終末医療
先日、学校教育の中での科学と宗教と言うエントリーを挙げました。
元の話題はFSMさんのブログ記事から「科学と宗教」を抜き出して書いたものです。
その後、さらにFSMさんのブログは充実して、質の高く濃いものへとなり、私も多くを学びました。
発展した議論は、ついに「人工宗教」でニセ(疑似)科学はなくせるかと言うタイトルへと進み、追いかけるのに私もてんてこ舞い。
エントリー内容や、いろんな方のコメントから得ること大。
で、
で、
相変わらず、気になったら、先に進めない私は、どうにも気なる箇所にひっかかり足踏み。
ズバリ。
「人工宗教」。
うううううううう=====ん???????
なんやソレ?
ですが、、、、、
ただ、FSMさんのところでの討論は、人工宗教へと進んだ経緯はニセ科学の代案としてのソレで、
十分意味のあるものでした。
と、言うことで、
ここからは、
FSMさんやメカさんとは「さようなら」して、勝手に一人歩き。
FSMさん、メカさん。
ありがとうございました。
さてさて、、、、、、、
人工宗教かぁ????
そもそも宗教ってなんだ?
いつも通りWikipediaのお世話になれば、
「宗教(しゅうきょう)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」そうです。
ムムム。
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念かぁ〜〜〜〜
なるほど。
尤も「宗教とは何か」と言う問いには「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」とwikipediaにはあります。
またその表現方法も多様です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一神教と多神教、汎神論
民族宗教と世界宗教
伝統宗教(既成宗教)と新宗教(新興宗教)
自然宗教と創唱宗教
アニミズム・アニマティズム・シャーマニズム・トーテミズム
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ウウウウム。
この中身を見ていけば、もう迷路に入ること間違いないし。
人工????
かぁ。
と、言うことで、そうした表面からのアプローチは専門家に任せて。
「なぜ、宗教を必要とするか」という切り口で今日は書きます。
ズバリ。
いずれ死ぬからでは、、、と思います。
死ぬから生きることの意味を問うために宗教があるのでは、と私は思います。
死ぬこと、死んだあとの世界への意味や解釈は、分かりようがないのですが、
今、生きている、ということは分かります。
そして、どの様に生きるか、、、、と言うことを教えてくれるのが宗教かなぁ?と思っています。
拝めば助けてくれるとか、
お賽銭をあげれば自動販売機のように幸せ切符が出てくる、というようなものではないと思います。
むしろ、
宗教は敢然と向き合うことなのですよね、人生と。
そこで思い出すのは先日見たドラマ。
「天国で君に逢えたら」。
実に良いドラマでした。
実在の人物をモデルにしているのですが、今回のドラマは患者や家族がヒーローではなく、
カウンセラーの役を担う精神科医でした。
頼りなくて、真剣で誠実な役どころは二宮和也君にピッタリ。
さて、このドラマ、何がいいって、
人が死ぬところの臨場が映し出されていないので、
やたら視聴者の涙を誘わない。
誘わないから、その分、観ている者は、「生きることと死ぬこと、遺していくことと遺されていくこと」の重みをそれぞれに考えることが出来るのです、、、、、
終末を前にして現医療の無力であることを明らかにしていきます。
していきつつも、、、、、
医療スタッフは患者の人権と尊厳を支えるために最大の努力をしている姿から、死を目前にしてどう臨むのか、、、、、受け入れるのか?????を問います。
それは結局、宗教になるのだろうか?
信仰になるのだろうか?????
うううううう〜〜〜〜〜ん。
確かにそうした心の受け皿も大きいのだろうな、と思う一方で、
現実の終末医療は延命治療のあり方を求めて、多くの課題を積んでいます。
「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」についてを見ると、以下の通り。
==============
終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン
1 終末期医療及びケアの在り方
① 医師等の医療従事者から適切な情報の提供と説明がなされ、それに基づい
て患者が医療従事者と話し合いを行い、患者本人による決定を基本としたう
えで、終末期医療を進めることが最も重要な原則である。
② 終末期医療における医療行為の開始・不開始、医療内容の変更、医療行為
の中止等は、多専門職種の医療従事者から構成される医療・ケアチームによ
って、医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべきである。
③ 医療・ケアチームにより可能な限り疼痛やその他の不快な症状を十分に緩
和し、患者・家族の精神的・社会的な援助も含めた総合的な医療及びケアを
行うことが必要である。
④ 生命を短縮させる意図をもつ積極的安楽死は、本ガイドラインでは対象と
しない。
2 終末期医療及びケアの方針の決定手続
終末期医療及びケアの方針決定は次によるものとする。
(1)患者の意思の確認ができる場合
① 専門的な医学的検討を踏まえたうえでインフォームド・コンセントに基
づく患者の意思決定を基本とし、多専門職種の医療従事者から構成される
医療・ケアチームとして行う。
② 治療方針の決定に際し、患者と医療従事者とが十分な話し合いを行い、
患者が意思決定を行い、その合意内容を文書にまとめておくものとする。
上記の場合は、時間の経過、病状の変化、医学的評価の変更に応じて、
また患者の意思が変化するものであることに留意して、その都度説明し患
者の意思の再確認を行うことが必要である。
③ このプロセスにおいて、患者が拒まない限り、決定内容を家族にも知ら
せることが望ましい。
(2)患者の意思の確認ができない場合
患者の意思確認ができない場合には、次のような手順により、医療・ケア
チームの中で慎重な判断を行う必要がある。
① 家族が患者の意思を推定できる場合には、その推定意思を尊重し、患者
にとっての最善の治療方針をとることを基本とする。
② 家族が患者の意思を推定できない場合には、患者にとって何が最善であ
るかについて家族と十分に話し合い、患者にとっての最善の治療方針をと
ることを基本とする。
③ 家族がいない場合及び家族が判断を医療・ケアチームに委ねる場合には、
患者にとっての最善の治療方針をとることを基本とする。
(3)複数の専門家からなる委員会の設置
上記(1)及び(2)の場合において、治療方針の決定に際し、
・医療・ケアチームの中で病態等により医療内容の決定が困難な場合
・患者と医療従事者との話し合いの中で、妥当で適切な医療内容についての
合意が得られない場合
・家族の中で意見がまとまらない場合や、医療従事者との話し合いの中で、
妥当で適切な医療内容についての合意が得られない場合
等については、複数の専門家からなる委員会を別途設置し、治療方針等につ
いての検討及び助言を行うことが必要である。
======================
と、言うことで、ドラマとは違い、現場は倫理と法律にも縛られながら、
患者ひとりひとりと立ち向かっています。
私たちは誰だっていずれ迎える死。
その事実を受け止めるために、「生きる」ということの意味やあり方を問うていくことと同時に、
医療が抱える問題にも無関心でいてはならないのだと改めて思うものです。
以前江原さんが大学で講義?と言うエントリーを挙げました。
その折、私は以下のように書きました。
============
これから、
終末医療という最も人間が畏れ、戦き、
そして如何に威厳をもって貫くかという「人として試される」現場で働く方々。
その彼らが、患者さんや家族の方々に、
安易に「おおいなるもの」に頼らせようとする姿勢は、
物事の本質と向き合うエネルギーをそぐものです。
考えることや感じることや対峙することを、全て何者かに預けてしまうと言うことは、
一見はラクに思えますが、実際は問題の放棄です。
医療現場のスタッフがすべきことは、ただ一つ。
医療のプロであることです!!!
最後まで患者さんとともに戦うこと。
病と戦うことです。
==============
終末を迎え、心のケアは絶対に必要です。
が、
そうしたケアも含め、医療スタッフに求められるのは「技術」ではと思います。
患者や家族に事実を伝え、知ること。
です。
つい先日も臓器移植についてエントリーを挙げたのですが、その時も同じように考えました。
尊厳死や安楽死。
そして脳死。
この問題、今後も考えていきます、、、、、、、、、
ただ、ひとつだけ言えることは、
医療の現場においても、
あるいは教育の現場においても、
はたまた全ての現実の中で「擬似」と言われるものは決して最終的な安寧ではないと思うものです。
もともとの話に戻すならば、
疑似科学の代案としての人工宗教なんてものが学校の現場で教えられるなんてことは、
決してあってはならないのでは、と感じます。
この問題もいずれまた。
| 固定リンク
| コメント (7)
| トラックバック (0)
最近のコメント