2009.09.28

終末医療

先日、学校教育の中での科学と宗教と言うエントリーを挙げました。
元の話題はFSMさんのブログ記事から「科学と宗教」を抜き出して書いたものです。
その後、さらにFSMさんのブログは充実して、質の高く濃いものへとなり、私も多くを学びました。
発展した議論は、ついに「人工宗教」でニセ(疑似)科学はなくせるかと言うタイトルへと進み、追いかけるのに私もてんてこ舞い。
エントリー内容や、いろんな方のコメントから得ること大。
で、
で、
相変わらず、気になったら、先に進めない私は、どうにも気なる箇所にひっかかり足踏み。
ズバリ。
「人工宗教」。
うううううううう=====ん???????
なんやソレ?
ですが、、、、、
ただ、FSMさんのところでの討論は、人工宗教へと進んだ経緯はニセ科学の代案としてのソレで、
十分意味のあるものでした。
と、言うことで、
ここからは、
FSMさんやメカさんとは「さようなら」して、勝手に一人歩き。
FSMさん、メカさん。
ありがとうございました。

さてさて、、、、、、、

人工宗教かぁ????

そもそも宗教ってなんだ?
いつも通りWikipediaのお世話になれば、
「宗教(しゅうきょう)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」そうです。
ムムム。
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念かぁ〜〜〜〜
なるほど。
尤も「宗教とは何か」と言う問いには「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」とwikipediaにはあります。
またその表現方法も多様です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一神教と多神教、汎神論
民族宗教と世界宗教
伝統宗教(既成宗教)と新宗教(新興宗教)
自然宗教と創唱宗教
アニミズム・アニマティズム・シャーマニズム・トーテミズム
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ウウウウム。
この中身を見ていけば、もう迷路に入ること間違いないし。
人工????
かぁ。
と、言うことで、そうした表面からのアプローチは専門家に任せて。
「なぜ、宗教を必要とするか」という切り口で今日は書きます。

ズバリ。
いずれ死ぬからでは、、、と思います。

死ぬから生きることの意味を問うために宗教があるのでは、と私は思います。
死ぬこと、死んだあとの世界への意味や解釈は、分かりようがないのですが、
今、生きている、ということは分かります。
そして、どの様に生きるか、、、、と言うことを教えてくれるのが宗教かなぁ?と思っています。
拝めば助けてくれるとか、
お賽銭をあげれば自動販売機のように幸せ切符が出てくる、というようなものではないと思います。
むしろ、
宗教は敢然と向き合うことなのですよね、人生と。

そこで思い出すのは先日見たドラマ。
「天国で君に逢えたら」
実に良いドラマでした。
実在の人物をモデルにしているのですが、今回のドラマは患者や家族がヒーローではなく、
カウンセラーの役を担う精神科医でした。
頼りなくて、真剣で誠実な役どころは二宮和也君にピッタリ。
さて、このドラマ、何がいいって、
人が死ぬところの臨場が映し出されていないので、
やたら視聴者の涙を誘わない。
誘わないから、その分、観ている者は、「生きることと死ぬこと、遺していくことと遺されていくこと」の重みをそれぞれに考えることが出来るのです、、、、、
終末を前にして現医療の無力であることを明らかにしていきます。
していきつつも、、、、、
医療スタッフは患者の人権と尊厳を支えるために最大の努力をしている姿から、死を目前にしてどう臨むのか、、、、、受け入れるのか?????を問います。
それは結局、宗教になるのだろうか?
信仰になるのだろうか?????

うううううう〜〜〜〜〜ん。

確かにそうした心の受け皿も大きいのだろうな、と思う一方で、
現実の終末医療は延命治療のあり方を求めて、多くの課題を積んでいます。
「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」についてを見ると、以下の通り。
==============

終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン
1 終末期医療及びケアの在り方
① 医師等の医療従事者から適切な情報の提供と説明がなされ、それに基づい
て患者が医療従事者と話し合いを行い、患者本人による決定を基本としたう
えで、終末期医療を進めることが最も重要な原則である。
② 終末期医療における医療行為の開始・不開始、医療内容の変更、医療行為
の中止等は、多専門職種の医療従事者から構成される医療・ケアチームによ
って、医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべきである。
③ 医療・ケアチームにより可能な限り疼痛やその他の不快な症状を十分に緩
和し、患者・家族の精神的・社会的な援助も含めた総合的な医療及びケアを
行うことが必要である。
④ 生命を短縮させる意図をもつ積極的安楽死は、本ガイドラインでは対象と
しない。

2 終末期医療及びケアの方針の決定手続
終末期医療及びケアの方針決定は次によるものとする。
(1)患者の意思の確認ができる場合
① 専門的な医学的検討を踏まえたうえでインフォームド・コンセントに基
づく患者の意思決定を基本とし、多専門職種の医療従事者から構成される
医療・ケアチームとして行う。
② 治療方針の決定に際し、患者と医療従事者とが十分な話し合いを行い、
患者が意思決定を行い、その合意内容を文書にまとめておくものとする。
上記の場合は、時間の経過、病状の変化、医学的評価の変更に応じて、
また患者の意思が変化するものであることに留意して、その都度説明し患
者の意思の再確認を行うことが必要である。
③ このプロセスにおいて、患者が拒まない限り、決定内容を家族にも知ら
せることが望ましい。

(2)患者の意思の確認ができない場合
患者の意思確認ができない場合には、次のような手順により、医療・ケア
チームの中で慎重な判断を行う必要がある。
① 家族が患者の意思を推定できる場合には、その推定意思を尊重し、患者
にとっての最善の治療方針をとることを基本とする。
② 家族が患者の意思を推定できない場合には、患者にとって何が最善であ
るかについて家族と十分に話し合い、患者にとっての最善の治療方針をと
ることを基本とする。
③ 家族がいない場合及び家族が判断を医療・ケアチームに委ねる場合には、
患者にとっての最善の治療方針をとることを基本とする。

(3)複数の専門家からなる委員会の設置
上記(1)及び(2)の場合において、治療方針の決定に際し、
・医療・ケアチームの中で病態等により医療内容の決定が困難な場合
・患者と医療従事者との話し合いの中で、妥当で適切な医療内容についての
合意が得られない場合
・家族の中で意見がまとまらない場合や、医療従事者との話し合いの中で、
妥当で適切な医療内容についての合意が得られない場合
等については、複数の専門家からなる委員会を別途設置し、治療方針等につ
いての検討及び助言を行うことが必要である。
======================


と、言うことで、ドラマとは違い、現場は倫理と法律にも縛られながら、
患者ひとりひとりと立ち向かっています。

私たちは誰だっていずれ迎える死。
その事実を受け止めるために、「生きる」ということの意味やあり方を問うていくことと同時に、
医療が抱える問題にも無関心でいてはならないのだと改めて思うものです。

以前江原さんが大学で講義?と言うエントリーを挙げました。
その折、私は以下のように書きました。
============
これから、
終末医療という最も人間が畏れ、戦き、
そして如何に威厳をもって貫くかという「人として試される」現場で働く方々。
その彼らが、患者さんや家族の方々に、
安易に「おおいなるもの」に頼らせようとする姿勢は、
物事の本質と向き合うエネルギーをそぐものです。
考えることや感じることや対峙することを、全て何者かに預けてしまうと言うことは、
一見はラクに思えますが、実際は問題の放棄です。
医療現場のスタッフがすべきことは、ただ一つ。
医療のプロであることです!!!
最後まで患者さんとともに戦うこと。
病と戦うことです。
==============

終末を迎え、心のケアは絶対に必要です。
が、
そうしたケアも含め、医療スタッフに求められるのは「技術」ではと思います。
患者や家族に事実を伝え、知ること。
です。

つい先日も臓器移植についてエントリーを挙げたのですが、その時も同じように考えました。
尊厳死や安楽死。
そして脳死。

この問題、今後も考えていきます、、、、、、、、、

ただ、ひとつだけ言えることは、
医療の現場においても、
あるいは教育の現場においても、
はたまた全ての現実の中で「擬似」と言われるものは決して最終的な安寧ではないと思うものです。

もともとの話に戻すならば、
疑似科学の代案としての人工宗教なんてものが学校の現場で教えられるなんてことは、
決してあってはならないのでは、と感じます。
この問題もいずれまた。

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2006.10.08

腰痛は怒りである

『腰痛は〈怒り〉である〈普及版〉』によれば腰痛の殆どは「骨の異常のせいではなく、つらい感情との直面を避けようとして心が起こす」のだそうです。
その理由の一つにレントゲン所見と痛みとが一致しないこと。
また別の理由では痛いところが日々変わること。
などなどあって、
その原因は何かと突き詰めていくと「心の抑圧」へと行き着くわけです。
そして本では、
「腰痛は器質的な疾患ではないから心配せずに、
怒りが原因だと思えば治る」と書いてあります。
では原因である抑圧された怒りとは何か?
と言う稿に入ると、
一般に言われるような日常のストレスとか幼い頃のトラウマ、本人の完璧主義などが挙げられています。
こうして怒りが腰痛の真犯人とした「患者」は、ではどの様にして治すか、というプログラムも先の本には書いてあります。
つまり、
ストレス・リストを作るとか、
自分の心を観想するとか、
いろいろです。
この本は「読む薬」ということで何回もなんかいも読み、
読むうちに納得していく本であるとも書いてあります。

なるほど、確かにいきなり「腰痛は怒り」である、と言われてもすぐには納得いきません。
実際、整形外科を這いずり回っている私には、
「変形性関節症」という立派な診断を頂いているのだから、、、
また、それに伴う座骨神経痛とも。
それが「怒り」が原因だと言われても、、、
そうは言われても、現実に痛いのだぁあああああ
ところが、
ところが、
ところが、
読み進むうちにホンノチョット納得する箇所がある。
「日によって痛い場所が違う」。
ううう===んん。
なるほど確かに。
昨日は太股の裏がジンジン、今日は脛の前がグチュグチュ。
もし機能的な損傷なら日によって変わることはない。また痛みの強弱も違うことは無い。
と本に書いてあります。
私は「天気によって違うのか、、」と思っていたのですが、
心因性だったのか?と思い直し始めます。
腰痛の原因は怒り。
では私は何をそんなに怒っているのか???
日常のこと?
幼いときのトラウマ?
早速、ノートにいろいろ書き出す。
「心の中の怒り」を探り当てるために。
家族のことは夫の両親を含め良好。
仕事も子どもたち・子どもたちの親とも意思の交流はスムーズ。
なんでも話せる友人が何人かいて、サークル仲間にも恵まれてストレスになるほどの原因はなし。
近所もOK.。
そりゃ、夫婦喧嘩とか親子喧嘩とか、あるいは老後の不安とか、子どもの将来とかとか人並みのストレスはあるものの、それが抑圧された怒りとは言い難い。
では幼いときのトラウマ???
抑圧されて顕在化されないほど私の過去に何かあったのか?
どんなに掘り出しても親・兄弟からのそれは見当たらない。
では学校。
そう言えば「あの時○○君にいじめられた」
「あのとき○○さんにこんなこと言われた」
と、思い出すが、そんなアレコレが封印された過去とはとても思えない。
では私は何を怒っているのだ。
腰痛になり、座骨神経痛にまでなるくらい、、、
私はそんなに怒り性なのか、、、
と、次第にしだいに自己撞着は続く。
自分の心を探れば探るほど、漂白しようとすればするほど、
落ち込みと新たな怒りの自分がそこにいる。
あああ、、、私はどうしようもないオコリンボウなのだぁああああああ
と、
その時、
はたと分かったのです。
この自分こそ「怒り」なのだと。

「怒り」は確かに私の「ならい性」なのかもしれない。
そして、それをそれと受け止め、受け入れることこそ
最良にして最大の治療であることに気がついたのです。
夫が以前私に言ったように「受け入れて悟れ」と言ったことを改めて思い出します。
怒り性なら怒り性でいいのです。
「あああ、、、私、今怒っている」と認めるだけでいいのです。
何に怒っているのか???
とかとか突き詰めることが更なる怒りを呼ぶ、ということに気がつきました。
「そうそう、、、私ってオコリンボウなのよ。ハッハハッ」
です。
それでいいんです。
こんなものだ、、、でいいのです。
(本にもその様にしっかり書いてあります)

怒りで腰痛が治るかどうかはさておき、以前より座骨神経痛の痛みは気にならなくなりました。
ということで私の「腰痛養生記」はまだまだ続くのですが、とりあえず現状報告を書き綴りました。
なお腰痛で悩んでいる方は「腰痛は怒りである」を読まれるのもいいかと思います。

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2006.09.20

座骨神経痛養生記

座骨神経痛との闘いの中で、
何を得たかと言えば「こころ」の問題です。

私は何か問題が生じるとネット検索や本を片っ端から調べると言う「悲しい性」があります。
以前も書きましたが、
それは政治・経済だけでなく病気についても徹底的に調べます。
蕁麻疹の時は、ネットの履歴は「蕁麻疹」だらけ。
花粉症の時期はひたすら「花粉症」。
また、カメムシがでたらカメムシ。
毛虫なら毛虫。
こんな私に夫は「ご苦労な性格」といつも言います。

さて座骨神経痛。
勿論、本棚から関連の本を次々と引っ張り出し、
ここ数日のネットの検索は「腰痛・座骨神経痛」ばかり。
そしてこの三週間で整形外科には行きまくり、
友人には電話をかけまくりました。
整形はセカンドオピニオンということで三軒。
一つは、先生の診察は凄く丁寧で、レントゲン以外にも手やら足やらしっかり診てくれます。
しかし治療は流れ作業。
次の医者は、お気楽。
「あああ、この病気は死にません。死ぬまで痛いかもしれませんが、、、」
と言って、筋肉トレーニングを教えてくれます。
さらにもう一軒は、本当になんでもありの町医者。
ただマッサージの先生が「心」を受け止めてくれます。
「ゆっくり、ゆっくりいこうね。治るから」と。
そんなわけで三軒の医者をハシゴ。
全部言うことは「座骨神経痛」。
しかし治療法はみんな違う。
すると途端に迷う私。
心がザワザワと波たつ。
そこで登場するのが気功の友人とカイロプラクチックの友人。
二人に電話をしてしゃべりまくる。
「元気そうじゃない」なんて言われても絶対信じない。
「うううう〜〜〜〜んん。ココとアコとソコが痛くて泣いている」とひたすら喋りまくる。
電話の向こうの友人は言う。
「元気そうだよ」と。
満足しない私の、次の友人はリウマチとか腰痛で実際に痛んでいる友達。
お互いに痛いところ自慢をしあって、サヨウナラ。
それでも、
それでも、心は落ち着かなくひたすら「治る」ことを求めている。
以前、読んでいた夏樹さんの「椅子が怖い」をもう一度読み直し。
さらに「腰痛は怒りである」という本をネットで知って、即、夫に生協に注文してもらう。
その間、整体にかかっている友人が、今度、一緒に行こうと誘ってくれる。
連れていってくれる日を指折り数えて待っている。
別の友人は「サプリメントがいい」という。
カタログを送ってくれるという。
毎日、ポストを見に行くがまだ届かない、、、

ああああ〜〜〜〜〜
痛いよ。グスン。グスン。
可哀想な私。

そして昨日の夜。
帰りが遅くなると言う夫の電話を受けて、
「じゃ、それまで鎮痛・消炎剤を腰に貼って待っていよう」と思って、
医者から貰った貼り薬を腰にペタペタ。
夫を待つうちにウトウト。
夫の帰りが予想外に遅く、気がついたら12時近い。
慌てて腰に貼ってあった薬をはがしながら、急に心配がもたげてくる・
「あっ、この薬の副作用ってなんだろう?」
思うと不安がドヨドヨとひろがる。
すぐにネット検索。
〜〜〜副作用はかゆみ・発赤、、、、まれにショック〜〜〜

「うわっっ====ショックってなんだぁ」と、さらに検索は続く。
なんだか胃のあたりがスースしてきた感がする。ひょっとしら薬が効きすぎている?
うわっ〜〜〜
「薬名、口にはいる」検索しても出てくるわけない。
ひょっとしたら私「心」が変?
だんだん、心がグチャグチャになる自分を認識。
早速、本棚から「心の病を治す食事」と言う本をとってくる。

そこへ帰ってきた夫。
ことの顛末をしゃべりまくる。
聞いていた夫がただ一言。
「さとれ」と。
曰く。
今、治そうとジタバタしていることはみんな反対のこと。
結局悪くしているだけ。
もう、病気の事は気にせず全て受け入れろ。
痛いと騒いでいる時間があれば写経でもしろ。


うううう〜〜〜〜〜〜んんん。
写経。
夫の口から写経なんて言葉がでるなんて、、、
さとれ、なんて、、、
物理学者で宗教とは無縁と思っていた夫。
般若心経なら唱えることができる私。
道元を読み、良寛を愛し、菜根譚を傍らに、ひたすら精神修養をしようとアタフタとしている私。
結局、夫の一言でそれらがなんと借り物であったかとガツンと思い知った私。

その後も夫から諄に説かれ、
次第に明らかになっていく自分。
言われてみれば、大好きなサッカーや映画の時は痛くない。友人と話していても平気。
趣味の格闘ゲーム(実は大好き)をしているときも全然痛みを感じない。
が、
終わった途端、痛みがド〜〜ド〜〜通し寄せてくる。
結局、私も夏樹さんと同じように
自分で新しい病気を探して、作り、そこに埋没しようとしていたのかもしれません。
夫曰く「暇」だとか。
もっと生産的なことをしろと言われました。
例えば「平和」についてとか、「教育」とか「歴史」とか、、、

実際、腰痛やら座骨神経痛は昨日と同じように変わらずあるのですが、
「だからなんなのだ」
という気になっている私です。
と、いうことで、
すぐには変わらない頑固な私の心と向き合いながら、
今日は、ちょっと他の勉強をしようと思っています。

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2006.09.19

座骨神経痛養生中

座骨神経痛の奮闘は続いています。
随分、快くなりましたが、
パソコンの前に座っていたりすると、太ももの裏がジンジンきます。
そんなわけで、
書きたい事や、またいただいたコメントのお返事もさしあげたいのですが、
今、しばらく養生しようと思っていますので、ごめんなさい。
ゆっくり焦らず書いていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いいたします。

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2006.05.12

いよいよ華やぐいのちなりけり

年々にわがかなしみ深くして
いよいよ華やぐいのちなりけり(岡本かの子)

岡本かの子の駆け抜けた人生を思えば,
「年々にわがかなしみ深くして 」という表現は、
私がこれから話題にしようと考えているテーマからはずれているような気がします。
さらに、「いよいよ華やぐいのちなりけり」に至っては、
180度回転しているのではないかとさえ思うのですが、
しかし、今日の話題、「老いること」「死に逝くこと」の初めに書きたいと思い、さらには題名にもしました。

年を経ることは、人としての経験を積み重ね、
その多くは悲しいことや辛いことの思い出であります。
また、「老いた我が身」には初夏の木漏れ日さえ徒に物哀しい。
そんな「年々」を越えるごとに、
その悲しみさえ、やがて美しく艶やかに、香りたかく華やいでくる、スキップしたくなるような「命」の弾みを感じるところに歌人かの子の豊かでしなやかで、そして激しい感性を感じます。
普通は「老い」への積極的な讃歌として捉えられていますが、
私は逆説としての「寂しさ」を感ぜずにはおれません。

「老いること」は確かに辛い。
ここでも何回も書いていますが、体の節々が故障して、毎月あちこち医者通い。
引っ越しが多くて、いつも新しい環境で一から始める私にとっては、
唯一の友人であり心の支えは夫です。
しかし、夫は仕事で忙しくて帰りが遅い。
以前は子どもを通して出来た友達も、今は大きくなった我が子は地域の学校へは行っていない。
友達がいない。
誰もいない。
ふと気がつくと毎日、体のことばかり気にしている。
あっちが痛い。ここがきしめいている、、、と。
老いを通り越して「死」ばかりを考えていた時があります。
「あああ、、、癌だろうか。死ぬのだろうか?
死ぬときは痛いのか????」と。
そんな私にも新しい土地でやがて一人、二人、、、と友人が出来ました。
友人と話をしているうちに、
「あれ、、、私、どこも痛くない」と気がつきました。
もちろん、積ねた年齢分の「痛み」はあるのです。
が、その痛みを気にしない自分がそこにいました。
痛みは痛みとして、感じることが出来たとき、
良寛の言葉が実に心に染みわたりました。
〜〜〜災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。 是はこれ災難を逃がるる妙法にて候〜〜〜

実際、良寛はその死の間際まで病の床で苦しみのたうち回りました。
「言(こと)に出て言えばやすけし瀉(くだ)り腹 まことその身はいや耐えがたし」と。
まことその身はいや耐えがたしだったのでしょう。
死に臨み達観などする必要はない。
喘ぎ、うめきのたうちまわればいいんだ。
そして受け入れていく、、、ということでしょうか。

脳死、尊厳死。
今、この問題を考えながら先輩たちの死生観をちょっと覗いてみました。
そして思ったことは、
それが延命であろうと尊厳死であろうといずれにしても、
誰かがそばにいてくれたら、それは幸せなのか、と言うことです。
苦しむ私のそばにあなたがいてくれたらいい。
(夫は、その”あなた”を私にと言います。私も同様なので、これはどちらが先か、、、ですね。)
たとえ医療スタッフであってもソバにいてくれたらいい。
仮に誰もいない事態だったら、
同伴者である「私」とともに、、、
ということでしょうか。

「死」を考えることは辛い。
しかし死を考えるときこそ「華やぐいのち」を知ることが出来るという事でしょうか?
なかなかに奥は深い。
この問題、これからも考えていきたいと思います。
以前は、ニーチェの「永劫回帰」について書きましたが、次は「ツァラトゥストラ 」を書こうと、またぞろ本棚を漁って昔読んだ本を探しています。

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2006.05.11

移植医療

晴耕雨読の早雲さんからトラックバックを頂きました。
タイトルは「死ぬ権利、死なす権利、死ぬ義務」。
重いテーマです。
早速、拝見。
読んだ後、さらに重みがド===ンと伝わってきました。
話題は「脳死」を中心とした移植医療。さらに問題の核心は立法へと広がります。
脳死が「人の死か否か」論争は臓器移植の問題と不可分です。
医学的見地、法律の見解、そして宗教、哲学、倫理、道徳とあらゆる観点から考えられ、討論されているこの問題。
実に難しい問題です。
それぞれの立場での賛成、反対の意見があるものと思われます。
「助かる命を助ける」ために医学は人類に貢献してきました。
普遍妥当な法律を作るために法曹界では「死の基準」を考えてきました。
そして宗教家は、「生きることと死ぬこと」について説いてきました。
どの意見、主張もみな「そうだな〜〜〜」と思ってしまう私なのです。
が、
が、
移植医療と聞くと涙が出てくるのです。

この冬、夫の先輩が亡くなりました。
生体肝移植というテーマで昨年の11月に記事を書きました。
先輩は奥様の肝臓を移植なさり、手術は成功しました。
奥様も術後は順調に回復。
先輩も徐々に回復ということを聞いていたのです。
しかし、今年に入って「院内感染」をしたのです。
大病院ゆえそこで生き残る菌はかなり強力らしく、結局先輩は帰らぬ人になりました。
最期のさいごまで「生きるために」戦い抜いた方でした。
さて、この話。
実は、これから少々不思議な話をします。
亡くなった当日のこと。
夫は夕方、ふと先輩を思い出して、病院へ見舞いに行こうと思ったそうです。本当に「ふと」。
そして病院へ行ったら「集中治療室にいる」と看護士さんに言われ、帰ろうとしたのですが、
それでも、ふと「やっぱり行ってみよう」と思い、集中治療棟へいきました。
そこで出てこられた看護士さんが「連絡がいったのですか?」と言ったそうです。
「?」と不思議な顔をすると看護士さんが「先ほど亡くなられました」と言われたそうです。
奥様は最期をみとっていたのですが、その他のご家族はまだみえていません。

私は夫からその話を聞いて、先輩の奥様への感謝というか深い思いを感じました。
家族が来るまで心細いだろうから、しばらく傍にいてくれ、、、と言う先輩からのメッセージだと私は思いました。

死後の世界や魂のことは私にはわかりません。
また仏教は「分からないことは考えるな」と教えます。
つまり考えても分からないことは、いずれ執着になるということです。
私も死後のことは考えていません。
また魂のことも分かりません。
しかし、
今は亡き先輩の冥福を祈りながらも、いつもこの時の夫の経験を思い出すのです。
人は死ぬ瞬間まで「思い」を発するものである。
それは強烈な生への願望であったり、
豊かな思いであったり、、、
とにかく「生きてきた証」を残しながら自分の生を閉じていくものと思います。
それがたとえ「意識不明」の状態であっても。
なにしろ先輩は2〜3日前から意識は不明だったそうです。
意識不明とは外からの観察で、本当は深いふかいところでは「覚醒」しているものと思います。
この経験は私に以下のことを教えてくれたようです。
亡くなった方へはひたすら感謝を。
生きている私たちにはひたすら優しさを。
そんな人間関係を育んでいけ。
と。

早雲さんのテーマ。
これからも考えていきたいと思っています。
今後、医療がどの様に発達するとしても、「人の強烈な思い」に対しては
真摯であらねばならないものと考えます。

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2005.11.14

副作用

薬を飲むと必ず副作用というのがあるそうです。
ピンポイントでウィルスだけをやっつけるような優れものの薬は、まだありません。
先日も今年のインフルエンザについて書いたばかり。
そんな矢先。
インフルエンザの特効薬として注目を浴びていたタミフル薬に重大な副作用があるのか?
ということが今話題になっています。
これに関しては、ブログ仲間のあしゃんさんが詳しく書かれていますので、
是非ご覧ください。

リスクかベネフィットか、、、

ようやく私たちも薬の安全性の意識も高まり、
調合された薬をただ飲み続けることはしなくなりました、
が、
それでも医者から出された薬は、
安心して、信じて飲みます。
命を救ってもらう事になんの疑いも持たず。
しかし、
低い確率とは言え「副作用」があることも事実です。
強い薬ならなおさら副作用が強いことは一般に知られています。
代表は抗ガン剤でしょうか。

人間は無力だと改めて思います。
と、同時に自分であらゆることに納得して進んでいく知恵も持っています。
渡された薬の効果と副作用を自分で確認する。
また、管轄省の厚生労働省や製薬会社のさらなる研究の必要も訴えることが必要です。

情報に踊らされてはいけないが、
情報はしっかりと持っていなければと、思うのです。

これから、本格的なインフルエンザの季節。
この問題、しっかりと今後の行方を見守っていきたいです。
それと同時に、
今、予防が最大の治療であることを、もう一度、確認。
しっかり、
手洗い、うがいの励行を!!!

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2005.11.11

今年のインフルエンザは?

厚生労働省は、本格的なインフルエンザの感染、流行を前にして、今冬のインフルエンザ総合対策についてというトピックスを発表。
今年のウィルスは強いという専らの評判。
大感染、大流行になるという予想。
(尤も、毎年そう言っていますが、、、)
ワクチン、治療薬の数が不足という説もあります。
(今作成中の日本医師会のホームページなどを随時、チェックして下さい)
やはり、一番の対策は「予防」と思いますので、
これからの外出には、マスクを着用。
家に帰ったら、丁寧にうがいと手洗いの励行。
これでかなり予防は出来ると思います。
また、暖房を使うと空気が乾燥するので、適度の湿気を保つために、
時間ごとに空気の入れ替えなども効果があると思います。
(おもいっきりテレビで、みのさんは、
濡れたタオルをブンブン回すとか、霧吹きでシュポシュポするなどが効果的と以前番組で言っていました。)
そして、一番大切なことは、
自然治癒力や自己免疫力をつけるために、
普段からバランスの良い食事と、充分な睡眠。
また心も豊かにリラックス。
が、大切と思います。

もし、感染した場合は、速やかに病院にかかってください。

いずれにしても、
大切な自分の健康。
今からしっかりと予防してください。

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2005.10.04

生姜紅茶にネギ湿布

昨日から風邪をひいています。
症状は、そう あのおそろしい花粉症の時と同じ。
鼻水がガンガン出て、そのため頭が痛くて、のども痛い。
先日からひいている夫からのもらい風邪。
(因みに、夫の風邪は家族みんながひきうけました^^;)
昨日は思わず夫に、
「あなたの風邪がうつったじゃない。あやまって」
と、文句をいう私。
「じゃ、、、俺はだれにあやまってもらえばいいんだぁ〜〜〜〜」
そうか、、、
夫も誰かの風邪をもらったのか、、、
と、いうわけで、我が家は皆風邪をひいています。
風邪をひけば、ひいたで私は本棚から「健康」に関する本を全部、持ち出してきて、もう一度おさらい。
風邪のひきはじめはどうするか、、、
咳、くしゃみ、鼻風邪、頭痛、、、
などなど。
もちろん、いつものようにネット検索。
(本当に風邪かと思われるほど元気に調べています^^;)
そして、今回、採用したのは
生姜紅茶とネギ湿布。それと手浴。
紅茶に生姜をすっていれて蜂蜜で味をつけて飲むとホカホカ。
幸せ〜〜〜〜
子どもにも無理矢理飲ませました。
その後、台所で手浴。
熱いお湯を洗面器に入れて、手を入れます。
あっちちーーー
しかし、すぐにぬるくなって、お湯を継ぎ足しつぎたし約20分。
汗がダンダン出てきます。
老廃物、老廃物、ドンドン出ろ出ろ。
私はひまわり。
と、本に書いてあったように、イメージトレーニング(単純なのです私)
その後、ネギを焼いてガーゼにまいて首にあてます。
きもちいいい、、、
幼い頃、母がよくネギをまいてくれたことを思い出します。
子どもの分も焼いて、まこうとしたしたのですが、
ネギは臭いというので、塩を焼いてガーゼに包んで首にあててやりました。
さてさて、どうなることやら、、、

と、いうわけで久しぶりに風邪をひいて(やっぱり、めったにひかないのですが^^;)
また、改めて体の声に耳を傾けています。
季節が落ち着かないこの頃、
みなさんも どうぞお体大切に。

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2005.05.06

最後の花粉からの反撃?

5月4日、連休の真ん中。
五月晴れとはこんな日のことを言うのか、、、
青く抜けどこまでも見渡せる空を見上げながら、私にはもう一つ空しか見上げられない事態が発生。
そう、花粉症なのだぁああああ。
油断したな〜〜〜〜
もう、花粉は落ちついたと思って、一週間くらい前から薬は飲んでいませんでした。
マスクや帽子という花粉グッズも部屋の片隅に追いやられ、すっかり忘れていた花粉。
その花粉たちの逆襲が始まったのです。
朝、起きると鼻がグズグズ。クシャン。グズグズ。
うわっ〜〜〜もしや花粉症?
それとも今、流行っている風邪???
とか思いながら体温計を出して検温。
熱はない。
やっぱり花粉症?
なぁんて思いながら鼻をグスングスン。
時間を追う毎にひどくなる。
今や、鼻は痛くてかめない(^^;
ダンダン頭が痛くなる。
家族はてんでに難しいことを言ってくる。
「かあさん○○どこ?」
「おーーーーい、まだ□□はしてないぞぉ」
「かあさん。はやく△△作って〜〜〜〜」
エ〜〜〜〜〜イ。うるさい。
こっちは頭が痛いんじゃ。
鼻がズルズルなんだ〜〜〜〜
痛い頭のこめかみを さらにピクピクさせながら家族との対話。
ますますひどくなる。
夫は薬を飲まなかった私の不明をなじる。
わかってるよ。わかってるんだよね、、、
なんとかしてくれ〜〜〜〜〜
ついに関連痛で歯まで痛くなった。
最悪。
最低。
ひたすら、ひたすら花粉様が通りすぎることをジッとガマン。
いつまで続く、この辛さ。
幸いに花粉様は、一日で通りすぎて、翌日は元に戻りました。ホッ。
しっかし辛かった。
本当にひどかった。
かえすがえすも油断大敵。
これが、今年最後の花粉の襲撃と思いたい、、、
まだまだ外へ出ることが怖い私です。
はやく来い、こい。花粉の飛ばない季節。

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