2008.06.25

だれが源氏物語絵巻を描いたか

先に喜撰法師を書いたので、
次は源氏物語絵巻について、ちょっと書きます。
だれが源氏物語絵巻を描いたのかと言う本があります。
中身についてはネタバレになるので多くは書きませんが、
なかなか面白い本でした。
何が面白いかというと、
男絵、女絵の説明が面白かったのです。
「女絵」という言葉の初出:『蜻蛉日記』だそうです。

〜〜〜をかしげなる女絵どもの、恋する男の住まひなど描きまぜ、山里のをかしき家居など、心々に世のありさま描きたる〜〜〜〜

そして、この女絵、題材は恋愛。
手法は、有名な「引目かぎ鼻、吹抜屋台 」。
心理的描写を主として、もののあわれや、たゆたう人々の情感が描かれているそうです。
この特色は、
今の少女マンガに伝えられる、
と、言うことだそうですが、、、

さて、
私も、この本を読むまでは、絵巻は、ほんの挿絵くらいのものだったのですが、
なるほど、、、
こう言う観点から絵巻を見ると、源氏物語そのものが、さらにイキイキとしてくると、
思ったのです。

いつものことながら、
知らないことばかりで、驚かされることばかり。
だからこそ、
楽しみながら、ドキドキ、ワクワクと、新しい何かを見つけていこうと思っています!

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2008.05.27

マルクスがブームらしい

甦るマルクスと言うタイトルで内田さんがエントリーを挙げていらっしゃいます。
まずは「マルクスが「プチ・ブーム」らしい。」と言う書き出しでつかみを得ます。
読んでいる私は「ふむふむ」。
そうかぁ、、、
ブームなのか。

とむ丸さんも小林多喜二やマルクスを求める時代と言うエントリーをあげていらっしゃいます。
とむ丸さんらしい優しい切り口でマルクスからさらに新自由主義へと私たちを誘ってくれます。

と、言うことで私も早速、本棚の「資本論」を取り出します。
手にとって、
横からみたり、裏を見たり、
見たり、、、
と、しつつ結局本文へはなかなか進むことが出来そうにありません。
昔、読んだ時の棒線なんかを眺めながら、
「へぇ〜〜〜こんなこと書いてあったんだ」と安直に納得。

内田さんが上のエントリーの締めで、ズバリ、マルクスの魅力を語ってくれています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
マルクスは私たちの思考に「キックを入れる」。
多くの読者たちはおそらくそのような効果を期待してこれまでマルクスを読んできたはずである。
私はそれでよいと思う。
マルクスを読んで「マルクスは何が言いたいのか?」というふうに訓詁学的な問いを立てるのは、あまり効率のよい頭の使い方ではない。
それよりはむしろ、「マルクスを読んでいるうちに、急に・・・がしたくなった」というふうに話が横滑りをし始めることの方がずっと楽しいことだと思う。
「知性とは何か」について、私の知る最高の定義は(繰り返しご紹介した)グレゴリー・ベイトソンのそれである。
ベイトソンによれば、知性とは何か?という問いに、知性はこう回答した。
That reminds me of a story.
「そういえば、こんな話を思い出した」
マルクスを読んでいるうちに、私たちはいろいろな話を思い出す。
それを読んだことがきっかけになって、私たちが「生まれてはじめて思い出した話」を思い出すような書物は繰り返し読まれるに値する。
マルクスはそのような稀有のテクストの書き手である。
(内田樹の研究室より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

うわっ〜〜〜〜
それ、それ。
凄くよく分かる。
そうなんだよね。
マルクスを読みながら、と言うか眺めながら私は何故か「チボー家」を思い出していたのです、、、

何というか、別にマルクスにキッチリとからめ取られることなく、
マルクスを子守歌のように慣れ親しむ、
きばらなくていい、、、
そんな読み方でいいんだよ。
と、書いてくれた内田さんに、何故か凄く器の大きさを今日は感じました。
(ほっ〜〜〜私にしては珍しいことだ)と、
自分で突っ込みつつ。

いずれにしても、
そんな感じで肩肘張らずに、もう一度読んでみようか、、、なぁ。

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2008.04.22

ジャック・デロシュの日記

ジャック・デロシュの日記と言う本、
日本では余り知られていません。

〜〜〜〜祖父母の隠された過去を偶然知ったエマは、悩みながらも真実を探ろうとするが…。古くて新しいホロコーストの問題に、「拒食症の女の子」という現代的なテーマを組み合わせ、14もの海外文学賞を受賞した衝撃の物語。〜〜〜〜
と言うのがAmazonの商品説明です。
確かに、衝撃的な内容に、
この本を児童書として推薦していいのかどうか悩んだ読書サークルもあったりしました。
まぁ、重いです。


以前「ナゲキバト」を紹介したことがありますが「ジャック・デロシュの日記」も、同様に突き詰めれば「生きる」と言うことなのだと思います。
背景は先の戦争と現代。
交錯する時代に、それぞれが抱える「生きる」と言うことの意味。
刻限状態に人はどうするか?
そして、
生と死が眼前にないとき、人は何を拠り所にするのか???

考えます。

もう一つ先に、今日出た山口の判決についてチョット書きましたが、
なんだか、交錯します。

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2008.02.12

人はこうして美味の食を手に入れた

毎月12日はパンの日で豆腐の日だそうです。
豆腐は語呂合わせとしてもパンは何故?と思います。
実は1842(天保13)年、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門英龍が軍用携帯食糧として乾パンを作ったそうです。これが日本で初めて焼かれたパンと言われ、毎月12日がパンの日となったそうです。

今日は本棚の本をゴソゴソと動かしていたら、
こんな本を見つけました。
人はこうして美味の食を手に入れた
副題が「飽くなき食欲が生んだ「発明・発見」の文化史」となっていて小泉武夫さんという方の本です。
随分前に読んで、本棚の片隅にソウッと置かれていた本。
ふと手に取ってパラパラと読み直しました。

「旨いものが食べたい」と言う人間のあくなき欲求が産み出す知恵と執念の賜物、美食が書かれています。
美食と言っても値段がはる高級なものではなく、
目に見えない微生物の力による「発酵」という方法で美味を手に入れた過程が紹介されています。
最初にふぐの卵巣の糠づけの紹介。これは石川県でしか製造が許されていないそうです。
その後、こんなもの食べられるの?と言うようないろんな珍味が書かれています。
長い年月をかけて先人たちが挑戦してきた「旨いものさがし」。
そこには美味ととともに自然の摂理に適った栄養が満載。
食の文化は営々と築かれてきました。

だがしかし、
今はどうでしょう???
コンビニママとコンビニキッチン、電子レンジ。
食べ物文化は細やかで繊細な味を失い、企画の味になり、
そして栄養さえも手放していくような光景があります。
好むと好まざるとに関わらず時間に追い立てられる生活という背景があるのも確かです。

また、餃子問題やBSEなど輸入に頼る問題もあります。
添加物も見逃せません。

生きる原点である「食」がやすやすと侵されていくことは、
あってはならない!
と、改めて思いました。

個人で出来る事は勿論、
行政でしか出来ないこともいっぱいあります。
いずれにしても、食を守ることの大切さを痛感している昨今です。

さて、今日はパンと豆腐の日。
湯豆腐にしようかな♪

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2007.10.29

戦う者の内的心情

烏の北斗七星と言う短編を宮沢賢治が書いたのは1921年12月。
その年は、
原敬が刺殺された年であり、ワシントン軍縮条約が日米英仏の4ヶ国で結ばれた年でもあります。

賢治がこうした時代背景を考量せず、ただ文学作品を書き綴ったということはありません。
実際、この作品について賢治自身、短く次のように述べています。
「戦うものの内的感情です」と。
確かに主人公烏の大尉は、出撃前の夜、恋人に別れをつげ、また信じる神に祈る。
==========
「があがあ、遅くなって失敬。今日の演習で疲れないかい。」
「かあお、ずいぶんお待ちしたわ。いっこうつかれなくてよ。」
「そうか。それは結構だ。しかしおれはこんどしばらくおまえと別れなければなるまいよ。」
「あら、どうして、まあ大へんだわ。」
「戦闘艦隊長のはなしでは、おれはあした山烏を追いに行くのだそうだ。」
「まあ、山烏は強いのでしょう。」
「うん、眼玉が出しゃばって、嘴が細くて、ちょっと見掛けは偉そうだよ。しかし訳ないよ。」
「ほんとう。」
「大丈夫さ。しかしもちろん戦争のことだから、どういう張合でどんなことがあるかもわからない。そのときはおまえはね、おれとの約束はすっかり消えたんだから、外へ嫁ってくれ。」
「あら、どうしましょう。まあ、大へんだわ。あんまりひどいわ、あんまりひどいわ。それではあたし、あんまりひどいわ、かあお、かあお、かあお、かあお」
「泣くな、みっともない。そら、たれか来た。」
 烏の大尉の部下、烏の兵曹長が急いでやってきて、首をちょっと横にかしげて礼をして云いました。
「があ、艦長殿、点呼の時間でございます。一同整列して居ります。」
「よろしい。本艦は即刻帰隊する。おまえは先に帰ってよろしい。」
「承知いたしました。」兵曹長は飛んで行きます。
「さあ、泣くな。あした、も一度列の中で会えるだろう。
 丈夫でいるんだぞ、おい、おまえももう点呼だろう、すぐ帰らなくてはいかん。手を出せ。」
 二疋はしっかり手を握りました。大尉はそれから枝をけって、急いでじぶんの隊に帰りました。娘の烏は、もう枝に凍り着いたように、じっとして動きません。

(中略)

 じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマヂエルの星を仰ぎながら、ああ、あしたの戦でわたくしが勝つことがいいのか、山烏がかつのがいいのか、それはわたくしにわかりません、ただあなたのお考えのとおりです、わたくしはわたくしにきまったように力いっぱいたたかいます、みんなみんなあなたのお考えのとおりですとしずかに祈って居りました。

===============
死を覚悟して静かに祈る。
だがしかし、
しかしである。

大尉は明け方一羽の敵を見つけることで、以下のように行動する。
===========
たしかに敵の山烏です。大尉の胸は勇ましく躍りました。
「があ、非常召集、があ、非常召集」
=============

そして敵は死に、大尉は昇進。
それは、もう戦地に赴かなくていいことを示す。
その時、大尉は以下のように思う。
===========
烏の大尉は列からはなれて、ぴかぴかする雪の上を、足をすくすく延ばしてまっすぐに走って大監督の前に行きました。
「報告、きょうあけがた、セピラの峠の上に敵艦の碇泊を認めましたので、本艦隊は直ちに出動、撃沈いたしました。わが軍死者なし。報告終わりっ。」
 駆逐艦隊はもうあんまりうれしくて、熱い涙をぼろぼろ雪の上にこぼしました。
 烏の大監督も、灰いろの眼から泪をながして云いました。
「ギイギイ、ご苦労だった。ご苦労だった。よくやった。もうおまえは少佐になってもいいだろう。おまえの部下の叙勲はおまえにまかせる。」
烏の新しい少佐は、お腹が空いて山から出て来て、十九隻に囲まれて殺された、あの山烏を思い出して、あたらしい泪をこぼしました。
「ありがとうございます。就ては敵の死骸を葬りたいとおもいますが、お許し下さいましょうか。」
「よろしい。厚く葬ってやれ。」
 烏の新らしい少佐は礼をして大監督の前をさがり、列に戻って、いまマヂエルの星の居るあたりの青ぞらを仰ぎました。(ああ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません。)マヂエルの星が、ちょうど来ているあたりの青ぞらから、青いひかりがうらうらと湧きました。
=============

敵への涙。
それは戦わないでいられるものだったら失われなかった命への思いと、
また己の罪深さを改めて見つめる。
そして、神に祈る。
(ああ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません。)と。


ここで私たちは、鳥の大尉の戦う者の内的心情と理解。
戦争の悲劇について語るのです。
しかし、
小森陽一さんは、さらに大尉の心情を以下のように分析します。
「殺すか、殺されるかというギリギリの状況の中で、本人も意識しないままに自分が助かるために「殺す」という選択をする。そして自分の命が脅かされないという状況になって初めて殺した敵への同情が生まれる。
戦争とはこうした非人間的なところへ人を追い込むものである。」と。

なるほど。
戦争とはその様なものである。
普通の人間は誰だって臆病でキュウキュウと生きている。
戦いなんでイヤだし、死にたくもない。
生きたい、、、
生きたい、、、
生きたい、、、

そんな当たり前の気持は、自分で気がつかないうちに「生きるために」ある選択、敵を殺すこともやる。
そして、
そして、
自らが戦うなくてもいい、つまり自分の命が保障されたその時、
初めて「戦争をなくすために命を捧げることもできる」と言う。
これが戦う者の自然な内的心情であり、誰も責めることはできない。
責めるべきは、
戦争という愚かしい行為である。

と、賢治は私たちに伝えているのではないか、、、

これが小森流解釈です。

正義の戦争なんてないんだよね。
何をもって「正義」なんて大義名分をいうことができるのだろうか???

さて烏の北斗七星。
今の時代に重なります。

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2007.09.21

吉原手引草

吉原手引草を読みました。
そう、第137回直木賞受賞作の作品です。
吉原という遊郭で花魁が失踪するという事件を追う人物と、その事件を知る人たちの証言でなるミステリー仕立てのこの本。
ネタバレにならないように、これ以上書きませんが、
面白かった、というのが最初の印象です。
「読ませる」というか、作者の構成にいつのまにか引き込まれて、すぐに読める本です。
当時の遊郭の実態とかが垣間見えて、なかなか粋な本です。
が、
が、、、

あれでいいのだろうか???
とフツフツと疑問が湧いてくるのです。

なんというか、やはり人間観察とか洞察力というか、
その辺りの粘りがないように思えてなりません。
結局、作者は何がいいたいのか???
花魁や周りの諸事情、時代考察をミステリー仕掛けで教えてくれたということか、、、
あっ、なるほど。
本の名も、「吉原手引書」。
手引書だったのか???

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2007.08.23

ナゲキバトを読んで

ナゲキバトと言う本を読みました。
以前から友人に紹介されていたのですが、つい日常に追われ、本のことは記憶の隅に追いやられほぼ間違いなく忘れ去る直前。
ふと思い出して手にとり、読み始めました。
読む込みました。
気がつくと読み終え、
本を閉じた瞬間、深いふかい感動で一杯になりました。
「あっっ、誰かに伝えなくちゃ、この本のこと」。

そう言えばこの本自身、もともとは自費出版ででたものだそうです。
それが口から口に伝わり、今や全米で静かなブームを起こしているそうです。
なるほど。
言われてみれば、、、
実際、私も友人の口からこの本を知り、そして今はどうにかしてこの本を多くの方に読んでもらいたいと思っています。

内容、あらすじはちょっとネタバレにならないように本の紹介ページを参考に以下に書きます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
主人公のハニバルは9歳の少年。交通事故で両親をなくしたハニバルは、一人暮らし祖父の“ポップ”のもとで暮らすことになった。
祖父から話を聞いたり遊びを教わったり、ちょっとした仕事を習ったりとする中で両親のいない淋しさを癒していく毎日。
あるとき、猟銃を撃ってみたくてたまらないハニバルは、眠っている祖父のポケットから弾を盗み、一羽のナゲキバトを撃ち殺してしまう。祖父は、巣に残された二羽のヒナのどちらかを選び、撃つように促した。遺された父鳥だけでは二羽は育てられないからだ。
うそをつくこと、生きものを殺すこと。好奇心から起こしてしまった事態に、罪の意識に心を痛めるハニバル。そんな孫に対して祖父は、そうした行為のもつ深い意味と、責任は自分自身でとらなければならないことを伝える。
神とは何か、
生きるとは何か、、、
祖父は静かに優しくそして厳しく伝えていく、、、、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私はこの本を読み終えたとき、
以前、ここでも紹介させていただいた「父母の祈り」を思い出しました。
もう一度紹介します。
===========
父母の祈り

神よ、わが子が自分の道を歩めるように、

わたしが歩みたいと望んだ道を子どもに強いることがないように、

わたしにできなかったことを子どもに強いて、苦しめることがないように、

神よ、わたしを守ってください。

わが子が歩み行く遥かかなたを見据えて、今のわが子の過ちを見守らせてください。

ゆっくりと成長するわが子の姿を、優しい心で見つめることができますように。

些細ないたずらに微笑みかける時と、悪しき行いを毅然とたしなめる時、

その二つの時を見分ける英知を与えてください。

わが子の怒り狂うことばや、押し黙る孤独な姿に、

悩み苦しむ子どもの叫びを聴き取ることができますように。

そして、深い淵を越え、子どもに歩み寄り、理解しあう事ができるよう、

わたしに力を与えてください。

神よ、できないことに目を留めていらだち、怒りの声を上げるのではなく、

わが子が上手にできたことに目を向けて

喜びのことばで褒めることができるよう、

私を導き、ちからをあたえてください。

私が心からわが子を大切にすることによって、

子どもも、心から人を大切にすることができますように。

わが子が力強く自分の道を歩めるように、わたしは子どもを送り出したい。

神よ、どうかわたしに、その勇気を与えてください。


(マリオン・B・ダーフィーの『祈り』から )

==============

神に祈るとは、
自分の願いを頼むことではない。
あらゆる時、あらゆる場面で「判断を間違えない勇気と知恵」を授けてください。
と、祈ることなのだろうか、、、
神は決して御利益なんて人間に与えない。
神が与えるのは人間が自分自身と向き合うひたむきさだけなのだ、、、
と、言うことでしょうか?

そう言えばクリスマスの夜のこと、こんな一節が文中にありました。
「人間は世界を変えようとして軍隊を動員するが、神がこの世を変えるために送ってよこされたのは、たったひとりの赤ん坊だよ」。

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2007.05.22

ククーシュカ ラップランドの妖精 を観て

ククーシュカ ラップランドの妖精と言う映画、ご存知ですか?
実は私は知りませんでした。
先日、友人と観に行って来ました。

とても素敵な映画でした。
あらすじは公式サイトなどに出ていますので、ネタバレにならない程度にここにも書きます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
第二次世界大戦末期、スカンジナビア最北の地、ラップランドではロシア軍、ドイツ軍、そしてドイツと同盟を結んでいたフィンランド軍が戦っていた。フィンランド軍の狙撃兵ヴェイッコは、非戦闘的な態度に怒った戦友らから罰としてドイツの軍服を着せられた上、鎖で大岩に繋がれたまま置き去りにされる。その頃、ロシア軍大尉イワンは軍法会議にかけられるため車で護送中、味方の戦闘機に誤爆されてしまう。命を落としかけた敵味方ふたりの兵士を救ったのは、その地でひとり暮らす女性アンニだった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と、言うことで言葉の通じない三人が繰り広げる奇妙な生活がラップランドの自然を背景に展開されます。
さて、この映画のテーマ、
私はズバリ「生き抜く」ことと見ました。
フィンランド軍の狙撃兵ヴェイッコは鎖に繋がれ置き去りにされるのですが、
彼は鎖を引き裂くためにあらゆる努力をします。
メガネのレンズ外して組み合わせる。そのなかに水を入れて凸レンズをつくる。
木を集めレンズで太陽光を集め火を燃やす。岩に打ち込まれた金杭の上で小枝を燃やす。水をかける。繰り返す。
何度も何度も繰り返す。
鎖で繋がれた彼の姿が大きく夕日に映る。
次の日、また同じことを繰り返す。
さらに今度はライフルの薬莢だろうか、それを集め、小さな爆発を試みる。
試みる、、、、
その目からは絶望は感じられない。
ひたすら杭を外すことのみに徹する姿からは「いきぬくこと」のメッセジー以外伝わらない。
そして、
遂にその思いは通じ杭は外れる。
生き抜くことへの第一関門を彼は通り抜けたのです。

ラップランドの女性、アンニの生き様は美しい。
自然に抱かれ、自然に逆らわず、
が、したたかに生きるアンニ。
自然人とは死にも生にも敬虔なのだと思わせる「確かさ」がありました。
死に行こうとする魂を呼ぶ寄せる術。
原始的で呪術なのだが力強い。
ラップランドの人々の魂の考え方がよく現れていました。


ロシアのイワン。
彼もまた戦争に翻弄され、人を疑うことが身に浸みていたそれまでの生活。
やがて大地に足をつけて、自分が「ここに生きる」ということを学んで行く姿からは、
人への信頼とは言葉ではない、宗教ではない、「心」なのだという当たり前のことが伝わってきます。

時々に映される背景のラップランド。
山と森と湖。
深い色をした自然の中にあって、
さらに深い人の情がとても嬉しい。
生きることの原点を問うこの映画からは、戦争がもたらす不幸と終わった喜びも伝わってきました。
もの悲しくも美しいラストシーンは、
未来への躍動でもありました。

淡々とした流れと押しつけがましくない展開に、
終わった後はミントのような清々しい気分に満たされました。
本当に素敵な映画でした。
まだ観ていない方は是非、ご覧になることをお勧めします。

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2006.10.25

国民投票法案:審議入り

国民投票法案:審議入りで合意 衆院憲法調査特別委と言うニュース。
たいへん。
たいへん。
大変。

いよいよ九条改憲の条件づくりを狙って露骨に出てくるのだろうか???
この問題、本当に、本当に目が離せません。
しっかり、しっかり見ていく必要があります。
今後の動きに注目」。

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2006.08.28

ファシズムはそよ風とともに

安心のファシズム−支配されたがる人びと−と言う本が二年前に出版されました。
著者は斎藤貴男さん。
斎藤さんは著者のメッセジーとして次のように語っています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ファシズムはそよ風とともにやってくる、という警句があります。独裁者の強権政治だけでファシズムは成立しません。自由の放擲と隷従を積極的に求める民衆の心性あってこそ、それは命脈を保つのです。
私たちは今、まさにそのような空気のただ中にあるのではないでしょうか。多くの人々が、何者かに対する不安や怯えや恐怖や、その他諸々がないまぜになった精神状態が、より強大な権力と巨大テクノロジーと利便性に支配された安心を欲しているかのようです。
権力に無条件で服従しない人が現れると徹底的に叩かれるのはこのためです。たとえばイラクの人質事件で当事者や家族たちに浴びせられた集中砲火が、もしかしたら近い将来、この国の歴史の重大なターニング・ポイントだったと評価されてしまうような事態にならないとも限りません。
私たちはいま一度、現状を冷静に見つめ直してみる必要があると思います。不安に満ちた人間にとって、ファシズムはとりあえず居心地がよいのでしょう。しかし、その先に待ち受けているものは何なのか、ということを。
今のうちなら、まだ引き返せるかもしれません。そのための手がかりを、私はやむにやまれぬ危機感を以って、本書に書き込んでみたつもりです。一人でも多くの読者に手にとっていただけることを願ってやみません。
(上記サイトより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この本が世に出て二年。
状況はますます厳しい物になってきている感がしてなりません。

次期総理と目される安倍さん。
なんだかこの頃、とみにとみに凄くなってきます。
以前からタカ派とは言われていましたが、最近の安倍さん。タカを通り越してラプター(Fー22の愛称)のようになりました。
レーダーに捉えにくいというステルス性と、スーパークルーズを持ち合わせていると言われるFー22。
目の前に来るまで分からなくて、気がついたらいきなりアッパーカウントなんてごめんです。

ファシズムはそよ風とともにやってくる、、、なぁんて斎藤さんは書かれていましたが、
そよ風の後にやって来る物はなんだろう???

あべさぁ〜〜〜ん。
美しい国は今あるものをぶっ壊さないと出来ないのですか???
憲法や教基法を変えないと出来ない「美しい国」とはどんな国なのだろう???

 

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2006.07.24

河童忌

今日7月24日は河童忌。
芥川龍之介の命日です。
1927年のこと。

芥川龍之介かぁ、、、、

あなたは芥川の作品のどれがお好きですか?
私は迷うことなく、「杜子春」です。
とかく難解な芥川の作品にあって、「杜子春」だけは非常に分かりやすい。
テーマがはっきりしていて私にでも分かる。
と、いうことでお気に入りの杜子春なのです。
安野光雅さんは「こころのふち」というエッセィの中で
杜子春について以下のように書いています。
〜〜〜〜〜〜〜〜
===すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じです」と読んで、ぽかーんと口を開けているわたしを捨て置いて、作者はさっさと行ってしまったような気がした。我にかえったこどもが「もうひとつ話をしてくれ、ひとつだけでいいから、、、」とせがむのは、話の世界から現実に戻りたくないからだと思う。、、、、、、、、、」

安野光雅「こころのふち」より
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
うーーーん。
言えてる。
私は肯いていました。
そうなんですよね。
読み初めから、自分は杜子春。
愚かで、貧しく、人を信じ、翻弄され、
そして気がついたら、何事もなかったように「もとのまま」。
洛陽門の春の夕暮れ。
それは心にズドンと落ちてくる何かと、
ヒタヒタと歩き去る仙人への追い求めることの出来ない喪失感に見舞われる思いがしたものです。
何故か哀しい、、、
この先はどうなるのか。
仙人の下へ行きたい、、、と願う私。
そんな読後感が好きです。

芥川って書き初めと終わり方が上手い。
実にうまい。
もう、これ以上の書き方はない、とうならせます。
勧善懲悪とか不条理とか、とかとか書いている作者は多い。
しかし、
芥川ほど無駄のない書き方をしている作者は数少ないと私はいつも思っています。
(中島敦「山月記」も無駄のない作品と私は思っています。大好きな作品です)
さて、そんな芥川の作風に少しでも近づこうと、
「宇治拾遺物語」なんて本気で読んだ私です。

そして、こんな芥川の俳句がまた可笑しい。
〜〜青蛙おのれもペンキぬりたてか 〜〜

壮絶なのは辞世の句。
自嘲
〜〜水洟や鼻の先だけ暮れ残る 〜〜   

 『澄江堂句集』所収。芥川は昭和二年七月二十四日の午後一時過ぎ伯母の枕元に来て、明日の朝下島さんに渡して下さいといって、この句を書いた短冊を渡したという。短冊には「自嘲」と前書がしてあったことから、芥川の文業の終末を象徴せしめる凄絶な辞世句となって了った。
蝸牛俳句文庫より)

また芥川の思想については、
松岡正剛さんが軽く纏めています。

いずれにしても人生を駆け抜けた芥川龍之介。
享年35才。
若き天才の今日は命日です。

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2006.07.03

作家の力量

芥川賞・直木賞の候補作決定と言うことで、また楽しみが出来ました。
残念ながら私は候補の作品はまだ読んでいないのですが、、、

さて、このニュースを見ながら、いつも思っていることを今日は書きます。
実は私、
難解な文章・テーマが苦手なのです。

以前も書きましたが、村上春樹の「海辺のカフカ」。
ついていけなかった、、、
いえね。面白いはおもしろいのです。
ところが、読み進むうちに「迷子」になるんです。
冗長というのかなぁ。
しかし、世間は「海辺のカフカ」は凄い。
と、言う。
すると私は悩むのです。
あああーーーー読みきれていない私の力不足かぁ、、、とかね。
そして、もう一度読む。
途中までは、面白い。
しかし、
最後まで私のテンションは続かない。
ねじまき鳥もダメだった。
そこで、私は、「村上春樹って、どうもあわない」と思う。

とっころがギッチョンチョンなのです。
先日、村上の「鏡」という掌編小説を読みました。
これが面白かった。
非常に。
と、いうか怖かった。
この怖さは、栗本薫の「さらしな日記」の怖さに相通じます。
日常に潜む、何気ない怖さ。
ゾクッときます。
誰でもが感じる不可解な日常のある部分を、
ゆっくり、ザックリと切り取り、
読み手は、作者以上に自分の想像に揺れる。
読み終わった後はひたすら「怖い」。
別におどろおどろしいモノは何一つ出ていないのに、、、
これぞ、まさしく筆力か、力量か
と唸ります。

私は、「鏡」を読んで、何を今更と思いながらも
「村上春樹って文章、上手い」と不遜にも評を下していました。

ピカソってデッサンの腕は一流であったと言われています。
一流の基礎の上に、あの抽象があるのです。
(私なんかが書いたら、ただの下手です)
村上春樹も、手堅い掌編小説の上に、あの難解な長編があるんだ、、、と納得。

と、言うことで
〜〜何事も一流と言われる人は、基礎がしっかりしている〜〜
と言う、まるで月曜日の「朝の会」の校長先生のような話で、この話はおしまい。

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2006.05.28

コンスタンティノープルの陥落

明日5月29日は白桃忌です。
ここでも毎年書いていますが、与謝野晶子の逞しく、しなやかで、迸しる思いと氷のようにヒヤリとさせられる洞察力に毎年翻弄されながら、晶子を偲ぶのがこの時期の私です。
しかし、今年はコンスタンティノープルの陥落について思いを馳せています。
1453年5月29日。コンスタンティノープルの陥落の日です。
5月に入ってからは本棚の隅で隠れていた塩野さんの本を、また取り出して読み始めています。
「あの町がほしい」と言って、
オスマン帝国の若きスルタンがコンスタンティノープルを攻め入るまでの歴史を物語風に描いている塩野さんの作品はいつもの塩野ワールドと同じく精緻に調査をし、事実と研究から練り上げた先に「人間」が描かれている素晴らしい作品です。
読み進むにつれ、いつのまにか全ての登場人物に感情移入している私がいます。
ある時は気高き最後の皇帝であったり、またある時は野望に燃える若きスルタンであったり、あるいは歴史の証言者達であったりと、その都度ハラハラ、どきどきしながら読んでいました。
そしてそれらの人物の声を通して、歴史の表舞台には登場しなかった多くの名もなき人々の思いまで手に通るように伝わってきます。
作家の筆力もさることながら、
「歴史とは何か」とこの頃とみに考えているからでしょうか?
高校までの世界史では、
「1453年、東ローマ帝国、オスマントルコに敗れる」の一行で書かれるその歴史の中にうずくまっている多くの民衆の声が聞こえるような気がします。
今、生きている時代がそうさせるのかもしれません。
栄華を誇ったオスマントルコもいずれ衰退滅亡の運命を辿るのは必然です。
同じく塩野さんは「レパントの開戦」冒頭で以下のように言う。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
戦争は血を流す政治で、政治は血を流さない戦争であると言ったのは、誰であったろう。毛沢東であったかクラウゼヴィッツであったか、それともこの二人ともであったか。
もしもこの説が正しければ、私も、血を流す政治を描く前に、血を流さない戦争を描く必要があるように思われる。
レパントの海戦は、まずはじめに、血を流さない戦争があり、
次いで、血を流す政治とつづき、
最後に再び血を流さない戦争になって終わった、歴史上の一事件であった。
おそらく、他の戦争がそうであったのと同じに。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と。

戦争は血を流す政治で、政治は血を流さない戦争である、、、かぁ。
そして、
〜〜まずはじめに、血を流さない戦争があり、
次いで、血を流す政治とつづき、
最後に再び血を流さない戦争になって終わった、歴史上の一事件であった。
おそらく、他の戦争がそうであったのと同じに。〜〜
まさに今に通じます。
よくよく心しなければと改めて思ったものです。

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2006.05.26

水上勉を思い出す

昨日、FAIRNESSさんから「偏見」と言うタイトルのトラックバックを頂きました。
今日は愚樵さんからビラミッド型・サークル型と言うエントリーのトラックバックを頂きました。
お二人のブログを拝見しながら、
何故か水上勉を思い出しました。
なぜですかね???
以前、と言っても水上が亡くなった直後の9月に書いた記事を読み返しています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
のたうち回り、自らを「愚かだ」、おろかだと、言い、
這いずり回って、その生を生き抜いた水上勉。
この本を読みながら、
私は「安心」をしました。
人間の極限に追い詰められた「愚かさ」は、まさに自分のものであり、
自分こそが、「この のたうち回っている水上勉である」。
「生きる」ということが、どんなに凄まじいものであるかを、教えてくれます。
そして、
「不浄である」人間に一縷の光を、確かに指し示してくれる本であると、私は思います。
人間が、間違いを犯す者であることは、古今東西、多くの哲学、文学で語られています。
間違いをおかす 故、
神(仏)は無謬である、と思いたい。
しかし、その神(仏)とて、人間が愚かな知恵で生み出したものである。
神(仏)もまた然り。
人は、神(仏)と共に、
愚かさを共有して、生きていかなければならないのでしょうか???
ひたすら、
愚かに、生きまくった水上勉。
そして、
真実を探し求めた水上勉。
その壮絶で迫力ある「生」は、
今、土に帰った。
本当に、
ほんとうに、
冥福を祈り、
そして感謝を捧げたいと思います。
ありがとうございました。
(以前の記事より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この世の一切が全て「空」であると思えば、
瑣事ばかりの人の日常などは愚かなものである。
しかし、この愚かさが人間である。
「自分こそ愚かな人間はいない」と言い続け、書き続けた水上勉。
般若心経をひたすら、ひたすら読み、誦し、己の煩悩から逃れたい、救われたいとのたうち回りながら、
それでも、水上は言う。
「悩み多いこの世に、悩みのタネを撒いている私は、その種子の芽立ちによって、それぞれの業の花をひらかせて暮らしたい。妻子とともにのたうちまわっていきるしかないではないか。どこに安心立命などあるものか。
そんなものがあったらみせてくれ。
、、、、、」
そして、そして最後にこう結ぶ。
「正眼国師は、この私をどう思われるか。禅師は今は故人ゆえ、いくら赤穂の龍門寺にその木造を拝んで訊ねても、ご返事は帰ってこないのである。」
と。

壮絶な生き方で、人生を駆け巡り、波をくぐり抜けた作家、水上勉の本人曰く愚かな人生は、
愚かな人生で右往左往する私にとって、どんなにか心強いものだったろうか、、、
水上はやさしい。
愚かさを愚かさとして認め、受け入れ、そして一緒に流してくれる。

愚かであるが故にひたすらであった水上勉、その人をまた思い出しました。

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2006.01.18

東野圭吾さん

直木賞に東野圭吾さんの
「容疑者Xの献身」が選ばれました。
私は、この本はまだ読んでいないので、早速読もうと楽しみにしています。
感想はいずれ読み終えてから、また書きたいと思っています。
さて、
実は私は東野圭吾さんが大好き!!!なのです。
東野さんの本を読み始めたきっかけは、
映画、「秘密」からです。
あの映画を観た感動は、しばらく続きました、、、
その後、本を手にとり、読みましたが、
映画とは違った味わいと感動を再び得ることができました。
それから、東野さんの本をかなり読み、その読み応えは十分に満足できるものでした。
と、
言うことで、東野圭吾さんが直木賞受賞と聞いて、
とても嬉しく思っている私です。
芥川賞の絲山秋子さんの本はまだ読んだことがないので、
また挑戦してみようと思っています。
まずは、
絲山秋子さん。
東野圭吾さん。
おめでとうございます!!!

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2006.01.12

対岸の彼女

昨日は煮詰まった空間からの脱却ということで、日々の何気ない日常に潜む吹き溜まりについて書いたりしました。
そう言えば、本棚の隅に追いやられていた角田光代さんの対岸の彼女を思い出して(角田さん、ごめんなさい)
早速、今朝は読み始めました。
本の内容紹介には、以下のように書かれています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「30代、既婚、子持ちの「勝ち犬」小夜子と、独身、子なしの「負け犬」葵。性格も生活環境も全く違う二人の女性の友情は成立するのか!?
「負け犬」という言葉が社会的に認知されたいま、ついに書かれるべくして書かれた小説が登場しました!
独身の女社長・葵と、夫と子供を持つ主婦の小夜子は共に三十四歳。性格も育った環境も違う二人の女性に、真の友情を築くことはできるのか——。働く女性が子育て中の女性と親しくなったり、家事に追われる女性が恋愛中の女性の悩みを聞くのは難しいもの。既婚と未婚、働く女と主婦、子のいる女といない女。そんな現代女性の“心の闇”がリアルに描かれます。
(上記ファイルから)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ううううう=====んんん。
この書評、ちょっと違うな。
尤も、書評の評論をする積もりはないので、これはこれとして、
私の読後感は、
「焦り」
です。
「女同士の友情」を縦糸に、
「生きにくい世の中を女性として如何に生きるか」を横糸に構成されている、
分かりやすく、読みやすい小説です。
設定は、現実と過去とが入り組みながら、
二人の主人公が交差していく中で、それぞれの抱える問題がクローズアップされてきます。
そして、その問題の多くは、
女性が抱える、あるいは直面している問題でもあります。
独身女性は独身であるがゆえに、
既婚女性は、自分以前に家族の一部分であることの閉塞感ゆえに、
悩み、苦しむ場面は、女性作家ならではの細かい描写で描かれています。

ふとした時、それは家事の合間とか、
子どもとの会話とか、
夫との表現の違いとか、、、
そんな時に、ふと感じる「自分の人生とは何か」という疑問。
あるいは、
過去の思い出に出てくる女子高校生。
もう、涙が出てくるくらい哀しい。
ささいなことがきっかけでイジメられる。
みんな、自分が対象になるのは、イヤだから強い者に従っていく。
しかし、自分で自分をしきりに撞着する。
その描写がリアルで、泣けてきます。
思春期の傷つきやすい少女たちが、短いスカートの裾を翻しながら
足早に、その時代を駆け抜けていきたがる、そんな思いがジンジンと伝わってきます。
人は決して一人では生きることが出来ない。
人間関係の最初に出会うのは親。
青春時代の幕は親との相克から始まる、
そして友達。
それは必ずしも嬉しくも楽しくもなく、むしろ苦い。
記憶の底に沈めて、日の光はあてたくない思い出や、
彼方にある記憶が引きずり出してくるような小説の中の高校生の彼女たち。
およそ誰でもが経験する「イヤな体験」。
自分のそれは大きくて、負いきれなくて、いきおい蓋をするのだけれど、
実は、
「皆同じ」
という、当たり前のことを思う主人公に、
読者は自分を重ねる。
そして、
過去の上に今があり、
今の延長に未来がある。
過去の亡霊は対岸にいるが此岸にいる主人公には、
もう、思い出の空間はいらない、、、
小説の中の主人公たちも、
それぞれに成長していく。
独身女性は、自分の空間の広がりを求めて。
既婚女性は、家族の中での空間の広がりを求めて。
少々、焦りを感じながらも、
生きていくことのもどかしさと、苦しさと、やりきれなさと、
そして未来に居場所を求めて
物語は終わる。


と、いうわけで、
私はこの本を閉じた瞬間に出た言葉は、
「悩みは深い、煩悩は深い」
フッ====
です。
何も犠牲にする必要はないの。
今のままで、ほんのちょっと理解を示す夫と、
ほんのちょっと分かりやすい子どもと、
ほんのちょっと自分に出来る仕事があれば、
私は、
文句なんか言わないの。
そうそう、
多くはいらないの、一人でもいいから私をわかってくれる同性のお友達と。

と、まぁ誰でもが行きあたっている壁の厚みが、
改めて思い知らされた本でした。
今度、WOWOWで放送されるとか、、、
楽しみです。
まだ、読まれていない方も是非、この機会に手にとってご覧になりませんか?

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2005.10.14

だます心 だまされる心

だます心 だまされる心と言う本を読みました。
筆者は安斎育郎さん。今は立命館大学国際平和ミュージアム館長。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私は、元来、「だまし」の専門家ではありません。手品を趣味とする科学者が、人生折々に経験したことをやぶにらみしているうちに、諸事実に通底している漠然とした「だましの論理」とでもいうべきものに気づきはじめたということでしょうか。そう気づいてから意識的にもろもろの自然現象・社会現象を見直してみると、「だまし」という負のイメージとは裏腹に、じつに豊かな生きる知恵や悪巧みが渦巻いていて興味津々なのです。どうぞ「だまし」の世界をたっぷりとご堪能ください。
 (上記サイトより抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私も何回か安西先生の手品を拝見したことがあります。
手品もさることながら、その巧みな話術に引き込まれ、アッと言う間に時間は過ぎ楽しい一時を過しました。
家に帰ってから、早速ハンカチを取り出したりと手品にトライ。
でも根気がないので、いつのまにやら忘れてしまいます。
ところが先日、友人が「だます心 だまされる心」という面白い本があるよ、、と紹介してくれたので早速読んでみました。
筆力がある上に、「だまし」というとても魅力的なテーマなので、すぐに読むことができました。
感想は、
「だまし」を美学とするためには騙される方も騙す方もユーモアが必要なんだな〜〜〜というものです。
騙すと言う言葉から人はマイナス、負のイメージを持つが、実は騙すということは、実生活のなかでも私たちは積極的に、かつふんだんに使っている。
騙される方もその騙しのテクニックに拍手喝采を贈りながら、騙すという高度なテクニックを育てあげ、
人は心の余裕や文化や、はたまた科学さえ作り上げてきた。
勿論、マイナス、負の騙しも日々テクニックを磨き、人の心の隙に分け入ってくる。
では、
文化としての騙しは楽しみながら、
悪としての騙しにはかからないにはどうするか。
それには、
客観的事実と主観的事実を混同しないように日頃から訓練すること。
心にゆとりをもつこと。
また詐欺等に対しては、近隣とネットワークを作っておく。
など、日頃の心構えも書いてあります。

この本を読みながら、
私も思い当たることばかり。
私はケチだから「お金を払え」と言うものは「ちょっと待て!」と警戒するのですが、タダには滅法よわい。
以前、「なんでも景品」がもらえる集まりに行きました。
これ欲しい人 手を挙げて、と主催者が言います。
ケチな私はバンバン手をあげて景品をゲット。
しかしその集まりが「布団」販売と知って、慌てて逃げてきた事があります^^;
結局2時間も景品につられて、その場にいたのですが、家に帰って景品をみれば、
ティッシュとか町でも配っているものばかり。
一人で、己の欲に笑い転げていました^^;^^;^^;
ただ、すごく疲れました。
勿論、欲でケチな私が2時間も時間をかけていたのだから、疲れるのですが、
もう一つは、やはり相手の騙そうという思いの強さが疲れになりました。
もうもう、
エンガチョでした(自分で自分の心に言い聞かせる私のおまじない)。
また、勧誘電話が多い。
おくさん、良いマンションありますよ、、、という記事を書いたことがありますが、電話もひっきりなしにかかります。

政治でも真実を国民に伝えないという、ある種の騙しがあります。
小泉さんにも騙されたくないなぁ〜〜〜^^;

しかし、安西先生の本にもあるように、騙す事はマイナスばかりではありません。
自己開発、啓発のためにプラス思考でいくことは、必要です。
私は、わが麗しのヘップバーンという文で紹介しましたが、その涙ぐましい努力をした事もあったのですが、、、
いまだに、私の中にはヘップバーンはいない^^;

また、科学関連でも騙しは多いです。
利口な馬、ハンス
アダムとイブとそしてヘソ
などの記事も以前書きましたので、お時間がありましたらご覧ください。
いずれにしても、
だまされる、、、という事を承知でケラケラと笑いながら楽しく騙されるような、
お洒落で華麗でスマートで、
粋な生き方がしてみたいものです。

〜〜心あてに 折らばや折らむ 初霜の
置きまどはせる 白菊の花〜〜凡河内躬恒

当てずっぽうで折るとしたら、折ってみようか。あたり一面に初霜が
降りて、霜の白さと区別がつかずに紛らわしい白菊の花を。

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2005.07.11

さおだけ屋はなぜ潰れないのか?

本屋に行けば平積みされている本の中で見つけた一冊がこれ。
さおだけ屋はなぜ潰れないのか?
早速買いました。
身近な疑問から始める会計学というサブタイトルがあって、
著者は会計士の山田真哉さん。
「さおだけ屋は何故潰れないか?」
「ベッドタウンに高級フランス料理店の謎」
など、私自身は今まで疑問にも思わなかったことを、会計士の立場から分析。
なるほど、、、、
なるほど、、、、
と、すぐに読める軽い文体と役に立つ知識が満載でした。
これから、ますます時代は混迷を深め、個人の生計も何をどのようにして蓄えていったらいいのか分からないこの頃。
そんな時代にピッタシの会計学の啓蒙書。
生きているということは、政治と経済の中に放りこまれているということだから、
どうせ、放り込まれるなら
「敵の正体」が分かった方が断然 得。
得をしないまでも、損をしない我が家の家計の考え方が、とても分かりやすく書かれています。
自営業者でなくサラリーマンは、税金やら年金のしくみには疎い。
しかし、
疎いと損をするという直感が働く今日この頃。
まず、その手始めに、こんな本を読むのもいいかと思います。
まだご覧になっていない方は、是非読まれたら如何でしょうか?
(別に私は山田先生や出版社の手の者ではないが、、、)

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2005.06.26

上野千鶴子著「家父長制と資本制」

今日は、上野千鶴子さんの「家父長制と資本制」を読んでいこうと思います。
要約のみを、私がまとめましたので、興味のある方は読まれることをお奨めします。
なお、私自身の感想はいずれ「ナショナリズムとジェンダー」とともに書きます。
今回は私自身の覚え書きとして、内容のみの まとめです。
最初に目次の紹介。
1 理論篇
マルクス主義フェミニズムの問題構制
フェミニストのマルクス主義批判
家事労働論争
家父長制の物質的基礎
再生産様式の理論
再生産の政治
家父長制と資本制の二元論
批判に応えて
2 分折篇(家父長制と資本制
家族の再編
結び—フェミニスト・オルターナティヴを求めて)
付論 脱工業化とジェンダーの再編成—90年代の家父長制的資本制

上のように本書は読者を案内していきます。

では、まず理論編から。
マルクス主義フェミニズムの問題構制
〜マルクス主義と女性解放〜
解放の思想は解放の理論を必要とする。
誰が、何から、如何に解放されたいのかをしらなければ、現状に対する不満や怒りのエネルギーは方向を見失う。
女性解放の理論は三つがあり、三つしかなかった。
1社会主義婦人解放
2ラディカル・フェミニズム
3マルクス主義フェミニズム

社会主義婦人解放は抑圧の解明の変数に「階級闘争」を持った。
しかし、現実にはこの変数だけでは到底女性の解放はあり得なかった。
ラディカル・フェミニズムはフロイト学説に依拠した。
フロイトの女児の男根崇拝から自分の劣等、内面化して「性支配」やがて「家父長制」に組み込まれていく女たちの解放を心理学の面から探求していった。
フロイトは抑圧からの適応、マルクスは抑圧からの解放を目指した。
社会主義婦人解放は女性の解放を社会主義革命に還元。
ラディカル・フェミニズムは性革命を尊重。
そこで登場したのが、どちらにも偏らないマルクス主義フェミニズムである。
今、ここに生きている中で要求されるものは「おのおのの理論の射程と限界を見極め、その限で理論構築の可能性を追求することである」

〜フェミニストのマルクス主義批判〜
「家族は階級の外にある」という言葉でフェミニストのマルクス主義批判がはじまる。
しかし、家族という領域が階級支配、したがって資本制の抑圧の外部にあり、それから自由であることを意味しない。
女性が労働市場に参入しても、過程にとどまっていても資本の間接的な支配を受けている。
女性にとっては市場のうちも外も解放ではない。この限においてはマルクスにも限界がある。
マルクス主義フェミニズムはマルクス主義に忠誠を誓うことでなく
限界を認め、そこから出発することである。
マルクス主義フェミニズムは女マルクス主義者でもなければ、フェミニストマルクス主義者でもない。性支配に物質基盤があると考え、解明しようとする「唯物論的フェミニストである」

〜家事労働論争〜
マルクス主義フェミニズムの最大の理論的貢献は、
「家事労働」という概念の発見である。
「家事労働」は「市場」と「家族」の相互依存関係をつなぐミッシングリングであった。
「市場」と「家族」への分離が生じた近代産業社会の要の位置に「家事労働」はある。
そして、ここから主婦論争へと発展していく。
「愛という名の労働」をどの様に考え、位置づけていくか。
世界各国、日本における一連の主婦論争のはてに、マルクス主義フェミニズムは三つの概念を発展させる。
1家父長制
2再生産
3イデオロギー

〜 家父長制の物質的基礎〜
家父長制とは何か。
以下に定義する。
〜〜家父長制の物質的基盤は男性による女性の労働力の支配のことである。この支配は女性が経済的に必要な生産資源日かずくのを排除することによって、また女性の性的機能を統制することによって維持される〜〜〜

〜再生産様式の理論〜
女性はその性ゆえ、いつでも再生産に関わる。
では再生産とは何か。
生産システムそのもの、労働者、そして人間という生物学的なもの。この3つが次々と生み出されることを再生産という。
どうすれば唯物論てきな分析方法を、生産と再生産とを単一の過程の部分として十分に統合できるような、また性差が階級構造の組織形態と分離できないことが明らかになるようなやり方で用いることが出来るか?

〜 再生産の政治〜
中絶、子どもの数、子どもの教育費、世代間支配などを分析。
再生産費用の均等。世代間支配の終了などを提唱。

〜 家父長制と資本制の二元論〜
統一理論(1,2,3)か二元論(4,5)か。
1性支配は理論的に無意味である。
2性支配は資本制的生産関係から帰結する
3性支配は独立した家父長制から帰結する
4性支配は資本的生産関係と分かちがたく結びつき、資本制的家父長制という単一のシステムを形成
5性支配はそれぞれ相互の独立した家父長制と資本制という二つのシステムの相互作用の結果。
しかし、今日の女性はさらに多面的な分野での考察を加えなければならない。
〜批判にこたえて〜

2 分折篇
〜家父長制と資本制〜
・第一期
工業の発達によってドムス(家内奴隷から家畜まで含む単位)が解体。単婚家族の芽生え。
・第二期
戦争によって「銃後」の女性たちの意識革命と未婚女性の労働市場進出。
・高度経済期
男にとって「一億総サラリーマン時代」であり女にとって「サラリーマンの妻時代」
近代的な家父長制の成立(封建的なそれとは違う)
主婦の大衆化と女性階級の登場
・第三期
主婦労働者、パートタイマの出現
その中での女のニ重労働。

〜家族の再編〜
人口問題。
女性の晩婚化と少子化。
再生産の自由などが論議される。

〜 結び—フェミニスト・オルターナティヴを求めて〜
「過去300年間にわたるフェミニズムの歴史をふりかえって、
その始動や高揚、ガタガタした発展ぶりを見れば、その開花の時期が特定の社会経済的な変動期に一致していないだろうか?その移行期には女性は生産への新たな参入、もしくは新たに認知された参入を通じて、一時的にももっとも先駆的な位置を占める」
(ミッチェル)

「女の経験を男の言葉で語る」ことではなく「男のやっていることを女の言葉で相対化できたとき、はじめて資本制と家父長制のもとに置かれていた女性は、それから脱してオルターナティヴを見つけるであろう。

〜付論 脱工業化とジェンダーの再編成—90年代の家父長制的資本制〜
略。

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2005.06.23

「戦争と有事法制」という本

戦争と有事法制という本があります。
著者はお馴染みの小池政行さんです。
今日は、この本を紹介していきます。
法案の制定までの歴史や、国際情勢。さらにこの法案の問題点、最後に私たち国民が、今真剣に考える時期に来ているというメッセージが述べられています。
とても詳しく、またわかりやすく書かれていますので、是非お読みください。
まず、本書は次の構成からなっています。
序章 「有事法制」は成立した
第1章 「有事法制」の歩み
第2章 戦争のルール
第3章 「有事法制」審議を読み解く
第4章 日本国憲法と「イラク派兵」
終章 シミュレーション「有事法制、発動す」

序章 「有事法制」は成立した
2003年6月6日日本に戦後初めての「有事法制」が成立。
制定に先立ち2002年2月4日の小泉純一郎総理の施政方針演説で、「備えあれば憂いなし」という言葉と共に、国会における本格的な審議が始まった。
総理の演説の中味について、「独立」「主権」「安全を平素から確保する体制」の具体的な考察を加えることがこの本の目的である。

第1章 「有事法制」の歩み
「即ち兵強し」という考えが日本には昔からある。
有事という言葉は遡れば「幹非子」に辿ることが出来る。
「無事なれば即ち国富み、有事なれば即ち兵強し」と。
次に時系列で時々の政府が行ってきた「法制成立」までの歩みを見る。
1955年 アイゼンハワー大統領の対日政策発表
「米国と強く結ばれ、共産中国への対抗勢力として役立ち、極東の自由世界の力に貢献できる日本が、最も米国の国益にかなう」
「より健全で積極的なナショナリズムが日本に発展することは、日本が大国として再生する上で緊要なことである。このようなナショナリズムを日米提携の文脈に取り込むことが、米国の対日政策の基本である」と。
そして、1960年新日米安保条約の締結
こうした中、三矢図上作戦計画
とくにこの三矢研究については、岡田春夫議員の国会で暴露したことにより世間に明るみにされた経緯が書いてある。
旧ガイドライン
      ↓
日米共同作戦の範囲をシーレーン防衛」に拡大
こうして、1978年福田内閣の時「有事法制」が本格的に研究されるに至る。
83年、中曽根内閣の「運命共同体発言」
「不沈空母」発言(ワシントンポスト紙)
 1995年 ナイ・リポート発表 
「日米関係ほど重要な二国間関係は存在しない。日米関係は米国の太平洋安全保障政策と 地球規模の戦略目的の基盤となっている。」と定義。
これにより、よりいっそうの防衛強化へと日本は突き進む。       
そして、1997年新ガイドライン制定。
旧ガイドラインと質的、量的に格段の差がある内容。
2000年10月 アーミテージレポート発表。
「両国の同盟関係は”負担の分かち合い”にとどまらず”力の共有する”時がきた。
そのためには”集団自衛権の行使””有事法制の成立””国連平和維持本体業務への参加凍結解除””情報面での協力の強化”を主張。
このような背景のもとついに2003年有事法制が成立。

第2章 戦争のルール
戦争はいかなる時代、いかなる場所でも起こってきた。戦争の現実は暴力による殺戮である。戦争となればあらゆる残虐非道なことが行われるのかと問われれば、その答えはイエスであ屡。あらゆる残虐非道なお子ないが許されているのかと問われればノーである。
と、して国際法の考え方へと導かれる。
その後、日本が組み込まれていく戦争へのシナリオに触れる。
現在の国際社会では、大国同士が、その正規軍を展開させて正面激突の可能性は極めて低い。日本の環境を考えると大規模テロの対象になる、北朝鮮などの日本を以前敵対視する国からの攻撃などがあるが、最も可能性の高いのは、米国の軍事行動を支援する形で戦争に巻き込まれていくシナリオである。
周辺事態に対応して、自衛隊が米軍との共同軍事行動をとる中で日本が有事体制になっていく。この現実に起こりうるシナリオの対応出来ない「有事法制」ならば無用の長物である。

第3章 「有事法制」審議を読み解く
国会での質疑を披露しながら、「有事法制」の欠陥を「国民保護法制」の不備を中心に紹介。
ごく単純に考えてみよう。
有事法制とは、その善し悪しはどうであれ、命の値段付という側面を持っている。その本質的な目的は、有事の際に「国家の安全と独立」を守ることである。
そのさいの国が果たすことは制定されている。また国民の義務についても決められている。
しかし、「国民保護法制」はいまだ具体的に制定されいない。
国民にとってまず何よりも大切な有事下の保護が曖昧な形で成立した現法案は、欠陥法案であると主張。
今後の成り行きに注目する必要がある。

第4章 日本国憲法と「イラク派兵」
まずアメリカ、ドイツなどの有事法制の比較。
次に有事のさいの基本的人権について。
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
 
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

人間社会は権力と秩序を有し、またこれを絶対的に必要とする。
権力が肥大化し濫用されるとき、個人は人間として処遇ないし尊重されない事態に陥いる。この権力の濫用や逸脱に対して、個人が人間としての尊厳を保つ為に行う利益の主張が人権の主張である。
しかし、この権利にも様々な限界がある。
それは「公共の福祉」との比較衡量の場合が多い。
「精神的自由」と「経済的自由」との関連など明らかにしなければならない問題が山積である。
次に自衛隊がイラク派兵を行った法的な根拠について述べてある。
ここでは、国際紛争についてや、何故イラクだったのかなどを詳細に述べる。
そして、今の有事法制が本当に日本を守るためのものか、あるいは米軍の兵站活動の一方の担い手でしかないのかと疑問を投げる。

終章 シミュレーション「有事法制、発動す」
では、現実に有事になった場合はどうなるかということをこの法案にそってシュミレーションを試みる。
そこで明らかになったことは、この法案は決して国民をまもってくれはしない、という現実であった。
結語
このようにして、我々は有事法制を持った。
それは端的にいえば、自衛隊の活動を円滑にするための法律を持ったことである。国民の生命や財産を守るのが自衛隊の役目である。ならば、自衛隊の活動が円滑になることは、
我々の生命・財産が確実に守られることになるのか。答えは否である。
ならば有事を広く捉えて緊急事態に十分備えるものになるのか、例えば災害やテロ。それも否である。
これらの対策は「今後十分検討して作っていく」という程度の認識である。
また。肝心の「国民保護法制」は後回しである。
そもそも有事とは何かも曖昧なまま出来上がった有事法制。
もう一度、深く考えていかなければならない。

参考
日本国憲法
有事法制関連法

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2005.06.15

ナショナリズムとジェンダーを読む

 〜〜国民国家を超える思想は論理必然的にこの結論へとわたしたちを導く。「女」という位置は、「女性国民」という背理を示すことで国民国家の亀裂をあらわにするが、そのためには「女=平和主義者」という本質主義的な前提を受け容れる必要はない。「国民国家」も「女」もともに脱自然化・脱本質化すること——それが、国民国家をジェンダー化した上で、それを脱構築するジェンダー史の到達点なのである。〜〜

上野千鶴子さんは「ナショナリズムとジェンダー」の最後をこの様にして締めくくります。
彼女の一貫した主張は、今までの歴史の数々が語る正史とは、
それが民族の解放であれ、階級闘争であれ、いずれも女性解放が高らかに謳われ、勝ち取られたことはかってない。というものです。
ちょっと長いですが、さらに引用。
 「フェミニズムは国家を超えたことがないという歴史にもとづいて、フェミニズムは国家を超えられない、と宣告すれば、わたしたちはふたたびさまざまな国籍のもとに分断されることになる。もはや「シスターフッド・イズ・グローバル」という楽天的な普遍主義に立つことは誰にも不可能だが、ジェンダーという変数を歴史に持ち込んだのは、そのもとで階級、人種、民族、国籍の差異を隠蔽するためではなく、さらなる差異——しかもあまりに自然化されていたために認識されていなかった差異、いわば最終的かつ決定的な差異——をつけ加えるためではなかったか。
 ポストモダンのフェミニズムのもとでは、ジェンダーのほかに 人種や階級という変数が加わった、と言われるが、むしろ人種や 階級という変数がジェンダーという変数を隠蔽してきたことを、 フェミニズムは告発したはずだった。人種や階級という変数は、 新たに発見されたのではなく、ジェンダー変数を契機として、よ り複合的なカテゴリーとして「再発見」されたのである。」

何故彼女がこの様な結論を導き、さらに目指すものは何かを、この本を読み解きながら考えていきたいと思います。
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第1章 国民国家とジェンダー
まず、序で
 歴史とは「現在における過去の絶えざる再構築」である。と定義。
歴史に「事実」も「真実」もなくあるのは特定の視覚からの問題化による再構成された「現実」だけであるという。
そして、戦後史のパラダイムチェンジへと続く。
「国民国家」を変数に、産業革命→市民革命→国家化という流れで歴史を見直し、さらに、ジェンダーという変数を加えるとどうなるか?
そこで著者は女性史のパラダイムチェンジを述べ、被害者としての女性から近代総力戦による「加害者」としての女性へと言及。
メタヒストリ