見、認識するためにピリピリになることはないのだろうか?
一度や二度の発見失敗なら許されるかもしれないが、
度重なるシグナル発見失敗は母親に自己撞着と自信喪失、やがては子育て放棄へと拡大することはないのだろうか???
いつも子どもの顔、つまり排便シグナルを見逃さないでおこうと躍起になっている母親に育てられた子が、どれほどの「余裕」と、「お気楽さ」と、「笑顔」と、「好奇心」をもたらされるのだろう???
私は疑問です。
さらに内田さんは続ける。
〜〜〜〜〜〜
もし、クールかつリアルな立場から、社会的リソースを確実に継続的に獲得し続けたいとほんとうに願っている人がいたら、私は「おむつが要らない」こどもを育てるところから始めた方がいいとアドバイスするだろう。
自分の子どもが発信するシグナルさえ感知できないし、感知することに興味もないという人間が社会関係の中でブリリアントな成功を収め続けるという見通しに私は同意しない。
〜〜〜〜〜〜〜
そっそんな。
おむつシグナルを関知できないだけで「母親失格」は辛い。
確かに大らかな母親や優秀な母親は、この関門をラクラクに乗り越えることができるだろうが、
そうでない母親たちは今後の子育てをどの様に対応すればいいのか?
私は悩んでしまいました。
因みに秀さんは「シグナルというものが現実的に正確にキャッチできるものか」と言う点について興味を持たれています。
それに関しては私も学問として興味ありますが、
仮にシグナル発見が可能となれば、その間母親は子どもに拘束されると言うことになるのではないだろうか?昼となく夜となくである。
たとえ専業主婦であったとしても、
子どもに並々ならぬ愛情を持っている母親であっても子どもに掛かりきりと言うことは、実際問題として困難ではないだろうか?
初めの子ならそれでも可能かもしれないが上に子どもがいた場合はさらに困難は増すように思うのです。
シグナル発見を、いざ社会科学の分野にまで広げていこうと言うことは拙速・勇み足ではと考えます。

さてさて。
内田さんの現実とは乖離した理想論の中で喘ぐ母や親たちと、
その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか、私はさらに迷うのです。

おむつかえだけが子育てではない。

さらに竿頭を進めるなら、内田さんは結局「母親よ家に帰れ」と言う結論に行き着くのだろうかと思えば、その罪も深く大きいように思えてなりません。

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2006.05.19

フェミニズム運動が目指すものは

いつも意見を交換しあっている数学屋の秀さんが、
今日のエントリーでもフェミニズムのうさんくささと言う私にとっては、なかなか考えさせられるタイトルの記事を書いていらっしゃいました。
そこで私も、もう一度二年前のフェミニズム運動についてと言う記事を思い出したりしてずっと考え続けていました。

「フェミニズム運動」。
18世紀欧米で活発に論議された近代自由主義思想の申し子として、産声を上げた「フェミニズム運動」。
「女性の自由・平等・人権を求める」ことから端を発し、
その枠内にとどまらず近代自由主義パラダイムそれ自体のもつ構造的矛盾さえ明らかにしていった歴史と実績を持っているフェミニズム運動。
そして近代/反近代の枠を超えたポストモダンと共通の問題意識を持ちながら、
それさえ乗り超えようとしているのだが、、、
しかし現実には、男女に関わらず一人ひとりが体験し、一つひとつの例があまりに違いすぎるため、
未だ体系化出来ない恨みを感じ続けるフェミニズム。

フェミニズム文化批判としてよく言われるのは、
「差別肯定の言説や制度においてよりも、差別を否定したり、他の意味に読み変えうる様な言説・制度の中に根深く潜んでいる」と大越愛子さんはフェミニズム入門で言う。
そして、その時限って言われることは極端な逆差別が例に挙がるのでは、と私は思います。
それについては秀さんが例に挙げられているようなものが主です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「・クラス名簿を男女混合にする。
 ・男女の呼称を「さん」に統一する。
 ・「男女」の名詞を「女男」に変える。
 ・スカートは最も「女らしい」服装なので、制服からスカートを廃止しようとした
 ・女子の体操着のブルマー廃止と同時に、男子の短パンも廃止し、男女兼用のハーフパンツとする。
 ・運動会の競技を男女混合にする。
 ・ロッカーや下駄箱の男女別の禁止。
 ・小学校教科書の記述を「点検」。「男の子はズボンに女の子はスカートに髪かざり」、「おじいさんは反物売り、おばあさんは家で」、「およめに来て・・・・およめに行く」、「小さなお母さんになってお昼を作る」などの表現をジェンダーフリーに反するものとする。
 ・男女別学の公立高校を共学にする。
 ・高校入試の合格者数を、男女同数にするよう要求する。
 ・黒や赤などのランドセルの色を家庭が選択することを禁止し、「女男ともに黄色いランドセル」といった、統一色を要求する。」
(秀さんの記事より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これらの主張と平行して「性教育バッシング」も行われていることを見ていく必要があります。
2002年、山谷えりこさんの「思春期のためのラブ&ボディBOOK」攻撃に始まり、
「いきすぎた性教育」と言う言葉が歩き出します。
現実には中学生の性行動調査では中学三年卒業までに約二割が性交経験者という状況の中で、中学生に正しい避妊、病気予防を教えることは必要不可欠です。
それは何も中学生に性体験を薦めることではなくて、
「自分を守る知識」として教えることと「人」として尊厳を教えることです。
この「性教育バッシング」の背景が何かについては、今回の私のテーマではないので次に譲ります。
そして宇野賀津子さん(免疫学、性科学)は、
「更衣室男女同室」「騎馬戦」「身体検査」など言われているようなジェンダーフリー教育攻撃の事実関係を辿っていくと、その出所が、どうもあやしくなると述べています。
いきすぎた男女平等を形づくることで、(私も以前はテレビを観ていて、ビックリしたのです)
が攻撃されているのかを見ることは、その仕掛人の本意が明らかになると思います。
攻撃はフェミニズム運動に対してです。
確かに産声をあげて間がない(とは言え200年かぁ)フェミニズム運動。
未だ黎明期ではと考えます。
私はフェミニズムはたんに女たちのルサンチマンではない、

以前から書き続けています。
女性が差別される現状は、男性にとってもはなはだ息苦しいものであると言うこと。
女性も男性もともに作られた「性」からの開放を目指すために、
フェミニズム運動はますます意気軒昂である必要を感じます。

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2006.05.17

セクハラ問題

米企業はセクハラに厳格 お茶くみも不愉快と米紙と言うニュースがつい一昨日出ました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は15日、北米トヨタ自動車などが被告となったセクハラ(性的嫌がらせ)訴訟を例に、米国の法律・慣習は日本などに比べセクハラに厳格だと指摘した。同紙はまた、女性社員にお茶くみをさせれば、米国人スタッフは不愉快に感じるだろう、とも指摘している。
(上記ニュースより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これは勿論北米トヨタ社長が辞任を受けての調査です。
このニュースが出たとき、私も気になり書かなきゃ、書かなきゃ、、、と思いつつ、
終盤国会に追われていました。
そんな矢先、数学屋のメガネの秀さんが「セクハラについて考える」と言うエントリーを出されました。
そこで私もセクハラについて考えることにしようと、昨日からずっと頭の中を駆け巡らせていました。
(昨日は、教基法に国民投票法案、そして共謀罪も同時に頭の中を暴れ回っていて、おかげで今日は頭頂部が痛い。知恵熱かぁ、、、)

セクハラとはセクシャルハラスメント(Sexual harassment)とのことで、日本語で「性的嫌がらせ」という意味で用いられる言葉で、今では市民権を得た言葉です。
これは広義では「差別」とともに評されることの多い言葉でもあります。
およそ女性なら生涯のうち一度ならず何回となく何回となく「おんな」であることを差別、卑下、揶揄するような言葉を浴びせられた経験はあるものと思います。
ひどい場合は、両親からその誕生にあたり投げかけれる言葉だって差別と言えば差別だったこともあるかもしれません。
さて今日は、ここで問題にしていきたいのは「対価型セクハラ」についてです。
職場や学校などにおける立場・同調圧力・階級の上下関係を利用し、下位にある者に対する性的な言動や行為を行う(強要する)ことです。
北米トヨタ事件はこれにあたります。
この事件は今後どのような展開を見せていくか気になるところです。
対価型セクハラの特徴は力による性の強要であることは見逃させません。
言わば「性暴力」です。
性暴力を話題、問題にするのはなかなか困難な作業です。
「差別」と言う概念を伴う場合もありますが「性的自由、快楽、表現の自由」と一体化する場合もあります。
キャサリン・マッキノンによれば、
「主として男性による支配と女性による服従は、セックスの快楽を経験するための決定的な記号となる。
性差別は性的に楽しめる、少なくとも不平等に楽しめる政治的な不平等である。この取り決めを作だし、それを維持する恐怖の一形態として機能するのが性暴力である。、、、、この取り決めは持続する限り、いかなる全体主義の不滅性をも保証するだろう」と、かなり厳しく告発しています。
性の問題が太陽の下で快活に伸びやかにあからさまに語られるた太古の時代は今はもう遠い。
ひたすら淫靡で、ひたすら悩しい問題にすりかわる事で、
女性からの告発が退けられてきた歴史があります。
つまり、「男性支配の権力」と「性の不平等」が女性をして社会に目を向けさせる事より、
自己への撞着を導かせることで性支配を自然に受け入れていくような社会構造が作られてきた、というのがキャサリン・マッキノンの説です。
とかく性被害は加害者よりも被害者への世間の目は冷たく、被害者は泣き寝入りという実態がありました。

そう言う意味からも、
セクハラ問題を単に個人の問題に帰着することなく、
今日的な社会問題として考えるようになった事は、とても大きな意味があると思います。
それはいずれ男性にとっても肩の荷が下り、晴れ晴れとした時代の到来でもあると考えるのですが如何でしょうか?
女性の性は「第二の性」として作られたものであるとした時代は、もう錯誤であると女性自身が
語る未来を想定しながら、この動きを今後も見ていきたいと思っています。

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2006.03.14

男女雇用機会均等法改正案

今月7日男女雇用機会均等法改正案 国会提出されました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
厚生労働省の審議会が昨年末まとめた改正原案の柱は3つ。このうち、焦点だった「間接差別」の禁止が初めて明記された。これは「総合職は男性のみ」などの直接的な差別に比べ「見えにくい差別」と言われてきた。

 原案では、表面上は性と無関係に見えながら、実際には採用数の男女差や昇進・昇格の遅れなど不利益につながっている規定や慣行で、仕事と関連がなく合理性・正当性もないもの、と定義された。その上で、禁止対象を〈1〉身長・体重・体力を募集・採用の要件にする〈2〉総合職の募集・採用で全国転勤を要件にする〈3〉昇進の際に転勤経験を要件にする——の3点とした。

 体力や体格が必要ない仕事なのに「身長1メートル70センチ以上」などと募集を制限したり、地方支店もないのに「総合職は転勤あり」としたりして、実質的差別につながることを禁止した。

 3点に絞ったのは「差別の概念があいまい」と反対する企業側と対象拡大を求める労働側の妥協の産物だった。福利厚生の適用や家族手当の支給などで世帯主を要件にするなどの問題は見送られた。
(上記ニュースより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
女性が社会に進出して久しくなります。
多くの場で女性が能力を発揮。
いまや女性はあらゆる場で仕事に従事。
男性と同じように、
或いは、
ある時は男性以上の働きをしている方もいます。
しかし、そんな女性たちの雇用条件や形態は必ずしも男女平等というものではありません。
まず正社員の数が少ない。
パート、アルバイト、派遣社員など非正規雇用の比率が52・5%。
また正社員の賃金の問題。
これは、大企業ほど男女格差が大きくなっています。
労働者が100人未満の企業で女性の賃金は男性の70・1%。
1000人以上では64・4%。
こうした現実の中で、
今回の均等法。
いっていの評価される部分もあるものの、
焦点であった間接差別(性別による直接的な差別ではないが、実際には男女に格差をもたらすもの)の問題では、一歩も二歩も引いた感があります。
禁止項目の三点、もう一度おさらい。
〈1〉身長・体重・体力を募集・採用の要件にする
〈2〉総合職の募集・採用で全国転勤を要件にする
〈3〉昇進の際に転勤経験を要件にする

??????
この3点だけが禁止?
採用の時、女性であるという理由だけで「容姿」を採用の用件にするな、、、当たり前です。
どこでも、いつでも全国中、転勤しますよ===って事が採用条件、、、これを採用条件にするって事は女性が家庭を持った場合の負担を考えると、「結婚するなら雇ってやんないよ〜〜」ってことか?
これは次の昇進条件にもあてはまります。

これは限定された3点も問題が大いにありますが、
限定外の問題について「間接差別」があてはまらなくなる危険があります。
例えば、
パートや派遣労働者などの雇用形態。
福利厚生の適用。
妊娠、出産などによる退職干渉。
産休後の職場復帰。
子育て期間の保障。
その他、時々でおこりうる問題、、、
これらを「間接差別」として裁判をはじめとして権利の主張を閉ざすことになります。

女性にとっても男性にとっても、
仕事も家庭も同様に大切なものです。
ただ女性は生物学的に妊娠・出産という形で家庭に社会に貢献することも大事な仕事です。
だからこそ、
女性を採用する際に、「家庭か仕事か」と一方的に女性の側にだけ押しつけることは大きな問題であります。

働く女性にとって、
自分の才能を社会にむけて発進したいということと、
健全な家庭生活を保障したいという願いがあります。
それはなにも贅沢な望みではなく、人としての最低限保障されて然るべきものと思います。
従って、
均等法の目的に
「職業生活と家庭生活との調和を図る」を明記すること、
間接差別禁止では、条件をつけずに抜け道を許さない規定にすることなどが女性たちの間で求められています。
現実に即した形で、
働く環境が整うことは、
女性のみならず同伴者である男性にとっても幸せなことであると思います。

これからどの様な展開になるか注目の法案の一つです。

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2005.03.29

国際婦人デーを終えて

3月8日は国際女性デーでした。
1908年、パンと参政権を求めてアメリカの女性たちが立ち上がった日を記念して、その後3月8日は「国際女性デー」となり世界各地の女性たちが平和と女性の権利を求めて集います。
時代を反映して、女性たちの掲げる要求もその時々で違ってきます。
また、国によっても違うのは当然です。
そんな中、2年前は世界各地の女性が声をそろえ、大にして求めたのは「平和」でした。
女性は、いつの時代でも「性」という属性に脅かされ蹂躙されてきた苦い歴史があります。
それが戦時下であればなおさらです。
人間としての尊厳が失われ、理性の喪失は極限に追い込まれていきます。
そんな辛く悲しい歴史を乗り越え、さらによりよい未来を求めるために、女性がその権利を訴える第一番目の項目は「性から解放」であることは言うまでもありません。
また、もう一つの側面から考えても女性は、第一番目に平和を望んでいます。
「夫を、我が子を戦場に送り出したくはない」という願いから。
今年の国際女性デーも各地で平和を掲げて盛り上がりました。
中でも注目を浴びたのは、
イラクの女性はいまということで、アフガニスタン女性革命協会のアミナ・シャムスさん、イラク女性自由協会のライラ・モハマドさんの話です。フセイン政権下にあって女性は抑圧されてきたことは事実です。しかし2年後の今、イラクの女性は幸せかというと、「何も変わっていない」とアムネスティはつい2月22日に発表しました(この記事は期限が過ぎて、もう閲覧できません)。
また、私が同日、最も心を痛めた記事はフランスからの「性的暴力」に対しての生々しい報告でした。
後をたたないDVの実態があからさまに描かれていました。
パキスタンからも、カイロからも、もちろんアメリカからも多くの女性たちの真剣な声が寄せられていました。
私は以前から女性問題、とりわけ「母性」については関心があり、自分なりに随分長い間勉強をしてきました。
このブログでも何回か取り上げてきたのですが、
その都度書き、
さらに今回も書きます。
「女性が真の意味で平等でないということは、とりもなおさず男性にとっても不幸なことである」ということを。
「性」は属性です。
区別されるものではありますが、差別されるものではありません。
私は、私の周りにいる人々、私と関わって下さる人々、そしてブログで知り合いになることができたアナタに声を大にして言います。
「私は、女性の権利が、尊厳が、女性というそれだけで、いささかも傷つくことのないような世の中にしていくために、努力をしていきたいです。」と。

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2004.12.15

オニババ化する女たちを読んで

話題のオニババ化する女たちを読みました。
先にオニババというタイトルでここに書いた時は、まだ本を読んでいなかったので、毎日新聞の特集をニュースソースにしました。
あの時点では、特集への感想でしたが、今回は本物を読んだので私自身の思いを書くことが出来ます。(立ち読みでなく本を買い求めましたので、その金額分?だけしっかり批判させてくださいね。三砂さん)
感想。
ズバリ!!
「おもしろいじゃん。第3章までは。
それより後は、この人本当に学者?」
です。

まだ読んでいない方、ならびに自分自身の頭の整理をかねて、まず本の構成から追っていきます。
はじめに・・・オニババとはなにか
第1章・・・・身体の知恵はどこへいってしまったか
第2章・・・・月経をやりすごしていいのか
第3章・・・・出産によってとりもどす身体性
第4章・・・・女性はなぜオニババになるのか
第5章・・・・世代をつなぐ楽しみを生きる
おわりに

という構成で、書かれています。
第1章から3章までは、「自分の身体と向き合う」ことの大切さを、
性と出産にからめてるる述べています。
チョット乱暴かな?と思うような強引さもありましたが、肯けるところも沢山ありました。
話はずれますが、もう20年くらい前になろうかと思われますが、
モアリポートなどが出て、当時はかなり話題になったことを思い出しました。
前半の3章は、医学的、生物学的に見た「性」について書いてあり、
人間が知性化していくことで退化したであろう自然の感覚について、
著者の思いを述べています。自分自身を慈む、自分の身体を知るということの大切さを書いているところは、共感できます。自分を大切にしない人は他人をも大切にできないと私は思います。
第4章「オニババ」、第5章「子育て」論が問題になった部分です。
確かに、浅薄で強引で、頑固な主張がそこには鏤められていて、いささか閉口しました。
三砂さんに負けず(?)に私も彼女の本を独断と偏見で要約するならば、
〜〜〜〜〜〜〜〜
なんの取り柄もない女たちよ。グダグダ、つべこべいわずに誰とでもいいから結婚しろよ
結婚に理想なんか持つなよ。誰とだっていいんだよ。
夫婦になって、契りがあって、やがて子どもが産まれれば、それでアナタの人生はハッピー。
なんの取り柄もない女たちよ。
それしかできないのだから、、、
と、いうことを「オニババ」というショッキングな言葉で表しました。
(こんな要約でよかったでしょうか?三砂さん??)
〜〜〜〜〜〜〜
さてここで、
1、負け犬論争の酒井さんと同じところ、違うところ。(酒井順子、負け犬の遠吠えがしめすこと参照)
2,三砂さんの論理、
3,その背景
について、私の意見を書きます。

1,酒井さんも三砂さんも、社会学という分野について素人にもかかわらず、世間の注目を浴びたためその論理の未熟さが露呈したという共通点を持っています。他者に対してやさしくない、想像力がない、自分の経験のみで全てを判断、解釈していることも同じです。
違いは、酒井さんは、たまたま偶然「負け犬、、、」で一大センセーショナルを作りましたが、三砂さんは確信犯です。この人は社会に与える影響が分かっていて書いています。
2,三砂さんの論理、主張。
三砂さん自身が100年前に生まれてくればよかったね、、、
時代の流れを認識していない。
お目出たい人です。性だけで結ばれていることが夫婦だなんて、ちょっと淋しいなぁ。
本当の意味での相手への信頼とか、尊敬ってそれだけではないのでは、と私は思います。
3,この本が今、こうして出版されたことの意味は、深刻です。
「産めよ、殖やせよ」のあの時代へ戻ることが、「学問」という体裁を整えて出てきたように私は思います。
三砂さんの真意はどこにあるか分かりませんが、
この本が持つ社会的な役割は、本の中味の無さに反して大きそうです。
しっかりと、見ていかなければなりません。
まだ読んでいない方も、是非読まれることをお奨めします。
また、感想お聞かせください。

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2004.12.11

オニババ

「オニババ化する女たち」(光文社新書)という本が売れているようです。
オニババ」ってなに?:
/上 医学的に高齢出産を考える

「オニババ」ってなに?:
/下 社会学的に晩婚化を考える

に詳しく書いてありますので、ご覧ください。
私自身は、この本をまだ読んでいないので、これに関しては何とも言えません。
ただ、ザッ〜〜〜と記事を読んだ私の感想では、
〜著者の三砂ちづるさんの負け〜
と、なりました(三砂さん、ゴメンナサイ)
「出産は若い方がいい」
「出産、子育てで生きがいを見つけて欲しい」
と言うのが著者の主張らしいですが、
「おおおお、、、結構な事ですね」
としか思えません。
そんなこと、みんな分かっている、三砂さんに、ここであえて言われなくても。
ただ、そうでない現実を抱え、苦悩している若いカップルの真の姿が捉えられていません。
女性にとって、子どもを産み、育てることは喜びでもあり、生きがいでもあります。
自分自身のことを考えてもわかります。
だからといって、それが全てでもありません。
さらに「若ければいい」なんてことは必ずしも言えません。
生物学的には、そうかもしれませんが、
子どもを育てることは、社会的な事業だと私は思うのです。
げんこつ山の狸さんを育てるのとはわけが違う。
♪おっぱい飲んで、ねんねして、だっこして、おんぶして、またあした〜〜〜
なんて、ものではありません。
ある程度の年齢が経験となって「ゆったりと、やさしく」子育てをすることになるのでは、と考えます。
また、三砂さんは以下のように言います。
〜〜
「日本の昔話に出てくるオニババは、社会の中で適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、エネルギーの行き場を求めて若い男を襲うという話だったのではないか」
〜〜〜
これに至っては、もってのほかです。
では聞きたい。
「早くに結婚して、子育てが終わってしまった女性たちのエネルギーはなんとするのか???」
高齢化で、人生80とも90とも言われるこの頃。
20代そうそうで母親になり、40代で祖母になる。
あとの40年を「おばぁちゃん」として生きていけ、、、ということなのでしょうか???
これは、たまらない。
彼女が考えている時代、社会とはすでに違うのです。
さらに彼女は言います。
「社会的な構造を急に変えるのは大変なこと。でも、女性がまず出産を肯定的にとらえて次の世代に伝えられれば、少しずつ変えていくことができるのではないか」
おめでたい人です。
女性が出産を肯定的にとらまえていないなんて、いつ、だれが決めたのだろう???
男性にとって、女性にとっても、いつの時代でも、性と生殖は人生を賭けた真剣な問題であるのに。

とかとか、思いましたが、今度は「本」を買い求め(たぶん立ち読みはしないだろうな(^^;)
また、書いてみます。
その時は、またお付き合いください。

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2004.12.03

黒革手帳シンドローム

今日、歯医者に行って待合室で週刊誌をパラパラ。
その中で面白かった記事が、
「女同士のバトル」。
私は見ていないのですが、黒革の手帳というテレビドラマがあるそうで、その主人公の女性の強烈な生きざまを描きながら、現実の女同士のバトルを取り上げていました。
たとえば、幼稚園ママさんグループの対決。
職場での新人社員とお局様。
本妻と不倫相手。
当然、嫁と姑。
暇つぶしに読んでいて笑ってしまいました。

〜〜〜〜〜〜
セレブママとヤンママ対決。

このグループのいずれに入るにしても掟があります。
1,順番で「おいしいケーキ」ご馳走会がある。
2,お買い物はグループで一緒に行かなければならない。
3,親子で同じお稽古事に行かなければならない。
そして、この二つのグループはお互いに相手のグループとは話してはならず、子ども同士もつき合わせてはならない。
公園の遊び場は、早く行って場所とりをして、相手グループには遊ばせない。
連絡網も回さない。
などなど。
〜〜〜〜〜〜〜〜
ほんまかいなぁ、、、と思いながら読んでいたのですが、
本当なのでしょうか???
(つり???)

あと女子社員とお局様なんて、こんな会社あるんかいなぁ〜というくらい壮絶。
本妻と不倫。どうぞ勝手にやってて下さい。
嫁と姑。、、、なにを今更。

そこで、私はこのようなバトルを「黒革手帳シンドローム」と勝手に名をつけました。
しかし、女同士かどうかは分かりませんが、陰湿ないじめというのは現実に色々あります。
男性の場合はどうなのかなぁ?
この問題、ちょっとジェンダーと絡ませて考えてみる必要アリかな?と思いながら週刊誌を読んでいました。
時間が出来て、まとまったら書いてみます。あてにしないで待っていてください。
いずれにしても、
自分の人生を他人の手中にギュギュ詰めていくことはしたくありません。
自分にも他人にも同様にやさしく接していたいものですが、、、
ちょっとばかり「反面教師」として、考えさせられた話題ではありました。

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2004.09.13

女の人生すごろく

とにかくスゴイ本なのです。
「女の人生すごろく」という本です。
小倉千加子さんという心理学者で、主には、女性論、フェミニズム運動などが専門です。同じ社会学者の上野千鶴子さんとの共著もたくさんあって、
元気な(?)学者です。
以前、ここでも書いた酒井順子さんの「負け犬の遠吠え」論争は、
未婚の30代以上の女性が描かれていましたが、「女の人生すごろく」は、さらに結婚した女性たちの凄まじくも健気な(?)生き方が書かれています。
〜〜〜〜〜〜〜
女の人生は、結婚が「あがり」である。
生まれたときから、この「あがり」を目指して、母と共に歩む。
小・中学校までは、勉強をする傍らピアノや習字などのお稽古事を、母の送り迎えで一緒にする。
高校になったら、そこそこの大学を目指して、それまでのように勉強にはいそしまない。
大学では、「楽しいこと」を一杯覚えるが、就職する頃から、髪の毛を伸ばし始める。
つまり、私は「興味は髪の毛を伸ばす事で、余計な事にはいっさい興味がないのですよ。」
と、純真さを試験官にアピール。勿論母の強力なアドバイス有。
そして、就職をしたら、後はひたすら「あがり」に向かって一直線。
すぐに良い賽の目が出て上がる人もいれば、一歩手前で、どうにも上がりの目が出なくて、
何回か賽を転がす人、いろいろあるが、とにかく母子共に壮絶な闘い(?)のもと、晴れて、「あがり」になる。
さて、あがっては見たものの、これですごろくは終わってしまった。
ゲームは済んだ。
では、では、
その後の人生はどうするの???
と、悩む。
しかし、お任せください。
次は娘がいるではないですか。
さぁ、娘と一緒に「人生すごろく」の始まり、はじまり、、、

こうして、際限なく女のすごろくは、続いていく。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と、いう話を、社会学者らしく、分析しながら書いています。
女性の社会進出にともない、晩婚化や少子化などで多少の上方修正は、あるものの基本的には、女性の人生とは、このようなものである。
そして、女性は何よりも、「自分」が好きなのである。
たとえ愛している夫といえども、生活のあれこれの中では、胸がときめくような出来事は、とうの昔にすり減った。
たとえ愛している子どもといえども、年々シワが増える我が身に比べ、ツルツル肌の娘に嫉妬する、、、
その最たる者が、
シンデレラの母であり、白雪姫の母である、というのです。
実は、シンデレラも白雪姫も、その母は実母だそうです。
美しい我が子に嫉妬するいじましい母なのです。
そして、「あ〜〜〜私も若い頃は、貴女なんかに負けなかったのに、、、」
という思いが「鏡よ鏡、、、」なのだそうです。
女性は、自分が一番好きなのである。
なにしろ、幼い頃から、「自分の容姿」をのみ見て育つように期待されて育ってきたのだから。
決して、時事問題なんかに興味をもってはいけない、、、、
そして、男性社会で生きていくには、おしゃべりでは駄目なのです。
静かに微笑んでいる。
ほら、なにしろ白雪姫の王子様は、眠っていた白雪姫に恋をしたという強者です。
寝ている姫から、王子様は、どのような姫の人格を見て取って恋に落ちたというのか、、、
ひたすら小人たちのために働き、寝ているように静かな姫がお好みだったのです。
シンデレラの王子様も然り。
美しい姫に、もっと踊ろうと,わがままを言う。
しかし姫は12時に慌て帰る。
そう、帰らなければならないのです。
従順に、従う内気な姫に王子は恋をしたのです。
ここで,一緒に遊んでいてはいけないのです。シンデレラは。
そうして、めでたくお妃になった,その後のシンデレラは、どうなったか???
もちろん、シンデレラの母になったのです。
(やれやれ,,,)
と、話はドンドン進んでいくのです。
小倉さんが、書いているのは、正しいとか、間違いとか、
そういうことでなくて、淡々と現実を描いているのです。
「いや〜〜〜それはねぇ、ちょっと問題在り」とか、
「そんな失礼な!!!」
など異論はいっぱいあると思うのです。
しかし、酒井さんの本がベストセラーになり、多くの既婚、未婚の女性から共感を得たということも現実です。
小倉さんは、あとがきで「女のあがき」を収めた、と書いていますが、
私も同感です。
私は、この本を読みながら、共感と反感を持ちました。
「ムムムッッッ」
とか、くるんですよ。
一方、
「うんうん」
と、肯くところもあります。
そして、小倉さんは、私が反感を覚えるようなところは、
勿論、「反感」が殺到するということを心得ながら、分かっていながら、書いています。
「実態」という名前で、、、
そう出てこられと、私は考えるのです。
「自分では気がつかない潜在的意識の中に、そういうことって在るのかもしれない、、、」
と、一歩も二歩も譲ってしまいます。
普段は、とくに気にしていないことでも、
文字で「人生すごろく」なんて書かれて、縷々述べられると、かなりショックです。
しかし、
小倉さんは、「だからよし」とはしていません。
当然、その解決策として、
男女の真の意味での平等をうたっています。
つまり、本当の意味での平等が実現しない限り、
女たちの人生すごろくはつづき、
その中に「男」はいない、ということです。
これが、女性の最大の報復なのでしょうか???
著者は、男女にとって、不幸なことである、と述べています。
私も同感。
是非、女性、そして男性も読まれることをお薦めします。

さて、まだまだ、真の意味での平等は程遠い感がします。
憲法24条の見直しや、
あるいは、
東京都のジェンダーフリー教育撤廃など、
退行していく男女平等への道。
女の人生すごろくを書き直す日が遠からんことを、祈らずにはおれません。

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2004.08.02

ギャルからおばさんまで

先日、ここ
で、普段着の日本語について、
案外、気がつかなく無関心であることを、
書いたのですが、
今日は、
「言葉の無神経」について考えてみたいと思います。
無神経な言葉というのは、これまた枚挙にいとまがありません。
「人を罵しる」という悪意に満ちていなくても、
何気なく使ってしまうことって、あります。
そんな中から、テーマを一つに絞って、
「女性の呼び方」について、見てみようと思います。

人の一生を時間の流れと呼び方の変化で調べるなら、
生まれたての女の赤ちゃんは、
「赤ちゃん」です。これは男の子も同じで「性に対しては未分化」のようです。
「まぁ、かわいい赤ちゃん!!!」
しばらくして名前が付く頃には、
男の子、女の子という区別は、付いてきます。
着るものも「青色」「ピンク色」に分かれ。
与えられるものも、男女の区別はあるようです。
周りも
「まぁ、りりしい男の子。」「頼しい坊や。」
「まぁ、ふっくらとしたべっぴんさん。」「愛敬のある嬢や。」
と、いうように家族が喜びそうな褒め言葉を使い分けます。
そして、
男の子、女の子として育ち、
就学時期は、
男子、女子という名で区別されてきます。
小学校は児童、中学、高校は生徒、大学生は学生ですから、
男子児童、女子児童。
男子生徒、女子生徒。
男子学生に女子学生。
と、なります。
ここまでは、一般的な区別です。
ところが、
女性は、早い時期から、
特別の呼び方があって、(それは、たぶんに社会的な風潮を反映しているのですが、)
その呼び方の中に、
先に書いた無意識の、無神経さが、かいま見られます。
〜お嬢様〜
〜お嬢さん〜
〜ギャル〜
あなたは、この三つの言い方から、
どんな女の子を連想しますか???
一般に「お嬢様」から受ける印象は、
長い髪の白いドレスの似合う、金持ちの女の子。
お嬢さんは、普通の家の、かわいい女の子。
そしてギャルは、
「流行に敏感で、性的にもあけっぴろげな若い女の子」
(三省堂、新明解国語辞典)
さて、こうした呼称で括られる若い女性たちは、
やがて、適齢期を迎え、
既婚、未婚とそれぞれの選択をしていくのですが、
すべて、
「おばさん」
に括られていきます。
(この頃は同世代の男性もおじさんになります)
ある調査によれば、
25歳以上は「おばさん」という、ちょっときびしいものもありました。
あなたは、
〜おばさん〜
という言葉から、どんな連想をしますか?
立場、環境によってそれぞれの回答があると思います。
一方、
結婚した女性は、
他人からは「奥さん」「奥様」と呼ばれ、
夫からは、「おまえ」「おい〜〜〜」と呼ばれていくことが多いようです。
結婚しているあなたは、
伴侶をどのように呼んでいますか?
未婚のあなたは、どのように呼びたいと思いますか?
ちなみに、
我が家は、二人とも、
ファースト・ネームで呼んでいます。
なお、夫婦別姓については、
夫婦別姓を持つ身のため息で、管理人さんが、
法律的、社会的な角度から、書かれていますので、
興味のある方は是非、ご覧ください。
私も、この問題については、
別に書いていこうと思います。
さて、
子どもが生まれると、
もうすべての人から、
「おかあさん」です。
我が子は、当たり前ですが、夫からも、
我が子の学校の先生からも、
生協のお兄ちゃんからも、
、、、、、
みんな、みんな
「おかあさん」
と、呼ぶのです。
(子どもの友達はおばちゃんです)
こうして、
次第に、
自分の名前をなくしていくのです。
ひとくくりの
「おかあさん」
「おばちゃん」
に、なっていくのです。
男の人も、すでに同じ道を辿っています。
おとうさん、おじさん、ご主人、、、、、と。
そうして、
おじいさん、おばあさんになっていくわけです。

高校の時、習った古文では、
昔の女性は、「名前」がなかった、と教えられました。
このブログの冠にしている「枕草子」も、
有名な清少納言さんから、頂いているのですが、
これが、この人の本名でないことは、周知の事実です。
「○○の母」
「○○の娘」
という名前で、歴史に残った才女たち。
しかし、
今を生きている私たちも、
それとは、遠く離れていないところで、
「ひとまとめ」にされ、しているのかもしれませんね、、、

もう一度、
「名前」について、
「呼び方」「呼ばれ方」について、考えてみませんか???

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱(ねぎ)のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂

わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽ばたき
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちている
苦い潮 ふちのない水

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
・(コンマ)や,(ピリオド)いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じように
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

(新川和江  私を束ねないで  より)

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2004.07.14

国連女性差別撤廃委員会の勧告

1979年、国連で「女性差別撤廃条約」が採択されて今年で25年。
しかし、
「事実上の平等」にはほど遠いのが、各国の現実です。
それを、受けて
今回、「条約第4条、第1項の暫定的特別措置」を、
十分に活用して欲しいという勧告が出されました。
この「暫定的特別措置」というのは、
二つの目的があります。
一つは、企業が女性を採用するにあたり、
雇用、昇進、登用などに関したことです。
もう一つは、母性保護に関することで、
特別措置では、「母性保護は恒久的性格」のものである、
と位置付けています。
今回の勧告は、
この「特別措置」を
実際に適用するために、
まず、言葉、定義の明確さをうたい、
次に、「条約の拘束力」を強める働きを自治体、および企業にしていくものです。

日本は、
情勢の社会進出度を示す数値(国連開発計画報告)では、
44位と、先進国の中では、低い順位です。

先日、このブログでも、
「憲法24条見直し」について述べましたが、
ますます世界の動勢から逆行していくような気がします。

本来、
あるべき姿は、
「性」という枠組みにとらわれない、
人間としての「平等」を、
男女、各々が手にするのは、
まだまだ遠い先なのでしょうか??
生まれたときの、ほんのささいな部分の差が、
その後の人生を大きく変えるという現実の前に、
多くの男性、女性が涙をのみ、
さらに、これからの人たちが、
同じ道を歩むことのないように、
今、
先輩として、生きている私たちの世代が、
真剣にこの問題を考えなければならない時期にきているのではないでしょうか???

なお、参考までに「男女共同参画に関する世論調査」を紹介しておきます。
興味、お時間があれば、ご覧ください。

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2004.07.08

青い鳥コンプレックス

先日、このブログでも、ちょっと触れた
憲法24条
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
の、見直しについて、
あちこちのブログで書かれています。
みなさんのご意見は、
憲法改正プロジェクトチームの意見がおかしい、というもので
私も賛成です。
参考までに、
プロジェクトチームの根底とされている考え方を掲載しておきます。
〜〜〜〜〜〜
この分野における本プロジェクトチーム内の議論の根底にある考え方は、
近代憲法が立脚する「個人主義」が戦後のわが国においては正確に理解されず、
「利己主義」に変質させられた結果、
家族や共同体の破壊につながってしまったのではないか、ということへの懸念である。
権利が義務を伴い、自由が責任を伴うことは自明の理であり、
われわれとしては、家族・共同体における責務を明確にする方向で、
新憲法における規定ぶりを考えていくべきではないか。
同時に、科学技術の進歩、少子化・高齢化の進展等の新たな状況に対応した、
「新しい人権」についても、積極的に取り込んでいく必要があろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜
難しい表現をわざわざしていますが、
要約するなら、
「女よ、家に帰れ」
と、いうことです。
今、社会的な問題になっている
少子化、
あるいは子どもたちの犯罪。
それらの原因を突き進めるなら、
「女が社会に進出したこと」が悪い。
有り体に言えば、そういうことです。
そこで、
えら〜〜〜い先生方は、
日本の未来を憂えて、
憲法24条、両性の平等を覆していこうと考えているわけです。

しかし、
しかし、
この問題。
もともと女性を社会に進出させたのは、
当時の労働省だったのです。
戦後間もなくできた労働基準法、「母性保護法」の立場から、
女子労働者は、保護されていました。
しかし、労働省(特に一部エリート女性)は、
深夜労働、危険物取り扱いなどの項目の拡大解釈を、
行うことで、女性の労働力を、ドンドン職場に刈り出させ、
ついに、99年には、
「男女平等機会均等法」を制定。
職場での男女差別を撤廃して、
男女共同参画のプロジェクトは、
会社、公共事業、各自治体で、盛んになりました。
そうして、
家に閉じ込められていた主婦たちが、
復職、パートなどに出ていく姿を見て、
羨やむ専業主婦のことを、
「青い鳥症候群」
「青い鳥コンプレックス」
と、呼び、
当時の専業主婦と働く女性の一つの
論争のきっかけを作りました。
このもともとの仕掛人は、
「国」であり「大企業」でした。
専業主婦の
いつでも、どこでも
短時間で使えるパート、アルバイトは、
企業にとって、安価で持続的に供給できる労働力だったのです。
また、いつでも辞めさすことのできる雇用形態は、
まさに企業の論理にピッタリとはまりました。
これは、正規の男性職員の賃金の足かせになることもありました。
バブル期を支える重要な力だったのです。
当時は、
えら〜〜〜い先生方はだれも、
「家のこと」「個人のこと」なんか気にかけていませんでした。
どんなに家庭が崩壊する、
まさに「積み木くずしの家」になると叫んでも、先生方は
「男女は平等で、これからは女性も社会進出する時代だ」
と、言っていました。
そして、各種の保護をとっぱらったのです。

そして、今。
先生方は、世の中を憂えて、
女性に「家」に帰れと言う。

しかし、本音は透けて見える。
「もう、バブルも終わり、労働力は足り、それどころか
余っている、、、一番切りやすいのは、、、」
と、いうことです。

いつだって、いつだって
企業の論理、
資本の論理が先行して、
個人は、その後をヘェヘェ〜〜〜
言いながら、
愚痴をこぼし、汗を掻き
付いていくだけなのだから、、、

そもそも、
こんな社会にしたのは、
誰なんでしょう???
人間を薄っぺらな「もの」のように取り扱ってきた社会を、
作ったのは、誰???

少子化の原因や
犯罪の低年齢化を、
間違っても「女性の社会進出」と結びつけてもらいたくはない。
私は、今、この記事を、
結構、怒りながら書いています。
この私の怒り、
あなたには届いたでしょうか?
そして、
できれば
えら〜〜〜いプロジェクトチームの先生方にも
届いてもらいたい、、、

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2004.06.25

シャロット姫からノーラまで

川の中州にシャロット姫は住んでいた。
シャロット姫は、
外の世界を直接見ると、死ぬ、という呪いをかけられていた。
川岸には、凛々しいランスロット卿の住む、キャメロット城がある。
シャロット姫の部屋には、鏡があり、
それを通してしか、外の世界を知ることができない。
シャロット姫は、来る日も、来る日も、織物(タペストリ)を織りつづけている。
恋愛を楽しむ恋人たちの姿を鏡を通して見るにつけ、
シャロット姫は、鏡に映る影の世界に退屈し始める。
ある日、
ランスロット卿が、川のほとりで歌う。
その歌声に惹かれ、
シャロット姫は、織物の手をとめ、外の世界を覗いてしまう。
とたんに、呪いが現実となってしまう。
織物は飛び散り、
その糸はシャロット姫に巻きつき、
鏡には端から端まで、ひびが入る。
ランスロット卿を追い、
舟に乗り、岸まで行こうとしたシャロット姫だが、
キャメロットの岸に舟が着いたときには、息絶えていた。

 (19世紀 詩人 アルフレッド・テニスン(1809?1892)の作品より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
イギリスの詩人、テニスンが詠ったシャロット姫は、
まさに古い家族制度の呪縛にからめとられた、
女性の話です。
この中で、
「女は、家の仕事をモクモクとすること」
の是が教えられています。

一方、同じ頃、フランスではイプセンが、
「人形の家」という戯曲で
人妻ノーラが自我に目覚めていく様を
描きました。

婦人問題、フェミニズム運動は、
本当に難しい。
以前、このブログでも書いたように、
社会的問題でありながら、
極めて個人的、私的な問題であるため、
一つひとつのケースが違うから、
そこから、
普遍妥当な答えを導くことが難しいのでしょう。
私も、できればこのテーマは、
難しくて書きたくないのだけれど、
先日、
酒井順子さんの著書が示すことに触れた際、
一人の方から、頂いたコメントが、
かなり「問題の本質」を突いているように思ったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結婚しない、子供を生まないという消極方法で、
「女の仕事」を捨てるということが行われている。
そうやって「楽をする女」への、
いまだに女の仕事を重荷としてしょっている女たちからの
ルサンチマンをかわすために、
先に「ああ、どーせ私たちは負け犬ですよ」といってしまおう、ということだよね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ウ〜〜〜〜ン。
なるほど、
「負け犬発言」は
彼女の言う
「楽をする女への
いまだに女の仕事の重荷をしょっているルサンチマンをかわすために、」
だったのか。
仕掛人の酒井さん本人が、
そこまで認識しているかどうかは、
ここでは、考えないことにして、
既婚女性の「怨念」に似たものというのは、
あるのだろうか???
あっ、
その前に、
「ルサンチマン」という言葉は、
ここでは、
「恨みや憎しみが心の中にこもって鬱屈した状態」
という意味で使っていこうと思います。
ニーチェはさらに
哲学用語として、
「被支配者あるいは弱者が、
支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。怨恨。」
と、定義しているようですが、、、

さて、話を本題に戻すなら、
この極めてデリケートな問題が、
社会問題の俎上に上ってきたのは、
一連のフェミニズム運動、
ラディカルな「性差別反対」運動。
等、時々の運動の成果ではあると思うのです。
しかし、
こうした先輩たちの運動の歴史を経ても、
いまなお厳然と
「女同士の恨み、つらみ」があるとしたら、
これは、
「未成熟な近代市民」という範疇に入ってしまうのではないだろうか???

「成熟」という言葉が持つ意味は、
「自分の立場と相手の立場の違いを、
想像、理解し、
お互いに、相手の立場を尊敬すること」
だと、私は思うのです。
ところが、現実には、
コメントしてくださった方の指摘のように、
「ルサンチマン」をお互いが、
相手に対して、持っているとしたら、
そして、お互いに、
「相手の立場より、自分の立場がより大変」
と、思っているとしたら、
やはり、
それは、
過去の遺物を自分の中に抱えていることなのでしょう。
「正義」とか、
「真理」とか、
そんな言葉では表されない
「魂」の部分で、
私たちは、まだ
近代市民としての成熟をみていない、、、
そんな気がしてなりません。

こうしたことは、
広く世の中を見ると、
いろんなところで見られます。
今、
イラクで行われている憎しみの連鎖も、
渦巻いている「欲」が巻き起こしたにしては、
あまりに弱い一般の人たちの犠牲が、
いずれ、「ルサンチマン」として表れ、
果てなき破壊への輪舞となるのでしょうか???

頂いたコメントから、
いろんな事を考えました、、、

まだ、まだ、
問題は山積。
この問題、
本当にむずかし〜〜〜〜い。

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2004.06.23

酒井順子〜負け犬の遠吠え〜が示すことは?

この本、
「負け犬の遠吠え」
酒井順子著    講○社発行
ウラ表紙を閉じて、
一番目に思ったこと、
「しまった〜〜〜。
出版社の罠にヤスヤスと、
はまった〜〜〜〜」
と、いうことです。
イヤァ・・・やられたな。
編集者のニンマリが目に浮かびます。


「立ち読み」で読んだ以上のことは
何も書かれていませんでした。
〜そこで、酒井さん。
まぁ、私も買ったので、その分(1400円)だけは、
ここで、言わせてくださいね。〜〜〜

「酒井さんはサカイさんをやっているの、
大変だろうな、、、」
なんて、酒井さんに変に同情。
彼女は、
今まで「ノリ」で軽くエッセイを書いて、
「読ませてなんぼ」の世界にいました。
確かに、私も彼女の書く物は、
「軽くて、オモシロくて」
フッと、笑って読んでいました。
人の心をとらえるキャッチコピーなんかは、
さすがに
広告代理店で鍛えた物があるのか、
上手です。
そんな彼女が、
「負け犬〜〜〜」を書いたのですが、
これについても、
一回こっきりぐらいなら、
笑えて読めるのですが、
単行本になって、
ず〜〜と読者を引っ張っていくには、
「経験、知恵、知識、世界観」が浅薄なのです。
(酒井さん、ちょっとキツイ言い方だったらゴメン。)
読者である私としたら、
やはり、
田中美津さんのように、
堂々とジェンダーフリーを唱えつつ、
その歴史、社会的背景、今後の展望など
論陣を張って、
さらに有名な
「女性は便所か?」
というショッキング発言で、
当時の社会の一つを牽引したもの
(賛否両論はあるものの)
を期待していたのですが、、、
実際に、
本をひもといてみると、
ある年齢以上の女性を負け犬と称して、
その「生態」を自分の体験を中心に、
オモシロく(?)描いているつもりのようですが、、、
そもそも、
酒井さんが、
カテゴリーに分けている
勝ち犬、負け犬の洞察が、
粗くて、雑。
彼女が称する勝ち犬という物が、
どんなものか、彼女自身が知らないので、
一方的な考察になるのは仕方がないとしても、、、
「人」の評価が、
「勝ち、負け」というところで言及しているから、
対象全て(いずれの立場でも)に対して。優しくない。
と、思いました。
最初のスタートがそんなだから、
最後まで、
同じことをクドクドと、
愚にも付かないことを言っているだけで、
何も結論が出てこない。
あとがきに、
「世の中にはイロイロな人があるということを、
知ってもらいたかった、、、」
なんてことで、
チャンチャン。

オイオイ。
これじゃ、泣くになけないよ〜〜〜(遠吠えワンワン)
「人生いろいろ」なんて、
どこかの国の首相に似てないか、、、
最後まで読んだのに、、、
もっと、期待していたのに。

しかし、
考えてみたら、
酒井さんも、
本当は自分でビックリしているんじゃないかな??
なぜなら、
彼女も出版社の戦略に組み込まれた
一人だから。
「売らんかな」主義の出版社の編集者の顔が、
手に取るように思い浮かびます。
ボロボロの雑巾、もう、どんなに絞っても、
一滴もでないような「知恵」を、
さらに絞り出させて、著者に書かせるのです。
(それこそが編集者の真骨頂。腕のみせどころ)

そして、そして、
書かせたら
後は、センセイーショナルな売り出しコピーを、
考えて、
世論をミスリードしていく。(この場合は)
これが、
出版社のやり方なのだ!!!
(どこでも、大手出版社の仕事だから、、、)

酒井さん、
貴女には怒っていないけれど、
(今まで通りの軽いノリで
これからも書いていて下さい。)
出版社のやり方に腹を立て、
なおかつ、
それにはまった自分に、
腹を立てている私なのです。
そして、そんな自分を棚にあげつつ、
酒井さんの本が一連の社会現象を起こした背景は、
かなり深刻に受け止めています。
この本が読まれ、
賛否両論はありつつも、
一つの社会現象になったと、いう意味は、
「家庭」が一つの社会単位ではなくなりつつ
あることだと思います。
結婚を望まない、
結婚をしない人たちが増えている、
と言うことは、
政治の貧困の一つのインジケータだと思います。
日本の社会の病理は、
グ〜〜〜ンと深いところに潜んでいるのでしょうか?
私たちが本来考えるべきことは、
「負け犬、勝ち犬」なんて表面のことではなくて、
もっと本質的な、
社会の仕組みを考え、論ずるべきではないでしょうか?
ややもすれば、
言葉の持つ力のみに振り回されそうな
自分をかいま見たという点では、
社会の病理をえぐり出したと言う意味では、
酒井順子さん、出版社には
「有り難う!!」
と、思いながら、
なお問題は深まった感がしている私です。

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2004.05.31

負け犬、勝ち犬論争について思うこと

「勝ち犬、負け犬」
この言葉から、あなたは、何を連想しますか?
言葉本来の意味はともかく、
「負け犬の遠吠え」酒井順子著(講談社)
という一冊のエッセー集が「時の話題」を作りました。
仕掛人の酒井さんは、軽妙なエッセーで、女性の心理をたくみに
描くコラムニストです。
すぐに読めるので、本屋さんの立ち読みで済ましている私。
酒井さん。ゴメンナサイ。
今度、機会とお金があるときは「買います」ねぇ。

さて、酒井さんは
「未婚、子なし、30代以上の女性」を負け犬と称して、
自らの体験から、その「生き辛さ」をユーモア(ある意味ペーソス)
を交えて書きあげました。
その本がくだんの
「負け犬の遠吠え」
どんなに仕事では一流でも、
独身の場合は、女性は生きにくい現実を、
どの様に、自分自身が納得して、付き合っていくか、、、
彼女は自らを「負け犬」と称すること、
肩ひじを張らないことによって、生きていく気安さを見つけました。
とは言え、ソレは処世術であって、彼女の本意ではないのでしょうが、、、
この本は負け犬のグループ
(?)からも勝ち犬の側(?)からも
共感を持って迎え入れられ、
一つの社会現象を生む言葉にまでなりました。

この論争(?)の行き着く先が、
どこにあるかは、さておき、
「主婦、母性保護」論争は今に始まったことではありません。
以前、このブログではジェンダーフリーについて書いたことがあります。
酒井さんが、投げかけたようなショッキングな表現ではないにしろ、
女性はどんなときでも、この二つの選択を余儀なくされながら
生きているのです。
「仕事か、結婚か」
「自分の生きがいをどこに見いだすか」
「家庭か自立か」
、、、、、、
とにかく、とにかく
女の人は未婚であろうと、既婚であろうと、
人生の生きがい、仕事、幸せと結婚との天秤を測らなければならない
状況におかれているのです。
男性なら、
「この女性と結婚するか」
ということでは、その岐路に立った時考えます。
「この人と結婚して仕事をやめるかどうか、、、」
と、考える男性は少ないでしょう。
しかし、女性は、
その人が、どんなにそれまでの人生で、
スバラシイ才能と仕事に恵まれていても、
結婚という選択のなかで、失うものもまた多い、
ということを、知っています。
(雅子妃はまさにその一番の例かな???)

こうした、分かれ道の一つひとつの中で、
女性は、
自分自身を、
また同性の女性を敵にして、
生きていかなければならない時代が長く続きました、、、
また、自分の内なる者を封印して、ひたすら耐えなければならない時代を
固唾を飲んで、過ごしてきた私たちの先輩たち。
人はどんなときでも
自分の「幸せものさし」が欲しいのだから、、、
(そして、この多くは人との比較の「幸せものさし」であることが問題なのですが。)
こうして、女性どうしが、
お互いを「勝ち」「負け」と決めることで、
両方の側にとって、気楽になる解決策を見つけてきました。
しかし、両方の立場でも、
自分の足元がおぼつかないことは認めながら。
楽に生きていく「生き方の知恵」が、
本来「間違っているもの」であることを、
「生き方上手」ではないことを、
両方の立場の女性が、実は知っている。
そして、この一番大きな罪は、
女性たちがお互いを認め、手を結ばない社会現象の中では
男性もまた、
被害者であることを、
男性は知らなければならない。
と、私は思います。
なぜなら、
女性はどちらの立場に立っていても、
「人間として生きたい!!」という内心の秘めたる叫びを、
持ち続けているのだから、、、
たんに女性を「性の対象」としてのみ、
「わが子」をうむ者としてのみ、考えていた時代。
ソレは、本当の意味、男性にとっても不幸でした。
「人」としての尊厳を、敬意を相手に払うことによってのみ、
相手からも、同様に尊敬、敬意、愛情を受けるものであるから。

そうした意味では、
今、女性も男性も、
多様な価値観の中で、もまれながら、
相手にのみ、「忠誠」を誓わせる愛を求めすぎているのだろうか?

両性にとって生きることが
楽しくて、豊かな時代は、
まだ、しばらく待たねばならないような気がします。

しかし、しかし、
来るべき、そういう時代のために、
いま、私たちは、
鍛えられているのでは、、、と思うのです。

そもそも、
人の生き方に「勝ち」「負け」が本来は無いことは
みんなだれでも知っているのだから、、、

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2004.04.23

ジェンダーの中での性愛とは?

万葉集では、男女の性愛は大らかに、伸びやかに、
そして、みずみずしく謳われていました。

しかし、歴史に「階級」が登場する中で、
性愛は、「隠すもの」「私的なもの」として
家の隅に追いやられました。
そう、女性とともに。
その時々の時代に「はねっかえり」の女性が
出て、文学で名を馳せたりするも、それは
「男の目」としての「男女の愛」を語ることが多かったようです。
男性にとっても、女性にとっても、
「性愛とは何か?」という本質的な問題に触れることなく、
従って、その問題に関して「成長」することなく、
近代文明とともにやってきた「男女平等」。
それは、両性にとって、いきなりつきつけられた難問でした。
ある時はラディカルな女性たちが、
またあるときはコンサバな男性たちが、
「性愛」について次第に考えるようになりました。
「性」は解禁されたのです。
しかし、それこそ、未熟な「市民」にとっては、
重い問題でした。
事柄が、社会的な部分でありながら、
きわめて私的な部分に負うことが大きいからです。

アメリカの文化人類学者、マーガレット・ミード。
著書は「サモアの青春」「男性と女性」などです。
主にはサモア島、ニューギニア島、バリ島などに調査に出かけ、
「性差と文化」について、一つの理論を作りました。
男女とも穏和な部族、男女とも活発な部族、
女性が経済的な力を持つ部族などが観察。
その比較から両性の気質は
「生物学上の差」からくるのではなく、「後天的なもの」としました。
また、性愛についても、同様の意見を展開。
「両性の間にあるのは、生物学的な差以外のなにものもない」(意訳)
と言った言葉は有名。

その後のフェニミズム運動やジェンダーフリー運動の牽引の役割を示しました。
しかし、彼女の研究そのものに疑問を呈する学者もいたりして、
実際にサモア島やニューギニア島の部族が彼女の言うような
「男女の役割反対」の文化を持っているかどうかは、定かではありません。

私個人の意見を言うなら、
ミード以降発展してきたフェミニズム運動やジェンダーフリーは賛成です。
ミードの観察した部族が実際は、「男=狩り、女=育児」であったとしても、
それはミードの観察、研究が間違っていたことであって
(そんなことは研究の中では山ほどあることです。
ノーベル賞をとった研究でさえ、後の科学者から誤りを指摘されることもあります。)
そこから、導かれ、発展してきたイデオロギーまでも否定することはないと思うのです。

「性愛はそもそも排他的である、、、」
と言ったのはエンゲルスです。
歴史を顧みると、私有財産が女性の地位を低くして行った、
そしてそれは男性にとっても敗北であった、、、、とエンゲルスは言います。
両性にとって、真の意味でお互いが、なんの束縛からも解放される日が来たとき、
その時の両性が自分の伴侶を自分の価値で決めるだろう、、、と言っています。
エンゲルスはそこまでしか言及していません。
その時の当事者のみが知り得ることと、決める事としているのです。

では、未来において、自分の伴侶を決めるに当たり、何を判断基準にするのだろう?
地位でも、家でも学歴でもない。
顔?性格?
まあ、それは、その時の人に任せればいいのですよね、
エンゲルスさん。

ただ、いま言えることは
ゆっくりではあるが、確実に
歴史は動き、私たちは
「当事者である」ということです。

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2004.04.22

フェミニズム運動について

瀬戸智子の実験教室「やじろべえ日記」で、ジェンダーフリーやフェミニズムについて
以前書きました。
いろいろ、意見をいただいたので、
weblogでも、考えていきたいと思いました。
まず、以前書いた文に加筆修正して掲載します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

フェミニズム運動は難しい。
問題の本質が見えにくいからです。
「男女差別」はあるか?
と、問われれば
「ある」と大方の女性は答えると思います。
家庭、職場、学校、そして社会の中で
いろんな局面で、「差別」に遭遇するのです。
しかし、「ではどのように解決をすればいいか」という打開策、対応策について言及すると、
百家争鳴。百人いれば百人の答え、考えがあります。
なぜなら「男女差別」はあらゆる差別の中で全ての人が男、女に関わらず
公平に平等に受益、損益を受けている差別だからです。
(階級差別、民族差別、宗教差別、、、などの問題は
これらの関係者だけが差別に関している、という意味でです。)
世界の、日本のフェミニズム運動の流れを見ただけでも頭がクラクラ。
本流から支流ができ、いつのまにか本流が無くなりと、、、
あるいは初めの説が変節したり、なかなか大変です。
私個人の意見を言えば、
「フェミニズム運動」の流れの中で、女性が女性を攻撃していくという
悲しい論争だけはして欲しくないな、ということです。
例えば、「主婦論争」
働く女性たちにとっていちばん槍玉に挙げられる専業主婦。
「貴女たちが、そんな甘い考えだから、いつまでたっても女性の立場は低いのよ。」
と、言ってエリート女性たちは、女性の権利を拡張していきました。
しかし、その実、行われたことは「深夜労働、危険物取り扱い、、、、」
いろんな分野に女性が進出していく中で、「保護」されるべきものが見えなくなってきた感がします。
「保護」を求める女性たちを、同じ女性たちが「甘え」と斬り捨てていく、、、
その動きに翻弄されるのが、実は男性たちでもあります。
男性たちにとっても、
女性差別が、居心地のいいものでないことにソロソロ気がついてきました。
では、全ての人たちが手を取り合えばいい??。
しかし、問題はそう単純ではないのです。
そこに資本の論理が入ってくるから、
「男女差別は階級差別でもある」と私は思います。
未来の子どもたちによりよい物を残すために
不問に付してはならない大切な問題です。
社会全体が変わっていくには時間がかかります。
ただ、変わっているのも事実です。
諸々の問題を抱えつつも、世の中は次第にジェンダーフリーの方に動いています。
婦人参政権のない時代もありました。
女性が働くなんて想像もできない時代もあったのです。
ましてや「離婚」を女性の側から突きつける時代にもなりました。
ゆっくり、確実に「真の意味での男女同権」の時代に近づいていると信じたいものです。
勿論、逆行している方針や政策もあります。
その一つ一つに丁寧に対応していかなければなりません。
何回も書いているように
私個人はジェンダーフリーの立場に立っているのですが、
今の行政が指導する方法には疑問を呈しています。
いきすぎたジェンダーフリーは、定着しないというのが
過去のフェミニズム運動の示しているところです。
ともすれば、一つの視点だけにこだわると、全体が見えにくくなります。
次代を担う子どもたちにジェンダーフリーを教えることは大切ですが、
小手先だけのやり方ではかえって逆効果。
人間としての尊厳を教えること、
両性を尊敬すること、
などをまず伝えていくべきだと私は思います。
カワイイ、と思った女子には
感情のままに「カワイイ!!」と言ってもいいのではないでしょうか。
「もっと、ガンバレヨ、オイオイ」とはっぱをかけるときは
男子生徒に「もっと逞しく」と言っても、なんらおかしいことではないと思います。
「逞しさ、やさしさは作られたものである」と考える方が変です。
これは、個人の属性です。
まなじりあげて抗議する問題ではないと考えます。
ほかにもっと一杯考えるべき問題はあります。
例えば、就労のこととか、家庭のことなど、両性で協力していかなければならないこと。
人間という観点から出発していない教育現場の付け刃な方法はいずれ破綻するでしょう。
破綻して負の遺産をついでから、男女の尊厳、権利を子どもたちに教えることは大変です。

ここまで来ると、やはり私はいつものように
「オイオイ、文科省サン、もうちょっと親身になってくれよ〜〜〜」と不平を漏らすのです。
みなさんはどのように思われますか?

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2004.04.12

学校でのジェンダー教育について

先日、テレビ番組で「ジェンダー教育」について喧々諤々と討論をやっていました。
そこで、ちょっとジェンダーフリーについて、思いを書いてみました。
私個人としては、そもそものジェンダーフリーの動きには賛成だったのですが、
この頃の学校教育の中で伝えられることが本当ならば、
その行き過ぎたやり方には疑問を持ちます。
さて、
男女のあり方が今のような形になったのは、
人類の歴史の中では、実は最近のことです。

「婚姻史」の研究で有名な高群逸枝(色々批判の多い人でもありますが)によれば、
今のような婚姻形態、
つまり「嫁取り婚」というのは極めて新しい形なのです。
歴史の始まりは、すべてが共有でした。
いわば、原始共産性と言われるものです。
共有で自然に立ち向かわなければ生存はできない時代でした。
それは、「性」に対しても同様でした。
婚姻形態は、「群婚」でした。
氏族は、肩を寄り添って、小さな集落の中でお互いに協力して生活していたのです。
従って、このころ、子どもにとって存在するのは母だけです。
父はわかりません。完全に母系制です。
しかし、この母たちも今のような感性で我が子に接していたかというと、必ずしもそうではありません。
子どもたちも集団の中の共有の財産なのです。子どもにとって、多くの父と沢山の母たちがいたのです。
次に日本の婚姻史に出てくる形態は「妻問い婚」です。
大和朝廷が国を統一。
次第に貧富の差が出来、私有財産が作られました。
男にとって、「我が子」である確たる証拠を欲する時代がやってきます。
しかし、婚姻の形はまだ、母系制です。
男も女も自分の生まれた家で生涯を過ごします。
そして、男は女のところに通う。
子どもは女性の「氏」を継ぎます。
日本文学に出てくる様々な男女の美しい、そしてはかない愛が描かれているので、よくご存じと思います。
まだ、母系制の名残を残しながら次第に家父長制は歴史に台頭してきます。
その後、婚姻の形態は「夜ばい婚」を経て、
今の「嫁取り婚」に至るわけです。
そして、完全に「家」に支配される父権制へと変わっていったのです。

母系制から父系制への移行の中で、
女たちが、
そして男たちさえも「家」という力の前に押しつぶされ、
「個人」が消滅していった歴史。
厳然と「体制」が仕上がっていく過程。
それでも、民衆の内から迸ばしるエネルギーは、権力と言えども押さえることができない。
もろさわようこが言うところの「わわしいおんなたち」(たくましいと言うくらいの意味)が、イキイキと歴史の合間を縫って登場します。
そして、流れながれて「青踏」の時代がやってきます。
「原始、女性は太陽であった、じつに真正の人であった、、、」
と。
女性は目覚め、
与謝野晶子が「山は動く」と言い表します。
その後の婦人参政権をめぐり市川房枝さんの活躍などがあって今に至ったのですが、、、
その後の紆余曲折がありながらも、
女性も男性も次第に「性」に縛られない「人間」としての自我が確立していくはずだったのに、、、
それなのに、
なぜか、「今」はおかしい。
そして、
学校で行われようとしているジェンダーはもっとおかしい。
なぜなら、「差別と区別」は違うこと明らかにしないで、
ただお題目だけ唱えているような気がするのです。
上からの押しつけで、のっぺらぼうみたいな男女平等。
バランスを崩して一方的な男女平等。
これは誤まりだと私は思うのですが、、、
女性は「生む性」としての体の構造を持っている。
これは男性とは違う。
母性は保護しなければならない、ものと私は思います。
何年前に登場した、「男女雇用機会均等法」「男女共同参画法」
どれも耳あたりはいいが、現実には女性に厳しい法律であることは明らかです。
このままジェンダー教育がバランスを崩して浸透していけば、母性が侵害されていくような気がする。
学校の中で行われていこうとしているジェンダーの真の狙いは、「本当の意味での男女平等」ではなく、別の何かがあるような気がするのは、うがちすぎなのでしょうか?

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