2008.06.21

火星地表の「氷」

火星地表の「氷」蒸発?=米航空宇宙局と言うニュース。

素直に驚嘆の声。
「うわっ〜〜〜〜〜」。

Astoro Artsに詳しく解説がついています。
そうかぁ、、、
赤い星火星の水と大気の温度の関係が明らかになっていくのでしょうか?


うううう〜〜〜ん。
科学とは別のところで、
私のロマンは膨らむ。
「火星人、、、いたらいいなぁ!」。


そう言えば今日は「夏至」。
一番、太陽が長くいる日。
日没時間が午後7時と言うことで、夜空を見上げるには、いささか環境はよくないのですが、、、
それでも、もし晴れているなら見上げてみようか。

北斗七星をまずは目安に。
そして、まだ春の星、うしかい座のアルクトゥールスがオレンジ色に輝き、
さらに、
南西の方向におとめ座のスピカ。
こと座のベガ。
さそり座、、、、

先日は、一晩中輝いている木星の、あまりに強い輝きに、
しばし呆然としていたのですが、
考えてみれば、
星はいつでも輝いているんですね。

今、火星の謎が一つ解けようとしている。
それはさらなる謎を呼び、
新たな夢を空に架けるのだろう、、、と思いながら、この記事を書いています。

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2008.06.06

高校生の理科離れ

科学離れは高校生からと言う結果が出たそうです。

経済協力開発機構(OECD)の調査で日本の高校生の科学への関心が世界各国の中で最低レベルだったことを受け、国立教育政策研究所が全国の中学生を対象に同様の調査を行ったところ、中学時代は関心を維持している生徒が比較的多いことがわかったと言うことです。
この理由について、
同研究所では「高校で授業が難しくなる上に、実験・観察が減ることも『科学離れ』の原因では」と分析しています。

ふむふむ。
確かに。

高校では、進学校では文系・理系に早くから分かれ、
文系は理科の教科はセンター試験用の勉強が主になります。
普通、センター試験で理科を課す大学は、一科目か二科目。
多くの受験生は生物・化学を選択します。
また、理系はセンターならびに個別試験も理科が課せられます。
この場合、物理と化学を選択(センターでは生物も選択する受験生は多いかもしれませんが、、、)

と、言うことで高校の理科の教科は、大学受験を射程にいれての授業が多いため、
生徒にとって、本当に「科学としての理科教育」に触れる機会が少ない場合も多々あるようです。
残念なことです。

上記アンケートについて以下のように結果が挙げられています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「科学を学ぶことに興味がある」という質問に「そう思う」と答えたのは、高1では50%(OECD平均63%)で57か国・地域中52位だったが、中3では62%。「科学の話題を学んでいる時は楽しい」という生徒も、高1は51%(平均63%=54位)だったが、中3では69%と割合が高かった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

本来の学ぶ意欲とか関心とか喜び。
教育に必須の、理想は、受験の前にかき消されていくのだろうか?????
以前ナイスステップな研究者と言うエントリーを挙げたことがあります。
小学校・中学校の理科教育の中で、子どもたちの柔らかい感性は、
未来の科学を育むに十分なものであることを書きました。
いずれにしても、
この結果を国立教育政策研究所が、どの様な形で教育の現場に還元してくるか注目です。

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2008.06.02

シャトル打ち上げ成功

シャトル打ち上げ成功、「きぼう」本体設置へ 星出さん初飛行と言うニュース。
ワクワクします。


宇宙航空研究開発機構のサイトでは、今後の経過や実験報告などが詳細に掲載されるものと思います。
要チェック!!!

楽しみです。

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2008.05.31

核燃料サイクル施設 直下に活断層

青森県六ケ所村にある日本原燃の核燃料サイクル施設の直下に未知の活断層が存在する?と言うニュースが5月25日配信されました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 青森県六ケ所村の日本原燃原子燃料サイクル施設の直下に、マグニチュード(M)8クラスの大地震を引き起こす地下活断層があるとの調査結果を、東洋大の渡辺満久教授(変動地形学)や広島工業大の中田高教授(地形学)らの研究グループがまとめた。最新活動時期は過去3万年以内で、06年改定の原発耐震指針の評価対象(12万〜13万年以内)になるとみられる。渡辺教授は「耐震性のチェックをやり直すべきだ」と指摘する。
(上記ニュースより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これは大変、と言うか。
きっちりと調べる必要があります。
と、言うことで、更に内容を見ていきましょう。
研究グループが、核燃料サイクル施設周辺の地形などを詳しく調べた結果、施設の東側の陸域で太平洋に向かって急激に傾斜しているところが長く続いているのを見つけたというのです。
こうした地形は、地下に逆断層が存在することを示すといいます。研究グループが日本原燃の地下探査データを解析したところ、地上で見つかった傾斜と平行に傾いた地層があることがわかり、地下に長さ約15キロメートルの逆断層が存在することを強く示唆していました。
地層に含まれる火山灰などのデータから、この逆断層は3万年以内に活動したことがある活断層とみられるといいます。
この断層が動いた場合はM8級の地震が起きるおそれがあると指摘。
日本原燃は昨年、核燃料サイクル施設の耐震性を、施設の近くを通る、長さ約六キロメートルの「出戸西方(でとせいほう)断層」が動いた場合を想定して検討していました。
日本原燃が昨年、原子力安全・保安院に提出した耐震安全性評価結果では、出戸西方断層の活動による地震の揺れを最大と想定し、安全評価のための基準地震動を450ガル(ガルは加速度の単位)としています。
この450ガルという想定だけでいいのか?
と言うと、かなり不安です。
実際、東京電力が中越沖地震の起きる前に柏崎刈羽原発で想定していた地震の揺れと同じです。
そこで東京電力は今月になって、中越沖地震を受けて検討した結果として、基準地震動を450ガルから2280ガルに引き上げると発表。

いつ起きても不思議でない地震。
どこにでも起こりうる可能性のある地震。
神戸を思いだし、
近くは四川を思い出します。

1995年の兵庫南部沖地震で「原発の安全神話」は根底から覆ったことは、記憶を繙けばすぐに思い出します。
2005年、宮城沖地震で女川原発の緊急停止。
2006年3月、北陸電力の志賀原発運転差し止め訴訟、、、
などなど思いだします。
原子力安全委員会も「耐震設計審査指針」を見直すなど、一定努力はしています。

が、いったん地震になれば大きな二次災害が予想される原子力ゆえ、安全に安全、
もう一度さらに、
安全に厳しいチェックが必要と思います。

今回のような結果が出てくれば更に慎重に念入りに調査をしてもらいたいと切に思います。

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2008.05.28

在原業平

「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日けふとは思はざりしを」

今日は在原業平の命日とされている業平忌です。

業平と言えば、
学校では「伊勢物語」で学び、
百人一首では「ちはやぶる」で知られています。

眉目秀麗。
枕を共にした女性の数が3000人以上。
小野小町との恋愛も有名です。

魅力ある業平が詠んだ数々の歌。
なかでも
上の歌は、何回読んでも涙が出ます。
人はいずれ死ぬ。
そのことは百も承知。
だがしかし、
「そのとき」がまだだと思い日々を過しています。
それはそれでいい、、、
が、
「そのひ」が来たとき、たじろがず、おどろかず、
淡々と受け入れることができるだろうか、、、

ふと、重松清の「その日の前に」を思い出しました。

なにはともあれ、
日々を重ねながら人は生きていくのなら、
重ねるものが「かろやか」で「しなやか」で「あでやか」であろうとした、
そんな在原業平。
今日がその命日です。

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2008.05.27

言葉と辞書

書こう、書こうと思いつつバタバタしていて書きそびれたのですが、
先日の25日(つまり5月25日)は「広辞苑」の日でした。
wikipediaを読みながら、辞書にもその歴史、時代背景があるんだと改めて感心していました。
「言葉」は時代の鏡でもあります。

さてさて、それにしても辞書と言えば、私にとってはもう「アレ」しかありません。
「アレ」。
そう、
その名は「新解」さん
以前新解さんの謎と言うエントリーを挙げたことがあります。
4年前の私は以下のように「言葉」について書いていました。
=================
いつも、何気なく使っている言葉にしても、
実はお互いが、共通の認識なしに、しゃべっていることって
あります。
家族や、面と向かって話している人。
また、仲良しや、よく会う人たちなら、
時間という手段を介して、お互いの誤解を解くことも
できますが、
「文字のみ」「声のみ」の相手では、誤解をしたまんまってこともありそうです。
ネットでの、議論もそうです。
そもそも、お互いが共通の認識、理解のうえで、
その問題を話す(書く?)のなら、議論は建設的にすすみますが、
そうでない場合は、
まず、自分の立場(その問題に関して)を理解してもらうことに、
相当のエネルギーがいると思います。
「言葉」というものが持つ限界をしっかり見極めて、
その上で、
相手に敬意を表しつつ、
お互いの理解を深めるようなネット場の討論、議論をしているサイトやブログを見る機会にめぐまれると、とても勉強になります。
(以前の記事より)
==================

昨今、私の周囲のブログ界隈で、
言葉の解釈をめぐってアレコレの意見が飛び交ったのですが、
言葉って、ほんに難しい。

なるほど、新解さんの初版で編者の言葉を再現すれば、
真にその難解さが分かろうというものです。
ちょっとだけ抜粋して掲載します。
===========
新たなるものを目指して

 人も知るごとく、本書の前身は「小辞林」の語釈を口語文に書き替えることから出発した。今を去る三十二年前の事である。

中略

ローマは一日にして成らざるのたとえのごとく、一日にして成るは辞書ではない。
 思えば、辞書界の低迷は、編者の前近代的な体質と方法論の無自覚に在るのではないか。先行書数冊を机上にひろげ、適宜に取捨選択して一書を成すは、いわゆる パッチワーク の最たるもの、所詮 芋 辞書の域を出ない。その語の指す所のものを実際の用例について、よく知り、よく考え、本義を弁えた上に、広義・狭義にわたって語釈を施す以外に 王道 は無い。辞書は、 引き写し の結果ではなく、用例蒐集と思索の産物でなくてはならぬ。尊厳な人間が一個の人格として扱われるごとく、須らく、一冊の辞書には編者独特の持ち味が、なんらかの意味で滲み出なければならぬものと思う。かような主張のもとに本書は成った。今後の国語辞書すべて、本書の創めた形式、体裁と思索の結果を盲目的に踏襲することを、断じて拒否する。辞書発達のために、あらゆる模倣をお断りする。
 しかしながら、一面から言えば、思索の結果は主観に堕しやすい。今回吾人の施した語釈は、それなりに沈潜の結果成ったものではあるが、シャープならんと欲する余り、限定が大に過ぎるという批評を感受すべき面が或は皆無ではないかも知れない。公器である辞書の語釈として普遍妥当的なものに成長するためには、今後万人の実験を期待する。吾人は歓迎する ─そのような意味における読者・利用者の声を。それは辞書を育てる上には必要欠くべからざる要素であると思う。

昭和四十六年十月

==============
ふむふむ。

ローマは一日にしてならず。


単に言葉を字面どおりに解釈しても、それは「芋辞書」なのである。
「その語の指す所のものを実際の用例について、よく知り、よく考え、本義を弁えた上に、広義・狭義にわたって語釈を施す以外に 王道 は無い。」と編者は言う。
そして、最後に、
辞書を成長させるのは読者・利用者であるとも言う。
未だ発展の途、という事でしょうか。

そして、、、
言葉は発した者から離れ、成長して、また還ってくるものなのかもしれません。

言葉の専門家と言えども、
その解釈に対しては慎重であるし、
また言葉は世に連れ変遷するものであることを認めています。

ならば素人である私は於いておや、、、です。
「生きている」ものを扱うように丁寧に、そして敬意を払うべきものなのでしょうね。
ゆめゆめ疎かにはできません。

それにしても、「新解」さん。
あなたは面白すぎます!!!


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火星探査機・フェニックス

降下中の米火星探査機、別の探査機がパシャリと言うニュース。
ほぉお〜〜〜
これは凄い
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 【パサデナ(米カリフォルニア州)=勝田敏彦】米航空宇宙局(NASA)は26日、探査機フェニックスが火星に軟着陸する直前、パラシュートで降下している姿をとらえた画像を公表した。火星の上空310キロを周回中の米探査機マーズ・リコネサンス・オービター(MRO)の高解像度カメラで撮影した。
(上記ニュースより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
探査機フェニックスかぁ、、、
どんな情報を持って来るか楽しみです。
火星探査機と言えば、やっぱり思い出すのはスピリットです。

夜空に赤く光る火星。
その色から,ギリシア神話の戦いの神「マルス(またはアレス)」の名で呼ばれてきました。
因みにさそり座の赤い星はアンタレス(アンチ・アレスです)
また、
中国や日本では古くは、螢惑(けいこく)と呼んでいました。
中国の諺に「螢惑心を犯す」とか「螢惑心に入る」という言葉があります。
「心)」というのは、中国の星座28宿のうちの「心宿」の事で、つまりさそり座のことです。
このちかくに火星が来ると、天下大乱のしるしと恐れられたそうです。

火星とさそり座、、かぁ。
ふむふむ。

そんな昔の人の夜空への思いを込めて、
今、フェニックスは科学の力で、古代のロマンへと挑戦しているのでしょうか???


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2008.05.24

社会教育関連三法

「遊びをせんとや生まれけむ 
 戯れせんとや生れけん」

『梁塵秘抄』の有名な歌です。
解釈は色々あるのですが、一般的には
子どものどこまでも純真な愛らしさを歌ったもの、そして
子どもたちの未来に明かりを垣間見たいと願った歌と言われています。

さて、
こんな子どもたちの本性としての「遊び」やあるいは学ぶ意欲それ自体が脅かされるような法案が審議されています。
「社会教育関連三法(社会教育法、博物館法、図書館法)改正」案がそれです。


社会教育とは、自由に自発的におこなう国民相互の自己教育で、学校教育以上に、自由・自主性が認められています。
これは、戦前の社会教育の反省をふまえ確立した原則です。

この社会教育法の「改正」案は、
公民館などでの「学習の成果を活用」して、「学校地域支援本部」に協力させようとする条文をあらたに加えています。
学校地域支援本部といえば、思い出すのは、先日も書いた夜スペで有名な東京・杉並区の和田中学校に進学塾による教室を導入した主体として有名になったものです。
そして公民館についても「学校支援」行政に組み込もうとしています。
これは公民館の自由・自主性をおおきく損なう危険があります。
現在、公民館の運営に必要な公民館主事は、一館当たり0.97人しか配置されていません。

博物館では、独立採算制の圧力がここでも高まり、
「博物館が入場者数ばかりに目を向けた『経営』重視の『遊興の場』に堕する危険」を学術会議が出すまで深刻な事態です。

図書館は予算を大幅に削られ、都道府県立図書館の資料費は三分の二です。
図書館のない自治体は3割近く、一館しかない市町村は6割以上です。
私の居住地域でも図書館の民営化問題が浮上しています。

ゆとり、ゆとり、、、と叫ばれ、学校にゆとりが登場して、
その揚げ句、あれは間違いだったか、、、と囁かれ、

次に、
学校に愛国心をと声高に主張する声が通り教育基本法が変えられ、
堂々と教室に道徳がやってくる、、、

子どもたちの行き場は、
ドンドン、どんどん減っていき、
減っていき、、、

遂に公民館や図書館や博物館も「愛国心」で塗り替えられていくと言うのだろうか???

この法案、知られていませんが、
かなり重大な法案です。
なにしろ「未来」がかかっているのだから。
次代を担う子どもたちのために、
遊びやスポーツや趣味を幅広く保障する国の制度保障を訴えるものです。
なお、津久井進さんのブログに詳しく書かれていますので、ぜひご覧下さい。

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2008.05.23

ミウラ折り

ミウラ折りってご存知ですか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ミウラ折り(みうらおり)とは1970年に三浦公亮(東大名誉教授・宇宙科学研究所(現宇宙航空研究開発機構)が地図の畳み方として考案した折り畳み方である。人工衛星のパネルの展開方法を研究する過程で生み出された。またスタッドレスタイヤの切れ目(ミウラ折りサイプ)としても使われている。なおミウラ折り(miura-ori)の名は英国折紙協会(British Origami Society)で名付けられたもので、この曲面は二重波型可展曲面という。2006年に新日本様式100選の1つに選ばれた。
(wikipedia.より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

昨晩、最近の若者はビールを飲まない、と言うテレビでの特集が話題になりました。
それについては、またエントリーを挙げたいのだが(挙げたい話題ばかりで追いつかない)
そして、焼酎の話になりました。
それから、
夫が「キリンチューハイ氷結」もミウラ折りだと言った事から物性への話と話題が広がりました。
また地図の折り方にも利用されています。

それにしても知れば知るほど面白いですね、、、この性質。
〜〜〜〜「潰れて強度が増した形」を活かしてつくられたものです。この缶は、開けた途端に収縮が起こり、ダイヤモンド型のパターンがはっきりして、同時に強度も上がります。〜〜〜〜
と、考案者の三浦さんは言います。
なるほど。
確かに開けた途端に強度が増さないと、缶としての役目は果たさないから、、、
話を聞きながら、
家中を見回して、「家具もミウラ折りだといいなぁ、、、持ち運びが便利なように洋服も」とかとかボッーと考えていました。
それにしても楽しい!ミウラ折り。
それこそ可能性はドンドンと広がります。

さて、このミウラ折り、宇宙でも活躍。
電波天文衛星「はるか」の展開パラボラアンテナや、最近では「きく8号」のアンテナなどについても使われているそうです。

ふむふむ。
ミウラ折りを考えながら、ふと、
先日、国会を通過した宇宙基本法へと思いが続きます。
軍事の臭いがプンプンするこの法案。
宇宙開発の技術は、軍事産業とは別の物であってほしいと、
つくづく思います。


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2008.05.14

戸坂潤の道徳と倫理

「古代に於ける倫理思想がそうだったように、近代に於ける倫理思想の自覚も亦、一般思想の激しい動揺、即ち社会機構の著しい変革によって促された。」
これは戸坂潤の「道徳の観念」の第二章にある言葉です。
先のエントリーでも挙げたように、戸坂は「道徳は社会秩序の分泌物のようなもので、従ってその反映である道徳意識乃至倫理観念は、社会秩序の上部構造的な表現に他ならない。」
と述べ、道徳が「初めにありき」ではない、と主張。
道徳とて社会の産物であることを縷々述べています。
故に「社会秩序が比較的安定を得ている場合には、その道徳乃至道徳意識は、自分の内に何等の抵抗も矛盾も感じないので、倫理思想は殊更自覚される縁もなければその必要もない。」と説く。
そして、この倫理が問題として自覚され、倫理学などが発生するのは、一般に社会変動と夫に基く思想的動揺とに照応してのことであり、歴史を学ぶことで近代ブルジョア倫理学の発生もその例外では無いという。

確かに、このところとみに注目されて来ている「道徳」。しかも愛国心をお供に堂々と学校教育に入り込もうとしている「道徳」。

「一体道徳なるものが、一般に一つの領域だ(その限界は機械的に与えるべからざるものでその内容も固定不変なものではないとして)と云って片づけられ得るかどうかなのだ。と云うのは、道徳は社会関係・政治関係・法律体系・其の他其の他と並列する一領域であると考えられるにも拘らず、他方之等一切の諸領域の一つ一つに接着していることをも見落すことが出来ないのである。そういう関係があればこそ、社会そのものが道徳的本質に還元されたり、政治や法律が単なる道徳に帰着されたりするということも初めて可能だったわけで、社会主義が倫理学に包括されて了うという誤りも、決して理由なしには発生しなかったのである。でもしそうだとすると、道徳はもはや単なる一領域であるに止まらず、恐らく一領域であるにも拘らず他領域をも蔽うか又は之に付随するかする処の、或るものだと云わねばならぬ。」
と、戸坂は逸脱していく「道徳観」に危惧を表明していきます。
そして、その隙間に滑りこむ「倫理」。
そこで冒頭の「倫理」について戸坂の考察は進む。
「 その意味に於て倫理学は、その煩瑣な分析にも拘らず、要するに常識的な道徳観念の多少理論的な釈明に過ぎないのであって、決して道徳現象の科学的説明を企て得るものではない。道徳なるものはすでに常識によって与えられている、倫理学は単に之を明快にして秩序立てさえしたならばよい、というのが、道徳に関する倫理学的観念の役割なのだ。だから、倫理学的道徳観念は、根本に於ては、常識的な道徳観念を批判克服しようとするものではあり得ない。まして新しい道徳観念の創造、そして又新しい道徳の創造、などについては殆んど全く無力なのだ。之は寧ろ初めから当然だと云わねばならぬ。なぜと云うに、今日の通俗常識はつまりはブルジョア社会に於て支配的な常識でしかないので、このブルジョア的の観念にぞくする常識的道徳観念が、同じくブルジョア社会の観念に立脚する所謂倫理学によって、批判され克服されるというようなことは根本的には、到底あり得ないことだからだ。」
と述べながら、だがしかし倫理学が宗教に結びついていく過程を
アウグスティヌスの神に基く神聖倫理について分析していくことで、道徳と倫理、そして「神」について言及。
「つまり世俗のカエサルの帝国に於ける常識的な階級道徳そのものと、少しも実質を異にするものではない。倫理学に於ける神学的観念論はここに始まる。」
として考察を重ねます。
「アウグスティヌスによって道徳の観念は宗教倫理的なものとなった。ここに含まれる特有な道徳問題は、単に善(或いは悪)や幸福(乃至浄福)の問題ではなくて、恩寵であり永生であり、そしてもっと大事なのは、之に直接関係のある悪(根本悪)と自由意志との問題なのである。之はギリシア倫理学では殆んど全く存在しなかったものであると共に、之なくしては近代ブルジョア倫理学を考えることの出来ないような、根本問題なのだ。こうした根本問題がアウグスティヌス(広くキリスト教倫理学)から発生したのである。」

ここで、愚樵さんやnaokoさんの関心へと結びついていきます。
またいつもコメントを下さる技術開発者さんの守備範囲でもあります。
カントに話を戻せば、
こうしてカントの倫理学は、認識理論や芸術理論から殆んど全く独立な領域として現われ、その結果、倫理学は「社会・国家・政治・法律からさえ、独立した一つの封鎖領域なのである。」と戸坂は言う。
そのもたらすことは、二つの結果を必然にする。と断言。
それは「一つは倫理学の形式化であり、一つは倫理学の固有問題の設定である。」
そして、この形式化こそが、倫理学は極めて貧弱なものとなるように見えそうで、この弱さこそが、実は却って之によって、倫理学という特殊領域が、いつでもどこにでも口を容れることが出来るような特権を獲得するのである、と言う。
「場所・歴史的時代・社会階級などとは全く無関係に、この倫理理論は通用出来るわけだし、又如何なる社会現象の根柢としても、この形式的な倫理学は、形式的であるが故に必ず想定されて構わぬものとなる。社会が倫理的に見られるためには、即ち、社会が観念論的に特徴づけられるためには、倫理学は形式主義を取らねばならぬわけであり、そのためその形式にとらわれることも必然であった、ということです。
また、以下の様に述べる。
「極めて最近では、倫理学を人間学乃至「人間の学」と見做すことも行なわれるが(例えば和辻哲郎博士)、こうした人間学は要するに社会を倫理に解消する代りに、之を人間に解消するためのもので、明らかにこの点で従来のブルジョア観念論倫理学の代用物としての機能を有つ、夫が改めて今時、倫理学と見立てられるのは尤もだと云わねばなるまい。——倫理思想を歴史的に導いて来なければならぬと云って、東洋倫理や日本倫理学を説く者が、今日の国粋反動復古時代に多かりそうなことは、誰しも思い付くことだ。西晋一郎博士によれば、「東洋倫理」は科学や学問ではなくて教えであり教学であるという。この教学主義の体系が今日の日本に於ける典型的な半封建的ファシズム・イデオロギーの帰着点であり、特色ある観念論組織の尤なるものであることは論外としても、この種の歴史的(?)な倫理学が、実は何等の歴史学的認識に立つものでもないことは、一目瞭然たるものであろう。」
戸坂の時代と今は色々な意味で違う。
のだが、
読めば読むほどすぐれて新しいと感嘆することばかりの私です。

さて戸坂は言う。
「——道徳は倫理学によって、全く卑俗な矮小な憐むべき無力なガラクタとなる。」と。

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2008.05.09

戸坂潤の道徳論を読む

愚樵さんが科学は陰謀説から生まれたなんて挑発的なタイトル(ご本人曰く)でエントリーを挙げられました。
あまりの面白さに何回も読み込んでしまったのですが、
やっぱり書こう「道徳」について、まずは。
(この忙しいときに、こんなワクワクするエントリーを挙げるな、と愚樵さんに毒づきながら、、、ブツブツ)

「キリスト教世界観から【神】が抜け落ちたことには、近代科学を生むと同時にもうひとつの副作用があった。それが科学と道徳の分離である。

【現象】が【神】と関連付けられているときには、【現象】の解釈には道徳性が付随した。【神】は世界を創造したものであると同時に道徳の根源であるのだから、これは当然のことである。しかし近代科学で【神】が抜け落ちると、【現象】の解釈への道徳性もまた抜け落ちた。道徳性が抜け落ちた解釈、論理実証主義の特徴はここにあるといってもよいかもしれない。
(愚樵さんのエントリーから)」

科学と道徳かぁ???
この二つの言葉が並ぶと私が思い出すのは、やはり戸坂潤。
「科学的認識のうえでの論理の欠乏は、道徳的意識のうえでの節操の欠乏に対応する」

と、言うことで愚樵さんのテーマからはずれることになるのですが、本棚から引っ張り出してきた戸坂。
ここからは戸坂潤の道徳論をみていきます。殆どが戸坂の文の引用ですので、
お時間がある方は直接本をご覧ください。格調高いです。
また、すごく長いので、まずは感想だけちょっと先に書いておきます。

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。
そして道徳は生活意識というそのものに還されなければならないのだと、改めて思いました。
それは決して、
階級支配の道具であってはいけない、、、

戸坂が伝えたかったこと、伝えようと願ったことは何か?

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

第一章 道徳に関する通俗常識的観念
「道徳の問題を持ち出す際、いつも邪魔になるものは、道徳に関する世間の通俗常識である。」と戸坂はまず初めに世間の通常常識が道徳の問題を考える際、ある障害になると述べる。
そして、
「道徳の理論的な観念はいつも道徳の常識的観念を縁とすることによって、その検討が始められねばならず、そして終局に於て、常識的道徳観念からの絶縁としてではなくて却ってそれの深化又は変貌として、道徳に関する理論的概念を取り出さねばならぬ。だがそのためにも、道徳に就いての常識的な観念が、殆んど迷信に近いまでに頑なで有害なものだということを知らねばならぬ。」と纏める。
その後、常識の分野について言及。
そして、以下のように述べる。
「道徳なるものは、だから生活の一切の領域に、或る仕方に於て着き得るのだ。どういう権利でどういう仕方で着くかは、後に見ようと思うが、とに角その意味に於て、道徳とは生活意識そのものを意味するのだと、仮に云っておくこととしよう。念のため断わっておくが、道徳は確かに一応、常識がそう想定している通り、生活の一領域のことなのだ。にも拘らず、それに尽きることなく、根本的には生活意識そのものを意味するという含蓄を有つものだ、と云うのである。

次に戸坂は道徳の人間性に言及。
「 常識による道徳の考え方の第二の特色は、道徳を善価値だと考えて片づけることだ。という意味は、道徳とは道徳的なことであり善であることだ、というのである。」
そして、戸坂は徳目、修身などおよそ人が道徳と聞いたとき連想する数々の項目について述べる。
この徳目主義から道徳の普遍性を要請する観念が芽生えること。そしてその意味を次のように分析する。
「だから道徳の不変性という観念は、単なる不変性の観念ではなくて、神聖な絶対者、批判すべからざる不可侵物、という観念なのである。事物の不変性は価値評価の世界では事物の神聖味となって現われる。道徳はそれ自身価値ではなく、却って道徳的価値対立(普通之を善悪と呼んでいる)を強調によって成り立たせる或る領域か或いは領域以上のものであることを述べたが、にも拘らず之は道徳が要するに価値的なものであることを云い表わしているのであった。この価値の世界に横たわる処の道徳の不変性を主張するということが、その神聖な絶対性を主張するということになるのは、当然なことだ。」
「常識によって想定される道徳の不変性とは、常識の立場にとっては、凡そ道徳なるものは神聖にして侵すべからざるもので、断じて批判の対象になってはならぬ、という想定なのである。常識にとっては道徳そのものを批評批判することは、云わば第一に言葉の上でさえ矛盾したことなのだ。吾々は不道徳をこそ批判すべきであって、道徳そのものを批判することは、原則的に不可能だと考え得べきだろう。と云うのは批評批判する場合の尺度そのものが、他ならぬこの道徳なのであるから、布地で物指を測ることが無意味なように、道徳を批判することは意味がないのだ、とも考えられる。」
しかし、戸坂は道徳は不変ではないし、あろうはずがないことをその後、引き続いて書く。
「科学は、理論は、事物の探究を生命としている。之は科学自身の批判を通して行なわれる。この点常識にぞくする。処が道徳に関しては常識はそうは考えない。道徳は事物の探究ではない、寧ろ事物を(勝手に常識的に)決める武器だ。道徳自身を批判した処で、道徳なるものが探究でない限り、何の役にも立たぬ。そして道徳そのものを探究すること、之は道徳自身の仕事ではなくて、道徳学とか倫理学とかいう専門的学問の仕事だ、と常識は考えているのである。——だが以上は、道徳を絶対神聖物と考える常識から云って、完全に首尾一貫した観念の展開に他ならない。」
「世間では道徳意識を良心とか法への服従とか習俗の尊重とか考えるが、之は人間の社会生活意識の夫々の内容でなくて何であるか。——俗間の所謂常識による道徳の観念が所謂常識なる観念と相蔽うということをすでに見た。真の道徳と真の常識とも亦、その内容が略々同一のものだと云うのである。」


その後、道徳と現実・社会生活への検討をして、第二章 道徳に関する倫理学的観念へと続きます。
ここは殆ど歴史ですので割愛。
第三章 道徳に関する社会科学的観念
戸坂は道徳は原始の形は日常生活の中での欲望の形態であるとまず言う。
しかし、道徳が社会の中で如何に進化・発展の形をとげるかを以下のように説明する。
「この原始的な道徳観念は実はやがて、現代人が道徳に就いてもつ最も原始的な観念でもあったのである。処でここに注意しておかなくてはならぬ点は、この道徳がこの際(夫が原始宗教の形をとる場合でもよい)、他ならぬ社会的[#「社会的」に傍点]強制だったという点である。道徳はここでは全く社会的[#「社会的」に傍点]なものと考えられているのである。処が道徳に就いての観念がもう少し進歩すると(そしてこの進歩は実に社会そのものの進歩の結果に相応するものだが)、道徳は単なる社会的強制ではなくて、更に強制される自分の主観自身がその強制を是認する、という点にまで到着する。この時初めて、道徳に就いて本当の価値感が成り立つのである。そしてこうして道徳の観念が構成される際の一つの方向は、道徳を主観の道徳感情・道徳意識に伴う価値感そのものだと考えることに存するようになる。こうして良心とか善性とかいう主観的な道徳観念が発生する。所謂「倫理学」は、こうした主観的な道徳観念を建前とする段階の常識に応ずる処の、道徳理論だったのだ。」
そして道徳がイデオロギーとなる道筋を分析していく。
「さて道徳を社会の自然史の立場から科学的に説明しようとすると、之は一つのイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]に他ならぬものとなる。社会に於ける生産関係をその物質的基底として、その上に築かれた文化的・精神的・意識的・上部構築が一般にこの場合のイデオロギーという言葉の意味だが(尤もイデオロギーとは社会の現実の推移から取り残されたやがて亡びねばならぬ意識形態をも意味するが、道徳に就いてのこの意味でのイデオロギー性質も後になって意義を見出すだろう)、社会のこの上部構築としてのイデオロギーの一つが道徳現象だということになるのである。政治・法律・科学・芸術・宗教・それから社会意識、こうした文化乃至意識が夫々イデオロギー形態であるが、道徳はこの諸形態と並ぶ処の一イデオロギーだというのである。」
「道徳は併し権威[#「権威」に傍点]を有っていると云うだろう。処がその権威は実は単に権力[#「権力」に傍点]が神秘化されたものに過ぎぬ。道徳の権威とは、権力としての社会規範に過ぎぬ。而もその権力自身が生産関係から生じることは又、見易い道理だ。」

最後に第四章 道徳に関する文学的観念へと読者は導かれます。
ここでは主に文学作品を検討しつつモラルについて考察。
そして格調高く最後は以下のように締められます。
「だから道徳とは、丁度科学的真理がそうであるように、常に探究される処のものなのだ。その点から見れば、道徳は与えられた道徳律や善悪のことや一定の限定された領域などのことではない。特に、科学が決して、真理と虚偽との対立を決めるというような妙な形の興味を有つものではないと同じに、何が善で何が悪かというような設問の内を堂々巡りしていることは、道徳の探究の道ではなく、従って又道徳の本義ではないのである。
 道徳が自分一身上の鏡に反映された科学的真理であるという意味に於て、道徳は吾々の生活意識そのものでもなければならぬ。そういう生活意識こそ偉大な真の常識というものだろう。そしてこの道徳を探究するものこそ、本当のそして云わば含蓄的な意味に於ける文学の仕事なのだ。モラル乃至道徳は、「自分」が無かったように、無だ。それは領域的には無だ。それは恰も鏡が凡ての物体を自分の上にあらしめるように、みずからは無で而も一切の領域をその内に成り立たせる。」
と。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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2008.04.25

新学習指導要領 移行措置案

文部科学省は昨日24日、小中学校の新学習指導要領の一部を来年度から先行実施するための移行措置案を公表しました。
ちょっと重いのですが、興味のある方は文科省のホームページでご覧下さい。
文科省は1カ月間の意見募集をへて、5月末か6月上旬に移行措置を公示する方針です。

本来ならば、新指導要領は小学校は2011年度から、中学校は12年度から施行されるのですが、
今回の移行措置はそれ以前に特例として実施する内容を示すもの、つまり「前倒し」という事です。
中身をザッとさらってみると、
「総則」「道徳」などの項目を09年度(来年です)から直ちに適用するとしています。
この「総則」。
改正教育基本法の「目標」とした「愛国心」など国が定めた「徳目を「達成するよう教育を行う」と明記しています。
また、道徳教育の目的として「我が国と郷土を愛」する「日本人を育成」することを掲げ、
「道徳の時間を要として学校の教育活動全体を通じて行う」としています。
さらに各学校で「道徳教育推進教師」を配置します。


道徳。

ううう〜〜〜ん。

個人的は「道徳」は人として必要なものかも、とは思うのですが、
今回の文科省の「それ」は「人の上に国ありき」の感が強くて、
しかも半ば強制ということが非常に気になります。


また、
算数・数学と理科については教育内容の大部分を来年度から前倒しし、授業時間も増やします。
小学校低学年は体育の時間も増加。
と、言う事で小学三年は算数と理科の合計で年間45時間増になります。

このため、小学校では各学年とも現行より週1時間増。
中学校では選択教科などを減らして対応。

「ゆとり教育」導入のときもそうでしたが、
文科省が現場の声を聞かずに断行した場合、綻びはめにみえているんですよね。
なにしろ、今回も書類でのお達しですが、
事実上の教員増員などは配慮されていないのだから、現場の教師にすべて責任がかぶさってきます。

この問題も目が離せません。

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2008.04.23

学テと夜スペから考えたが

昨日22日全国学力テストが終了。
文部科学省は小学六年生と中学三年生の約232万人を対象にした全国一斉学力テスト(学力・学習状況調査)を行いました。
国語、算数(数学)のテストと、生活習慣や学習環境についてのアンケート調査が昨年同様、実施されました。
今年は、公立では愛知県犬山市の14校が不参加。私立の参加は昨年より約8ポイント少ない53%。
いろいろ物議を醸している全国学力テストですが、
文科省は「実態を把握して指導の改善を図るのが狙い」としています。
しかし、昨年のテストでは、成績の悪い学校の校長が教育委員会に呼び出され、教師が始末書を書かされたという例やテスト対策として直前に類似の問題を繰り返しやらせた学校や教育委員会もあったことが報告されています。
また、採点や集計は企業に委託されており、受験産業にデータが流れることへの批判は今年も出ています。

さてさて、この結果がどのように出るか???
とても関心のあるところですが、
いずれにしても教育に受験産業がノシノシと顔を現してきているようです。
「夜スペ」でおなじみの東京杉並区の和田中学。
ううううう〜〜〜〜ん。
この実態を知れば知るほど、
「教育は金なり」と思ってしまいます。
以前、江原さんの旭川大学講師について、記事を書いた時、「真理を探求するという自らの目的を霊媒師に明け渡すということになります。」と表現しましたが、
今度は「教育の現場を受験産業に明け渡すのか?」と問いたいですね、、、

校長は「伸びようとする子をのばすのだ」と夜スペの意義を語っています。
そして「ふきこぼれ」と言う新しい言葉さえ出てきました。
これは落ちこぼれと言われた言葉の対極にあるようなもの言葉です。
「能力はあるが、自分の能力に見合った環境が現場にない場合は、その環境、例えば塾などで研鑽するという意味でしょうか、、、

落ちこぼれにふきこぼれ、、、
かぁ。
いずれも教育の現場では「みてやんねぇよぉ」という事か。
ふっ〜〜〜〜〜
ため息が吹きこぼれます。

課外授業、夜間授業とはいえ、学校の教室で受験産業が大手をふって授業すると言うのは、
現場の教師たちにとって、どんな影響を与えるのかしらん。
と、一人ザワザワと胸だつ思いで考えたりしています、、、

文科省は和田中学が成功した場合はこの経験をもとに、さらに全国に塾との連携を押し進める方向でいくそうです。

学テと言い、夜スペといい、
子どもたちが子どもらしい興味で勉強する環境がだんだんと狭くなり学校が息苦しいものになっていくように感じます、、、

なんとかならないか?
フッ〜〜〜

TAKESANさんの記事ととむ丸さんの記事が子育てで悩めるあなたにはよく効くかも、、、
お二人の記事を拝見しながら、延長にある教育の現場が抱える問題をさらに考え込みました。

なお以前の記事を掲載しておきますのでお時間のあるおりでもご覧下さい。
全国学力テスト実施前にあたり
全国学力テスト その1
全国学力テスト その2
全国学力テスト その3
全国学力テスト その4

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2008.04.17

私学の行方その3

先日、wdさんから立命館大学の新設学部の定員問題についてコメントを頂きました。
また内田樹の研究室でも大学はビジネスなのか?と言うエントリーで内田さんは私立大学の経営について言及。
さらにコメント欄で皆さんが詳細に分析。
読めば読むほど、大学当局がビジネスに走り(まぁ、これは仕方ないとは言え)
本来の学問が横に置かれていく状況がすすみつつあるようで、ため息。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「大学経営」にはむろんビジネスマインドが必要である。
大学がつぶれたら教育はできないからである。
けれども、教育活動を続けるために経営の工夫をすることと、より大きな収益を上げるために教育活動に工夫を凝らすことはまるで別のことである。
そのことに気づかない人々に教育を語って欲しくない。
(内田樹)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私としては珍しく(?)内田さんに同意。
そう言えば以前、話題にした江原さん。旭川大学の講師を辞退なさったそうです。
これだって、旭川大学にしたら江原さんは「人寄せパンダ」で、突き詰めれば私大経営になるんでしょう。

私立大学の経営困難は、即、学生の授業料に反映されるわけです。
これは受益者負担という考えが根強いからです。
一例を挙げるなら、
医師養成の学部(医学部)は私立大学では6年間で平均3000万円から4000万円の学費が必要とされています。将来医師になるということで利益に対する負担を求める、つまり経営・経済の論理が働いているからです。
人命をあずかるという最も公的な仕事が、利益で支配されるとき、
そこには経済の格差がドーンとたちはだかり、然るべき能力が発掘されないまま終わる可能性もあります。
残念なことです。
大学の自治、学問・思想の自由、そして教育・研究の機会均等をもとめ、
さらに私学の学生・保護者の経費負担減をはかるために1974年に私立学校振興助成法が成立。
国庫助成運動や2006年問題留保撤回運動など課題は満載です。
が、私学の教育・研究の充実を目指す事は、なによりも社会への貢献、利益の還元であると私は考えます。
今、日本は各先端技術で世界のトップの座を明け渡しつつあります。
またOECD学力テストでも不満な結果に終わりました。
少しづつ、日本の公教育、高等教育が崩れていく予感がします。
今なら間に合う。
今なら、まだ次代の子等に伝えることが出来ると思います。
日本がずっと誇ってきた「教育の灯」を。
さらにこの問題、検討を重ねていきたいと思います。

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2008.04.16

私学の行方その2

昨日に引き続き深刻な私学情勢について、
今回は「2006年問題」を中心にみていきます。
1966年に国連総会で採択された国際人権A規約の十三条二項(C)では
「高等教育は…無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること」と定めています。
日本政府も同規約を1979年に批准。
しかし同項は留保されたままです(批准はしたが留保や実効されていない条約って結構ありますねぇ)。
こうした国は日本、マダガスカル、ルワンダの三国だけです。
先進国・欧米諸国では、学費は無償か安価で、奨学金も返還義務のない「給付制」が主流です。ドイツでは、基本的に無償で、学生登録料が約2万円。フランスでも、大学はほぼすべて国立で、無償になっている。学籍登録料1.4万円。フランスの「第3千年期の大学計画」「学生福祉計画」には、さらに給与奨学金を増額する、学籍登録料の免除、学生寮の増設など学生の利益を考えた計画を決めているそうです。「授業料」のある国であっても、イギリスでは学生の43%が免除、14%が減額措置をうけています。入学金は無い。授業料は「後払い制」といって卒業後に年間所得が315万円以上になれば支払う、返済額は所得によるというユニークな制度だそうです。アメリカでは、私立大はたしかに高いのですが、学生の 73%が通う州立大は授業料50万円、入学金は無し。しかも7割以上の学生が奨学金をうけ、学生のいる家庭には12万〜18万円の減税措置がされているそうです。
しかし、日本は高等教育機関の私費負担割合が56・9%と、OECD加盟二十六カ国中三番目の高さです。各国平均21・8%より極めて高く、高等教育をうける権利保障という面で後進国となっています。
経済大国・先進国でありながら批准後22年経ってもいまだ留保と言うことで、ついに2001年の国連社会権規約委員会で問題となり、同委員会は、日本政府に対し、「高等教育の漸進的な無償化」条項の留保の撤回を検討することを勧告。
2006年6月末までに勧告にもとづいてどういう措置をとったのか、NGOや市民とどのような協議をしたのか、報告を要請しています。
これがいわゆる「2006年問題」です。
注目された2006年はとうに過ぎ、政府は無回答のママです。
また、
国連・児童の権利委員会からも1998年と2004年に勧告がありました。
日本では競争教育で子どもの発達が妨げられているということに加え、「高等教育への進学に貧困家庭の子どもが不利に」なっている、平等にアクセスできるようにしなさい、という勧告です。
親の負担は先進国でも群を抜いている日本です。
その背景には、昨日も書いたように国の私学助成が減少の一途をたどっていることもあります。
この問題はさらに続けて検討していきます。

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2008.04.15

私学の行方

少子高齢化が叫ばれ久しくなりました。
各方面でこの言葉の煽りを受けているわけですが、一番影響を受けている場は、やはり教育の現場です。
昨日14日、新設学部で定員オーバー、転部認める 立命館大と言うニュースを読みながら私立大学の経営について考え込みました。
今日現在、私立大学は学校数76.2%、学生数73.7%教員数55.3%です。
これに私立短期大学を含めると圧倒的多数の学生・教員が私立大学に依存しています。
しかるに私立大学の経営状態は年々悪化の一途をたどっています。
山口県萩国際大学が民事再生法適用になったのはまだ記憶に新しい出来事です。
酒田短期大学の解散なども思い出します。
私立大学は収入の大半は入学生の学校納付金と志願者の受験料です。私学助成金は経常経費の12.2%くらいです。
私学にとっては学生数が多いことは即経営に結びつきます。今回の立命館の問題も、大学当局にしてみれば少しでも多くの学生に入学してもらいたかったのでしょう。
この問題、ひとり立命館大学の問題ではありません。
私学が、あるいは公立・国立大学が次第に経営という名の元に学問が切り捨てられる状況が進みつつあるようです。
日本の高等教育政策史の検討を試みるならば、
三つの時期が特徴的です。
一つは明治以来の軍事国家による帝国大学中心の複線型高等教育体系。
もう一つは日本国憲法に保障されている国民の教育権が保障された時期。
そして三つ目は1980年代以降の中教審・臨教審答申以降の教育です。
とくに私立大学は臨教審答申の「21世紀にむけて教育を考える」に沿って大学像が制限・規制された感があります。
そして予算についても「特色ある大学」「個性ある大学」に支援がつく仕組みが出来上がります。
これは結果、大学自身の自治を奪い、
開かれた大学、学問の自由を阻む役割を担いました。

危機に瀕する私立大学の姿は、
やがて公共教育全体へと移行する姿でもあります。
教育を守り学問の自由を保障するために、
国は私学の経営にもっと補助することを願ってやみません。

この問題、さらに今後も検討していきます。

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2008.04.04

卒業文集に瑕疵アリ

<卒業文集>「官邸に放火しそうな生徒」ランク付け 山梨 と言うニュース。
うううう〜〜〜ん。
ニュースにもあるように担任は何をしていたのか?
と首を傾げます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
学校側は「冗談のつもりだったが、配慮が足らなかった」として、名前が掲載された生徒に謝罪したが、文集は回収しなかった。
(上記ニュースより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

そりゃ。そうでしょう。
「冗談のつもりだった」って。
本気でした。なんて回答された日にゃ、どうすればいい???と一人突っ込む私。

あのね。
問題は「冗談のつもり」と言えば許されるかってことで、
そりゃ許されないよね。
尤も、子どもたちは軽い冗談で、いつもの「のり」だったのかもしれないが、、、
やはり指導する側は、子どもたちに注意喚起する必要はあったと思います。
官邸に放火するなんて、犯罪です。
こんな設定を無条件に文集に載せる事を許してはいけません。
学校の猛省を期待します。


いずれにしても、子どもたちが傷つく事なく、伸びやかに巣だっていってもらいたいものです。

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2008.03.28

異議ありぃ!!!文科省

国歌は自由に歌いたい、国旗は自由に掲げたい と言うタイトルでエントリーを挙げられたお玉さん。
学習指導要領 君が代『歌えるように』 「愛国心」総則明記 直前変更きょう告示と言うとんでもないニュースに関してのエントリーです。
とても充実しています。
ぜひご覧下さい。

それにしても、
文科省のやりかた、ひどい。
うううう〜〜〜ん。
読むほどにひどい。
こんな大切な問題をろくすっぽ議論せず(と、いうか議論を避けて)いきなりの変更、告示って、
許されていいんでしょうか???

この問題に関しては私もかなり考えてきました。
「愛国心」の表現で合意
学校教育法に愛国心
。その他、教育基本法関連で折にふれて)。

愛国心について考える以前の問題として、
デリケートで繊細なこのテーマに関して、
このような粗雑なやり方で国が教育にドカドカと介入していくことへの危惧を感じます。
今後の行方を見守るとともに、声を大にして訴えていく必要を感じています。

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2008.03.14

算法少女

算法少女と言う本を御存知ですか?
一度絶版になるも復刊ドットコムの投票を得て2006年ちくま学芸文庫から復刊された本です。
私も早速、書店で買い求めて読みました。
感想。
面白かった!!!
です。
実に素直に伸び伸びと書かれているのですね、全体が。
算数好きの少女の物語と言えば、そうなのですが、
それ以上に人への思いやりとか、学問への真摯な情熱が描かれている本です。
読み終えた後の爽やかな読後感、たまりません。
まだ読まれたいない方は、是非読んでみては、とお奨めです。
すぐに読めます。

今日、3月14日は数学の日(3.14で円周率)と言うことで、
ちょっと書いてみました。

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2008.03.11

日本の学費は高い

昨日10日は東京大学や京都大学の前期日程入試の合格発表がありました。
受験生にとっては悲喜こもごもの結果。
それぞれの思いで受け止めた一日だったと思います。

それにしても日本の学費は高い。
以前も国立大の授業料
高学費と言うタイトルで記事を書きましたが、本当にため息がでます。
さらに入試の検定料が高い。
センター試験検定料3倍と言うニュースと言うエントリーを今年の1月に挙げましたが、
検定料も高い。
私立は平均35000円。
センター利用ならば20000円くらい。
入試の日程が重ならないように多くの大学や学部を受ける受験生は沢山いると思います。
ううううう〜〜〜ん。
大変です。
国立は17000円。
だが前期、中期、後期とあるから、やっぱり大変。
内田さんが以前、入学試験にもマイレージ制があると面白いなんて記事を書いていましたが、私も納得。
うんうん。
ポイントつけてよね、、、と思いました。

さて、そんな思いで入学はしたものの、、、
私立大学では、「経済的困窮」を理由に退学している学生が1万人にのぼっているということです。
学費が「世界一高い」と言われる日本。
さらに返還の必要のない給付制奨学金の制度がない。

なんともはやはや、、、
胸が痛みます。
このほど、東京大学では、年収4百万円以下の家庭の学生について、来年度から授業料を無料にする学費減免制度の実施にふみきったニュースは、すでに紹介しましたが、
画期的なことだと思います。
さらに多くの大学が続いてもらいたいものです。
そもそも、これは、東大が独自に行うものではなく、
国の制度、文科省の責任で行ってもらいたいものです。
「受益者負担」という言葉が良く聞かれ、
義務教育以降の高等教育は、学ぶものが払うべきだという意見もあります。
が、私は教育とは全ての国民に還元される物と思うのです。
受益者は国民です。
少なくとも、学ぶ志を持っている多くの子どもたち、若者が高学費の前に涙することがないように、
国ははからうべきと思います。

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2008.02.28

惑星X

またまたワクワクするニュースです。
太陽系に「惑星X」の可能性と言うニュース。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
太陽系の外縁に、地球とほぼ同じ大きさの「惑星X」が存在する可能性を、日本の研究グループが数値計算で明らかにした。約1000年かけて太陽の周りを公転しているという。太陽系の惑星は、06年に冥王星が準惑星に降格され、現在は8個だが、惑星Xが観測で見つかれば、冥王星に代わる第9惑星になる可能性が高い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
おおお〜〜〜兄弟星が新たに登場か?
1000年という長====い年月をかけて太陽の周りを公転しているということですが、
それは凄い。
1000年かぁ。
気の遠くなるような時間をかけてゆっくりと回っている星ぼし。
ロマンチックです。

なお今回の提案されたモデルはとても興味深い。
太陽系外縁部の40億年にわたるシナリオが示されたと上記アストロアーツには書いてありますが、
読めば読むほどドキドキしてきます。
私たちが当たり前に思って住んでいる地球。
そして太陽系。
その生成の謎の一つが解かれるのだろうか???
========
太陽系形成初期には、当時の天王星・海王星軌道付近に「惑星X」が存在し、それが重力散乱で遠方に飛ばされ、海王星と6:1の共鳴軌道(海王星6周の時間で1周する軌道)に捕獲された。当時の海王星は、現在の位置よりも10天文単位ほど内側にあったが、マイグレーションと呼ばれる外向きの惑星移動で現在の位置、太陽から30天文単位まで大移動した。
========
なぁんてモデルが紹介。
なるほど、惑星Xは遠くに飛ばされて、そのため存在が今に至るまで知られなかったということなのでしょうか???

そして上記のサイトでは惑星Xの命名まで記事が書かれていますが、
確かに冥王星のこともあるし、この星がどんな名前になるか楽しみです!!!

惑星X

それはそれで素敵な名前のような気もします。

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2008.02.21

想像力

色んな想像力と言うタイトルでTAKESANさんがエントリーを挙げていらっしゃいます。
本当にタイトルのように想像力って色々様々です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「自分程度の想像力は他人も持っているだろう」、と考える「想像力」は、必要ですね。それは結局、自分を過大評価せず、自尊心の肥大化のストッパーの役割を果たす訳ですね。つまり、「謙虚」。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
TAKESANさんは上のように書かれていますが、
議論や討論が齟齬をきたした場合、
謙虚というストッパーを持ちながら、自分の主張と相手の言い分との噛み合いを探していくって大切ですね。
とくにネット上では相手の事がよく分からない上に文字だけのやり取りだから、
尚更、想像力って大切だと思うことしきりのこの頃です。

9. 観念的自己分裂と言う題でシカゴさんは自己を観察する想像力を三浦つとむさんの主張を中心に書かれています。
シカゴさんのエントリーを見ながら、
テーラワーダをちょっと思い出しました。
釈迦の教えの一つであるヴィパッサナー瞑想、
つまり自己観察を徹底的に行うことから啓けてくる悟りを説いています。

想像力。

判断力や推理力や観察力の総称といっても過言ではないほど、
守備範囲の広い言葉です。

その対象が文学であっても、科学であっても医療であっても、宗教であっても、
いずれにしても、
想像力を担保するものは、今更ながら教育だと考えます。

子どもたちが今、学校教育の中で曝露されているのは、
偏差値と競争、そして格差。

以前、小学生の子ども達に「水」についての作文を書かせたことがあります。
夏休みの課題作文です。
社会科の授業で体験学習のためダム見学をした経験を書きたいと本人は言います。
そして結論として「水を大切に」とそつなく纏めたいと言うのです。
が、途中が全然ないのです。
水から何を想像する?と私。
「さぁ????」と首をかしげる子ども。
水を触ったらどんな感じ?と私。
「冷たい」と一言。
次が続かない、、、
続かない、、、
出てこない、何も。

とにかく、
とにかく此方がそれこそ水を差し向けて、
ため息交じりの子どもとどうやら最後まで書いたのですが、、、
書き終えた後、あの子はレッスンバッグを持って、次の課題(つまり別の塾)へとイソイソと出掛けました。
成績はとてもよい子。
国語の問題を解く力は抜群。
ところが、感想文や作文は大の苦手。
想像することが得意ではありませんでした。
私はしばらく一人で考え込みました、、、
そしてその後、お母さんにお電話を差し上げたのです。
「もっと本を読みましょう」と。
お母さんは承知して下さり、その後の作文教室は読書教室に様変わりしました。


受験シーズンの今。
子どもたちにとって、大いに心痛める時季です。
目の前の偏差値ではなく、
将来の自分の姿を想像して、
進路を決めるそんな指導が、教育の現場で普段に行われたら嬉しい、、、
と、
私は願うわけです。

夢とか、希望とか、そんな美しい言葉が子どもたちから奪われることのないように祈りながら、
想像力について、ちょっと思いを馳せました。

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2008.02.15

地球型の星、存在する

地球型の星、存在する?=太陽系と似た惑星群発見と言うニュース。
ワクワクします。
2006年の1月、私は第二の地球を探してと言うタイトルで地球型惑星の存在を求めて研究しているチームを紹介しました。
あるいは2005年にはもしかして第2の地球がと言うタイトルで記事を書いています。
すばる望遠鏡、地球型惑星が生まれているかもしれない現場を撮像なんてニュースを見ると、もうドキドキです。

いずれも、まだ地球型の惑星の存在を確認というわけではありませんが、
やっぱり嬉しくなるニュースです。

こんなとき、いつも登場していただくのが谷川さん。
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人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨んでゆく
それ故みんなは不安である

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

(二十億光年の孤独より)
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本当に、
ほんとうに宇宙のどこかに生物がいて、
その星の住人たちも、仲間を探しているとしたら、
なんて楽しんだろう。
孤独じゃないんだよね。
宇宙に仲間がいるとしたら、、、

そう言えば、2月の初め、東の空に月と木星と金星が並びました。
私は5日の朝見たのですが、なかなか素敵な絵になっていました。
次第に明るむ空と、三日月と木星と明の明星。そして遠くの山々のシルエット。
しばらく呆然と魅入っていました。
2月の空はいい。
空気が澄んでいるのと、少しではあるが自然が緩み始める頃だから。
ぎょしゃ座のカペラ、ふたご座のポルックス、こいぬ座のプロキオン、おおいぬ座のシリウス、オリオン座のリゲル、おうし座の