2010.12.06

「2010年NGO日本女性大会」が開かれました

国際婦人年連絡会はこの12月4日、東京都内で「2010年NGO日本女性大会」を開きました。
これは、思想・信条・分野を超えた38の女性団体が結集し、5年に1度開かれるものです。
今回は全国から約500人が参加。

大会は、今後5年間の労働、教育、平和など八つの分野にわたる行動目標を決定。
「ジェンダーギャップ解消への挑戦」と「貧困・格差のない平和な社会を築く」ことを重点行動目標として掲げ、
また、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」の早期批准、民法の改正、小中高校の学費無償化など17点を掲げた大会決議と二つの特別決議が採択されました。

ジェンダー・ギャップについては今年10月に指標が発表されました。
それによると、以下の通り。
==============
世界経済フォーラム(WEF)は、10月12日、2010年のジェンダー・ギャップ指標の報告を公表しました。1位のアイスランドから7位のデンマークまでは09年と変わらず、上位を主に北欧諸国が占めました。世界的に見て、健康と教育の分野での格差は縮小していますが、政治と経済の分野の格差の縮小が進んでいないことが指摘されています。
日本は、09年の報告では、75位とされていましたが、後に101位に修正されました。10年には、94位とわずかに上昇しています。報告は、経済の分野で女性の報酬にわずかな増加があったこと、国会議員の数の増加などを理由にあげています。一方、日本と104位の韓国がOECD諸国の中で最も低いことも指摘しています。
アジアでは、フィリピンが9位と09年と変わらず、スリランカが16位でした。他の地域では、フランスが、閣僚の女性の割合の低下など政治の分野での格差の拡大により、18位から46位と大きく後退し、一方、米国が経済や政治の分野での参加の拡大、教育での格差の縮小などにより31位から19位に上がり、この指標が2006年に始まって以来、初めて上位20位に入りました。
(上記サイトより)
===============

こうしてみると、先進国の中では最低レベルと言う事で、まだまだ課題はあります。

また女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約の早期批准・実行もまたれます。

民法改正は主には夫婦別姓についてです。

女性をとりまく様々な差別、それは目に見えるものやそうでないもの、と色々ですが、
その一つ、ひとつを丁寧に粘り強く変えていくことが大事です。
その一つの歩みとしての今回の大会の意味は大きいと思います。

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2009.11.18

家族とは何か、補足 その2

さらに家族をみます。
まず家族の法制に関する世論調査と言うのが2006年に行われた時、私も記事にしました。
============
あなたが、家族の役割として最も大切だと思うものは何ですか。次の中から1つだけお答えください。
(ア)子どもをもうけ,育てるという出産・養育面
(イ)親の世話をするという介護面
(ウ)心のやすらぎを得るという情緒面
(エ)日常生活の上で必要なことをするという家事面
その他(          )
わからない
=============

これがそのアンケート内容です。
さて、
上の選択肢。
ステレオタイプな家族観に満ちているようです。
家族の役割という設問だから、
家族とは、
親と子。
そこから養育と介護。
そして共に生活する喜びや、家事全般などなどですが、
この設問に優先順位なんてつけることはできません。

ここまで来て思い出すのはドラマ「隣の芝生」に観るステレオタイプな女性観と言うエントリーを書いた時のことです。
このドラマ、ご覧になっていない方にはネタバレにならないように、ここでは軽く押さえておきます。
「家を建て、夫の母と同居するようになった妻が、
家事と育児と嫁業に、疑問をもち、
働きにでるが、
そこで、家族との問題や会社での立場などなど壁にぶつかりながら、
改めて家族とは何かを見つめる」
と、いうのがあらすじです。

このとき、私は最後に以下のように結びます。
===============
そこで私は問いたい。
脚本家の橋田さんは女子差別撤廃条約について、
働く女性としてどのように評価されているのかと????

「メディアや教育における男女の役割に対するステレオタイプ」の撤廃を勧告した先の国連女性差別撤廃委員会の報告を思い出しながら、
橋田さんのドラマに鏤められたステレオタイプな図式に、「これはないだろう」と思った私です、、、、、、、
=================

そうなんです。
ステレオタイプな家族像。
そこから一歩も踏み出せず、むしろ搦め捕られていく主人公の姿は、
今、現に問題に突き当たっている人にとってなんの解決も見いださないのです。
では、
家族とは何か、
束縛されるものから、一挙、解き放たれるものか?
と、問われれば、それも否です。

と、言うことで、今度は時の人、村上春樹の初期の作品「ノルウエィーの森」にみる家族像に迫ります。
これまた、まだご覧になっていない方にネタバレにならないように、あらすじは控えますが、
興味のある方はこちらのサイトなどに詳しく書かれていますのでご覧ください。
さて、
この作品は「生と性と死」についてがテーマです。
いろんな登場人物が出てくるのですが、家族のことや家族への思い、絆などはあまり描かれていません。
これは村上作品に共通なようにも思うのですが。
家族から離れ共同体の中で他人とともに生活することで、
心のやすらぎを得ていく様を描くことで、作者は「家族の桎梏」を切り取ろうとしたのでしょうか?
あるいは、
どんなに人がいても孤独であるという人間が負う宿命を描いたのでしょうか???
少なくとも、ここでは家族は遺伝子の繋がりという生物的、生化学的な意味以上のものとして捉えてはいません。

村上作品は家族がテーマとは言えないので、
村上春樹自身が「家族」をどのように捉えているかは私はまだわかりませんが、
今、多様な家族の形や、あり方、を考えるとき、
その軸足となるのは、
個人、一人ひとりが自分の人生をいかに考え歩こうとしていくかでは、、、
と、思うのです。

以前シャロット姫からノーラまでと言うエントリーを挙げました。
そこで私は以下のように結んでいます。
==============
この極めてデリケートな問題が、
社会問題の俎上に上ってきたのは、
一連のフェミニズム運動、
ラディカルな「性差別反対」運動。
等、時々の運動の成果ではあると思うのです。
しかし、
こうした先輩たちの運動の歴史を経ても、
いまなお厳然と
「女同士の恨み、つらみ」があるとしたら、
これは、
「未成熟な近代市民」という範疇に入ってしまうのではないだろうか???

「成熟」という言葉が持つ意味は、
「自分の立場と相手の立場の違いを、
想像、理解し、
お互いに、相手の立場を尊敬すること」
だと、私は思うのです。
ところが、現実には、
コメントしてくださった方の指摘のように、
「ルサンチマン」をお互いが、
相手に対して、持っているとしたら、
そして、お互いに、
「相手の立場より、自分の立場がより大変」
と、思っているとしたら、
やはり、
それは、
過去の遺物を自分の中に抱えていることなのでしょう。
「正義」とか、
「真理」とか、
そんな言葉では表されない
「魂」の部分で、
私たちは、まだ
近代市民としての成熟をみていない、、、
そんな気がしてなりません。
(以前の記事より)
===============


いまだ、発展途中、黎明期にある私たち。
答えが何かはまだ判然としないのかもれません。
だがしかし、
だからといって、
考えることや悩むことや声を挙げることを忘れてはならない。
と、思うことしきりです、、、
この問題、これからも折りにふれて考えていきます。

Today’s theme is about the family system.
I referred to mainly about the civil low and article 24 of the constitution.
There are lot of sex discrimination, for example a disparity and a disparity of earnings between the sexes
I hope we will have freedom rights for both sexes.
Thank you.

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家族とは何か、補足

ギャルからおばさんまでと言うエントリーを2004年に挙げました。
そのときは、
名前というよりは役割からくる呼び名、とくに女性の呼び名の変遷を考えました。
その中で、
「もう一度、呼び方について考えてみよう」と書き、
新川和江さんの 私を束ねないで」の詩を引用しました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱(ねぎ)のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂

わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽ばたき
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちている
苦い潮 ふちのない水

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
・(コンマ)や,(ピリオド)いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じように
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

(新川和江  私を束ねないで  より)

==============

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

と、新川さんは謳うのだが。

私は風、
そんな思いの女性たちが増えていることは、
健全な社会の証では、と私は思うのですが、、、、、

なお夫婦別姓については以前夫婦別姓論議
その2で問題の本質を見ていきました。
そこで法案の歴史を見てみました。
===============
「夫婦同氏原則」です。
しかし、現実生活では齟齬を来す場合もある、と言うことで昭和50年代からすでに、「制度としての夫婦別姓に関する議論」が行われていました。この当時は女性労働者の便宜の問題として捉えられており、必ずしも民法の改正を主眼としておらず、旧姓の通称使用の普及にも軸足がありました。
その後、民法にまで踏み込み、通称という一時的なものでなく普遍的に別姓を認める法律の改正が求められるようになります。
婚姻時に夫婦が同姓か別姓かを選択する「選択的夫婦別姓制度」とする案が主流となり、1990年代より国会に議員立法による民法改正案が提出されるようになりました。
ついに1996年には法制審議会が選択的夫婦別氏制度を含む「民法の一部を改正する法律案要綱」を答申。
法務省が選択的夫婦別姓制度試案を自民党に最初に提示したのが2001年。
翌02年には「例外的夫婦別姓制度」を提示。
しかし、自民党内はまとまらず、以後、法務省は提案をしていません。
98年以来、野党共同で提出し続けている民法改正法案は、継続審議、廃案になったままです。
(以前の記事より)
=================

この変遷をみても、
女性、あるいは男性が、本来ある姿として個人を考えるとき、
家族、役割、姓は、本人の意思によることを求めることが大きな要求に変わっていったことがわかります。
これは、何も家族の絆を蔑ろにするということではないのです。
個人が尊重されることが、
家族、あるいは社会が安寧であることでは、、、と思い、
そのささやかな第一歩では、と願う人たちの熱い思いなのです!!!

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家族とは何か、憲法24条より その3

その2より続く。

  
さて、こうした家族の変容や意識の変化について、
断固、立ちはだかろうとするのが、自民党が2005年に出した新憲法草案の24条の項です。

第12条 (国民の責務)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。

第13条(個人の尊重等)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

として、
まず国民の義務や個人の尊重について条文は述べます。
これによると、
個人は「公益及び公の秩序」のもと亨受出来るとなり、現憲法の「公共の福祉」よりも公の規定が厳しくなっています。
そして、

第24条(婚姻及び家族に関する基本原則)

① 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

としています。
先の二つの条文ともあわせてみると、
これは、「家族」の規定、枠組みのなかに「個人」が配置されています。
発案者は「家制度の復活ではない」と言いますが、
現時点で考えると、家制度、しかもこれは国家にとっての家であることが明らかです。
では憲法改正プロジェクトチーム「論点整理(案)」を見ることで如何に問題が明らかに浮かびあがってくるか見いていきましょう。
これは、平成16年6月10日 自由民主党政務調査会憲法調査会の憲法改正プロジェクトチームの論点整理です。
「3 公共の責務(義務)」を見ましょう。

公共の責務(義務)に関する意見は、次のとおりである。

○ 社会連帯・共助の観点からの「公共的な責務」に関する規定を設けるべきである。

○家族を扶助する義務を設けるべきである。また、国家の責務として家族を保護する規定を設けるべきである。

○国の防衛及び非常事態における国民の協力義務を設けるべきである。「4 見直すべき規定

○上記の2・3とも一部重複するが、現憲法の運用の実態に照らし、権利に関する規定を見直すべきとする意見は、次のとおりである。

○ 政教分離規定(現憲法20条3項)を、わが国の歴史と伝統を踏まえたものにすべきである。

○「公共の福祉」(現憲法12条、13条、22条、29条)を「公共の利益」あるいは「公益」とすべきである。

○婚姻・家族における両性平等の規定(現憲法24条)は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。

○社会権規定(現憲法25条)において、社会連帯、共助の観点から社会保障制度を支える義務・責務のような規定を置くべきである。」


次に「5 今後の議論の方向性」について。
○この分野における本プロジェクトチーム内の議論の根底にある考え方は、近代憲法が立脚する「個人主義」が戦後のわが国においては正確に理解されず、「利己主義」に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながってしまったのではないか、ということへの懸念である。権利が義務を伴い、自由が責任を伴うことは自明の理であり、われわれとしては、家族・共同体における責務を明確にする方向で、新憲法における規定ぶりを考えていくべきではないか。同時に、科学技術の進歩、少子化・高齢化の進展等の新たな状況に対応した、「新しい人権」についても、積極的に取り込んでいく必要があろう。

○なお、美しい国づくりの観点から、景観を含めた環境保全と私権との調整についても今後の検討課題とする必要があると思われる。また、地方参政権(現憲法93条2項)について明確な規定を置くべきとの意見をふまえ、今後さらに検討を続ける必要がある。」


と、あります。
これは、もう書かなくてもこれを読めば一目瞭然、明らかです。

フゥム。


先の統計で見てきた家族の形態の変化とともに、
今、深刻な社会現象として貧困や介護問題があります。
貧困世帯、そのうちの多くは母子家庭であることは、ユニセフの調査で明らかになりました。
また、介護の問題は老老介護という言葉で表されるように、若者がいない中で家族、しかも年寄りに負担がかかってきています。
国家が保護するのは家族の生活や福祉ではありません。
家族の枠組み、構成について保護するということです。
これらは、すべて「家族の問題」と言うことで家族の責任へと押し付けようとしているのが、改憲案条文であることはしっかりと見ておく必要があります。
これについては坂本洋子さんが分かりやすく纏めていらっしゃいます。
と、言うことで「家族の扶助」について次に現行民法をみていきます。
扶養をみると、
夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。
第877条

1. 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。
2. 家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合のほか、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。
3. 前項の規定による審判があった後事情に変更を生じたときは、家庭裁判所は、その審判を取り消すことができる。
とあります。

先の論点整理では、「家族間の責務」として児童、成人した子ども、老親の扶養が責務として規定されてきます。
その中には坂本さんのサイトにもあったように「女性の役割」としての大きな期待が込められています。
勿論、人として、つまり人の子として、親として、
我が子や我が親を扶養することは吝かではありません。
が、
それは、社会保障や福祉の分野まで押し付けられ負担を負わせようとしている改憲案の精神とは、まったく違うものであることは確かです!!!

男女の身体的な違いは確かにあります。
決定的な違いは生殖です。
女性は妊娠、出産という特性があります。
が、これは男女の区別と言うことで、
その後の人生の選択に対して決定的な差ではありません。
「両性の本質的な平等」とは「人格としての平等」です!!!
これは何も従来の「古き良き家族」を崩壊することではありません。
むしろ、
男性が男性として、女性が女性として、
個人、人格が認められ、保障されることで、
新しい家族関係や社会が生まれることを見通して、
私は「男女平等」を願うものです。

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家族とは何か、憲法24条より その2

その1より続きます。

まず、
今日の家族の実態はどのようになっているかまず統計でみておきましょう。

家族の小規模化。

普通世帯数の変化を見てみると、1920(大正9)年は約1110万世帯であったものが、1950(昭和25)年は約1660万世帯、2005(平成 17)年は約4800万世帯と増えており、一世帯当たりの人数は1950年の約5.0人から2005年には約2.6人に減って、世帯は細分化、少人数化してきています。

次に少子化により18歳未満の子どものいる家族。

これは人口統計資料を参考にします。(PDFです)
反映しにくいのですが、興味のおありの方は、「人口統計資料」で検索していただければ、出てきます。

990年
夫婦のいる一般世帯数 27,759 13,345 8,597 1,132 546 2,466
 (家族類型別)            
核家族世帯 21,465 9,385 6,241 9,305 470 2,235
同居の親のいる世帯 5,838 3,794 2,286 1,875 58 103
同居の親はいない 455 166 70 142 17 128
 (子どもの有無別)            
子どものいない世帯 7,309 2,913 1,791 2,424 265 1,666
子どものいる世帯 20,450 10,432 6,805 8,897 280 801
 6歳未満子どもあり 5,515 1,867 1,286 3,584 16 38
 18歳未満子どもあり 14,141 7,214 4,978 6,743 76 87
 6歳未満子どもなし 14,935 8,565 5,520 5,313 264 763
核家族で6歳未満子どもあり 3,927 1,062 760 2,817 12 29
親が同居で子どもあり 4,941 3,249 1,969 1,605 37 45
 6歳未満子どもあり 1,563 795 520 753 4 8
 6歳未満子どもなし 3,378 2,454 1,449 852 32 37
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
2000年
夫婦のいる一般世帯数 29,292 13,139 9,410 10,652 936 4,290
 (家族類型別)            
核家族世帯 23,754 9,772 7,115 9,005 799 3,926
同居の親のいる世帯 5,045 3,209 2,217 1,516 113 189

などなどと、資料は数字を挙げています。
資料は2005年(国税調査の資料ゆえ)まで続きますが、
これをみると、日本の合計特殊出生率1,32(2006年)と、先進国でも低いなか、18歳未満の子どもがいる家庭は全世帯の1/4です。

さらに平均初婚年齢をみていきます。
これは
資料集を見てください。
推移がわかります。
晩婚化が進んでいます。
女性の6割、男性の7割が25〜29歳では未婚・非婚。
30代後半でも2〜3割がそうです。

一方、離婚率が増加。

こうした中、平均寿命の伸びとともに、
人生への理想やライフスタイルが変わってきています。

これにいついては、
出生動向基本調査を見ていきましょう。
希望の結婚像−どんな結婚を求めているのか−が調査結果を詳しく分析しています。

「希望する結婚年齢は男女とも上昇、意識の上でも晩婚化が継続」と言うことで、以下のように分析。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
未婚者が結婚したいと思う年齢は、本人の年齢が上がるとともに高くなるが、同じ年齢層で比較した場合、主な年齢において最近の調査ほどわずかずつ希望結婚年齢が上昇する傾向が見られ、未婚者の意識においても「晩婚化」が続いていると言える。」
「現在から希望する結婚年齢までの期間は男女とも延長傾向
 調査時点から希望結婚年齢までの年数(結婚までの希望待ち年数)は、本人の年齢が上がるとともに短くなるが、同じ年齢層で比較した場合、男女とも主な年齢で希望待ち年数が長くなっており、ここでも未婚者の間で結婚を先延ばしする意識が継続していることが捉えられている。」

希望するライフコース
「未婚女性の専業主婦願望は後退、実際になりそうなコースでも「両立」が逆転
未婚女性が理想とするライフコース(理想のライフコース)と実際になりそうなライフコース(予定のライフコース)では、ともに「専業主婦」コースの割合が減っている。代わって理想コースでは、子育て後の「再就職」コース、仕事と家事・育児の「両立」コースが、予定コースでも「両立」コースがともに増える傾向にある。予定コースでは「非婚就業」コースもやや増えて1割を超えた。また、男性が女性に期待するライフコースでも「専業主婦」が減り、「再就職」「両立」が増えている。
「専業主婦」コース以外では、理想のライフコースを実現できると考える女性が増えている
 理想のライフコースを実現できると考えている(理想・予定ライフコースが一致する)未婚女性の割合は、「再就職」コースで最も高く、半数は実現すると考えている。一方、「両立」、「DINKS」、「非婚就業」の各コースでは、実現すると考える女性の割合が増加傾向にあるが、「専業主婦」を理想とする女性では実現すると考える女性は減少している。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と、あります。
つまり、人生への考え方、家族の一員としての関わり方が変わりつつあるのです。
妻や母としてだけの人生ではなく、個人としての自分らしい生き方を模索する女性が増えています。

こんなときは、茨木のり子さん。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
倚(よ)りかからず 
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この詩は茨木さん73歳の時の作品だそうです。

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家族とは何か、憲法24条より その1

民法改正に一歩前進なるか、、、と言うタイトルのエントリーを先日挙げました。
これは、「民法改正の実現を目指す集会」が開催されたことをうけて記事を書きました。
主には選択的夫婦別姓導入問題と非嫡出子の相続差別撤廃に関してです。
その折、
頂いたコメントがとても興味深いもので、問題の根本的本質に迫っているものだと私は思いました。
罵愚さんから
「夫婦別姓は、いろいろな理由がつけられているが、そのほとんどはとってつけたような言いがかりで、本当の理由は家族とか家庭と呼ぶ個人をとりまくもっとも身近で自然発生的な保護膜のような存在を、そのまま温存するのか、それとも除去して個人を丸裸にして、個人を単体で支配する政治システムを目指すのかが相違点だと思う。」
と、頂きフムフム。
罵愚さんとは、いろんなところで意見が違うのですが、他人をワンビット(つまり白か黒しかない)なラベル貼りをして誹謗中傷をしないときの罵愚さんは、落ち着いて討論ができる人です。

次に技術開発者さんから頂いたコメントは、
種の保存のために男女役割がなされた歴史についてです。

あゆさんからは、あゆさんらしい「どちらを選ぶかは、個人の領域では」という素直な意見を頂き私も大いに賛成しています。

hamhamさんからは、とても有意義なコメントを頂きました。
「現在の家庭生活の中における両性の平等はこの憲法24条抜きでは実現できません。また、この理念、条項は封建的家父長制「家族制度」を脱して、近代の家庭生活即ちより民主的な「個人制度」を形成する過程おいて、人類の豊かな感性に裏打ちされた理性の努力によって形成されて来たものと理解しております。従いまして、未だ過度期にある戦後の日本の民法はより発展的に改正されなければならないと思っております。具体的には、今出されている改正案のような内容が急務だと思います。」

私も全く同感です。

その後、討論は続くのですが、
頂いたコメントを要約すると、「家族制度」ということになると私は思いました。
そこで、
今日は改めて家族とは何か、
について、考えていきます。
家族とはなにか、、、
といきなり言われても、困るし、考えるとっかりにもなりません。
そこで、私は、自分自身の問題意識でもある憲法24条と絡めて、
統計調査をもとに、読み解きます。
また、
2005年の自民党の改憲案について触れていくことで、
家族が担わされるものはなにか、、、も考えていきます。

では、
中身はつぎのエントリーに続きます。

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2009.09.18

ドラマ「隣の芝生」に観るステレオタイプな女性観

最後まで観た私が「負け」でした。
隣の芝生

うううううう===ん。


観ている方は、毎回、毎回、イライラ、いらぁいらぁ。
「なっ、なんだぁ、コレ」とムカムカ、ムッカムッカ。
「おいおいおい、、、、、そうりゃないだろう」とゲジゲジ、、、、
苛められましたね。観ている私は。


さぁて、そんな素の感想はこっちにおいて、
あまりに突っ込みどころ満載のドラマ「隣の芝生」でした。
もし、ご覧になっていない方がいらっしゃったらと思い、
ネタバレにならないように、気をつけますが、もしネタバレがあったとしてもお許しください。
ただ、個人的にはお勧めはしませんが、、、

結局、橋田壽賀子さんは、何を伝えたかったのでしょうか????
「嫁と姑という普遍的なテーマを斬りとる」ことだったのでしょうか???
あるいは、
「家庭を持つ女が外で働くと家庭は崩壊する」と言うこと????
「夫が浮気をしても許せ、夫の浮気は妻のせい」と言うこと????
「自分さがしのために目覚めた女のなれのはて」を書きたかったの??????
「友達の幸せを願うためなら、なんだってするという嬉しい友情」を描きたかったの?????
「仕事のためには妻も子どももいらない男のカッコ良さ」を伝えたかったの???????
「母のためなら我慢する物分かりのよい子の悲しさ」を表したかったの??????

まだまだあるのですが、
なんというか、
全体にひたすら甘く、厳しい人間の描き方でした。
みんなが「自分勝手」
だれも相手のことを思っていないのだが、自分は最大の努力をしていると思い、
相手を攻める、自分は我慢がまんの良い子ちゃん。
行き着く先は崩壊しかないのだが、
だが、
なぜかドラマは最終回のしかも終わり10分くらいで急展開。
そして、
大団円で、
みんなニコニコ。
今までのドロドロを全て水に流す潔さと物分かりの良さ。
おいおい、
そんな素質があるんなら、ここまで引っ張るなよ、と思う私。

主人公にとって「働く」ということは、何だったのでしょうか?
家計を助けるという当初の目的から、次第に生き甲斐とまで言い出したはずなのに、
あっさりと、しかも突然「今日からやめます」なんて社会人として疑問を持つようなセリフをポンと言ってのけるのですが。
これじゃ、社会人としてちっとも成長していなかった主人公がアリアリとそこにいるだけです。
がっかり。


いずれにしても、全てがリァリティがない人物のオンパレードに、
だれにも共感できなまま終わっ私にとっては、実に後味の悪いドラマでした。
(私の個人的感想です、、、、、)

そこで私は問いたい。
脚本家の橋田さんは女子差別撤廃条約について、
働く女性としてどのように評価されているのかと????

「メディアや教育における男女の役割に対するステレオタイプ」の撤廃を勧告した先の国連女性差別撤廃委員会の報告を思い出しながら、
橋田さんのドラマに鏤められたステレオタイプな図式に、「これはないだろう」と思った私です、、、、、、、

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2009.08.19

女子差別撤廃条約実施状況の結果について

女子差別撤廃条約実施状況 について国連女性差別撤廃委員会は昨日18日、日本における女性差別撤廃条約の実施状況の審査の結果をまとめた「総括所見」を公表しました。

主要な懸念として
「条約のすべての条項を系統だてて実行するという政府の義務を果たすよう、あらためて求める。」と明記。
また、「2003年の審査で勧告された事項が、十分に取り組まれていないことを遺憾とし、前回の勧告実行を求める。」とのことです。
差別的法規として、
男女で異なる最低婚姻年齢、
女性のみに課せられる再婚禁止期間、
選択的夫婦別姓、
民法その他法規における婚外子差別などの差別的規定が、前回勧告を受けたにもかかわらず、いまだに改正されていないと強調。世論を言い訳にせず、条約上の義務に従って即座に行動すべきとのこと。
また条約の法制化については、
女性差別撤廃条約が、法的拘束力をもつ重要な国際人権法であることを、日本政府は認識すべきのとこと。
差別の定義についても懸念を表明。
国内法に女性差別の定義が欠けていることを改めて懸念、条約1条に基づく差別定義を迅速に取り入れるべき。
人権擁護機関として、
男女平等も視野に入れた独立人権擁護機関を迅速に設置すべき。
国内推進機関について、
ジェンダー平等を推進する男女共同参画局などの機関を機能強化するため、責任と権限の明確化、調整機能の強化を行うべきとのこと。
暫定的特別措置も勧告。
女性の雇用、公的領域への参加、意思決定への参加を促進するため、委員会一般勧告25号に沿うようにとのこと。
また、女性の人権に対する政府内の「バックラッシュ」に懸念を表明。
メディアや教育における男女の役割に対するステレオタイプを取り除くため、教科書の見直し等の取り組みを行うこと、
また、公人による女性差別発言の頻発や、女性を性的対象とするポルノグラフィー、メディアにおける女性差別表現に対する政府の取り組みを求めるなどに触れました。
女性に対する暴力については、
意識啓発、データの収集と調査にもとづく介入を行うよう勧告、法執行官や医療関係者等が十分な知識にもとづく支援を行うよう求めること。
DV法があらゆる形態の親密な関係の暴力を対象としていないことを指摘、保護命令の発行を急ぐこと、暴力被害者のための24時間ホットラインや質の高い支援を提供するよう勧告。
特に、移住女性やマイノリティ女性、弱い立場にある女性の状況に懸念を表明し、弱い立場の女性たちに対し、被害の届け出等について支援を行うほか、暴力防止の意識啓発を行うよう求める。性暴力の親告罪規定の撤廃、強姦罪の法定刑引き上げ、近親かんを性暴力犯罪として規定することを勧告。
先にも物議を醸した性暴力ポルノについては、
ゲームや漫画が児童ポルノ禁止法の対象外となっていることに懸念を表明、性暴力を当たり前かのように扱うビデオゲームや漫画の販売を禁止するよう、日本政府に強く求めるとともに、児童ポルノ法の改正を求めました。
戦争暴力として日本軍「慰安婦」については、
被害者への補償、加害者の処罰、公衆教育など、問題の持続的解決措置を求めました。
今だある「人身売買、売買春」については、
人身売買や売春搾取の被害者に対する保護やリハビリ、社会統合支援を強化するとともに、女性の経済状況の改善など、人身売買の根本的解決の努力を求める。
買春需要の抑制、売春女性の社会統合、リハビリ、経済的エンパワーメントなどの支援を勧告。研修生・技能実習生が人身売買の温床となっていることを指摘、モニタリングの継続を求める。また、人身取引防止議定書の批准を勧告。
さらに女性の政治・公的活動への参加しやすい土壌作りを呼びかけました。
教育については、
教育基本法が改正され旧5条が削除されたことに懸念を表明、教育における男女平等実現のため、ジェンダー平等の条項を再度取り入れることを真剣に検討するよう日本政府に求める。非伝統的領域における女性の教育・キャリア機会を拡大すること、第三次男女共同基本計画において、大学教職における女性割合を現行の20%から引きあげ平等を達成するよう勧告。
雇用では、
労働市場における女性差別と賃金格差、出産・育児を理由とする違法な解雇、セクシュアルハラスメントの横行に懸念を表明。また、「雇用管理区分」が女性差別の抜け穴となっていること、ILO100号条約にもとづく同一価値労働同一賃金の原則が国内法規に欠けていること、セクハラ防止義務違反に対する制裁措置の欠如、差別是正のための法的プロセスに時間がかかりすぎることなどを批判。ワークライフバランスとして、
男女間の平等な家族責任と雇用の分担を促進し、女性がパートタイムに集中する状態を改善すること、保育施設の改善、男性の保育を促すことを勧告。
健康では
女性の性感染症の増加、若年の中絶の増加を懸念。特に若い世代に対し、セクシュアルヘルスに関する教育・情報・サービスを提供すること、中絶を非犯罪化することを勧告。
また、マイノリティ女性問題にも言及。
アイヌ、部落、在日コリアン、沖縄など、マイノリティ女性の教育、雇用、健康、福祉、暴力などに関する情報の欠如に遺憾の意を表明。マイノリティ女性への差別を撤廃するため、意思決定機関にマイノリティ女性の代表を加えることを勧告。
弱い立場の女性に対しては、
農村女性、シングルマザー、障害女性、難民女性、移住女性など、複合差別に遭いやすい弱い立場の女性について情報統計を提供し、特別なニーズに応じた政策をとるよう勧告。
その他国際文書
北京行動綱領、ミレニアム開発目標、その他の国連人権条約を活用すること、移住者の権利条約を批准することを勧告。
と言うことで、
総括所見は、実に60項目に及んでいます。
前進面(肯定的側面)はわずか7項目。
これまでの委員会からの勧告を実施していないことが強く指摘されました。
差別的法規についての言及も目立ちました。
雇用も男女の機会均等を主張できる社会へと勧告は謳います。
そして、
総括所見は、日本政府に対し、
(1)民法の改正
(2)雇用・政治・公的領域等での暫定的な特別措置の2点について、2年以内に実施状況詳細報告を提出することを要請しています。
と、言うことで日本政府が速やかに勧告を守り実行するであろう今後に期待します!!!

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2009.04.27

悪妻の日

ご存じでしたか?
今日は悪妻の日だそうです。
由来はソクラテス。
「紀元前399年、ギリシアの哲学者・ソクラテスが、時の権力者から死刑宣告を受けて、刑の執行として獄中で毒を飲んで亡くなりました。」と言うことで哲学の日でもあるのですが、
そこから派生して「悪妻の日」
ソクラテスの妻、クサンティッペが悪妻として有名であることから制定されたそうです。
事実はいざしらず、悪妻としてのエピソードは今に伝わります。
三大悪妻として、その他の二人は、
コンスタンツェ・モーツァルト(作曲家モーツァルトの妻)と、ソフィア・トルストイ(作家トルストイの妻)だそうです。

悪妻ねぇええええ。

うううう〜〜〜ん。

wikipediaの定義を見ると以下の通り。

「夫が結婚したことを後悔するような品行の妻(家でくつろげないなど)」、もしくは、「傍目から見てあのような品行の女性とは結婚したくないと思うような妻」とするのが妥当な定義である。対義語は良妻。現代において家父長制的な夫が非難されるのと同様、夫婦関係において実権を握る妻を悪妻とする見方もある。」

うううう〜〜〜〜ん。

尤もwikipediaだから、こんなところか。

さらに、

「過度の浪費、賭博好き
浮気
夫に対する暴力」

と、
続き、

「歴史上の悪妻とは
権力欲が強い
嫉妬深い
自己主張が強い
夫に従順でない
などが基準になっていると考えられる。」

だそうです。

ふっうううう。

さてさてさて、、、

さてさて、悪妻。
どんなものでしょう???

以前シャロット姫からノーラまでというエントリーを挙げたことがあります。

妻として、女として、
女性たちが如何に芽生え、成長していったか、、、
を、ルサンチマンとして考えたことがあります。

そこで私は以下のように書いています。
「一連のフェミニズム運動、
ラディカルな「性差別反対」運動。
等、時々の運動の成果ではあると思うのです。
しかし、
こうした先輩たちの運動の歴史を経ても、
いまなお厳然と
「女同士の恨み、つらみ」があるとしたら、
これは、
「未成熟な近代市民」という範疇に入ってしまうのではないだろうか???

「成熟」という言葉が持つ意味は、
「自分の立場と相手の立場の違いを、
想像、理解し、
お互いに、相手の立場を尊敬すること」
だと、私は思うのです。
ところが、現実には、
コメントしてくださった方の指摘のように、
「ルサンチマン」をお互いが、
相手に対して、持っているとしたら、
そして、お互いに、
「相手の立場より、自分の立場がより大変」
と、思っているとしたら、
やはり、
それは、
過去の遺物を自分の中に抱えていることなのでしょう。
「正義」とか、
「真理」とか、
そんな言葉では表されない
「魂」の部分で、
私たちは、まだ
近代市民としての成熟をみていない、、、
そんな気がしてなりません。」

なるほど。
これは2004年の記事ですが、
今なお思うことは同じです。


さて、最後に、悪妻と言えば、夏目漱石夫人ならぬ、坂口安吾の
悪妻論
面白いです。

悪妻と知性。

鋭く分析していて、
愚かなるもの、悪しきものへの限りない愛情が伺える坂口らしい文章です。
お時間のある方はご覧ください。

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2006.11.20

おむつ考 その2

前の記事より

さて次にいよいよ問題は内田さんに移ります。
秀さんから私の先のエントリーに対して3つの疑問とそれへの異論を頂戴しています。
1「現実とは乖離した理想論」
2「その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか」
3「内田さんは結局「母親よ家に帰れ」と言う結論に行き着くのだろうか」

この3つに関して私の考えを順に述べていきます。
(論点整理のため、秀さんの反論には今は言及しません。)

おむつと母親の記事でも書きましたが、私は内田さんに対して学者、つまり論理を構築していく人と考えています。
私が無責任に自分の思いや感想を書き連ねるのと「重み」と言うか影響力が違うと考えているわけです。従って言葉のはしはしから伝わってくるもの、メッセジーは何かと敏感に読み取ろうとしました。
無責任に思いつきを縷々述べたものでないと言う前提で内田さんの文に対して危惧を感じたわけです。以下の文のように。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
本質を故意にずらし大袈裟に母親とおむつと子育てを述べています。
現実から乖離したその主張は結局、内田さんが笑うところのフェミニズムと同じ主張になっていると思います。
(現実からかけ離れているという点、やおら自分の理想を展開するという点においてですよ。)
内田さんがおかれている立場を考え合せたとき、
あの記事の主張の先にあるものはフェミニズム批判というよりはもっと本質的な男女のあり方その物へ発展する虞があるのではと私は危惧したわけです。
(瀬戸の記事より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

では、まず一番目。
1「現実とは乖離した理想論」。
子育てはおむつ替えだけではありません。
たとえ、おむつ替えがエキスパートになろうとも、そこから計り知れないコミュニケーションが花開くなぁんて単純なものではないことは内田さんは重々承知していると考えます。
それにも関わらず、内田さんは次のようにおむつと子育てを言う。
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つまり、「おむつの要らない育てられ方をした子ども」は「世界の中に私が存在することのたしかさ」をきわめて早い段階で実感できることになる。
======
私はここで内田さんに問いたい。
おむつを替えるたびに母親(保護者・身の回りの世話人)が子どもに話かけ、その体を拭いてスキンシップすることはコミュニケーションではないのかと。
子どもの名前を呼びかけ、うんちの色や固さを確認して子どもの健康状態を確認することは、子どもにとって、自分の存在を確かに実感することではないのだろうか、と。
思うに内田さんはたまたま三砂さんにお会いして、なんとなく書いたおむつ問題なのではと思います。
もしこれが三砂さんがミルクと母乳なんてことで研究していたら、おむつが即・母乳に変わったものと想像します。(母乳だと母親に限定されるから難しいかな???)

さて、二番目。
2「その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか」

これは秀さんの指摘(瀬戸が誤読していると言うこと)に対しては、単純に国語の問題として考えてくださって結構です。
私の文は「内田さんの現実とは乖離した理想論の中で喘ぐ母や親たちと、
その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか、私はさらに迷うのです。」と言うことで、
「その非」とは内田さんの「現実とは乖離した理想論」について指しています。
おむつメーカーの圧力云々、また三砂さんの研究に関しては私は一切言及していません。
むしろ可成興味深く成り行きを見守っています。
さて内田さんはフェミニズムからの指摘を次のように紹介しながら自説を述べています。
=======
もうひとつの圧力源は、ご想像のとおり、フェミニストからである。
「おむつはつけたままでいい」という主張がフェミニスト的にPC(Politically correct)とされるのは、「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」からである。
「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」というのは、そのようにして女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権制のイデオロギーなのである(とほ)。
======
内田さんの中でのフェミニストがどの様なものであるか存じません。
しかし、彼は書くべきだったのです。
「一部のフェミニストから、、、」と。
私や秀さんがどんなに内田さんの命題が特殊命題と言っても、
当の内田さんが全称命題に置き換えて論理を構築していくことは誤りだと私は考えます。
前にも書いたように、これが内田さんのたんなる思いつきの無責任な文ならそれでも私はかまいませんが、多分内田さんはご自分を社会学者と自負なさっていると思うので、私としたら捨て置くわけにはいかないのです。
読者である私たちに解釈を求めさせる文や誤解させる文を内田さんが書いたことは秀さんも認めて下さると思います。

三番目。
3「内田さんは結局「母親よ家に帰れ」と言う結論に行き着くのだろうか」
これに関しては、私は内田さんは本来踏み込むべきではない家庭、家族のあり方に自説を展開したことが誤りではと考えます。
そもそもの発端の三砂さんのおむつ研究に対して、内田さんは、たんに紹介でよかったのです。
それを牽強付会、自説を展開したのですが、その自説が技術からコミュニケーションへとレイアの違う事に結びつけたことからくるミスリード。
========
コミュニケーションへの深い信頼をもつことのできないものは、それが男であれ、女であれ、つねに、組織的に社会的リソースの分配機会を逸する。
もし、クールかつリアルな立場から、社会的リソースを確実に継続的に獲得し続けたいとほんとうに願っている人がいたら、私は「おむつが要らない」こどもを育てるところから始めた方がいいとアドバイスするだろう。
自分の子どもが発信するシグナルさえ感知できないし、感知することに興味もないという人間が社会関係の中でブリリアントな成功を収め続けるという見通しに私は同意しない。
=======
私はこの文から、コミュニケーションや愛、信頼と言う言葉が持つ危うさをヒシヒシと感じました。
先に挙げた西川さんの文と妙に重なるのです。
「全くの1個人を大事にするか、家族の一員としての個人を大事にするかの差だ。生きた人間、血の通った人間、愛がある人間を1番大事にする、」
定量できないものを武器に縛り付けていく危険を内田さんはこの文で発信していると私は考えました。
たとえ、そのような意図がないとしても、
内田さんは立場上、コミュニケーションなどの言葉を安易に使うべきではないと思うのです。
おむつ替えだけがコミュニケーションではない!!!

私はむしろ内田さんがフェミニストの問題を言及するとき、
親子という軸で論じたことが失敗だった思います。
どうしても、このおむつ問題をフェミニズムを論じたいと考えたのなら夫婦・男女のあり方でズバツと書くべきでした。将来の我が子の香しい理想を述べることではなく、
夫婦の子育て論に言及すれば、もっと内容のある物になったと感じます。

と言うことで、内田さんのその論陣の張り方に稚拙さを感じるのです。

まだまだこれについて考えていきたいと思います。

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